暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

伝、市田太郎館跡(旧大里村)

2020-02-16 11:41:51 | 城館跡探訪
今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。

山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。

そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡を

いくつか見つけ出して訪問してみました。

今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。

調査日は2020年01月19日です。

『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里村の口碑伝承をまとめた本があります。

同書によれば、旧大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、

そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。

まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在、旧大里村小泉地区にある「切れ所沼」の

堤防を挟んで反対側にあります。



上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によって荒川の濁流が掘りこんでできた

比較的新しい沼です。釣りの名場所として知られ、かつては現在よりも水深があり、

多くの湧水も見られたのですが、流れ込む水路の上流に川砂利産業が発展し、

長年、土砂が流れ込んだために、今ではかなり浅くなってしまいました。

この沼では夕刻、日が暮れかけると、大きな鯉が中央付近で大きくジャンプをしたのですが、

これが不気味で、トラウマになってしまったのか、子供のころにはしょっちゅう夢に現れたものでした。

この沼の堤防の反対側が三十間です。三十間は荒川の河川敷内を流れる河道痕の一つと思われる

細長い小川と、それに付随する湿地帯でしたが、昭和40年代初頭までに干上がってしまい、

現在は、かろうじて沼地だった時代をしのばせる低地が残されているのみです。

切れ所沼の堤防を登ると、河川敷に下りる道があります。

これは、荒川の久下渡船場に向かう「船場道」と呼ばれた道です。



この船場道を降りたすぐのところに、コンクリート製の橋が残っていますが、

この辺りから下手(東)が「三十間」です。





以前は魚もとれたそうで、雷魚が取れると寄生虫の危険を顧みず刺身で食べる人もいたそうです。

もちろん大方の人は、煮たり天婦羅にしていたそうです。

三十間の現況は下の写真のような状況です。



さて、この辺りには館の跡をしのばせるものは何もありませんが、上手(西)には小さな森があります。



ここは三十間の上流部にあたる場所です。

細い農道を歩いていきます。







この森の北側を見ると、かぎ型の堀状の構築物があります。

どうやらここが市田太郎館跡と伝承されている場所のようです。





多少ゴミが多いのが気になりますが、昨年の大雨で流れ着いたごみのようです。

正直、堤防にもゴミが多くて足場が悪かったです。





下の写真は、南側から見た館跡の写真です。





北側のカギ型の堀は三十間に流れ込む水路でもあったようです。その名残となっているのが、

館跡の東側にあるコンクリート製の橋です。





現在、市田太郎館跡といえば、対岸の熊谷市久下地区、久下橋のほぼ直下の堤内集落が

それとされ、現在も小高い集落地と周囲を囲むように水堀跡と思われる水路や水田が残されています。

『大里村かたり草』に収録された伝承は、これと真っ向から対立する異説なのかというと

必ずしもそうとはいえないようです。

かつては、この河川敷に屈戸村があったと伝えられていますが、元荒川の締め切り後、

荒川の氾濫が続いて、移村を余儀なくされたということです。

成田氏家臣団を記載した『成田分限帳』には、現在の屈戸地区に多い姓の武士数名が記載されており、

市田太郎がこの土地に館を持っていても不自然ではありません。

久下氏館跡が見る影もないほど土砂に埋もれてしまっているのに対して、

伝市田太郎館跡の現況が良く保存されているのは、久下氏館跡のある場所よりも

当地の方が、比較的高い段丘上にあり、久下氏館よりも水没の難を免れていたせいでしょう。


以上のように、今回は伝承にもとづいて、無名の館跡を訪ねてみました。

なお、ここでは、遺構と思われる構築物を可能な限り積極的に評価する方針で行っています。

遺構が無いことを証明するため、遺構を否定するために城館跡を訪ねることは非生産的ですし、

何より、城館跡訪問の妙味が失われてしまい、虚しさしか残らないですから。


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