僕は雨に打たれながら、あてどなく歩いていた。
尚美と別れた三宮から、呆然と、ただ、歩いていた。
尚美に、三宮へ出てきて欲しいといったのは昨日の僕だ。
彼女の携帯電話に電話をして、留守番電話に何度もメッセージを録音し、それでも彼女の肉声が聞きたくて、また、何度も電話をした。
肉声は聞くことが出来なかったが、今日、仕事中、顧客との打ち合わせ中に彼女からの返事が僕の携帯電話の留守番サービスに入っていたのだ。
午後6時ちょうど、阪急東口改札前・・
仕事を繰り合わせ、僕はそこへ急いだ。
彼女は、一人ではなかった。
同僚の女性と、別に男性が一人、そこに来ていた。
促されるままに、居酒屋へ入ったけれど、彼女の視線は厳しかった。
「あたし、もう、気持ちが決まっているから、今日は最後のつもりだからね・・」
そう言いながら、僕を睨みつけた。
「ほんまに・・最後か?」
「そう・・・あなたも、中途半端は嫌でしょうから・・」
そう言って、尚美は酒をあおった。
「ねえ・・純さん、尚美さんの気持ちも理解してあげて・・」
横にいた尚美の同僚、恭子がたしなめるように僕に言う。
「僕の・・僕の気持ちは・・あかんのか?」
「純一さん・・」
僕が見たこともない、僕よりはるかに年上の男性が、さっきからこの二人にくっついてきていた。
「実は、尚美さんは私と、将来を決めているのですよ」
尚美は横を向いたまま、酒を飲んでいる。
「あなたは・・なんで、ここにいるのですか?」
僕の質問(彼の言ったことを僕は理解できていなかったのだ)を聞いた彼は苛立たしげに強くこう言った。
「ですから・・私が、彼女のフィアンセなんです!」
「フィアンセって・・そんな・・僕には何も言わなかったやないか・・」
尚美が煙草をくわえる。煙を吐き出す。
「あのね・・あたしにとって、あなたは友達なの!なんで友達に一々、言わなきゃいけないの!」
そこから、どういう会話になったかは、よく思い出せない。
ただ、やたらと酒を飲んだ気はする。
金を払ったのか、誰かに出してもらったのかも覚えていない。
フラッシュのように、彼女達が店の前から去っていき、それを僕が見送った風景が頭の中に残っているだけだ。
気がつけば、僕は随分と三宮から離れた諏訪山あたりまで来ているようだった。
小雨がずっと降っている。
傘は持っていない。
背広も何もかも濡れてしまっていた。
哀しいと言うのではない。
こう言う結果があることはずっと前に予感できた。
けれども自分でそれを否定し続けてきた。
尚美は僕の想いは知っていたはずだ。
けれども彼女は僕を拒むことなく、いつも、普通に受け入れてくれた。
僕はそれを、彼女なりの僕への愛だと思っていた・・いや、思うことにしていた。
ふと見ると、住宅の明かりだけの街中で、ひときわ明るい、オレンジ色の看板が見えた。
僕はフラフラと、昆虫が明かりに集まるように、その看板へ近づいていった。
「大明飯店」
看板にはそう書いてあった。
中華料理屋らしい・・それも庶民的な、神戸にはよくある小さな店のようだ。
表には手書きでメニューが記してあった。
五目汁蕎麦600円、焼蕎麦700円、焼餃子300円、鳥唐揚700円・・
大雑把にかかれたメニューは決して食欲をそそるものではないけれど、僕はただ、暖かいものが欲しくなってその店のアルミ製の質素な扉を開けた。
「あいよー!いらっしゃいませ!」
妙なイントネーションの主人がカウンターの向こうから声をかけてくれた。
「あらら・・びしょ濡れね・・傘もってないあるか?」
「ごめん・・椅子を濡らしてしまったね・・」
「ああ・・気にしないあるよ・・それより何か、暖かいもの、お出ししましょうか?」
主人は中国人のようだった。
メガネの奥に心底の笑顔が見えたような気がした。
「五目汁蕎麦・・それとビール」
「あいよ!五目汁蕎麦ね!ビールは冷蔵庫から取ってくれるかな?」
カウンターの横にビールの冷蔵庫があった。
僕は自分でそこからビール瓶を出し、横の棚からコップを取った。
自分でビールを注ごうとしていると、さっと主人が小鉢に入れたザーサイを出してくれた。
店の隅の上の方に棚がつくってあり、テレビが置かれていた。
そのテレビでタレントの出る法律相談の形をとったショーが流れていた。
ありがとう・・そう呟きながら、僕はビールを一杯、一気に飲み干した。
店の中は質素なつくりだった。
「どうして濡れていたのかな?・・なにか・・そう・・哀しいことでもあったかな?」
主人はなにやら炒め物をしながら、聞いてくる。
「哀しいこと・・うん・・」
「なに?」
「女に振られた」
「おお!」
主人は大袈裟な身振りをして、すぐまた、調理をしながら叫んだ。
「それは悲しいあるね・・辛いでしょ・・」
「うん・・」
僕はなんだか可笑しくなってきていた。
この人はこうやって、やってくる客と毎日、話をして生きているのだろうか・・
「でもね・・哀しいこと・・これ、人生の塩味ね。今度またいいときもあるよ」
僕の前には大きなどんぶりに入れられた具材たっぷりの汁蕎麦が置かれた。
一口、スープを飲んだ。
暖かさと塩味がすんなり喉に入ってくる。
そのとき、扉が開き、男が二人、入ってきた。
「こんばんわ!」
「あいよー!こんばんわ!いらっしゃい!」
常連の客らしい・・常連客が来て主人と喋りだすと僕の居場所がない・・ふと、そう思った。
けれど、そのまま蕎麦を食い続けていた。
「マスター!僕も汁蕎麦!」
「じゃ・・俺も!」
「あいよ!五目汁蕎麦二つね!」
人の食っているものを見て、それを注文するなんて・・僕は見本にされたようで情けなくなってきた。
「あ・・ごめんなさい!美味しそうなので、真似しちゃいました!」
一人が僕にそう言う。
おどけた感じだ。
「真似はダメだよな・・失礼」
もう一人もそう言う。
「あ・・いや・・別に・・」僕はそう答えるしかない。
「お二人はシアワセが一番の時あるね」
主人が二人に言った。
「そ!僕たちは今、最高です!」
「ホント!」
僕には意味がわからなかった。
男二人で何を言っているのだろう・・
「恋人でも出来たのですか?」
僕は意地悪く二人に聞いてみた。
「恋人?ここにいるじゃない・・」
「???」
僕が目を回していると、主人がおどけて言う。
「二人、恋人同士ね!」
「え???」
「そう、俺達、愛し合っているんだ!」
二人はそう言って、肩を組むまねをして見せた。
「それは・・・もしかして」
「そうだ・・愛にカタチはないんだ・・」
僕は納得した。
彼らの幸せそうな顔がまぶしかった。
何かを揚げる音がする。
主人は時折、中国人特有の訛りで話し掛けながら、それでも手は休めない。
二人の前にも汁蕎麦が置かれた。
そのあとに、大き目の皿に山盛りの唐揚がおかれた。
「3人で食べると良いあるよ・・これは私のおごりね」
「マスター素敵!」
「サンキュ!」
僕はビックリした。
「きょうからお兄さんも友達ね!」
僕にそう言う。
「いや・・あの・・僕は・・」
「いいよ・・遠慮しないあるね!今日は疲れたでしょ・・たくさん食べてくだぁさい」
「あ・・はい・・・」
僕と主人のやり取りを見ていた、二人の内の一人が大きな声で笑う。
「ハハハ!心配要らないって・・俺達は普通の人とはこう言う関係にならないから!あんたも、この店のお友達だってことだ!遠慮しないで頂こう!」
「そうそう・・お兄さんは、普通の恋・・女の人しかダメな人だってすぐに分かるから・・安心していてね」
店の主人も笑顔で僕を見ている。
自分がつまらないことに一瞬でも躊躇したことが情けなく思えた。
「あ・・ありがとう・・じゃ・・頂きます」
僕は手を伸ばして唐揚を口に入れた。
できたての、パリパリの衣、しっかり味がついて、軟らかい鶏肉・・これまでに食べたことのないようなうまさだった。
「お兄さん・・どこの人?」
「僕は須磨区です・・」
「へえ!遠いなあ!」
「三宮にいたのですけど・・彼女に振られて、歩いていたらここに着いたんです」
なぜか、その二人にそんなことを言ってしまった。
「永くお付き合いしたの?」
二人のうちの言葉が丁寧な方がそう聞いてきた。
「僕は・・付き合ってたつもりやったんですけど・・」
「相手はそうは思ってなかった!」
「そうです・・」
「良くあることですよね・・」
「あなた方の世界でもあるのですか?」
「あるというか・・」
そう、言ってその男はとなりの男をいたずらっぽく見た。
「普通の男と女より、俺たちの方が、その辺は、よりハードかも知れない」
「そうですか・・でも・・」
「でも?」
「今の僕は、ものすごく辛いです・・」
僕のコップにビールが注がれた。
ビックリして見ると主人が新しいビールの栓をあけて注いでくれている。
「これもおごりね!」
「すみません・・」
「雨でお客、こないね!今日はゆっくり話をしていってよ!」
時折、テレビ画面を見ながら、タレントの痴話話などを件の二人がしていた。
僕は時折その中に入りながら、ビールを呑んで蕎麦をすすり唐揚を食った。
「一つだけ、お伺いしてもいいですか?」
僕は二人に改めてそう話し掛けた。
「普通の人と、あなた方の世界の人とを見分ける方法はあるのですか?」
「ありますよ・・といっても普通の人では分からないかもしれないですね」
「あなた方は分かるというわけですか?」
「そうだね・・だいたい分かる・・不思議なもので、何故だか分かるんだな」
「そうですよ・・道を歩いていても分かる人は分かる」
「それは何なのでしょう?」
二人は顔を見合わせた。
「きっと・・本能だと思います」
「本能?」
「生きていくうえでの・・」
「あなただって、女の人の誰にでも言い寄れるわけではないでしょう・・同じことだと思うのです」
「おなじこと・・」
「人間にはもともと縁で出会う人が決まっているような気もしますね・・」
「そうだよなあ・・縁と、やっぱり生きていくうえで、この人と一緒に居たいっていう、本能かな・・」
「マスターどう思われます?」
主人は急に声をかけられて面食らったようだったが、それでも、こう言った。
「恋愛!任せてね!私、離婚2回してるからね!」
二人が笑った。
僕も笑った。
「でもね・・マスターの3人目の奥さん・・若くて美人ですよ・・」
「3人目!」
僕が素っ頓狂な声を上げると、主人は照れたようで。ちょっと顔を赤くして、頷いた。
「美人かどうか・・若いことは確かあるね!」
店の中は笑い声に包まれた。
しばらくして僕は大明飯店を出た。
雨は上がっていた。
店の主人が僕に請求した金額はあの、五目汁蕎麦600円とビール1本450円の合わせて1050円だけだった。
「また来てくれるといいあるね・・」
主人が笑顔でそう言いながら、つり銭をくれたとき、件の二人も手を振ってくれた。
「今度は新しい彼女、連れていらっしゃいよ」
「彼女が出来なくても、中華はここに来るんだぞ!」
僕も笑って手を振って、彼らと別れた。
自分が無理をして、必死で掴もうとしていたのは何だったのだろうか・・
尚美の心・・ないと分かっている彼女の心・・
けれども、彼女もまた、優しい人だったに違いない・・
男としては好きではなかった僕の求めに応じてくれることもあった・・それはきっと彼女の優しさだったのだろう。
僕はそれに甘えきって、そのまま深みにはまり込んでいた。
携帯電話のメール着信音がした。
僕は電話を取り出して、広げてみた。
尚美からだった。
「今日はごめんね、つらい思いをさせたね。でも、これからはお互いにそれぞれ、生きていこうね!」
僕は歩きながら「ありがとう!」とだけ返信をした。
夜の帳に包まれた坂道の先に、商店街らしい明かりが広がっているのが見えた。
「また・・いい子と出会えるよ・・」
僕は自分にそう言い聞かせ、雨上がりの坂道をゆっくりと下りていった。
尚美と別れた三宮から、呆然と、ただ、歩いていた。
尚美に、三宮へ出てきて欲しいといったのは昨日の僕だ。
彼女の携帯電話に電話をして、留守番電話に何度もメッセージを録音し、それでも彼女の肉声が聞きたくて、また、何度も電話をした。
肉声は聞くことが出来なかったが、今日、仕事中、顧客との打ち合わせ中に彼女からの返事が僕の携帯電話の留守番サービスに入っていたのだ。
午後6時ちょうど、阪急東口改札前・・
仕事を繰り合わせ、僕はそこへ急いだ。
彼女は、一人ではなかった。
同僚の女性と、別に男性が一人、そこに来ていた。
促されるままに、居酒屋へ入ったけれど、彼女の視線は厳しかった。
「あたし、もう、気持ちが決まっているから、今日は最後のつもりだからね・・」
そう言いながら、僕を睨みつけた。
「ほんまに・・最後か?」
「そう・・・あなたも、中途半端は嫌でしょうから・・」
そう言って、尚美は酒をあおった。
「ねえ・・純さん、尚美さんの気持ちも理解してあげて・・」
横にいた尚美の同僚、恭子がたしなめるように僕に言う。
「僕の・・僕の気持ちは・・あかんのか?」
「純一さん・・」
僕が見たこともない、僕よりはるかに年上の男性が、さっきからこの二人にくっついてきていた。
「実は、尚美さんは私と、将来を決めているのですよ」
尚美は横を向いたまま、酒を飲んでいる。
「あなたは・・なんで、ここにいるのですか?」
僕の質問(彼の言ったことを僕は理解できていなかったのだ)を聞いた彼は苛立たしげに強くこう言った。
「ですから・・私が、彼女のフィアンセなんです!」
「フィアンセって・・そんな・・僕には何も言わなかったやないか・・」
尚美が煙草をくわえる。煙を吐き出す。
「あのね・・あたしにとって、あなたは友達なの!なんで友達に一々、言わなきゃいけないの!」
そこから、どういう会話になったかは、よく思い出せない。
ただ、やたらと酒を飲んだ気はする。
金を払ったのか、誰かに出してもらったのかも覚えていない。
フラッシュのように、彼女達が店の前から去っていき、それを僕が見送った風景が頭の中に残っているだけだ。
気がつけば、僕は随分と三宮から離れた諏訪山あたりまで来ているようだった。
小雨がずっと降っている。
傘は持っていない。
背広も何もかも濡れてしまっていた。
哀しいと言うのではない。
こう言う結果があることはずっと前に予感できた。
けれども自分でそれを否定し続けてきた。
尚美は僕の想いは知っていたはずだ。
けれども彼女は僕を拒むことなく、いつも、普通に受け入れてくれた。
僕はそれを、彼女なりの僕への愛だと思っていた・・いや、思うことにしていた。
ふと見ると、住宅の明かりだけの街中で、ひときわ明るい、オレンジ色の看板が見えた。
僕はフラフラと、昆虫が明かりに集まるように、その看板へ近づいていった。
「大明飯店」
看板にはそう書いてあった。
中華料理屋らしい・・それも庶民的な、神戸にはよくある小さな店のようだ。
表には手書きでメニューが記してあった。
五目汁蕎麦600円、焼蕎麦700円、焼餃子300円、鳥唐揚700円・・
大雑把にかかれたメニューは決して食欲をそそるものではないけれど、僕はただ、暖かいものが欲しくなってその店のアルミ製の質素な扉を開けた。
「あいよー!いらっしゃいませ!」
妙なイントネーションの主人がカウンターの向こうから声をかけてくれた。
「あらら・・びしょ濡れね・・傘もってないあるか?」
「ごめん・・椅子を濡らしてしまったね・・」
「ああ・・気にしないあるよ・・それより何か、暖かいもの、お出ししましょうか?」
主人は中国人のようだった。
メガネの奥に心底の笑顔が見えたような気がした。
「五目汁蕎麦・・それとビール」
「あいよ!五目汁蕎麦ね!ビールは冷蔵庫から取ってくれるかな?」
カウンターの横にビールの冷蔵庫があった。
僕は自分でそこからビール瓶を出し、横の棚からコップを取った。
自分でビールを注ごうとしていると、さっと主人が小鉢に入れたザーサイを出してくれた。
店の隅の上の方に棚がつくってあり、テレビが置かれていた。
そのテレビでタレントの出る法律相談の形をとったショーが流れていた。
ありがとう・・そう呟きながら、僕はビールを一杯、一気に飲み干した。
店の中は質素なつくりだった。
「どうして濡れていたのかな?・・なにか・・そう・・哀しいことでもあったかな?」
主人はなにやら炒め物をしながら、聞いてくる。
「哀しいこと・・うん・・」
「なに?」
「女に振られた」
「おお!」
主人は大袈裟な身振りをして、すぐまた、調理をしながら叫んだ。
「それは悲しいあるね・・辛いでしょ・・」
「うん・・」
僕はなんだか可笑しくなってきていた。
この人はこうやって、やってくる客と毎日、話をして生きているのだろうか・・
「でもね・・哀しいこと・・これ、人生の塩味ね。今度またいいときもあるよ」
僕の前には大きなどんぶりに入れられた具材たっぷりの汁蕎麦が置かれた。
一口、スープを飲んだ。
暖かさと塩味がすんなり喉に入ってくる。
そのとき、扉が開き、男が二人、入ってきた。
「こんばんわ!」
「あいよー!こんばんわ!いらっしゃい!」
常連の客らしい・・常連客が来て主人と喋りだすと僕の居場所がない・・ふと、そう思った。
けれど、そのまま蕎麦を食い続けていた。
「マスター!僕も汁蕎麦!」
「じゃ・・俺も!」
「あいよ!五目汁蕎麦二つね!」
人の食っているものを見て、それを注文するなんて・・僕は見本にされたようで情けなくなってきた。
「あ・・ごめんなさい!美味しそうなので、真似しちゃいました!」
一人が僕にそう言う。
おどけた感じだ。
「真似はダメだよな・・失礼」
もう一人もそう言う。
「あ・・いや・・別に・・」僕はそう答えるしかない。
「お二人はシアワセが一番の時あるね」
主人が二人に言った。
「そ!僕たちは今、最高です!」
「ホント!」
僕には意味がわからなかった。
男二人で何を言っているのだろう・・
「恋人でも出来たのですか?」
僕は意地悪く二人に聞いてみた。
「恋人?ここにいるじゃない・・」
「???」
僕が目を回していると、主人がおどけて言う。
「二人、恋人同士ね!」
「え???」
「そう、俺達、愛し合っているんだ!」
二人はそう言って、肩を組むまねをして見せた。
「それは・・・もしかして」
「そうだ・・愛にカタチはないんだ・・」
僕は納得した。
彼らの幸せそうな顔がまぶしかった。
何かを揚げる音がする。
主人は時折、中国人特有の訛りで話し掛けながら、それでも手は休めない。
二人の前にも汁蕎麦が置かれた。
そのあとに、大き目の皿に山盛りの唐揚がおかれた。
「3人で食べると良いあるよ・・これは私のおごりね」
「マスター素敵!」
「サンキュ!」
僕はビックリした。
「きょうからお兄さんも友達ね!」
僕にそう言う。
「いや・・あの・・僕は・・」
「いいよ・・遠慮しないあるね!今日は疲れたでしょ・・たくさん食べてくだぁさい」
「あ・・はい・・・」
僕と主人のやり取りを見ていた、二人の内の一人が大きな声で笑う。
「ハハハ!心配要らないって・・俺達は普通の人とはこう言う関係にならないから!あんたも、この店のお友達だってことだ!遠慮しないで頂こう!」
「そうそう・・お兄さんは、普通の恋・・女の人しかダメな人だってすぐに分かるから・・安心していてね」
店の主人も笑顔で僕を見ている。
自分がつまらないことに一瞬でも躊躇したことが情けなく思えた。
「あ・・ありがとう・・じゃ・・頂きます」
僕は手を伸ばして唐揚を口に入れた。
できたての、パリパリの衣、しっかり味がついて、軟らかい鶏肉・・これまでに食べたことのないようなうまさだった。
「お兄さん・・どこの人?」
「僕は須磨区です・・」
「へえ!遠いなあ!」
「三宮にいたのですけど・・彼女に振られて、歩いていたらここに着いたんです」
なぜか、その二人にそんなことを言ってしまった。
「永くお付き合いしたの?」
二人のうちの言葉が丁寧な方がそう聞いてきた。
「僕は・・付き合ってたつもりやったんですけど・・」
「相手はそうは思ってなかった!」
「そうです・・」
「良くあることですよね・・」
「あなた方の世界でもあるのですか?」
「あるというか・・」
そう、言ってその男はとなりの男をいたずらっぽく見た。
「普通の男と女より、俺たちの方が、その辺は、よりハードかも知れない」
「そうですか・・でも・・」
「でも?」
「今の僕は、ものすごく辛いです・・」
僕のコップにビールが注がれた。
ビックリして見ると主人が新しいビールの栓をあけて注いでくれている。
「これもおごりね!」
「すみません・・」
「雨でお客、こないね!今日はゆっくり話をしていってよ!」
時折、テレビ画面を見ながら、タレントの痴話話などを件の二人がしていた。
僕は時折その中に入りながら、ビールを呑んで蕎麦をすすり唐揚を食った。
「一つだけ、お伺いしてもいいですか?」
僕は二人に改めてそう話し掛けた。
「普通の人と、あなた方の世界の人とを見分ける方法はあるのですか?」
「ありますよ・・といっても普通の人では分からないかもしれないですね」
「あなた方は分かるというわけですか?」
「そうだね・・だいたい分かる・・不思議なもので、何故だか分かるんだな」
「そうですよ・・道を歩いていても分かる人は分かる」
「それは何なのでしょう?」
二人は顔を見合わせた。
「きっと・・本能だと思います」
「本能?」
「生きていくうえでの・・」
「あなただって、女の人の誰にでも言い寄れるわけではないでしょう・・同じことだと思うのです」
「おなじこと・・」
「人間にはもともと縁で出会う人が決まっているような気もしますね・・」
「そうだよなあ・・縁と、やっぱり生きていくうえで、この人と一緒に居たいっていう、本能かな・・」
「マスターどう思われます?」
主人は急に声をかけられて面食らったようだったが、それでも、こう言った。
「恋愛!任せてね!私、離婚2回してるからね!」
二人が笑った。
僕も笑った。
「でもね・・マスターの3人目の奥さん・・若くて美人ですよ・・」
「3人目!」
僕が素っ頓狂な声を上げると、主人は照れたようで。ちょっと顔を赤くして、頷いた。
「美人かどうか・・若いことは確かあるね!」
店の中は笑い声に包まれた。
しばらくして僕は大明飯店を出た。
雨は上がっていた。
店の主人が僕に請求した金額はあの、五目汁蕎麦600円とビール1本450円の合わせて1050円だけだった。
「また来てくれるといいあるね・・」
主人が笑顔でそう言いながら、つり銭をくれたとき、件の二人も手を振ってくれた。
「今度は新しい彼女、連れていらっしゃいよ」
「彼女が出来なくても、中華はここに来るんだぞ!」
僕も笑って手を振って、彼らと別れた。
自分が無理をして、必死で掴もうとしていたのは何だったのだろうか・・
尚美の心・・ないと分かっている彼女の心・・
けれども、彼女もまた、優しい人だったに違いない・・
男としては好きではなかった僕の求めに応じてくれることもあった・・それはきっと彼女の優しさだったのだろう。
僕はそれに甘えきって、そのまま深みにはまり込んでいた。
携帯電話のメール着信音がした。
僕は電話を取り出して、広げてみた。
尚美からだった。
「今日はごめんね、つらい思いをさせたね。でも、これからはお互いにそれぞれ、生きていこうね!」
僕は歩きながら「ありがとう!」とだけ返信をした。
夜の帳に包まれた坂道の先に、商店街らしい明かりが広がっているのが見えた。
「また・・いい子と出会えるよ・・」
僕は自分にそう言い聞かせ、雨上がりの坂道をゆっくりと下りていった。