お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

文字の余白と、絵の空間(お絵描き雑記)

2021-05-02 17:36:34 | 雑記
画塾へ通っていたことがありました。
モチーフを見て描く、いわゆるデッサンにおいて、「誰も合ってはいないのではないか」と直感として感じる若さと同時に「自分もさらに正しくない」という閉塞感を、人生の半分を生きた今でも一人で楽しんで描いています。
知人に画塾のことを言うと「思い出したくもない」と言われるのですが、私にとっては財産です。
「全員が間違っているのではないか」という不安を払拭するために、「見えるがままに描いたらどうなるのか」ということをやってみて、毎回ざわつかせていました。自然主義ではなく写実主義でよかったので、私だけを抜いた周囲の話し合いというものが、何を目指していたのかは想像できませんが、「描き方として(取り入れても)よいのか」という共通理解の場だったのかもしれません。
「仕事の絵」ということも考慮に入れる場だったので、コミュニケーションというものが大学に入っても重要視され、個人的な私の会話によるコミュニケーション不足というものが、他の人の目に余る酷さだったことは申し訳なく思ったりしています。
推論になってしまいますが、会話によるコミュニケーションから絵と対話するとき、なんらかの共通の美術用語を用いていることは理解しています。
美術用語ならばなんとかなるのですが、こと「似顔絵」に関しては全く分かりません。似顔絵教室の講師の立場でも「見え方」を鍛えてもらおうとするのですが、人との会話、あるいは対話になってしまうので「描き方を早く教えて下さい」ということになりがちです。
似て描く、似てるように思わせる、嫌なことですが他の絵を似ていないように感じさせるなど、「似ている」と思ってもらう方法論はほぼ無限にありますし、似せるだけが似顔絵でもないと考えています。
似顔絵主義なるものがあるとするなら、私は蚊帳の外ですし似ていないとなると思います。それが平面の比率、文字の「余白」のようなものであるものを多く見受けますが、私のそれは「空間」であり、絵や文字のうしろをまわりこむようなものです。文字が先か絵が先かという、鶏が先かたまごが先かの論争もあるので答えはないはずですが、答えがある人にとっては、特殊な興味深い似顔絵として分化していっているのであると思うと、様々な似顔絵が今後も広がっていくかのようで、嬉しくなってきます。
似顔絵講師になろうとしたとき「似顔絵にデッサン力は必要なのか、不要なのか」という問いに、戦線離脱と言われることを恐れずに、その問題をあえて関わらずに方向性を見せるならば、「習うのではなく、学んでほしい」と考えています。
それは、私は絵を習ったことはなく、学んできたからです。
その方向性からですと、デッサン力は必要ないはずですが、デッサン力に代わる絵の中でも問題の打開が、日々の生活によってできるようになっているはずなのです。
ここでまた「アート」へ戻ると、その打開策が近道であった場合、似顔絵では面白い絵ですみますが、アートでは分かりきっていても歩かねばならないかもしれません。
「アーティストは全く理解できていない」と指摘するデザイン側の方がいらっしゃいましたが、理解していることでも、分からないつもりで描いています。
それは社交ダンスで、スローフォックストロットのステップをしているのに、ブルースを口ずさんで踊るような、モニタリングしている人を欺くダンスのような絵、それは空間以外を描いているのに余白を以外を書いているような作品、つまり描いていない作品なのかもしれません。