古里の暮らしの中で

私の住んでいる地域の文化を紹介する

乳がんの手遅れ

2020-08-17 11:45:54 | 乳がん
ふたいとこの奥さんが乳がんの為、60歳で亡くなりました。
ふたいとこと言っても、最近は実家に行ったとき偶然に顔を見るだけで
何十年接点がありませんでした。

私にとっては、「母のいとこの家の別居はしているけど長男の奥さん」になるので
叔母と叔父を乗せて母のいとこの家へ悔やみに行きました。

とにかく医者嫌いで検診などは行っていなかったとか。
2年前に何かおかしい、と言っておられたらしいのにそのままだったらしく
入院して10日で亡くなられたとか。
3か所に転移していたとかでダメだった、と言われるけど
転移していたとしても10日とは、と驚きました。

あれだけ乳がん検診に行って! と言っていたのは何だったんでしょう。
改めてパソコン教室の皆さんに呼びかけました。
でも行かない人はあれだけ言ってもまだ行かれてないのです。

私は検診を受けてはいたけど、検診では発見されずに自分でおかしいと思って病院に行きました。
あれから12年、いろいろ大変だったけどまだ生かされています。

今年の健診については次回に。

くやしい気持ち

2016-02-04 00:02:14 | 乳がん
知人の二人が、乳がんにかかった。

私の周りから乳がんの手遅れを出さないで!(初期で発見してという意味)と
願っていたし、その発信をしていたつもりだった。

二人とも自分で見つけられたし、手術も乳房温存手術が出来たのは良かった。

だが一人はがんの性質が悪く、出来れば抗がん剤治療を受けた方がいいそうなのだが
他の病気を持っているため、抗がん剤治療は受けないという決断をされた。

もう一人は念のため、抗がん剤治療を受ける決断をされた。

どちらにしても私は、無関心ではいられない。
私のウイッグが間に合いそうで、少しでもお役に立てることは私の気持ちも少しだけ安らぐ。

私はどちらの方と話をしても、自分に重ね合わせ涙が出てしまう。
「何で私が」という悔しい気持ちがとてもよくわかるから。

夫はその二人のどちらもが、「癌になっても、とても前向きだ」と、褒める。

私たちが話しながら、悔し涙が瞳にあふれたことは絶対夫には話さない!

7年2か月

2015-07-29 09:21:48 | 乳がん
乳がん手術から7年2か月、今回、年一度の大きい検査に合格しました。

何度も経験していながら、この検査日前は心が揺れます。
結果が悪くて再発ということになれば生活が一変すると思うから、
今受けている仕事をどうしようかとか、家の片づけをどこから手をつけようかとか、
漠然とながらいろいろ考えてしまいます。

血液検査(がんマーカー)、マンモグラフィー・エコー検査(残った片方のお乳への転移)
ペット検査(全身への転移)等々を終わり、
最後に主治医の診察で、触診や検査結果のお話があります。

「7年2か月ですね」と主治医に言われ、私もうなづきました。
女性ホルモンを絶つ薬もやめてだいぶ経つので、その薬に付随していて飲んでいた薬も
今回いただくのを最後にやめることになりました。
少しづつ、少しづつではあるけれど、生活が変わってくるのを感じます。

友達に今日のことを連絡したら、早速お祝いにお菓子を持ってきてくださいました。

米子のお茶屋さんが出しておられる「お抹茶ロールケーキ・吉の白(きちのしろ)」です。

もっと痩せなければ、と決心したばかりでしたが
痩せるのは明日から、と言い訳しつつ、それでも普通に切る厚さの半分の厚さにして
おいしくいただきました。








小学校の同窓会が終わって

2014-09-12 10:56:30 | 乳がん
8月17日小学校の同窓会があった。

小学校の同窓会は26年前に1度開かれたそうだが、私は出席していないため
この度半世紀ぶりに会った方が何人もあった。

この同窓会では「ちゃん」で呼ぶ方もたくさんいて、出席率も良く楽しい会だった。
人口統計のとおり亡くなった方は、男が7名、女性は0だった。

同窓会から2週間余りたってから、出席していた友人から電話があった。

同窓会が始まる前、私は隣に座った方がご主人が介護5の状態になり、
自分もその心労から病気になってしまったと一生懸命話されるので、その話を聞いていた。

電話をかけてきたのは向かいの席にいた方で、私たちが話してる途中で、おっぱいが痛くて、と
私に話しかけたのに、なんか私があんまり関心を示さなかったと言われた。
私も少しはそのことを覚えていたけれど、別に気にもしていなかった。

その方はおっぱいが痛くなって、私が乳がんになったと聞いていたので、
私にいろいろ聞きたかったらしい。

なかなか病院に行く決心がつかなくて、同窓会が終わったら行こうと思っていたそうだ。
それでやっと病院に行ったら、どうも乳がんの可能性が高い、と言われ
これからもっといろいろの検査をするけれど、なんともいえず不安で私に電話をしてきたのだそうだ。

私が6年前に手術をしたと話したら、自分は2.3年前の最近のことだと聞いていた、
だから同窓会で私の髪がたくさんあったので、ちょっと意外に感じていたと話された。
私は自分の経験をいろいろ話して長電話を終えた。

それ以降何も連絡がないので、私も経験上あんまり黙っているのもどうかと思い、
電話してみた。
そうしたら、偶然に明日、家族の方と一緒に来てくださいと言われているのことで
もう覚悟はできている、とのことだった。

私は覚悟はできているのと、実際に乳がんと告げられてからの心情は、
覚悟していたものとは違うとは思ったが、
それは本人が経験するより外ないと思ったので黙っていた。

あれからもう2週間。
電話をしてあげるのがいいのか、そっとしておいてその方からの連絡を待つのが良いのか
私の心は揺れている。




ささやかなお祝い

2014-02-16 22:57:14 | 乳がん
乳がんの再発予防の為飲んでいた「アリミデックス錠1mg朝1錠」が終わった。

この薬は5年間飲めば、再発を予防する効果があることはわかっているそうだ。
しかし、5年以上飲んで効果があるかどうかはまだわかっていないそうで、
骨粗しょう症等の副作用を考えると、5年でやめた方が無難との主治医の考えだ。

飲み始めることになった時も同じことを聞いたのだが、
その時は5年たてば研究も進んでいるだろうと思ったのに、結果は同じだった。

不安もあるけれど、考えてもしょうがない。
この日は、私だけのささやかなお祝い。
   
苺のショートケーキと百合、ガーベラのお花。

「私よ、よく頑張った」と自分で自分をほめて、ひとりコーヒーで乾杯!

小さな幸せ

2013-08-08 09:08:11 | 乳がん
今年5月、乳がん手術から丸5年を迎えた。

主治医が「5年になりましたね」と感慨深げにおっしゃった。
私は「はい、有難うございます」とは言ったものの、
1年ごとの詳しい検査の時期が少しづつ、ずれていて、
5年目の今年の検査はまだだったので、心から喜べる心境ではなかった。

その検査が先日あり、画像を見る限り”再発は認めない”とのこと。
本当にほっとした。
再発もなく、元気で5年生存できたことはありがたいと思わなくてはならない。

主治医に「少しホッとしました」と言ったら
「この病気は5年でホッとしたらいけません、まだまだ頑張ってください」と言われた。

丸3年たった時、「次は5年を目指します」と言ったら
主治医は「もっともっと先を目指してください」とおっしゃった。

私の5年生存が統計の確率を少し上げるかも・・・・・
でも、いつも思うのだけど、再発率、生存率と言っても自分にとっては0が100しかない。

がんになってから初めての同窓会の時、誰にも言わなかったけれど
これがみんなに会える最後かも、と思っていた。
それから2年後の同窓会の時も、そう思った。
次回はどうなんだろう。
でも、次回出ることを考えているということは、きっと自分は大丈夫と思っているということかな。

5年の歳月は、徐々に以前の怠惰な平凡な生活に戻しつつある。
やりたいことをやっておく、という気負った感じがいつの間にか薄くなっている。
でもそれが幸せなことではないのかなー。

先日、親戚の者のがんがわかり、夫がその家族にお見舞いの電話をしていた。
「本人が一番つらいけれど、家族も大変だろう」と。

私のつらさをちっともわかってくれない感じの夫に、いつも内心苛立っている私だが、
それなりに夫もつらさを隠しているんだ。
本当は私もそれをわかっているのだが、少しは心配している様を見せてもいい、と
思うのは私のわがままかな。



ミニ同窓会(がんのこと)

2013-08-07 04:12:33 | 乳がん
地元の女性の同窓生が時々集まっておしゃべりする。

5月にそのメンバーの中の息子さんが、33歳の若さでがんで亡くなられた。
すっかり気落ちした最近の彼女の様子を聞いて、
初盆で忙しくなられる前に集まろう、ということになった。

当日、「今日は彼女を慰める会だから、彼女の話をしっかり聞いてあげんといけんで」という人がいて
私はあえて「そんな意識をせずに、普通に会話すればいい」と言った。

何時も必ず出るのは、体育教師から受けた「しごき」のこと。
今回は私が美術の教師から受けた「理不尽な扱い」の話をして、
「その時、クラスの全員が私を笑った、ここにいるアンタ達もだ」と言ったので
「そんな記憶が全くない」と盛り上がった。

笑いの中にも、また自然に彼女の息子さんの話になり、
彼女はもちろん、皆が涙を浮かべて話を聞いた。

私は自身が乳がんで入院していた時、若い男の子が帽子をかぶって
脱毛をみせないようにしているのを見ると、息子でなく自分でよかったと何度思ったことか。

彼女の息子さんは、がんがわかった時には余命1か月とお医者さんから本人に言われたそうだ。
息子さんはその帰り道、母親の職場に訪ねてきて、それを告げたとか。
結局、5か月ほどもちこたえた感じで、すべきことをしておいて亡くなられた様子だった。
3歳と1歳の子をこれから育てていく嫁を助けてやらないと、と話しておられた。

いくら話を聞いても、結局は自分が経験しないとそのつらさ、やるせなさは分からないと思う。
帰り際、彼女が「今日は良かったわ」と言って笑顔をみせてくれたので、救われる思いがした。

それにしても私がこのメンバーにあれだけ言っている、乳がん検診にまだ行っていない人がいる。
集まったメンバーの中で行くようになったのは2人だけ。
私が乳がんだということをあえてみんなに公表してまで、検診に行くように
口を酸っぱくして言っているのに、行かない言い訳ばかり。

私の場合は、検診にはきちんと行っていたのに、結果的に早期発見ではなかった。
でも、それでも言いたい。
これを読んだ方、検診に行ってください。奥様にも検診に行くよう言ってください、と。


ささやかながら、ピンクリボン運動

2013-03-27 00:05:45 | 乳がん
パソコン初心者教室は原則在籍は1年間として募集した。
従って3月で一応お別れということになる。

私も乳がんの手術をしてもうすぐ丸5年を迎える。
お医者さんにホルモン療法ももうすぐ終わると告げられた。

私の心も以前とは変わってきた。
今から思えば乳がんが分かってから気負っていたような気もする。
「なったものはしょうがない、それよりほかの方に早く発見するよう勧めなくては」と。
だから、言う必要はない場面でも積極的に皆さんにお話しするようにしていた。

でも今の私は、知らない人にはいまさら言いたくもない気持ちが湧いてきている。
お正月、こんな気持ちではだめだなー初心に帰らないと、と思っていた。

初心者教室で年齢の話になって、私がウイッグを被っているためか若く見えるという話に
なった時、今だ と思い、話し始めた。
たいていの方はうすうすご存知の方もあるけれど、改めて「検診に行ってください。
ここにおられる方や、周りの方から乳がんの手遅れの方を出さないようにしてください」と話した。

女性方には私の偽物のをおっぱいを取り出して、廻して触ってもらった。
思ったより重い、と思われたようだ。

男性の方には、「奥さんのおっぱいを検診のためにも触ってください」と思い切ったことを
言ってしまった。
それでも看護師さんがいてくださって、「それで見つかる方も多いそうですよ」と
フォローしてくださったのは助かった。

5年の歳月はますます、私をおばさんにしたようだ。
だって、男性にまでピンクリボン運動をしたのは初めてだったから。 


まどろみの中

2012-07-08 04:27:45 | 乳がん
昨夜、寝たのは遅かったのに早朝、雨の音で目覚めた。
私の冷たい足を、夫の暖かい足にからませ、まどろむ。

仕事をしていた頃の、目覚まし時計で地獄の底から引きずりあげられるような感覚の
あのつらい朝と違い、雨の音を聞きながらまどろむ幸せ。

先ごろ来られた知人は、「余命宣告」についての疑問を語られた。
2,3日奥さんの体調が悪かったけれど疲れだろうと言っているうち、目が黄色くなってきた。
驚いて病院に行ったら1週間かけて検査があった。
検査結果をすべて聞きたいか、と尋ねられ「はい」と答えたら、検査結果とともに伝えられたのは
余命6か月というものだった。

思いもかけない「余命宣告」で夫婦二人とも這い上がれないほど落ち込んだ。
あれは必要だったんだろうか、と今でも思うとおっしゃった。
余命6か月と言われたが、結局1年4か月で亡くなられたそうだ。

免疫療法とか、ビタミンCの大量投与とか600万円近くの金を使ったが、
「がんが治るというのはうそですよ、一時的に気持ちが前を向くだけでしたよ」と。

「藁にもすがる思いというのはわかる気がします」と私も話す。
お墓の相談もしていたと言われるのには驚いて、「そんな会話ができたのですか」とたずねたら、
「体調のいい時や、免疫療法が効いてもしかしたら直るかも と
希望を持った時はお墓の話もできたんですよ」とのこと。

奥様との約束通り遠距離を月に2回、お墓参りに来ておられるようだ。


いつかは迎えねばならないこの時。
がんになった者が聞く場合と、まだなったことがない者が聞くのとは違うだろうな・・・などと
その方との会話を、思い出しながらまどろんでいる私・・・でした。







「ああ3年」その後

2011-05-28 06:38:51 | 乳がん
お礼を言いたかった3人には早々に報告した。

私を病院に連れて行ったりしてくれた人は、自分も手首を骨折して運転できない時、
私に乗せて行ってもらったので、お互い様だと言われた。
そういえばそんなこともあったかなと思った。
私は「人にしたことは忘れ、人にしてもらったことは忘れない」ように心掛けているため、
(その割にはよく忘れるが)そういわれるまで気がつかなかった。

すいかを持ってきてくれた人は、「今年はうちは小玉のスイカをつくっちょうけん、また持ってきてあげる」と言われた。
ところがあくる日、こんな時期に大きいままのスイカ1個を持ってこられてこちらはびっくり。
「あんたが元気になってくれてほんとうにうれしい、これは私からの祝いの気持ちだけん」と言われた。

看護士さんは「よく頑張ったね、でもお礼を言われるようなことをした記憶はないけど」と言われた。
以前、私が張りつめた気持ちで迎えている検査日を、主人が忘れていたことを話したことがあった。
「それはあなたの甘えだ」とはっきりおっしゃった。あれから私はしゃんとした。
どんな結果が出ようと自分自身が受け止めないといけない、と当たり前のことを自覚した。

それ以来、3か月ごとの検査はもちろん1年に一度の大きい検査でも一人で行き、一人で結果を聞いてくる。
夫がもし、こんな検査を受けるんだったら私はきっとついていくだろうな・・・と思いながら。

私が前回のブログで、再発していたら誰にも言わず一人で闘うつもりだった、
と書いたのを見た方があなたは強い人だと思った、と言われた。
でもあれは検査の良い結果が出てから書いたものだから、そう書けたのかもしれない。
ただ、検査前はそう思っていたことは確かだ。
最近はパソコンのことで病院のある市まで出かけることも多くなったので、
その中で月2回位通院が増えても夫は多分気が付かないだろうから、などどと考えていた。
案外、悪い結果だったら夫の胸でシクシクと泣いていたりしたかもね。(これはさすがにないとは思うけど)

夫は喜んでいるとは思うけれど、それがこちらに伝わってこない。
友達と「この年代の男は表現が下手だがー」と共感しあった。

3年前の今ごろ、カナダ旅行を計画していた。思いつくのが遅く、いいなと思うコースはもう締切になっていた。
それでもなんとかこのコースでと決めて旅行社に頼もうとしていた矢先、検査を受けることになった。
検査結果を見てから申込金を払うから、と延ばしていたが最悪の結果になり中止した。

あれから3年、3年後の検査結果がでたら、これを復活しようと思う元気が湧いてきた。
元気なうちに行ける所へは行っておかなければという気持ちもある。
まずパンフレットを取り寄せて、っとなんだか忙しくなりそうだぞ。