もうすぐ冬が来る・・・
空は晴れているのに、雲もあり、この冬最初の粉雪が舞う。
安和二年十一月(西暦九百六十九年)の冬が始まる。
黄葉(きのは)は、田畑から自宅に入る前にふっと足を止めて磐梯山を見る。
雪が積もった山頂から噴煙が立ち上る。
「姉様・・」
冷たい北風に身を任せているが、独り言とそれに合わせるかのように涙が出る。
磐梯山を見ると何故か姉、紅葉(もみじ)のことが思い返される。
「どうか帰ってこらんしょ」
思わず合わせている両手に力が入る。
心の臓を握られているかのような苦しみが走る。
数日前、あれは十月二十五日のことだ。
深い関係の双子には相互に心を送ることができるという、その双子の姉からの伝心があった。
「さようなら、黄葉、心配かけたね」
姉の心は泣いている風でもなく、何か達観したかのようだった。
「姉様、会津へ帰ってぎでくんちぇ」
だがその瞬間、姉からの伝心は途絶えたのだ。
家人たちが心配そうに奥方の様子を遠巻きにするが、やがていつもの一時の感傷だろうと家に入っていく。
奥方は驚愕すべき知識の宝庫でありながら、情緒に流され、時にわけもなく涙を流すことを家人たちは知っていた。
黄葉は、まだ寒風に吹かれながら磐梯山を見つめて立ちすくむ。
「おう、姉様のこどはさすけねえ」
太い男の声がする。
ひときわ体格の良い夫、源吉が家の前で立ちすくむ黄葉をみつけ、声をかけた。
彼には、妻の気持ちが痛いほどわかっていた。
「だども・・」
まだ、父母と家にいた頃は黄葉(きのは)は京ことばだった。
源吉と一緒になり、土地の人たちと交わううちにすっかり、地元の言葉になっていた。
「おう、かんじるべ、風邪をひく前にうちにいっち」
源吉がいうが、今日の黄葉は少し変だ。
夫に言葉も返さずただじっと、風に吹かれながら磐梯山を見つめている。
「大丈夫なはずはない、何かある」
あれ以来、黄葉の中の姉、紅葉からの声が途切れているのだ。
「お願いいだします・・姉様を無事さ、会津さ帰らせてくんちぇ」
祈りは強く、だが心の奥からの姉の声は聞こえない。
姉は亡くなっている・・悲しい確信でもあった。
やがて雲が出て磐梯山は隠れてしまった。
翌日、遠くから旅をしてきたらしい数人の一行が源吉の家を訪ねた。
「お届け物を信濃から預かってまいりました」
うちの一人が玄関先でそういう。
家人の取次で表に出た黄葉は、背筋が寒くなり足がすくむのを感じた。
「信濃からだが?」
彼らが下した荷物は味噌桶のような桶だがしっかりと蓋をしてある。
「こちらを一緒にと」
手紙が黄葉に手渡された。
封を切って開けるのももどかしく、その手紙を読む。
達筆である。
「黄葉殿、このたび、おもとの御姉かくれけり。
よりて、会津に葬られたく侍り。
御姉を会津に戻すこと能わず、慚愧に堪えず。
いかでか懇ろに弔はれたくさうらふ 信濃守平惟茂」
黄葉の顔から血の気が引いた。
それなら、あの桶は・・・
気が狂いそうだった。
取り乱す奥方の様子に使いの者たちは困惑している。
そこへ源吉が出てきた。
「どだ、わけなだべ?」
「我々は、信濃守様からこちらへお届けせよ、必ず秘密裏にせよと言われただけでして」
「そうが、わがった・・」
「では、確かにお渡しいたしましたぞ」
「疲れたべ、ゆっぐりやすんでいけ、礼ははずむがら」
使いのものは奥にやってしまい、彼が桶の前に立つ。
家人たちが心配そうに周りに立つが、「ここは控えてぐれ」と静かに言う。
家人たちは持ち場へ戻っていった。
土間には黄葉と夫、源吉の二人だけで桶を前に立つ。
源吉は桶を頑丈に縛ってある縄に鎌を入れ断ち切っていく。
「やめで!」
黄葉が叫ぶが、源吉は黙々と何重もの縄を切っていく。
やがて、蓋があらわになる。
「開けるぞ」
黄葉は夫の横で立つのもやっとの状態だ。
蓋を開けた桶からは石灰や香料の香りがする。
いっぱいに入れられた石灰と塩の塊を除けると、なにか丸いものが白布に包まれている。
源吉が取り出し、それを土間から上がり框に移した。
源吉は手を合わす。
「これは・・首だべ」
覚悟が決まったのか、黄葉も夫の横で手を合わせている。
白布も幾重にもまかれていたが、やがて血がにじむようになり、黒髪が見えた。
長い黒髪も、ゆっくりほどき、人の顔が出てきた。
「姉様・・・」
黄葉はそれ以上の言葉も出ず、だが、その首を抱き取って腕の中に抱え込んでしまった。
美しかった姉、紅葉の顔は化粧こそされているものの、あの輝かしさは何処にもなく、開いたままの目はうつろで、宙を見ていた。
抱え上げ、姉の目をみつめ、泣き声も発せずただ、姉と心で繫がろうとしているかのようだ。
「葬儀だべ!寺さよぶべ!」
源吉は奥の家人たちに叫ぶ。
この時代、普通の死者なら村の外れの荒れ地で鳥葬にするのが習わしだったのだろう。
だが、この場合はとにかく手厚く、死者の怨念を鎮めねばならない。
武将でもないのに首にされて帰ってきたものには、相当な怨念が残っていると考えるのもまた普通のことだった。
この三十三年前の春先、磐梯山の麓にまだ雪が残る朝、黄葉(きのは)と紅葉(もみじ)は生まれた。
紅葉は幼名を呉葉(くれは)といった。
親は大伴家持の血を引き継ぐ伴笹丸(とものささまる)、菊世夫妻で、この地の郡司でもある。
二人は三十路になってもなかなか子に恵まれず、地元の寺院の観世音菩薩に祈りに通っていたという。
その時その寺院のなかに仏教の守護神としての第六天魔王が祀ってあり、夫婦はその魔王にも祈ったと噂されていた。
どちらが先に生まれたのか、当時は風習として後から生まれた子を姉や兄としていたのだがとにかく、姉を呉葉(くれは)妹を黄葉(きのは)とされて育てられた。
いずれも劣らぬ利発な子で、四歳の頃より読み書きをはじめ、七歳の頃には普通の漢文ならすらすらと読めるようになっていた。
ただ、姉の呉葉は疳が強く、すぐに怒り出したり、自分が妹より何にでも先に進まないと気が済まない性質を持っていたが、黄葉は至っておとなしく穏やかで、そして感傷的な子だった。
双子の様子に、口さがない人は「第六天魔王の申し子だもの、あらゆる学問などできて当たり前だ」などと噂を流す。
噂など気にも留めず二人は学問を究める。
両親の知識も相当なものだったが、時として都から官吏が視察にやってきて、ここに滞在するときにも彼ら官吏に教えを請い、また官吏たちのほうでも「会津の郡司宅に面白いほど学問を吸収する双子がある」と評判になり、二人見たさに遠路を来るものまで現れた。
普通の学問では飽き足らず、音楽、医術、陰陽、兵学などまで学んでいく。
特に姉の呉葉は、自分がやがて京に行くのだと決めていたようで、都の様々な様子なども官吏たちから聞き出す。
妹の黄葉のほうは、兵学や都のことなどには興味は示さず、姉がそういう話に耳を傾けているときは家の外で作物を見ていたり、噴煙を上げる磐梯山を飽きることなく見ていたりするのだった。
二人の様々な学びの中で、特に共通して琴は面白かったようで、やがて双子は琴の名手としても知られるようになる。
夕方の頃、館のなかから香しい琴の音が広がり、農作業を終えた人々はしばしその音色に佇むのだった。
この流れの中で悪しき噂はやがて地面深く沈んでいくが、それが消えることはなかった。
長じても二人の違いは変わらず、多少は我儘なところのある姉と、いつも姉の下に居ても自分の歩みの速度を崩さない妹という対照的な部分が目立つようになってきた。
二人が思春期を迎えた頃、地元の豪農であり村長である家の長男、源吉がこの双子を好いているという噂が立った。
双子は美しく、また素晴らしい教養や琴の名手であるという評判だが、村の中では親である伴笹丸夫婦に釣り合う家庭は一軒しかなかった。
それが源吉の家、村長の家である。
源吉はいわばガキ大将で、粗野なところが多く、あまり村人からは良く思われていなかった。
「黄葉(きのは)、どうする・・源吉さんのこと」
姉の呉葉が困ったなぁという表情で妹に訊く。
「姉様、吾は、源吉さん、悪い人には見えないけれど」
「それなら、黄葉が源吉さんのお嫁さんになりなさいよ」
「いいわよ、あそこに輿入れしたらずっと会津にいられそう」
「そう? 吾はこんな田舎でいるつもりはないの、京へいって華やかに生きたい」
呉葉はそう言って笑う。
源吉にも双子のうち、ひとりは自分に人懐こく近寄ってくるが、もう一人は自分を見下げるような眼をしてみていることは気が付いていた。
だが、親が申し入れたのは「双子のうち、どちらかを嫁にもらい受けたい」だった。
あの、きつそうな姉はわれには合わぬ・・そう思っていたが、彼はその姉の方が自分のところに来ないことを秘かに祈るのだった。
そのころ、都から陸奥守の使いとして平惟茂一行が立ち寄った。
酒宴での給仕役には双子も出されたが、居並ぶ武士たちはいずれも美しい双子に感嘆した。
「会津の女子(おなご)は美しい人が多いと聞いて参ったが、聞きしに勝る美しさ」
主賓である平惟茂は、周囲の者たちに語った。
姉の呉葉は、特に武士たちに気軽に話しかけ、話題の中心になっていく。
姉様、あんなところがあるのだ・・普段は人懐っこい黄葉であるのに、この夜はあまり気乗りがしなかった。
都の武士たちが好きになれなかったのかもしれない。
長旅のせめてもの癒しにと、父笹丸は双子に琴を奏するように命じる。
二人の奏ずる琴は、客たちを黙らせた。
呉葉が前に出て主旋律を、黄葉が後ろで副旋律を、息の合った演奏は人々を感嘆させ、涙を流すものもいる。
「陸奥に来てかように美しい琴の調べを聞くとは、思いもよらぬことであった・・」
平惟茂は感極まった様子で笹丸に語り掛けた。
翌朝、井戸で水を汲もうと黄葉が庭先に出ると、縁のところに水の入った桶が置かれている。
彼女は不審に思い、辺りを見回す。
ふっと、小さな声と息遣いが聞こえる。
「もしや、姉様・・」
彼女は近くの部屋に近づいた。
明らかに男女の交会と思われる荒い息と、声がはっきりと聞こえた。
声はまぎれもなく呉葉のものである。
黄葉は気付かれぬようにそっとその場を離れ、桶をもって土間に向かう、
「そこまでしなくても・・」
穢れたものを見てしまったような気がした。
「姉様、何を考えているの?」心で問いかける。
「今、忙しいの」姉からの伝心に呆れる妹であった。
その後、黄葉は源吉の妻となることとなり、簡単な婚礼が行われた。
呉葉はその席でも美しく華やかで人目を引くが、黄葉には、姉は自分が京に行ける嬉しさを隠せないようにみえていた。
その夜、源吉との閨で黄葉は、抱きしめられながら彼に囁いた。
「吾は、あなたにしか抱かれたくはありませぬ」
一瞬、源吉は不思議そうに黄葉を見つめている。
数か月後、伴笹丸、菊世夫妻と呉葉は、僅かの供を連れ会津を旅立っていった。
磐梯山が良く見える初夏の日だった。
「もう、両親にも姉にも会うこともないのかもしれない」
黄葉の独り言に源吉は支えるように言う。
「さすけねえ・・・」
旅立つ人々が視界から消え、黄葉は源吉に抱きついて泣いた。
両親からの便りは、初めは月に一度はあった。
京で店を開いたこと、両親と姉も名を変えたこと、笹丸は伍輔、菊世は花田、そして呉葉は文字を紅葉と変えたという。
店がたいそう繁盛しているようだ。
だが、その便りになんとなく不安を感じている黄葉ではある。
姉からの伝心には「すごく楽しいわよ」と・・有頂天の中に危うさを感じるのは学問を取得してきた双子にはごく一般的な知識ではないのか。
やがて、姉は源家に出入りするようになり、そのあと、将軍の側室になった。
両親からの便りはここで来なくなり、姉の伝心も届かない。
暫くして姉からの伝心に「助けて」と来ている気がした。
「なぜ?」
だが、姉は泣いているだけでそれ以上の心を送っては来ない。
黄葉のお腹には第一子が宿っていた。
この子の健やかな出生と、姉はじめ家族の無事を磐梯山に祈る。
彼女にできることはそれだけだった。
父が亡くなったことは伝心で知ったが、そのわけがわからない。
最初は泣いてばかりいた姉が、少し落ち着いた心を送ってくるようになった。
やがて村に噂が流れて、その噂を源吉が拾ってきた。
呉葉は京で鬼になって、それが叡山の僧侶に看破され、信濃へ流されたと・・
鬼?
なぜあの姉が鬼?
あれから十幾年、黄葉は三人の子供をつれ、寺院での葬儀に参列していた。
外では雪が降っていた。
姉が亡くなった日は知っている。
あれは十月二十五日だった。
「さようなら、黄葉、心配かけたね」
「姉様、会津へ帰ってぎでくんちぇ」
心で叫ぶその瞬間、姉との伝心が切れた。
なぜ、なぜ亡くなったの・・
一度、十年少し前に平惟茂が突然、視察と称してやってきて、姉への手紙を託したことがある。
その時、惟茂は「われが必ず、姉様を会津に帰らせるように話をしてみます」と言ったではないか。
そういえば、姉の最後の伝心に惟茂の影が見えた気がする。
口さがない人は「呉葉は第六天魔王の申し子ゆえ、鬼であることが見破られて首にされたのだ」と噂しているのも知っている。
だが、自分、黄葉への同様の悪口(あっく)は夫、源吉が許さない。
それに黄葉は村の人たちに信任されていた。
気候をよく読み、作物の植え付けを間違いなく指示し、医術の心得もあり村では唯一の医師としての働きもしていた。
忙しい家事、農事、子育ての合間にふっと鳴らす琴の音が村人たちの大きな癒しにもなっていた。
姉様・・黄葉はふっと足を止める。
粉雪の舞う空を見上げるが、磐梯山は見えない、冬が来るのだ。
「かんじるべ、うちに入ろべ」夫源吉が三人の子供の手を引いて声をかけてくれる。
「さすけねえ」と黄葉にいう。
なにがさすけねえだ、そう思ったが、確かにこれ以上の悪いことなどありようもないと思い直して黄葉は子供たちの後を追って家に入った。
呉葉(紅葉)の塚は磐梯山の良く見える平原に建てられたという。
だが、首を秘匿して届けてくれた平惟茂の気持ちを察し、村が中央政府や国府に対して翻意をもたぬ証として、そこに名は刻まれなかったという。
註・・会津弁「さすけね」・・差しさわりがない、大丈夫だ。
「かんじる」・・寒い。
「鬼無里(きなさ)の姫 紅葉狩伝説異聞」 1・・https://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/e/024431232941a5be703d9203156ae500
「鬼無里(きなさ)の姫 紅葉狩伝説異聞」 2・・https://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/e/54632ee9e6a7ffc512a9edc8ddf51ef6