古里の暮らしの中で

私の住んでいる地域の文化を紹介する

死んだ振り返上

2010-08-29 21:01:20 | Weblog
先日、パソコンの勉強会で自己紹介と他己紹介というお話と実践があった。
二人一組になり、片方のAが3分間でもう一方のBに自己紹介する。
Bは2分間でAにそのことについて掘り下げた質問をする。
そして、Bは2分間Aさんの紹介の言葉を考えた後、
1分間で皆さんにAさんの紹介をするというものだった。

私はじゃんけんでAになったのだが、3分間は思いのほか長く感じた。
急なことなので、思っている言葉が出なくて困った。
でもBさんは上手に私の紹介をしてくださった。
その中で、私は趣味は「笹巻きと障子張り」と言った。

今日も猛暑の中、町内のウオーキングで夫は出かけてしまった。
寝坊した私はおいてきぼりにされ、お日様も上がってしまっていまさら外へは出られない。
「そうだ、同じ冷房をつけて家の中にいるなら、障子張りをしよう。」
先日のことが頭に残っていた私は、とても言い考えを思いついたものだと我ながら感心した。
どうせ9月の半ばからは取り掛かろうと思っていたことだし、
幸い我が家は家の向きがいいのか、夏は直射日光が差し込まない。

ところがいざ障子を眺めてみると、紙は比較的きれいに見えるし破れた所もない。
せっかく良い思い付きだったのに、心が揺れ始めた。
でも以前、自転車で日本縦断されたお話を聞いた中で「旅は1歩を踏み出しさえすれば終わったも同然」
というのを思い出し、思い切って障子紙をぬらした。
もうこれで後には引けない。午前中でひと部屋の半分の障子、大小あわせて4枚を貼った。
やはり思いついてよかった。きれいだと思っていた障子紙も新しいものと並べるととても見られたものでない。
新しい紙を張った障子の気持ちの良いことといったら最高の気分だ。

ウオーキングから帰ってきた夫にこの障子を見てもらったら、「新しい方もいいけど
この古いほうの紙のセピア色もなかなか好い」、などと素直でない。
「新しいのはいけんの?」というと「『草色々おのおの花の手から哉』という芭蕉の句にあるように、
それぞれにいいということだ」と理屈を並べる。

もう、自分で自分を褒めるしかない。
作業の途中で偶然、我が家にやってきた私の友人は、「それはだんなさんの照れ隠しだよ」と言う。
午後は、もう半分を張ってしまって今日のところはひとまず一部屋完了。

だけどこの間のように、この頃の暑さで「昼間は死んだ振り」なんてもう言わせないぞ!

地蔵盆

2010-08-25 21:22:06 | 地域の行事

今年も8月21日集会所で、お地蔵さんのお祭りがあった。
近くのお墓から、小さい方のお地蔵さんを初の盆の家が集会所へお連れする。
近年は子供が少なくなり、今年はとうとう1軒だけで子供3人だった。
各家々からお供えを持ち、集会所までお地蔵さんを拝みに行く。
私は毎年きな粉のお団子をお供えすることにしている。
お昼には初盆の家が、子どもたちにカレーライスを振舞う。
昨年からは、希望者だけ集まっておとなたちが夜、1杯飲む会も始まった。

昔は、お墓のお堂におられる大きい石のお地蔵さんをおろすのが数人掛りの大ごとだった。
今は、小さいお地蔵さんが作られたが、それでもやはり石。女性では無理だ。

我が家の子供が小学生だった頃は、200円位のお金を各家を回って集め、
そのお金でアイスを買ったりラーメンを食べたり、お供えのお菓子を食べたり、全くの子供たちの自主行事だった。
その中で、子供たちはお金の計算をしたり、お供えをいただいた家の入れ物を覚えておいて、
いただいたお供えを少しずつ分けて入れ、お礼と共にお返しをしに歩いた。
上の子が下の子の面倒をみたり、夜は近くのお墓へ肝試しをしたりして
本当に自由に、しかしいろいろな世間勉強をする行事でもあった。

今年の夏はことのほか暑く、丁度私がお参りしたときは水遊びの後で洋服がぬれて、裸ん坊だった。
この後、母親が着替えを持ってこられた。
わざとお地蔵様の後に隠れたり、元気のいいショウカラ子たちだ。
この子達の後に続く子供が今この町内におらず、先行きが危ぶまれる行事である。

その為におとなが夜、納涼会のような形で1杯飲むことになったのだが、
今年の参加者は全体の半分以下だったそうだ。
少子化と高齢化が確実に現実のものとなってきている。




猛暑の夏

2010-08-22 22:45:29 | Weblog
今年の夏は、どこへ行っても誰に出会っても「暑い、暑い」の毎日だ。
暑いので近頃は、夜に歩いている。
雨でも降れば休めると思うのに、全然降らない。
先日は少し疲れていたので遠くまでいくことはやめて、いつでも止められる様に家の周りを何周も歩いていた。
いつもは歩かない国道の歩道のアスファルトの割れ目から、雑草が長く伸びていて足に絡まる。
少し抜いてみたら、思ったより簡単にたくさん抜けたのでおもしろくなった。
そこでうちの畑沿いのところだけと決めて、草抜きを始めた。
もうそろそろ止めようと思っていたとき夫の声がした。「なんだ、おまえか。今となりの家から
お宅の畑のところに不審なライトと人影が見えるが、と電話がかかった」という。
家に帰って時計を見たら、8時半近くになっていた。
すぐとなりへ電話して私だったことを話し、お詫びを言うと向うも恐縮しておられる。

夫いわく、「おまえはこの頃、昼間死んだ振りをしていて、夜に要らんことをしている」
この頃の昼間の私は確かに死んだ振り状態。
本当に夫はうまく表現して見せた。1本とられた。

中逮夜(なかだんや)

2010-08-14 12:59:02 | 地域の行事
昨夜は町内で亡くなられた方の、なかだんやの念仏があった。
「なかたいや」と言うのが本当かもしれないが、訛っているのかこう言っている。
亡くなられた日を入れて数えて4日目に町内のものが集まり、お宅にお邪魔し念仏を唱える。
原則として各家1000円のご仏前をお供えして拝んだ後、念仏が始まる。
同じ市内でも地域によって発声や節回しがかなり違うが、どうも旧村は同じ調子らしい。
姑はこの「念仏をあげる」ことを、「ねぶつをおもす」と言っていた。

私達の町内では、
先立ち(せんだち)の方が、「なむあみだんぶつ、なむあみだんぶつ、なむあみだー」
と鉦をならしながら唱えると、その後を全員で唱和する。
これを1回として、13回を3回繰り返す。
先立ちの隣にはもう1人座り、マッチ棒や数珠などで数を数えていて先立ちに知らせる。
私の町内では昔からこの二人の役は男性がするということになっているようだ。

今回は、同じ班の家だったので夫が先立ちをすることになった。
以前、中だんやは私ばかり出かけていたが、最近は夫が拝みに行くようになり、回数を重ねるうち、
だいぶ節回しもさまになってきた。
私が「予習してみて」と言ったら、夫も心配だったのか食卓の皿をわりばしでたたいて練習を始めた。
節回しは良かったが、鉦をたたくところに私が注文を出した。《ほんとにうるさい奥さんだ》
最近は、「なむあみだんぶつ」の 「な、あ、だ、ぶ 」で鉦をたたく人が多いが、昔は「あ、ぶ」で鉦をたたいた。
4回もたたくと仏さんを追い立てるみたいだが、2回だと仏さんがゆっくり、ゆっくり遠ざかっていかれる感じがする。

念仏が終わるとお茶やお菓子をよばれて、生菓子の3個~5個入りの包みをいただいて帰る。
「どうだった」との問に夫は、「少しテンポが速かったかな」と言っていた。
鉦は初めはうまく行っていたそうだが、2回目の時に出だしを間違えたら
そのまま直すことが出来ずに終わってしまったとのこと。
まだまだ修行はこれからだ。

葬家にとっては、この中だんやが終わるとほっと一段落になる。
病院の付き添い、通夜、密葬、葬式、7日法事、札打ち、中だんやと、悲しんでいる暇がないほど
つぎつぎ、することがある。
またお寺によって違うが、逮夜ごとに寺参りをする場合もあれば、お寺から拝みに来られる寺もある。

49日の法要、お彼岸、初盆、みかわり(1周忌の法要)、3年の法要(まる2年の法事)と毎年、行事が続く。
人ひとりが亡くなるということは、悲しみだけでは終わらない。
ただ、こんな行事があるたび、人はその悲しみを少しづつ癒していくのかもしれない。





盆前の用事

2010-08-09 10:07:35 | 地域の行事
いよいよお盆が近づいてきた。
7日8日は土日だったので、初盆のお宅へお供えを持ってに行く。
最近は金封が多いが、線香、素麺、砂糖箱などをお供えしたりする。

昔は新聞社が初盆の家の一覧表を配っていたので、亡くなられたことを知らなかったりした時、
香典に代えてご仏前としてお供えすることができた。
今はそれがなくなったので、いつも新聞のお悔やみ欄には特に注意がいるようになった。

私の住んでいる地区は、初盆を迎えるお宅には、町内の者は13日の午後お供えを持って拝みに行き、
親戚は14日に拝みに行くようになっている。

12日までにお寺に、お中元を持っていくのにあわせ、位牌堂の掃除をしてお供えをして帰る。
13日にはお寺から拝みに来られるので布施の用意をしておく。

11日か12日には山へはなの木を取りに行ったり、庭の花を切って盆の花を準備する。
それで足りない花は、盆の花市やスーパーなどで購入する。

12日には床の間に祭壇を作り、仏壇から位牌を出して御祀りし提灯や花を飾る。

お盆にお客のある家では、今盛んに布団が干されている。
ぼつぼつ、都会から来たらしい子供の賑やかな声も聞こえるようになった。

お盆はもうすぐ。心なしか気持ちが浮き立つ今日この頃である。

みんなのおかげで

2010-08-03 20:31:10 | 乳がん
先日のこと、同じ日に同じ言葉を2度聞いた。「みんなのおかげで」と。

以前、事情があって金に困っていた友人が、悪いことは重なるもので
ご主人が病気になり、その上息子まで入院する事態が起った。
ようやく、その状態から抜け出すことができたようで、
その日、訪ねた私に友人は「みんなのおかげで」今、生きていると言った。

同じ日の夜、運動がてら私が訪ねた知り合いは何年前からかわからないほど長期間、うつ病で引きこもっている。

「寂しい」と言いながら「人に会いたくない」と言っておられ、じゃあどうすればいいんだろうと思い、
うつ病から回復した私の同級生の友人に聞いてみた。
そうしたら、時々声を掛けてくれるのがいい と教えてくれた。

そうだ、がんになった当時の私の心境と同じだ と思った。
「どうですか、どうですか」とうるさいのもいやだが、「どう声をかけていいかわからない」と
結局何の声もかけてくれなかった友人には、寂しさも感じたことを思い出した。
それからは、何かのついでがあって家の前を通るときは、訪ねて行き、出て来られなかったら
「また覗くからね」と言って帰り、出てこられたら簡単な世間話をして帰るようにした。

その夜の知り合いは、見違えるほど良くなって、何年ぶりに笑顔を見せてくださった。
その方が「みんなのおかげで」ようやく元気になったと言われ、本当にうれしかった。
「お互いに無理をしないようにしようね」とその家をあとにした。

帰り道、いろいろ思った。
私も「みんなのおかげで」と思っていることがたくさんある。

抗がん剤治療の副作用で何も食べられず、すいかばかり口にしていた。
店頭からすいかが消えた頃、すいかを作っている友人に電話したら「もっと早く言えばいいのに」と言って
大きな美味しいすいかを送ってくれた。
近所の奥さんは、「あそこの家の畑にほったらかしにしてあるすいかがあるから」とその家に行って
私のためにすいかをもらってきてくださった。

近所の仲良しは、「主人が貴女に元気をだしてほしいといってこと付けたよ。よその女の人にこんなことをするなんて
初めてのことだし心配だわ」と笑いながら、梅をレンゲの蜂蜜に漬けた瓶を届けてくださった。
今年はレンゲの蜂蜜がなくて、ようやく手に入れられたものだったと聞いた。

まだまだ、思い出せばいろいろある。
「みんなのおかげで」その日、私はそれを声に出して言ってみた。
あらためて私もその思いを強くした一日だった。