1995年1月17日、僕は神戸市垂水区の自宅であの大地震に出会った。
ちょうど連休の忙しさがあけて、やっと休みになった最初の日だった。
疲れからか、なぜか深い眠りにならず、切れ切れの夢の中で、いきなり、身体が宙に浮いたような気がした。
そこから先はまさに数十秒の地獄というべきか・・寝室の中のものが全て倒れ、壊れ、僕の身体に降りかかってきた。
揺れが収まって、人心地がついた頃、あちらこちらから女性の悲鳴が聞こえ、それはすぐに小さくなっていった。
別の部屋で寝ていた妻と娘は倒れる家具の間に入って、奇跡的に傷一つおわなかった。
僕は、独身時代に永く須磨区に住んでいた。
須磨区の中でも、山陽電車の南側、板宿、東須磨、両方の駅へいずれも歩いて5分程度でいける交通至便な下町に住んでいた。
この街には古きよき下町の風情がまだ残っていて、粗末なアパートで一人暮らしをしている僕をそれこそ町中の人たちが色々な応援をしてくれたものだった。
垂水区の僕の自宅では何枚かの窓ガラスが割れて、食器類が壊れ、僕の本棚が崩壊して本がすべて部屋中に散乱したくらいで実質的な被害は小さかった。
けれども、夜が明けてから、団地の近隣の友人、数人で裏山に登り、そこから見た、須磨方面から昇る真っ黒な煙は全てを飲み込む絶望に見えたものだ。
午後には電気が通じ、いきなりスイッチが入ったテレビ画面の想像を絶する事態・・
まず、当日と翌日、家族のための水と食料、赤ん坊のミルクとおむつをなんとか数日分、近くのスーパーで並んで確保し、その翌々日、僕は単線で板宿まで再開した市営地下鉄に乗って、板宿へ出むいた。
須磨区在住時、僕をこの街で守ってくれた大切な人や、気の置けない友人達の行方がどうにもわからなかったからだ。
学園都市駅へ出ると地下鉄はほぼ二十分ごとに出ている様子だった。
やってきた電車の車内は、汗と体臭ですえた臭いがした。
人々は顔も黒く、一様にリュックを背負っていた。
「これが、あのお洒落で誇り高い神戸市民か・・」
僅か数日で何もかもがかわってしまった。電車は、ゆっくりと進む。
時折、駅ではない場所で止まっていたりする。
名谷駅手前の下り線の高架橋が崩れそうになっているのが分かった。これを避けるために、単線運転になっていたのだ。
名谷駅では電車の入れ替わりがあるようだった。
隣のホームの電車に乗り換えると、ゆっくりと動き始めた。
板宿駅は普段とさして変わらない雰囲気で、エスカレーターも動いていたし、照明も全てついていた。
けれども駅は人で溢れていた。
僕は懐かしい駅から、外に出た。
山陽電車の南側は何もかもが崩れて傾いて、眩暈がした。
大火はほぼ押さえたものの、まだ火事の煙がくすぶって、あたりを覆っていた。
傾いたビルのいくつかを見て、絶望感を覚える・・これらのビルには知り合いが住んでいるのだ。
そんなビルの下で、今、同じ町に住んでいる西本さんと出会った。
「こんなところでどうされたのですか?」
訊ねると、「僕の会社の横まで火が来てるんや・・大事な書類やらを持ち出してきたところや・・」
西本さんは、靴の町、長田でブランド物の靴をデザインする仕事をしている。昨年に独立して、新長田駅近くのビルに事務所を借りたけれど、そこまで火が来ていると言う。
「仕方ないわい・・燃えたら燃えたまでや・・」
すすけて黒い顔に笑顔を作って「君も、気をつけて歩けよ・・」そう言ってくれて別れた。
大黒小学校を覗いてみた。
入り口でたまたま、知り合いの一川さんのご主人と出会う。
板宿駅前の、倒壊したビルに住んでいた人だ。
「大丈夫だったのですか!よかった・・」
ご主人に案内され、奥さんのいる部屋へ・・教室の奥のほうで、奥さんは窮屈そうに座っていた。
・・ドカーンと揺れたでしょ・・そうしたら、床が抜けたみたいに下へ落ちてね・・部屋が斜めになっているの・・箪笥も食器棚もひっくり返ってね・・それでもなんとか二人は無事だったのだけれど、あたりは真っ暗だし、どうすればいいか分からないし・・この人ったら、落ち着こうやって言いながら煙草に火をつけようとするねんで・・信じられへんやろ。わたし、思わず殴ったがな・・あんた!このガスの匂い、分からへんのかいなって・・
まるで漫才のように、笑いながら語ってくれる。
僕のほうが逆に元気を貰った感じだ。リュックの中からおにぎりとお茶を出して渡すと「ありがとう・・ご飯が少ないの・・」そう言って、手を合わせてくれた。
小学校の玄関へ戻ろうとすると、ここに住んでいたころの悪友、中松君がこちらへやってくるのに出くわした。
二人で再開を喜んで思わず彼の手を握り締めた。
「車が壊れてしもてん」彼の第一声はそれだった。クルマの好きな青年で、特にトヨタの小型スポーツカー・レビンの大ファンだった。
少し以前に新型を購入したと電話をくれていたので、そのときの彼の喜びを思うにつけ、気の毒になってきた。
なんでも立体駐車場に入れていたのだが、その駐車場が倒壊し、クルマはそこから放り出され、外の電柱に串刺しになってしまったと言う。
諦めたように、けれど妙に明るく彼は語ってくれた。
彼に案内されて、グランドへ・・懐かしい顔がたくさん集まっていた。
湯を沸かしているようだった。
「川で水をくみ上げてな・・湯でも沸かせば、なんかに使えるやろ・・」
川の水であり、飲める水ではないけれど、身体をふくことくらいは出来る・・それと校舎の中では暖房がなく、外で、壊れた住宅の残骸を集めて焚き火をしていたほうが暖がとれるのだという。
内装工事の会社をしている林さん一族が中心になってやっていた。
「あれ・・社長さんは?」僕が尋ねると、「マンションの横で警察に付き合っている・・」とのことだった。
ここでは何人かの消息がつかめた。
自動車販売会社に勤めていた下川君一家の状況は大変だった。
彼には二人の子供がいた。上の子は女の子で5歳になったばかり、下の子は男の子でまだ1歳だけれども、生まれてすぐに心臓の病気があることが分かり、最近手術をしたそうだ。
手術は神戸市の中央市民病院で、手術そのものは上手くいったけれども、術後の管理が予断を許さない状況で、母である彼の妻は病院で付っきり、の看護をしていた。
上のお嬢ちゃんは、彼の母親・・お婆ちゃんの家に預けられ、長田区の山の手にいた。
彼一人、自宅にいて、毎日仕事に出かけていたそうだ。
そこにおきた大地震、中央市民病院は停電となり、手術後の息子さんの生命維持が極めて危うい中、医師や看護婦、それに彼の妻も加わって、人工呼吸器を手動で動かし続ける事態となった。
上のお嬢ちゃんがいた長田のお婆ちゃんの家は、崩壊し、崩れた住宅の下敷きになって、お嬢ちゃんは亡くなってしまった。
可愛い、おしゃまなお嬢ちゃんだった。
夜にお邪魔すると、良くお母さんと台所のカウンターで何かをしていた姿が思い出される。
洗い物の仕方を教わっていたのかな?
下川君の会社の建物も危なく、商品も被害にあい、彼の自宅は激震のど真ん中でありながら、頑丈に残ったのに、人生の苦しみが一気に攻めてきてしまった。
僕がこの町にいる頃、隣保に住む不動産屋さんん、桑田さんの奥さんがいつも、様々に気を配って、おかずや、おやつの差し入れをしてくれた。
桑田さんの住んでいた住宅も古い木造住宅だった。
揺れ始めてすぐに、住宅は倒壊してしまった。ご主人は難を逃れたけれど、奥さんは天井の梁の下敷きになってしまった。即死だったそうだ。顔も身体もきれいで、ご主人はいつまで寝ているのかと思ったそうだ。
奥さんの遺体はなんとか隣保の人たちが外に出したけれど安置するところがない。
仕方がなく、解体予定で誰もすんでいなかった市営住宅の一室に安置したそうだ。そこには隣保で亡くなったほかの方の遺体も運び込まれていた。
数時間してそこを見てみると遺体がない・・
他の方の遺体はあるのに、奥さんの遺体だけがない・・
その場にいた誰もが、息を呑んで、顔を見合わせたとき、ご主人がぽつりとこう言った。
「歩いて行ったんとちゃうか・・」
緊迫した空気が一気に溶けた。
結局、奥さんの遺体は市の職員が気を使って、区の総合安置所になっている区民センターに運んでくれていたそうだ。
校庭の中で竹山さんの奥さんと出会った。
この人のお嬢さん・・妙齢の美人で気さくな人だったけれど、この方が亡くなったことだけは知っていた。
テレビの画面で亡くなった方の名前が報道されたけれど、そのごく最初の頃に名前が出ていた人だった。お名前に変わった字が使ってあったのですぐに分かったのだけれども、テレビ局のアナウンサーはそれぞれ勝手な呼び方をしていた。
ちょうど、僕が住んでいたアパートの川向にあたる場所で、このお宅も古い木造住宅だった。
竹山さんとはその後も、妙な縁があって、僕が板宿で、震災後に商売を始めた時、すぐ近くで、おいしいお惣菜のお店をしておられ、よくお世話になったものだ。
そのときに、お嬢さんの成人式の記念撮影のネガフィルムが僕の知り合いのスタジオにあったので、スタジオにお願いしてお店にお届けしたこともあった。
改めてその写真を見ると、やはり気品の漂う、きれいなお嬢さんだった。
僕は大黒小学校の方々にお礼を言い、それぞれに少しずつ、飲み物とおにぎりを手渡して、そこをあとにした。
内装工事会社の林さんのご主人とも会いたいし、自分の住んでいたアパートのことも心配だった。
まず、妙法寺川公園前の自分が住んでいたアパートを見に行った。
なんと、2車線の道路の真ん中、アパートの2階が放り出されて鎮座していた。
隣にあった喫茶店は影もなくただの瓦礫と化し、店の看板が道路に転がっている。
アパートの隣には1階が駐車場になったマンションがあったけれども、駐車場はなく、マンションの2階がそのまま1階になってしまっている。
僕の住んでいた部屋にあとで入った人は、隣のマンションで娘家族と一緒に生活をしていた婦人だった。
孫も大きくなり、部屋が手狭になったことから、すぐ隣のアパートの、しかも前居住者が自分も良く知る青年・・つまり僕だが・・だった部屋を借りて一人で住んでいた。
地震の当日、この婦人は友人と九州旅行中で、それを家族に知らせずに行っていたものだから、地震の日、アパートの前で、息子さん、娘さんが泣いていたそうだ。
けれども、命からがら逃げ出した同じアパートの方が「奥さん、九州旅行中やで」と、泣いている家族に伝えたものだから、息子さんも娘さんも喜んでいいのか怒っていいのか判らず、不思議な気持ちになったそうだ。
これはもちろん後で聞いた話で、このときの僕は、ひたすら心配するだけで、何も知らなかったのだけれども・・
隣のマンションにはこの頃、アメリカへ家族で長期出張に行っている大石君の部屋もあった。
大石君はアメリカから電話をくれ「部屋は諦めているから、近隣の方々の消息を出来るだけ詳しく教えて欲しい」と言って来ていた。
大石君の奥さんは美香ちゃんといって、美人で可愛くて、僕たち地元青年達の憧れの的だった。けれど、どういう訳かその中でも一番さえなく見える大石君と結婚したものだから、その頃は皆、大石君を見直したり、悔しがったり、美香ちゃんの視力を心配したりしていた。
その大石君の奥さん、美香ちゃんも、実家の様子がわからずに、苦しんでいた。
あとで、彼女のご両親は命に別状はなかったけれども、怪我をして入院していることがわかった。
内装工事会社社長の林さんのマンションに行くと、建物は壁にひびが入っているものの、壊れてはいなかった。
けれど隣の薬局は倒壊し、商品が道路に散乱している。
「社長さん!」
向かいの焼け焦げた住宅の屋根の上に林さんの姿があった。
「おう!お前は助かったのか!」
「僕もそっちへ行きます!」
焼けた住宅に行こうとすると「来るな!この家の人の焼死体があるんや・・いま、警察に見てもらっているところや・・」
そう叫ばれた。
「俺は亡くなった人をたくさん見たけれど、お前はまだ見ていないやろ・・見るものじゃあない・・来るなよ・・」
そう言って、しばらくしてから林さんが降りてきた。
警察官も二人、林さんのいた所から這い出てきた。
見舞いを言おうとしたが、僕はすでに見舞いの言葉も出なくなっていた。
女性が崩れた薬局を見ている。何かが欲しいようだ。
「何かいるものがありますか?」林さんが声をかけた。
見ていた人はビックリしたように、それでも「子供のおむつがあれば・・」と言う。
「待ってや・・」林さんはそう言って、覗き込んでいた人と店の中に入っていった。
おむつの袋をいくらか取り出し「要る物があるときはワシに声をかけてくれたらええからな・・」そう言っていた。
「この店の番もされているのですか?」
「番やないけど、放っておいたらいくらでも持っていかれるやろ・・それでは泥棒やからなあ・・」
「この店の人は?」
「怪我をして、病院に運ばれていってしもてな・・」
長田から始まった大火は、このマンションの壁でとまった。
僕はその様子をテレビで見ていて、このマンションも焼けてしまったかと思っていたのだが、煤で多少黒くはなっても厳然とそこにある姿に安堵した。
けれども、地元の住民達は、この町内で唯一ともいえる鉄筋コンクリート5階建てのこの建物で火を止めないと、町が全て焼けてしまうと必死で消火にあたったそうだ。
妙法寺川から水をくみ上げ、人海戦術でバケツリレーをしたそうだ。つまり建物は偶然、残ったわけではなく、町内の方々が守った結果なのだと分かった。
僕はまだ、今日中に行きたいところもあるし、捜索の邪魔も出来ないのですぐにそこを離れた。
大通りに出ると福田君の実家があった。
外から見ても何も変わったようには見えない。少し離れてよく見てみると、屋根の三角がなくなっていることに気がついた。
福田君は僕と同い年の学校の先生だった。彼は結婚して実家を離れていたけれど、実家には妹さんとお母さんが残っていた。お母さんは2階で寝ていた。
地震の揺れで、こともあろうに屋根が抜け落ちて、お母さんを直撃したそうだ。即死だっただろうとのこと。
けれども顔はとてもきれいだったそうだ。
この人も、明るく、いかにも下町の人と言う感じの人だった。
僕は福田君の実家の前で手を合わせた。
西へ進む。
12階建ての市営住宅がある。そこの前は通行止めになって、自衛隊の人がそこで案内をしていた。
「ここは通れません・・大回りしてください」
そういわれた。
見ると住宅がほとんど倒れる寸前まで傾いている。
・・ここを通れないと遠回りだ・・そう思いながら、しばらく立ち尽くしていると、地面が揺れた。
余震だ。
みしみしと建物の方から不気味な音も聞こえる。
自衛隊員の顔色も変わっていた。
仕方がなく、やや山の手方向へ、先ほどの小学校の前を歩いて、板宿駅に出た。道路は建物が倒壊し、瓦礫が散らばり、その脇ではクルマが渋滞していて、歩きにくい・・
山陽電車の駅は上りのホームも、上屋も完全に崩壊してただの瓦礫になってしまっていた。
下りのホームは地下工事のために仮設状態だったが、こちらはなんともない感じだった。けれども、線路の先を見ると沿線の建物がたくさん崩れて線路に入り込んでいた。
僕は線路を西代まで歩くことにした。ここが多分、歩くには一番安全だろう・・すぐに放置されている4両編成の電車があった。
脱線はしていないけれど、乗客が逃げるのに使ったのか、電車の長いシートが散乱していた。
西代駅まで線路を歩いて、そこから怖い道路を歩く。
上沢通りに入って、僕の母の友人、高地さんの家をたずねる。
夢の台高校近くの高層市営住宅だった。
ここは数棟、同じような住宅が建つ団地だった。
けれども、何棟かの建物は下の階が押しつぶされ、その瓦礫の上に建物がかろうじて乗っかかり、傾いていた。
いったい・・どれくらいの方が亡くなったのだろう・・
高地さんの無事も確かめたわけではない。
この団地は二棟で一つのエレベーターを作ってあって、その二棟の間は各階の橋で連絡されていた。
けれども、高地さんの部屋はエレベーターのない側にあって、エレベーターのある側の建物は完全に倒壊してしまっていた。
僕はまるでバイオレンス映画のような景色を見ながら、階段を昇った。
八階の通路に出ると、高地さんのご主人が盆栽の手入れをしていた。
「大丈夫だったんですか!」
叫ぶと「おお!」と声を上げて招いてくれた。
騒ぎに奥さんも中から出てきた。
家の中はすっかり片付いて、地震などどこであったのかというくらい小奇麗にしてあった。
「すっかり片付いていますね!」
「近所の人たちが、よってたかって直してくれてん」
もう、箪笥の上にも荷物が積んである。
「あんな地震はもう来えへんさかいな・・こうやって積み上げてあるんや」
腹が据わっている人は強い。
それでも、この付近の被害の話になると、奥さんは涙をこぼした。
「あそこでも友達が亡くなって、ここでは、若い人が亡くなって・・こんなに哀しいことは今までにあらへんかった」
長田生まれの長田育ち、戦争も見てきた人だ。
部屋の中は電気がなく薄くらい。
部屋を出るときにおにぎりのパックを貰った。
「たくさんは食べられないから、途中で食べて・・」
ボランティアの人が配ってくれたと言う。重なって余ってしまったけれど、捨てるのがもったいないと言うのだ。
礼を言って、団地を出た。
歩きながらさっきのおにぎりを食べてみた。
僕も、朝、自宅を出てから昼は食べていなかった。
ご飯に芯があって、かみにくい。とてもおにぎりとは思えない。まるで生米を固めたものを齧っているようだ。
パックは二つあって、それぞれに小さなおにぎりが二つ入れてあった。
もう一つのパックはご飯は柔らかだった。でも、味がついていなかった。
僕は兵庫区の平野に向かった。
連絡の取れない妻の親友がいたからだ。
クルマが数珠繋ぎになり、満員のバスが止まったまま動けない道を、ひたすら歩いた。
平野に着いた時はすっかり日が暮れていた。
五宮小学校に入って訊ねてみた。
ここはすでにボランティアの組織が出来上がっているようで、校内もきちんと整頓され、人々の顔もきれいだった。
ボランティアのリーダー格の人が出てきてくれた。
「あ!」「おう!」
僕が板宿に住んでいた時、近隣にいて、よく一緒に飲んだ仲の人だった。
檀上さんと言う。
「檀上さん、どないしたんや・・」
「こっちに越してきて、いくらも、たたんうちにこの地震でなあ・・折角の家も潰れたわ・・」
「で・・今リーダーをしているの?」
「仕事も潰れたし、することないしなぁ・・」檀上さんはそう言って笑った。
そのとき、高校生くらいの女の子が二人、檀上さんに声をかけてきた。
「すみません・・今日の晩御飯・・あたってないのですけど・・」
檀上さんはうんと頷いたあと「僕も食べてないねん・・今日の晩御飯はちょっとしか来なかったんや・・わるい・・明日の朝まで我慢してくれ・・」そう言って少女達に頭を下げた。
「大変やな・・」僕は彼にそう言うのがやっとだった。
「ここは西からも東からも一番遠いから、食料が来ないのや・・そのかわり水はあるし、商店街の一部は明かりも点くんやけどな・・」
「水が出るの?」
「うん・・浄水場が近いからな・・」
それで、この学校には清潔感が漂っていたのか・・僕は納得したけれど、食べ盛りの少女に食べ物があたらないのは辛いだろうと思う。ボランティアも、教師も、今日は何も食べることが出来ず、水ばかり飲んでいたそうだ。
捜していた妻の友人の消息は判らず、僕は自宅まで行ってみることにした。
平野の商店街はもう営業している店まであった。
ここは祇園さんの門前町、古くからの商店街だ。僕が生まれたのもこの近くで、この町の不思議な平静さはこれまで瓦礫ばかり見てきた目にはほっとさせる何かがあった。
妻のメモを頼りに商店街の裏側に入ってみた。
二階建ての文化住宅はひっそりとしていたけれど、意外にも何軒か明かりが点いていた。
妻の友人、沢井さんのお宅にも明かりが点いていた。
玄関の扉をノックすると、見覚えのある、可愛い女性が顔を出した。
妻からのお見舞いと、最後に残ったお茶と果物をリュックから取り出して手渡した。彼女は泣いていた。
「避難所に行っても余りにも人が多くて、居場所がなくて、それでお父さんが、自分の家に戻ろうって・・」
奥からご両親も出てこられた。
「この家、ちょっと傾いとるけど、まあ、どこも壊れてへんしな・・」
お父さんが大声で明るく笑った。僕も釣られて笑った。
僕はそれからすっかり日の暮れた町をひたすら歩いた。
バスも板宿まで長田の山の手を回る便が運行していたけれど、歩くよりも遅かったし、混雑もひどそうだった。
僕自身、平野までの道で、何台、バスを抜いたか分からないほどだった。
途中、湊川公園近くの公衆電話ボックスから会社に電話を入れた。
「いつから出て来れる?」
「宿さえ手配していただければ、明日にでもそちらへ向かいますが・・」
「宿は手配できない。君は大阪に親戚がないのか?」
「親戚と言っても、僕が泊まれるほどのおうちはありませんし、どなたか会社の方のご自宅でも使わせていただければ・・」
「馬鹿なことをいうな!とにかく、出てくる日が決まるまでは毎日、連絡をくれ」
僕が勤めていた会社の部長だった。
どうしろと言うのや!そう叫びたい気持ちを、ぐっと堪えた。
僕の会社は大阪のOBPにあった。
見舞いの連絡一つなく、やっと連絡がついたら出てこいの一点張りだった。けれど宿も誰かの家に転がり込むことも出来ない・・
鉄道はまだ開通していなかった。
会社に行くにはなんとか大阪につながる鉄道の駅まで出る必要があった。
「バイクで西宮まで出てくれば電車で来られるだろう」
そんなことも言われたけれど、西宮までは僕の自宅からは軽く30キロはあった。
原付でこの距離を、それも瓦礫ばかりの渋滞道路を、毎日通うなど、ほとんど不可能だし、ガソリンスタンドすらも僕の住む地域ではまだ復旧していなかった。
腹立たしさと、情けなさと、哀しさが一度に襲ってきた。
僕は疲れた身体を引きずるように、寒く、暗い夜の街を歩いていた。
知り合いの人が一人亡くなっても普段なら、辛さを喪服に着替えて、お悔やみに列することも出来る。
けれど、今回、僕はいったい、何人の大切な人を亡くしてしまったのだろう・・
知り合いの一人の家が、例えば火事で焼けたなら、友人達は集まって彼を激励することも出来る。
けれど、今回、僕の友人の何人が家を失ったのだろう・・
全身を襲う脱力感は、ちょっとやそっとでは取れそうになかった。
西代駅付近からまた、山陽電車の線路上を歩いた。
真っ暗な線路の上、ただの黒い塊になって放置されている電車の向こうには、皮肉ともとれるきれいな星空が広がっている。
・・僕が原付バイクで山越えを敢行し、神戸電鉄の鈴蘭台を経て大阪への通勤を始めたのはそれから四日後のことだった。