story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

舞子ラブストーリー

2004年07月18日 11時59分10秒 | 小説
涼子は海を見ていた。
風が強く、すぐそこにあるかのように淡路の島影は広がり、海峡には白波が立っている。
ここは神戸市の西の端、明石との境界近い、舞子海岸の砂浜だった。
涼子36歳、優しい夫も中学になる娘もいた。
けれど、彼女は今、明らかに夫への愛情とは別の愛が、彼女の中に芽生えてきているのを覚えていた。
駄目だ・・自分には家庭があって、こんな事をしている場合ではない・・そう自らを律しては見るものの、すでに彼女自身の心はどうにもならないところまで来ていることを知っていた。
漁船が波に揺れている。
かもめだろうか、海鳥がその回りをめぐっている。
巨大なタンカーが西のほうからゆっくりと進んでくる。

もうじき、娘が学校のクラブ活動から帰宅する時間だ。
煩悩を飲み込むように、彼女は砂浜をあとにした。けれども、彼女の足は自宅のある北へ向かわずに、海岸沿いの国道を西に向かってしまっていた。
「涼子さん、あしたは海岸のショット・バーで小さなライブをするのです。ぜひお顔だけでも出していただけませんか」
昨夜、順平が、彼女の携帯に電話をかけてきていた。
彼はやっとの思いでこの電話をかけている・・そう付け加えた。
夫や娘に知られないように、小声で、そしてやけに丁寧な言葉で、彼女は応じてしまっていた。
「ええ・・もし時間が出来ましたら、少しだけお邪魔させていただきたく存じますわ。ですが、そのお時間が取れないのではないかと・・」

夕日に向かいながら、彼女は国道を歩いた。
順平とは坂の上のライブハウスで出会った。
涼子は結婚が早かったので、恋愛の経験は余りなかった。夫からはプロポーズこそされたものの、なんとなく応じて、結婚していた。燃えるような恋がしたかった。けれども結婚して家庭を造りたい思いのほうが強かったのだ。
国道を走る車、その向こうを走る電車の騒音が拡がっては消えていく。
夏の夕日はまだ沈まない。涼子は何も考えることが出来ない自分を不思議に思ってはいた。
順平と出会ったのは、友人の転居があって、その見送りのためのパーティの2次会だった。
涼子はそれまで音楽を聞くことはあっても、ライブなどに出かけたことはなかった。たまたまその日の出演者が順平だったのだ。
透き通るような、優しい声が、ゆったりとしたリズムの曲に悲しみをたっぷり含んだ詩を乗せてその店に広がった。
酔った頭に沁み込む順平の声が、青春を満足に送らなかった自分の思いを呼び出し、彼女は泣いた。
本当は、君を愛したかった・・
本当は、君以外の何もかも、僕には要らなかった・・
アコースティックギターの透き通るような音色が、彼女の心に火をつけた。涼子は少女のように泣きじゃくってしまった。
曲が終わると、順平が彼女に声をかけてくれた。
「こちらの方、僕が泣かせてしまいましたか・・申し訳ないです」
泣き顔を見られるのが恥ずかしく、心配する友人たちの声も耳に入らず、彼女はその店を飛び出してしまった。

一緒にいた友人が彼女の連絡先を順平に伝えていた。
その夜遅く、順平から携帯電話へのメールがあった。二人の密かで、静かな会話が始まった。
けれども直接会うことはなかった。
あれ以来、今日が始めて、彼と会うことのできる日だった。
海岸と、道路にはさまれた、小さなショットバーはすぐそこにあった。店の近くまで来ると、もう、順平の柔らかい声がかすかに聞こえてくる。
扉を開けると、もう、数人の仲間たちの中で順平が歌っていた。うすくらい店内で、彼女は後ろのほうの席に腰掛けた。
順平は歌いながら、彼女を見てにこりと微笑む・・涼子は引きつったような笑みを返してしまった自分を悲しく思った。
「今日は、新曲を披露させていただきます」
順平がそう切り出して、歌い始めた。
・・もっと早く、あなたに会うことは、出来なかったのですか・・
・・もっと、もっと早く、あなたを知りたくて・・

自分のことだろうか?まさか、そんなはずはない。これは創作した詩のはず・・・涼子は自分の心の動きを見られないように、リラックスした風を装い、適当に注文し、その実、中身が何かまるで知らない、運ばれてきたカクテルに口をつけた。
すぐにグラスは空になり、場が持たないので何度も同じものを、追加した。
酔いが回る。部屋の照明も、順平の姿も、空中の出来事であるかのように見えてしまう。
順平は新曲が店の客に受けて、何度も同じ曲を歌う。

「今日は来ていただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
歌い終わり、みなの拍手を受けた順平が涼子のすぐそばに来て、そう言った。
「お時間はよろしいのですか?昨日は、余り時間がないと、おっしゃっておられましたが」
そうですね、もう帰らなくては、彼女はそういって立ち上がろうとしたとき、足がふらついた。思わず、順平の肩に手をかけてしまった。
「お疲れですか、失礼しました・・大変なときにお呼び出ししてしまって・・」
そんなことないですわ・・私のほうこそ、今日はありがとうございました・・とてもすてきな歌声でしたわ・・
そう言ったつもりだったが、足がしっかりせずに、順平の肩から手が離せなかった。
「ごめんなさい、僕がご自宅までお送りします」
順平が慌てたように涼子の肩を抱えて、店の外に連れ出した。
・・少し酔ったかな・・涼子の頭に、自責の念が浮かんだが、外の風にあたると少し落ち着いた気がした。
順平は店の横に停めてある彼の軽四輪に涼子を案内した。
日が沈み、夜の海に船の明かりが浮かんでいる。
明石海峡大橋のライトアップされた夜景がやけに大きく感じる。
「ちょっと、酔ったみたいなの・・少しの間、風を浴びたいの」
涼子は自分でも驚くようなことを言ってしまったと思った。順平はクルマの窓をあけ、国道を西へ向かって出て行った。
「今日の、新曲といっていた、あの曲、とても素敵でしたわ。昔の恋の歌かな?」
海岸から、明石の町へ、クルマが走る。
「ありがとうございます・・あの曲のタイトルは・・僕、言わなかったですね」
「はい、さっきのお店では単に新曲だけとしか」
明石港のはずれで、順平のクルマは人気のない埠頭に入って停まった。
フェリーボートがゆっくりと出て行く。
小さな漁船が港へ入ってくる。
「りょうこへ・・」
順平がささやくように言う。
よく聞こえない・・なんていったの?
「涼子へ・・です・・曲のタイトルですよ」
思わず順平を見た。かすかな明かりに照らされて、順平は思いつめたような顔をしていた。
もうなにも考えることなど出来なくなっていた。二人は自然に唇を合わせていた。

携帯電話の呼び出し音。ふざけたような童謡のメロディが流れる。
順平が彼女を離した。
「お母さん・・何してるの?ご飯まだぁ?」
娘だった。帰らなければならない。
「もう少しで帰るわね・・ごめんね、少し用事が出来たの、もう少しだけ待ってくれるかな?」
そういって電話を切った。
「スミマセンでした・・送ります」
彼がそういって、ハンドルに手をかけようとしたとき、まだ・・まだ・・涼子はそういって彼にしがみついた。

順平は28歳だった。
彼はアマチュアミュージシャンとしての活動を優先するために、もう、長いこと、フリーター生活をしていた。
そんな彼だが、一度だけ、恋愛の経験があった。
けれども、それは彼にとっては辛く、悲しく、甘い思い出になってしまっていた。もう3年ほども、かつての恋人を忘れられないでいたのだ。彼女は順平にはきちんとした仕事について欲しいと願っていたが、それは順平にとって、出来ることではない。
今は、彼の歌は、すべては昔の恋人を思ったものばかりになっていた。
優しく、悲しい歌が多かったけれど、ある面、そればかりになってしまい、そこからの発展は難しく、仲間内からも飽きられ始めていたのだ。
そんな彼にとって、涼子との出会いは偶然とは思えなかった。
まるで神様が結び付けてくれたような気がしていた。
ただ、もし、神というものがあって、同じ出会わせてくれるなら、何故もっと早く出会わせてくれないのか・・その思いを新曲にしたのだった。
順平の音楽は少し変わり始めてきていた。
涼子への思いを歌にしてみると、暗さの中に明るさや、暖かさが出る曲が出来た。

順平の思いとしては、涼子に家庭があるのは分かっているつもりだった。
自分が彼女をそこから奪うことが出来ないのもわかっている。
それでも、先のことよりも、今、彼女に会いたかった。
涼子のつぶらな、大きな目と透き通った瞳は何にも変えがたい宝石に思えた。
こうして、すぐ近くで彼女を見ている自分が不思議だ。
何度か抱擁を繰り返し、順平はようやく、涼子の自宅のあるマンションへ向かった。
「今度、いつ会えますか?」
そう訊ねる順平に、毎日・・そういって涼子はうつむいた。

夫の義男はもう帰宅していた。
「遅いじゃないか・・もう、晩御飯は出来てるよ」
涼子が玄関のドアをあけると、明るい義男の声が聞こえた。
「お母さん、どこ行ってたの?」
娘の理沙が口を尖らせて言う。
「たまにはいいじゃないか・・お母さんにも友達もいるんだし」
義男はそういって、テレビニュースを見ていた。ランニングシャツになって、すっかり寛いでいる義男の前には、彼が作ったらしい焼きそばと、缶ビールが置かれている。
・・汚い・・義男の汗を見て、涼子は自分でも驚く感想が出てくるのを知った。
「お母さん・・いつもよりきれい・・」
理沙が涼子を見て言う。
「お母さんはいつでもきれいだよ・・何言ってるんだか」
義男の笑い声が続く・・汚い・・申し訳ないと思いながらも、涼子は疲れていることにして、自分の部屋に入ってしまった。
夫婦の寝室は別だった。

**今日はありがとう、また遊びましょう・・順平**
携帯電話に入ったメールがこよなく大切なものに思える。
私は順平に会うために生まれてきた・・私のすべてを早く見て欲しい・・
自分でも驚くような女の情念が湧いてきて、彼女はその夜、眠ることが出来なかった。

翌日、涼子がパート先のスーパーマーケットから出てくると、順平の軽四輪が止まっていた。
夕方と呼ぶにはまだ早い時間、順平は車を海岸沿いに走らせた。
夏の瀬戸内には夕凪と言う風の吹かない時間がある。うだるような暑さの中、エアコンのさほど効かない車の中も、二人には苦にならない。渋滞の道路も、二人には、ただ二人のための風景だ。
海岸沿いの喫茶店で海の見える席についた。
小さな声、親密な声、海面に夕日が反射し、二人の姿がシルエットになる。
何年も他人に見せたことのない笑顔と、何年も味わえなかったときめきと、時間が止まって欲しい・・そう願う涼子だったけれども、楽しい時間はすぐ過ぎてしまう・・それを実感してしまう。
「じゃあ、送りますよ」
順平が立ち上がったとき、ちょっと待って、彼女がそういって携帯電話を取り出した。
「あ・・理沙ちゃん、お母さん、今日ね、お友達で東京にいる美智子が帰ってきてるらしいの・・今からみんなでちょっと飲み会をするから・・ごめんね・・ご飯・・お父さんの分も作って、済ましていてくれる?11時までには帰るから」
店の外に出ると、順平の腕をつかんだ。
「11時までOKよ」
順平はなぜか少し難しい表情をしていたが、意を決したように、車に乗り込んだ。

涼子が自宅に帰ったのは11時を少しすぎた頃だった。
食卓で義男が理沙の勉強を見ていうるようだった。
「おかえり、晩飯は済んだのかい?」
「お母さん、遅いぞ!不良主婦だぞ!」
二人が声をあげて笑う。脂ぎった義男の額が汚く思える。
「ちょっと酔ったかも・・」
涼子はそういって、バルコニーに出た。
明石海峡大橋のライトアップが他のすべてを威圧するかのように横たわる。電車がその前を通り過ぎる。
体が熱い・・それも体の芯が熱い・・
しあわせ・・そう思った。
順平との短い情事が映画のようによみがえる。夜の風が心地よい。

順平は自分のアパートへ車を走らせていた。
おれは、何をしているんだ・・・・俺が彼女に何かを与えてやれるのか?
このドラマは、どこに行き着くのだ?
僅かな明かりの中で浮かぶ涼子の裸体を思い出しながら、彼は自分を責め続けていた。
いいじゃないか・・彼女も楽しんでいるのだ・・そう思おうとしても、罪の意識のほうが強くなっていく。
「けれど・・彼女はこういった・・あなたと会うために生まれてきたの・・それだけでいいじゃないか、お前が何も自分を苦しめることではないよ」
車の中で自分に向かってそう呟いてみる。
自分より八つも年上とは思えない、愛らしい彼女の表情が浮かぶ。会いたい・・今別れたばかりなのにもう、会いたい。
それと同時に、彼の中で大きくなっていくイメージがあった。
まだ見ぬ男、涼子の夫の姿だった。

舞子駅から、坂を登りつめて、突き当たったところにある大きなマンションの一室で、理沙は眠れない夜を過ごしていた。
母から東京の友達が来るからパーティをするという電話を聞いたその日、すぐあとで、自宅の電話帳に載っていた涼子の東京の友人、美智子の家に電話をかけてみた。
明らかにその家の主婦と思われる明るい声が電話に出たところで、電話を切った。
理沙の母、涼子は娘の目から見てもここ数日で大きく変わっていた。
ほとんど自宅にいないし、いてもぼんやりとしていることが多かった。
けれども化粧は明るく、毎日少しずつ、きれいになっていくように感じた。
父の義男は気がついていないかもしれないが、父母の会話を見て、母が父に素っ気無くなったようにも感じていた。
少し前、理沙が涼子にこんな事を聞いたことがあった。
「おかあさん、恋ってしたことある?」
それに対して母は苦笑しながらこう答えた。
「お母さんは、本当の恋って、経験してないかもしれないの・・もっと熱い恋愛がしたかったなあ」
「だって、お父さんとは恋愛結婚でしょう?」
「お父さんとはね・・お父さんの熱意に負けて結婚しちゃったんだ・・いい人だとは今でも思っているけれどね」
「じゃあ。お父さんを愛していないの?」
「今は愛してるわ・・長く一緒にいると、自然に愛の力が大きくなるの」
・・なんだか、最後で辻褄を合わせたみたいな会話だったな・・
理沙は今、そう思う。
・・こりゃ、計画実行しかないわ・・
理沙はそう決めて布団にもぐりこんだ。
潜り込んでしまえば、すぐに眠ってしまった。

数日後、いつものように涼子の勤めるスーパーマーケットの前に順平のクルマが止まっていた。
涼子は時間通りに出てきて、順平のクルマに乗ろうとしていた。
「涼子さん」突然、女性の声が彼女の背中で聞こえた。
慌てた彼女が振り返ると、そこには制服姿の理沙が立っていた。
涼子は立ちすくんでしまった。逃げようか、知らぬ顔をしようか、様々な思いが一瞬の間に湧きあがっては消える。
「出てきてもらえます?」
理沙はクルマの中の順平にも声をかけていた。
順平は素直に車から降りてきて立った。
「どういうこと・・涼子さん」自分の娘にそういわれても声も出ない。
クルマの音、近くを走る列車の音、夏の日差しの下、大橋の主塔が見えていた。
「お嬢さんですか、ごめんなさい、僕が悪いのです」
順平が頭を下げた。
何もない時間が流れる。
3人は立ち止まったままになってしまった。
「本気ですか?遊びですか?」
突然、理沙が順平に聞いた。
「本気です。遊びではありません」
あなたは?理沙は涼子の方を見た。うつむいたまま涼子はやっとこう言った。
「好きなの」
しばらく理沙は大橋の上の方を見ていた。まぶしい。
「わかりました。私が許可します。そのかわり、ただの遊びにしないでね・・」
理沙の顔は笑っている。けれども涼子には涙でよく見えない。

「ただし、条件があります・・お父さんを見捨てないで。・・それから、絶対にお父さんには、ばれないようにする事・・将来もお父さんと別れないと約束すること」
順平が理沙に向かって土下座をするような格好をした。
「ごめんなさい、僕が、身を引きます」
理沙は笑顔を崩さない。
「身を引かれたら困るの・・せっかく涼子さんが生まれて初めての恋愛をしてるのだもの」
涼子は恥ずかしかった・・そして娘の言葉に驚いた。
娘は子供なんかではない・・私よりずっと大人だと感じた。
・・ついでに私も連れて、夕日を見に行きませんか・・
娘がそういって笑うのを見ているだけで涼子は何もいえなかった。

明石海峡大橋のすぐ下の公園で、海に向かって階段に腰掛けている二人があった。
大きな夕日が播磨灘に沈む。
二人は肩を寄せ合い、ほとんど動くこともなく、ただ夕日を見ている。
その二人のやや後ろで、アイスクリームを舐めながら、やはり海と夕日を見ている少女があった。
きれいだな・・理沙は二人の背中へ向けてそう言った。
「何か言った?」
順平と肩を寄せ合っていた涼子が振り向いた。
「うううん・・夕日がきれいだよね・・」
理沙がそう言うと、・・ホントだね・・と涼子はまた順平の肩に寄りかかって夕日を見る。
理沙は少し二人から離れてポツリと言った。
「お母さんのアホ・・」
理沙の頬に涙の筋が流れていた。









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