爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

一粒の雨の様に

2020-05-27 23:30:46 | 日記
雨が降る時は一粒でしかない。

高い山に降る雨は、岩を辿り木々を潤し、地上を這いながら、少しずつ低い方に集められて行く。

必ず流れになって行く。

自分の意思に関係なく集められ、流れになって行く。

自分だけ残る事が出来ずに。

ある物は一度は地中に吸い込まれ、また地上に出て、必ず流れに戻って行く。

意地を張って岩の窪みに残っても、蒸発させられ、やがて雨になって戻ってくる。

流れは次第に太くなり、荒れる大きな川になる。

岩に当たり、川岸を削り、轟音を立てながら荒れ狂う。

いかに大きな流れになっても、必ず海に抱き込まれてしまう。

川はどんなに荒れてはいても、目指す海には抱かれてしまう。

雨は海に抱かれてしまう。

私の様に。

なす術もなく。





前にならえ

2020-05-27 17:10:24 | 日記
前にならえは、小・中学校だけで沢山かな。

校庭のグランドに全校生徒が並び、一段と高い(何と呼ぶ台なんだろうか)台に校長先生が登り、聞く耳を持たない生徒達は、早く終わる事だけを願い、足下だけを見つめていました。

私は一度だけ夏の暑い日に、異常に発汗して、自分でも倒れるかもと感じ、隊列を抜けた事があります。

前に出れば全ての担任が立っているし、全生徒の目に晒されてしまうのは嫌だし、一瞬考えて隊列を後ろに進み、集団の端まで進んでみました。

抜け出た所へ、保健室の先生が連れに来てくれました。

直ぐに保健室に行きましたが、額の汗をちり紙で拭われて、少し休んで教室に戻りました。

我ながら、どうすればこの状況から抜け出せるのか、深くも考えずに出来た事は、咄嗟の判断でしたが、良かったと思っています。

私が伝えたい事は、経験がない事は、誰にも聞きようがない。

経験や知識に裏打ちされた物が無ければ、誰に恥ずかしがる事も無いし、誰に臆する事もないから。

一瞬の判断は、自然と自分の行動に繁栄される物と思っています。

勇気を出して、やってみたら如何ですか。

間違えば、戻ればいい事なんだし。

憶せず出てみましょう。








心は自由に

2020-05-27 15:41:35 | 日記
心を自由に遊ばせよう。

何処へでも飛ばせてみよう。

巣ごもりしてても仕様がない。

君の思う所へ行ってみよう。

堅苦しい気持ちは動かない。

君は自由なんだから。

誰にも束縛されないんだから。

君よ、飛べ、走れ、自由に!


法然さん

2020-05-27 13:10:41 | 日記
今回は浄土宗祖の法然さん。
そもそも浄土教は二世紀後半
に中国に伝えられ、浄土経典が中国語に訳されて普及しました。

東晋時代に有力なお坊さんにより教義が確立され、唐時代に教義が展開され、末法の時代の救済の教えとして、広く民衆の間で流行しました。

法然さんの出自は、平安時代末に美作(岡山県)の久米郡稲岡庄の
豪族の子に生まれます。

9歳の時に、豪族同士の争いで父親を亡くします。

今際の際に復仇を思う事なく、仏門に入り菩提を弔う様に遺言します。

その後19歳で比叡山に登り、僧となります。

4年後、黒谷の慈眼坊叡空の元で学び、師から法然房の房号を受け、源空と名乗ります。

この師の元で浄土教を熱心に学びます。

浄土教信仰の論拠や実証を求めて、諸宗の高僧に教えを請い、一切経の通読も数回に及びます。

やがて、その学識で広く山内に知られる様になり、知恵第一の法然房と呼ばれます。

浄土信仰を深めて行きます。
25年の黒谷の修行を終えて、世間に出た法然は脚光を浴びて行きます。

世は源平争乱直後の頃でした。

文治2年(1186)法然は、顕真(天台僧)に招かれ専修念仏について、議論を闘わせます。

世にいう「大原問答」です。

この頃から法然の名声は高まり、前の関白九条兼実とその娘宜秋門院が法然の得度を受けて出家し、その人気は絶頂に達します。

親鸞の入門もこの頃でした。

人気の高まりは既成教団の敵視の的となります。

元久元年(1204)10月、延暦寺の衆徒が法然らの念仏停止を天台座主に訴えます。

この時法然は弾圧を避けようと、門弟を集めて自戒の七ヵ条を作って、他宗派への攻撃や論争を戒めました。

更に悪い事が重なります。

翌建永元年(1206)暮れ、法然の弟子で美男の噂の高い安楽と住蓮が、東山鹿ヶ谷の草庵で念仏の会を開くと、後鳥羽院の女房数人が出席しました。

女性に人気絶大の僧達です。巷に女房が二人の僧達と密通したと噂が広がります。

これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、上皇は念仏の輩はみな風俗壊乱の元兇と見なされて、二人の僧は処刑されます。

建永2年(1207)追及の鞭は教団トップの法然に及びます。75歳の彼は藤井之彦という俗人に戻され、四国に流罪となります。

配所(讃岐)への途中にも各所で念仏を説いて行きます。

この年の暮れに、やっと赦免が叶いますが、5年後の建歴2年正月から床に伏し、25日に亡くなりました。

迫害の生涯でした。






 



 













愛情について

2020-05-27 01:51:40 | 日記
私も親の愛情に飢えて、育った経験が有ります。

両親が揃って愛情豊かに育てば、もっと違った人格になっていたんだろうかとも、思います。

それは仕方のない事やん。

当時、両親が傍に居らんやったんやから。

自分の子供には、そんな思いをさせたくないと、思って育てて来ました。

自分の過去が、自分の先生やないと。

自分が不幸と思う過去を、自分の子供にはさせたくない、それで充分やないと。

自分の過去が教えてくれた、自分の幸せの法則やないと。

立派な人間であろうとする、必要はない。

自分が嫌だった事を、家族や廻りにさせない事が、貴方の苦労の賜物なんやから。

無駄な苦労じゃ、無かったんやから。

だから、現在の貴方がここに居るんやから。