母が入院した。
小3の春だった。
父の兄、いわゆる伯父さんの家に預けらました。
転校して、知らない級友たちばかりで、馴染めずにいました。
伯父さんの連れ合い。いわゆる伯母さん。
この人にはこなされました。
ダンスの上の物を取るから、四つん這いで椅子になれと言う。
小3の子供に。
いかに女とはいえ、大人の体重だから、子供が保つ訳がない。
背骨が痛み、崩れました。
伯母さんも倒れました。
その時の伯母さんの顔は、子供を労る訳でもない。
口には出さないが、何で倒れるの!と言わんばかり。
小3の子供は謝る術も知らない。
所詮、邪魔者だろうし。
程なく、私は父の元へ預けられました。
小4の春でした。
そこには、知らないおばちゃんがいました。
愛想の良い人でした。
環境に慣れさせ様と、開通間もない関門トンネルに連れて行ってくれました。
が、伯父さんの家で痛めた私の右足が痛み、あまり楽しい旅行ではありませんでした。
小さい私に気を使ってくれて、緊張せずに暮らせました。
程なく父親から、違うおばちゃんが来るからと言われました。
すぐに違うおばちゃんが来ました。
初めて会った知らないおばちゃんに、すぐに愛想良く出来る筈もなく、お互いにぎこちなく過ごしました。
この間は、私は学校に行く訳でもなく、近所のおじさんから父親が「学校に行かせんと」と言われたのか、手続きをしたらしいです。
小学校に行っても、友達が出来ない状態が続きました。
この時の担任の先生が、私がお母さん、お母さんと言った文章を書くので、父親に相談したらしいのです。
「本当のお母さんに預けた方が良いですよ」と。
母親の退院の日が近づいていた様です。
ところが、母親は自分の体調が悪く、私を育てる自信がなく、
私を引き取らないと、思っていたらしいのです。
ある日、学校に母親が尋ねてきました。
当時私は新聞委員をしていて、階段の踊り場の大きな黒板に、新聞の記事を書いていました。
悪ガキの友達が、黒板目掛けて泥粘土を投げたのです。
私が書いていた黒板に、ベタッと付いた粘土を、手で拭こうとした時でした。
母親がチリ紙を手に持って「これで拭かんね」と言ってくれました。
すぐにお母さんと判りました。
言葉が出ませんでしたが、ちり紙を受け取り拭きました。
それからどうしたのか、記憶にありませんが、母親と再会できました。
その時に担任の先生と、母親が話をした様です。
「お母さんが引き取らないと、この子はダメになりますよ」と言われた様です。
母親は地元に戻り、市立の母子寮に入る手続きをした様です。
あまり記憶に有りませんが、ようやく母親と一緒に、暮らせる様になりました。
ところが私の右足は、伯父さんの所で痛めたままでしたので、それから一年くらい、ギブスに入るはめになりました。
この時の母親は一生懸命治療に専念してくれました。
お陰で私の右足は、元通りになりました。
あのまま父親の元に居たなら、私の右足はどうなっていたかと、思ってしまいます。
本当に母親には感謝しています。
本当に有難うね、お母さん。
お世話になりました。
ありがとうございました。