「乗れ!」
男はいきなり、私をタクシーに押し込んだ。
「嫌だ!」
私ははっきり、そう言った。
それはこの男と私が出会ってから、これまでになかった私のはっきりとした意思表示だった。
「うるさい!」
梅田、阪急東口の横断歩道で、男が私を無理矢理にタクシーに乗せようとする。
タクシードライバーとしては未だ若い男性運転手は、当惑したような表情で私たちを見ている。
それでも、私が男の言いなりになるような形でタクシーに乗ったのは、あの運転手の、当惑したような表情があったからだ。
彼が例えば私たちを断る事も出来た筈だ。
でも、その運転手は、私たちが乗り込むと、黙ってドアを閉め、男の言いなりに西へ向かった。
男はタクシーの中でも私を殴り続ける。
「お前は、俺に嘘をついとるんや!」
「嘘なんかついてへん!」
私の必死の反論も酒に酔いすぎた男には理解できないらしい。
「うるさい!」
そう言っては私を殴り続ける。
もとより酔って殴っているのだし、私も厚手のコートを羽織っている。
男のパンチは痛くなかったが、そのパンチ一つ毎に私の心は男から離れていく。
「おい、運転手!」
「はい」
男はダメージを受けない私に愛想を尽かし始めたのか、今度はタクシーのドライバーに向かい始めたようだ。
「西宮や!」
「西宮ですね」
「鳴尾や!国道43号を走れ!」
「鳴尾なら国道43号・・分かっております」
普通に受け止めれば普通の会話だ。
だのに、男は普通の人間ではないらしい。
「こら!運転手!」
「はい・・」
「分かっておりますとはどういう事や!」
「「いえ・・あの・・鳴尾なら43号と言うのは普通の事ですので」
「ほな、お前は俺の家まで知っていると言うのか!」
「いえ・・お客さんが鳴尾とおっしゃったので・・」
「うるさいわい!お前は黙ってクルマを言う通りに走らせればええのんじゃ」
「はい・・すみません」
「謝って済むかい!黙って走らせればええもんを、わしに楯突きやがって」
「いいぇ・・そんなつもりじゃ・・」
私は我慢がならなくばった。
私自身も相当酔っていたのだろう。
「タクシーの運転手さんにあたるなんて、最低やわ!もう止めてよ」
「うるさい!」
男は叫ぶとまた私を殴る。
タクシーは淀川の橋を渡っている。
今日、男と待ち合わせしたときから男は変だった。
私は一応、男とは恋人同士の関係だ。
でも、私には中学生の息子はあるし、自分の社会もある。
だから私はこれまで、男とは一定の距離を保ってきた筈だった。
男にはそれが我慢ならなかったらしい。
もとより、女は殴ってでも言いなりにさせたい男だ。
女から見れば危険極まりない男であるけれども、所詮は中学生がそのまま大人になったような男なのだ。
私にはその辺りは見えていた筈だった。
でも、私もまた、淋しかったのだ。
だから、こんな馬鹿げた男でも・・自分の回りに置いておきたかったのだ。
クルマはひたすら西を目指す。
男は私に言い続ける・・
「お前は俺に嘘をついとった」
私に答えるべきものはなにもない。
男に嘘など一度も付いた事がないからだ。
「その踏切を渡ってすぐや」
男は幾分大人しくなったのか、淡々と言う。
運転手は「はい」とだけ答えて車を停める。
4000円ほどの料金だった。
男は万札を放り投げるように運転手に渡す。
運転手は釣り銭を男に渡している。
そのとき、男が先に車を降りた。
私は咄嗟にタクシーのドアを両手で閉めた。
このまま男に言いなりになったところで、明日の朝まで屈辱的な夜が待っているだけなのだ。
その思いが脳裏を過ぎったとき、私の取るべき方向は決まってしまっていた。
女は征服するべきものだと考えている男の腕の中へ、いくら私でも帰るわけには行かない。
いや、帰りたくなどないのだ。
「早く行って!クルマを進めて!」
運転手は当惑しているようだった。
彼にとっては不安でしかないだろう。
「お願い!加古川まで行って頂戴!」
一瞬の間を置いて運転手は車を動かしてくれた。
「ありがとう」
私は運転手に礼を言った。
「加古川までですね・・1万5千円ほどにはなると思いますが・・」
「いいですよ・・行ってくれたら嬉しいです」
「契約成立です。お客様のおっしゃる場所まで向かわせていただきますよ」
「ありがとう・・」
運転手はその後しばらくは無言でクルマを走らせた。
私は「煙草を吸っても良いですか?」と訊ねたが、その時は運転手は愛想良く「どうぞ、ごゆっくり・・」と答えてくれた。
煙草を吸って、ようやく私の気持ちは落ち着いてきた。
タクシーの無線が何やら叫んでいるようだ。
「今、そのお客をお乗せしています。契約は成立していますから、とりあえず契約を履行します。」
運転士は無線機をとってそう答えている。
「あのう、とりあえず、仕事が終了しだい、警察へ事情を説明にお願いします」
「了解です」
「あの・・私の事でなにかあったのでしょうか?」
私は気になり、運転手に訊ねた。
「いや・・大した事ではないのですが・・先ほどの男性が僕があなたを拉致したと、警察に訴えているようですよ」
「拉致ですか・・」
「タクシーが乗客を拉致できる筈もないですのにね」
運転手はそう言って笑った。
車はまるでお構いなしであるかのように走り、阪神高速道路へ入っていく。
「私のために、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ・・お客さんは僕にとっては契約を発注してくれた方です。今から加古川までいけるんですから・・」
「そう言っていただけると・・救われます」
私がそう言うと運転手はしばらく黙って、前を見詰めていたが、しばらくしてから重い口を開くように語り始める。
「あくまでも、傍観者としての意見であると言う前提ですが・・」
「はい・・」
「僕は基本的に女性を力づくで自分の思い通りにさせようとする男性は・・駄目だと思います」
「あ・・はい」
「要らぬことかもしれませんが、お付き合いも考え直されては如何ですか?」
「あ・・そのつもりです」
「例えば先ほどから、僕が見てしまったあなたへの暴力も、訴えればいいんじゃないかと・・ま・・これはお客さんのプライバシーに関わる事ですけれど」
私は、項垂れてしまった。
車は右手に六甲山麓の住宅地の夜景を、左手に神戸港の夜景を眺めながら突っ走っている。
いきなり、運転手は携帯電話を取り出して話を始めた。
「あ・・その件でしたらお客様をお送りしてから警察のほうに伺います」
電話を切って、「警察からですよ。あなたの事でお伺いしたい事があると・・」という。
「警察からですか・・」
「自動車運転中は携帯電話は駄目な筈なんですけどね」
そう言って苦笑している。
クルマはお構いなしに西へ向かっている。
途中のどこかで友人の小夜子に電話を入れる事にしよう・・
私はそうぼんやりと考えながらも、勢い良く、高速道路を西へ向かって走るクルマに、何だか自分の未来を見るような気がしてきた。
私は私らしく、生きてやるんだ。
一人の女として、一人の母として、力強く生きてやるんだ・・
まるで夜行列車のように、タクシーはどんどん・・西へ向かっていく。
神戸の町の夜景も投げ捨てながら・・