奈良時代の高僧と謳われた行基さん。
政府から要注意人物として睨まれていましたが、ある政変を境に待遇が一変します。
宮廷の第一の実力者長屋王の失脚でした。
天平元年(729)2月、下級官僚二名が「左大臣(長屋王)は天皇の御命を縮めようと呪っている、皇太子の病死もその為である」と密告します。
前年の9月、1歳の誕生日前に皇太子(基皇子)が病死しています。
ただちに長屋王邸は朝廷軍により包囲され、長屋王親子は自殺しました。
長屋王のライバル藤原氏が実権を握り、藤原氏から出た光明子が聖武天皇の皇后につきます。
儒教一辺倒の長屋王失脚のお陰で、行基は一躍陽のあたる場所に出ます。
当時の僧は、寺に籠もって学問と修行に徹し、表に出て活動する事は許されていませんでした。
14歳で出家し飛鳥寺や薬師寺で修行し、厳しい山岳修行を経て、巷で伝道活動を始めます。
次第に人気が高まり、行くところ熱狂的な信者が集まり、喜んで寄付をしたり、彼の手足となって働きます。
これが政府から不穏な民衆煽動者として見られる原因となりました。
一つには、農民が税金逃れに僧となる者が、増えた事実もあった様です。
また、彼は単に布教活動だけでなく、橋を架けたり道をつけたり、開墾事業をしたりしました。
生涯多くの寺院を建てていますが、その他に多くの社会事業もやりました。
寺院建立は49、土木事業は架橋6、道路1、池15、溝7、樋3、堀4、布施屋9の実績といいます。
この布施屋は旅人の宿泊所の事で、当時の旅人は野宿をしていて画期的なものでした。
現在の大阪、京都、兵庫辺りに設けられました。
墓地を拓いたのも行基が最初でした。
当時死人は林や原野に捨てたり、路傍にさえ放置しました。
彼はこれを一カ所に集めて供養をしています。
行基が政変を境に、一躍陽のあたる場所に出たのも、こうした地道な活動が、認められたからでした。
奈良の東大寺の建立にも、貢献しています。
大僧正となって4年目の天平21年(749)正月に、聖武天皇と光明皇后、皇太后の出家に立ち会いました。
天皇出家の翌月2日、奈良の菅原寺で81歳で亡くなっています。