お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

「どーでもよくない」と言わされそう(似顔絵)

2021-04-28 18:29:35 | ・お笑い、落語
だいたひかる似顔絵画像

個人的な話です。
どーでもいい歌を作ったりしきて、「大人な歌を歌え」と笑われてきましたが、「歌うな」ということになりました。
「大事な問題を描いてほしい」というコメントも頂くようになりましたが、どーでもいい歌を歌って、大事なことの絵は、「余白として」少しは描けたかもしれません。



難しくなってきた「それ以外で浮き彫り画法」(似顔絵)

2021-04-28 17:39:20 | ・お笑い、落語


その問題以外を描いてきましたが、賛成反対に関わらず、上から塗りつぶされそうです。
マチエル(質感)の描き方が分からずに長い間ずっと描いてきましたが、上から塗りつぶされることによって、私自身の作品群がマチエルになっていくのかもしれません。残念です。

於竹さん(アクリル画)

2021-04-26 14:34:50 | アクリルガッシュアート


於竹さんをアクリルで描きました。

「お竹さんを描いてもらうのが夢なんです」と物語ってくださった方とお会いしたのですが、その方の似顔絵を面相で描くので精一杯でした。

「夢は…」「夢とは…」「夢という字は…」などなど色々な仮説や定義などがあるのかもしれませんが、叶わないときが一番幸いなこともあるのかもしれないと思いました。

補足:また、意地悪な人を生み出しかねない言い回しになってしまいました。嘘つきと言わせて一人にさせる意図は全くありません。
カッコの「さん」は、その方たちだけが愛着を持って使える呼称で、私に描いてほしかったのはさんづけできないものです。添付したアクリル画は、人としての「お竹」を、人間の絵として描く、所謂似顔絵と同じ方向性の作品です。

さらに補足:最初の「さん」は厳密には失礼なので、敬称略と毎回書かねばならないのかもしれませんが、さんづけして載せてしまっています。
これでも伝わないのなら、「なでその方のさんづけは失礼に当たらないのですか?」という問いがでてくるのかもしれませんが、そうであるなら、「山のような方でした」と理解していただければと思います。

もし、文章の難点に焦点をあてたいのでしたら、私は「理解しても描けない」「描けたものを理解しようとするのが、批評家」という、深くはない考えをもっていますので、「理解できない文だ」の無理解の「文」を略して批評したときに、嘲笑が起こる危険性があるで、「簡略的に書けない人だ」つまり「馬鹿だ」としたほうが適切に思えます。さらにあえて言えば、当たり前ですが、勝手に簡略化したとき文章の責任はいっさい負いません。

また冗長な口語になってしまいました。


同じ波形の拡大解釈(医療検査の雑記)

2021-04-26 06:24:59 | 雑記
幼少期、毎年恒例の心電図の検査があり、同じ波形が続いて正常になることを夢見ていた。
検査の紙は絵巻物のようにどんどんとその長さが増していくが、同じ波形にならない。
その頃から、おそらく遠い目をしていたのかもしれない。

疲れやすい体質というより、自分で言うのもなんですがよく生きていると言った感じの時の遠足の返りに、疲労から何かの発作のようになり、担任から
「そんなことになることはあり得ない」
と放置されたり。
親が教員なので、ここで死んだら、その先生は、私の件では大丈夫だろうけど、別件で困ってしまうから強引に、死なない方法を考えねばと、余計なことを考えたり。
誰も救ってもらえることがない状態で、アスファルトが柔らかくてあたたかく感じたり、日が射してきて、全体が白くなって輝きだしたときに、「誰も救ってくれないのではなく、すでに救ってもらえていたのだ」という感覚を持てるようになり、いつの日からか、苦しみも喜びに感じられるようになりました。

中学のときには、運動部に入ってジャンプシュートばかりしていました。
親は「フレスコなどの壁画も描ける体力を」ということもあったと思います。
友だちからはキャプテン翼のキャラの
「みすぎくんみたい」
と、「美化しすぎた誇張での笑いの描写」で「試合に長時間、出なくてもよい人だ」ということを伝えてくれて、救ってくれました。

私の作品等を批判して、
私に「落ち込んでもらって、あるいは恐怖を与えて描けなくさせる」
という意図が組み来れる出来事が続いているのですが、死にかけると、人ではない何かに救われた感覚になってしまうので、余計「描くしかない」となってしまいます。手首や指の握力はほとんどないですが、関節を軽くはずしてから戻すということで、見る人が穏やかになれるような線がひけています。
これから、「描けなくなる」という意味が経済的にということになると思いますが、他の仕事ができる腕力ではないので、横になりながら描き、奇跡的に体調がよければ起きて描く、足で描いたアーティストもいたわけで、まださほど大変ではない自分の現状で、「楽しく」という言葉が適切かはわかりませんが、描けています。

話は戻って心電図の波形ですが、一つとして同じ短い波がないかわりに、毎回「同じ波はない」という長い波が、『同じように』続いているのだと拡大解釈し、動いていないわけではないし、よいのではないかと、ポジティブではないですが、ハタから見ると生きていることを楽しんでいる雰囲気になっているかもしれません。

人の批評と絵の批評(絵の雑記)

2021-04-25 17:52:15 | 雑記
「Nが横だとZ。Z世代の姿勢が心配」
このような無意識的複合体を意識化たらしめて言語化することを「傷つける」と言うのかもしれません。
私の文字言語ではない絵を、言語化して批評して頂くのはもちろん自由であり光栄なのですが、私を傷つけるためだけに、私の絵を用いて批評すると、その意図は全くないのですが、まわりの方々が大笑いし、それが私に対してだったらよいのかもしれませんが、批評した本人への嘲笑になってしまっている場合もあるやもしれません。

そんな特異な景色を想像してしまうのは、作品を「私の子供」と比喩する方を知っているためだと思います。

描いているときは、絵が私自身であるか、私の子供であるか、ただの作品であるのかが大事なのではなく、描きたいことや描かねばならないことがあるからです。

この根本的な問題点の原因は、特定の集団に属する場合において、共通の価値観を共有して批評をしているはずが、そうならない希有なことがあり得るためだと思われます。
憶測で進むので「あり得ない」で切って頂いてかまわないのですが、(いつも入り口で「ただの駄洒落だ」で出られるようにしています)その例外を発生させないために、言語的価値観の定義、具体的には「よい似顔絵とは?」のようなものを予め決めていることがあるとするなら、それがまた成立しないで、笑いになってしまうことが想像できます。
「全く評価されないようにした」ということが、「いいね」などのSNS評価ボタンから分かりますが、私が習ったのではなく、学んできた美術史と似ている人々が「ボタンを押さないことにしてはいるが、評価せざるを得ない」ということがあるのだと理解できます。
そういう人々は、私を「バカだねー」笑うと思いますが、「バカにしている」のではなく、苦笑かもしれません。それは賢くないのではなく、賢明ではないという意味かもしれません。

特定のデザインでは「冗長を悪」とする見解が、考えることなしに行われていて、もの作りをする意図が無いもののために、考える必要がないように指導されています。

この冗長な口語文を、そろそろ現実的ではなく、仮定のない現実として戻すことにします、

「お馬鹿」な文章でごめんなさい。

アナログというアプリ(手描き人の雑記)

2021-04-24 08:17:46 | 雑記
「デジタルか、リアルか」というTVメディアから発信される二択の問いかけ。
それは、第三の選択「アナログ」という方向性へ向かわせるのではなく、用語を言わせようとしているだけなのではなかろうか?
一般人は、アナログと言うと手書きだと思って、その言葉を使ってしまう。
アナログもデジタル概念の枠内の一つの用語。

「定規を使いたい」と言いたかったところが、「定規アプリを使いたい」ということになりかねない危機感を感じている。
結論として、人は定規が使えなくなるが、それを訴えたとしても、デジタル側の言い分としては、「定規が使えない人のためのアプリ」という大義名分がある。

私は定規なしには生活ができない。それを電気定規にしょうとする人々は多いだろう。
それを否定はしないが、オンラインであるなら、無法遅滞に思える。
町内会のルールを作るように取り決めても、地球の裏側にいる人、あるいはAIであるから、防ぐことは難しい。
そこで想像だが、「積極的防衛主義」に従わざるを得なかったプログラマーは、「他の人の定規を先に壊さないと、自分たちが使えなくなる」となってしまうのではないか。
ちょっと休みたい。

オフろライン。

お風呂が視覚的にオンラインではなく、オフラインであることを信じたい。