本日は、北埼玉における上杉氏系城郭の一つで、家康の江戸入府後、松平康長の
居城でもあった東方城を紹介いたします。
北条氏の勢力伸長に伴い、勢力圏を北に移動させていた上杉氏にとって、
北埼玉(北武蔵)は失うことのできない橋頭保でした。
上杉氏の勢力は深谷辺りを最前線とし、深谷の増田地区を支配していた増田氏を
追い払って、地盤を固めていました。
東方城は増田地区や別府地区に近く、利根川氾濫原を見下ろす段丘上にあります。
最近は、大型幹線道路の整備地域に掛かっていますが、当時は、周囲を農地に囲まれていました。
この写真は、昭和59~60年夏頃の写真です。
当時は高校の帰りに城探しをするという高校生活を送っていました。
写真は、よせばいいのに夕方に東方城に行ったものです。
辺りが真っ暗なのがはっきりわかります。
仕方がないので、日を改めて、土曜日だったと思いますが、学校帰りに回り込みました。
土塁から曲輪内部を撮影したものですが、土塁が非常によく残っているのがわかります。
現在でも東方城の保存は比較的良好なようです。
松平康長が居住したのは短期間で、1590~1601年の間だけで、松平康長が移封後、
廃城になってしまいました。
写真が少ないのは残念でした。現状どうなっているのか、改めて訪ねてみたいと思います。
居城でもあった東方城を紹介いたします。
北条氏の勢力伸長に伴い、勢力圏を北に移動させていた上杉氏にとって、
北埼玉(北武蔵)は失うことのできない橋頭保でした。
上杉氏の勢力は深谷辺りを最前線とし、深谷の増田地区を支配していた増田氏を
追い払って、地盤を固めていました。
東方城は増田地区や別府地区に近く、利根川氾濫原を見下ろす段丘上にあります。
最近は、大型幹線道路の整備地域に掛かっていますが、当時は、周囲を農地に囲まれていました。
この写真は、昭和59~60年夏頃の写真です。
当時は高校の帰りに城探しをするという高校生活を送っていました。
写真は、よせばいいのに夕方に東方城に行ったものです。
辺りが真っ暗なのがはっきりわかります。
仕方がないので、日を改めて、土曜日だったと思いますが、学校帰りに回り込みました。
土塁から曲輪内部を撮影したものですが、土塁が非常によく残っているのがわかります。
現在でも東方城の保存は比較的良好なようです。
松平康長が居住したのは短期間で、1590~1601年の間だけで、松平康長が移封後、
廃城になってしまいました。
写真が少ないのは残念でした。現状どうなっているのか、改めて訪ねてみたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます