先日に引き続き、本日も地元でもほとんど知られていないマイナーな館跡について書きます。
今日は、石原氏館跡です。
石原氏というのは、埼玉県大里郡石原村、つまり現在の熊谷市石原地区を根拠地にしていた中世豪族です。
『吾妻鏡』に登場し、武蔵の国の治水施設の修復工事で奉行を命じられています。
『吾妻鏡』に登場するくらいなのですから、地元でも名前が知られていていいはずなのですが、
現実には、ほぼ無名。地元の古老でも知る人は希です。
館跡についてもつまびらかではありません。ただ、秩父街道沿いの宿と呼ばれる地域が石原村の中心で
あったため、石原の宿に近接する楊井憲春の居館跡である兵部裏屋敷(しょうぶらやしき)、
城和泉守昌茂の屋敷跡である御蔵場(おくらば)が元石原氏の居館跡だったとする説もありました。
わたしも成田氏の開削した成田用水の取水口に祀った赤城神社周辺にあったのではないかと考えていたのですが
結局、有力な根拠を得られませんでした。
そこで、熊谷市の教育委員会に話を伺いに行ったところ、江南町にある埋蔵文化財センターに連絡を取っていただいて、
城和泉守昌茂の開基した東漸寺の墓地付近が館跡、同じく熊谷市内にある松巌寺付近が石原氏陣屋跡であったと
される旨のご教示をいただきました。
そこで、今回は石原氏館跡の方を見てみたいと思います。調査日は2020年01月14日です。
東漸寺は、前述の楊井憲晴春館跡の北、徒歩でも5分かからない近場にあります。
この地域は坪井と呼ばれる地域で、その名の通り湧水があり、その豊かな水を背景に古くから農業が発展した地域です。
この一帯には石原古墳群という小円墳を主体とする古墳群があることからも、豊かな生産力を誇っていたことが
わかります。
下の写真が東漸寺です。
西側に墓地があり、そこに館跡があるといいますが。
墓地に入るといきなり、大型の円墳があり、その墳丘上には歴代住職の墓があります。
おそらく、この円墳は館の一部を構成していたものと考えられます。
楊井憲春館跡も、複数の円墳を巧みに利用したものだったからです。
そう思っていると、墓地内に水路があるのを発見しました。
これは、水堀跡だと直感的に思いました。この堀跡は墓地の背後、北側に向かって伸びていました。
そこで、墓地を出て北側に回ってみました。
墓地の背後は区画整備された水田になっていますが、墓地に接する部分は不整形の水田が残存していました。
幅の広いカギ型に湾曲した水田で、これは平場の館跡でしばしば出くわす堀跡のパターンの一つです。
この南側の小高い荒れ地が館内ということになるでしょう。
では周囲を回ってみましょう。
堀跡とみられる水田や水堀は大変浅いものですが、館跡をぐるりと囲んでいるのがわかります。
墓地内にあった水路跡に続きます。
墓地回りも水路に囲まれています。
東漸寺内には入口の円墳のほかに2基、合計3基の円墳があるそうです。
墓地内について、上述の水路が残るだけですが、墓地北側にはかなり大きく館跡の遺構と思われる地形が残されており、
こういう館跡が好きな人は行って損のない館跡だと思いました。
次回は石原氏陣屋跡について書きたいと思います。
今日は、石原氏館跡です。
石原氏というのは、埼玉県大里郡石原村、つまり現在の熊谷市石原地区を根拠地にしていた中世豪族です。
『吾妻鏡』に登場し、武蔵の国の治水施設の修復工事で奉行を命じられています。
『吾妻鏡』に登場するくらいなのですから、地元でも名前が知られていていいはずなのですが、
現実には、ほぼ無名。地元の古老でも知る人は希です。
館跡についてもつまびらかではありません。ただ、秩父街道沿いの宿と呼ばれる地域が石原村の中心で
あったため、石原の宿に近接する楊井憲春の居館跡である兵部裏屋敷(しょうぶらやしき)、
城和泉守昌茂の屋敷跡である御蔵場(おくらば)が元石原氏の居館跡だったとする説もありました。
わたしも成田氏の開削した成田用水の取水口に祀った赤城神社周辺にあったのではないかと考えていたのですが
結局、有力な根拠を得られませんでした。
そこで、熊谷市の教育委員会に話を伺いに行ったところ、江南町にある埋蔵文化財センターに連絡を取っていただいて、
城和泉守昌茂の開基した東漸寺の墓地付近が館跡、同じく熊谷市内にある松巌寺付近が石原氏陣屋跡であったと
される旨のご教示をいただきました。
そこで、今回は石原氏館跡の方を見てみたいと思います。調査日は2020年01月14日です。
東漸寺は、前述の楊井憲晴春館跡の北、徒歩でも5分かからない近場にあります。
この地域は坪井と呼ばれる地域で、その名の通り湧水があり、その豊かな水を背景に古くから農業が発展した地域です。
この一帯には石原古墳群という小円墳を主体とする古墳群があることからも、豊かな生産力を誇っていたことが
わかります。
下の写真が東漸寺です。
西側に墓地があり、そこに館跡があるといいますが。
墓地に入るといきなり、大型の円墳があり、その墳丘上には歴代住職の墓があります。
おそらく、この円墳は館の一部を構成していたものと考えられます。
楊井憲春館跡も、複数の円墳を巧みに利用したものだったからです。
そう思っていると、墓地内に水路があるのを発見しました。
これは、水堀跡だと直感的に思いました。この堀跡は墓地の背後、北側に向かって伸びていました。
そこで、墓地を出て北側に回ってみました。
墓地の背後は区画整備された水田になっていますが、墓地に接する部分は不整形の水田が残存していました。
幅の広いカギ型に湾曲した水田で、これは平場の館跡でしばしば出くわす堀跡のパターンの一つです。
この南側の小高い荒れ地が館内ということになるでしょう。
では周囲を回ってみましょう。
堀跡とみられる水田や水堀は大変浅いものですが、館跡をぐるりと囲んでいるのがわかります。
墓地内にあった水路跡に続きます。
墓地回りも水路に囲まれています。
東漸寺内には入口の円墳のほかに2基、合計3基の円墳があるそうです。
墓地内について、上述の水路が残るだけですが、墓地北側にはかなり大きく館跡の遺構と思われる地形が残されており、
こういう館跡が好きな人は行って損のない館跡だと思いました。
次回は石原氏陣屋跡について書きたいと思います。
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