さて、久下氏館跡のイメージとしては、下の写真に一括できると思います。
即ち、手前の木の生えた荒地から、橋を挟んで向う側の篠やぶです。
これ等の土地は周囲よりも一段高く、相互の関連性があるように見えます。
さて、本日の課題の市田氏館跡ですが、これは、新久下橋をくぐって東側、堤防の集落側になります。
市田氏館跡は、素人目にもわかりやすいものでした。
写真は土手の上から見た市田氏館跡の遠景です。
ここは、久下氏館跡をご教示頂いた地元の方に、あわせて教えていただいた場所です。
城館跡巡りをしていると、些細な人造の土地改変等に敏感になります。
こうなると、何でも城館跡に見えてしまうものですが・・・・。
それにしても、この場所は、城館跡のにおいがします。
念のため、通りがかった年配の方に、再確認をしましたが、この方は久下氏館のことは少しご存じでしたが、
市田氏館跡についてはご存じありませんでした。
久下氏館跡についても、伝承には疑いを持っている御様子でした。
こういう実感は結構大事だと思います。
さて、市田氏館跡は微高地になっており、土手側を微高地沿いに水路が走っています。
土手下に降りての一枚です。
水堀遺構と思しき水路です。
これは、遺構の水路を利用したものと考えていいのではないかと思いました。
もちろん、その後の水利事業で若干の変更を受けている可能性はありますが、
それでも、遺構をなぞっているのではないかと思います。
市田氏館跡とされる微高地は東に長く続いています。
地形の変化に注意しながら、水路沿いに歩いていきます。下の写真左側の民家の塀を見ると、
ブロック塀下の土止めのコンクリートはかなり腰高になっており、多少の土入れを行った可能性はあるにせよ、
館跡地は、かなり土地が高かったと思われます。
いつの間にか、最初に館跡について教えてくださった地元の方が土手の上から私を見ていました。
少し心配だったのでしょうか?
水路は、微高地に沿うように進路を変えています。
夕陽を背に写真をとっているので、自分の影が映り込んでしまいます。
この辺りが、館跡の東端のようです。
水路まで歩いていき、微高地との段差を記録撮影します。
下の写真を見ると、水堀を埋め戻した痕跡があります。水路は、元々は、微高地にさらに寄った場所にあったようです。
次いで、東端の境界も確認します。
東端の境界には、かなりの大きな段差があるのがわかります。
それにしても土の盛り上がりは土塁でしょうか?
難しいですが、この辺りはあとで土を積んだ場所かもしれませんね。
以上のように、市田氏館の南側を巡検してみたわけです。
30年前、わたしが館跡として撮影したのは、今回の巡検で確認した館跡の東端だったようです。
あくまで推定ですが、市田氏館は南側の1辺が100メートル以上はあったようです。
もちろん館跡はこれより小さい可能性もあります。
館跡と思われる微高地も、周囲と30センチ~1メートルほど段差がありました。
土手に上がると、先ほどの男性が立っていて「市田氏館はあなたの写真撮影した通りの場所だよ。いい線行ってた」
と、褒めてくれました。
そこで、久下氏館跡についての追加情報を伺うことができました。
それについては、また、明日の記事で。
最後になりましたが、「こいしつ」とは、「しつこい」のバンドマン用語です。
即ち、手前の木の生えた荒地から、橋を挟んで向う側の篠やぶです。
これ等の土地は周囲よりも一段高く、相互の関連性があるように見えます。
さて、本日の課題の市田氏館跡ですが、これは、新久下橋をくぐって東側、堤防の集落側になります。
市田氏館跡は、素人目にもわかりやすいものでした。
写真は土手の上から見た市田氏館跡の遠景です。
ここは、久下氏館跡をご教示頂いた地元の方に、あわせて教えていただいた場所です。
城館跡巡りをしていると、些細な人造の土地改変等に敏感になります。
こうなると、何でも城館跡に見えてしまうものですが・・・・。
それにしても、この場所は、城館跡のにおいがします。
念のため、通りがかった年配の方に、再確認をしましたが、この方は久下氏館のことは少しご存じでしたが、
市田氏館跡についてはご存じありませんでした。
久下氏館跡についても、伝承には疑いを持っている御様子でした。
こういう実感は結構大事だと思います。
さて、市田氏館跡は微高地になっており、土手側を微高地沿いに水路が走っています。
土手下に降りての一枚です。
水堀遺構と思しき水路です。
これは、遺構の水路を利用したものと考えていいのではないかと思いました。
もちろん、その後の水利事業で若干の変更を受けている可能性はありますが、
それでも、遺構をなぞっているのではないかと思います。
市田氏館跡とされる微高地は東に長く続いています。
地形の変化に注意しながら、水路沿いに歩いていきます。下の写真左側の民家の塀を見ると、
ブロック塀下の土止めのコンクリートはかなり腰高になっており、多少の土入れを行った可能性はあるにせよ、
館跡地は、かなり土地が高かったと思われます。
いつの間にか、最初に館跡について教えてくださった地元の方が土手の上から私を見ていました。
少し心配だったのでしょうか?
水路は、微高地に沿うように進路を変えています。
夕陽を背に写真をとっているので、自分の影が映り込んでしまいます。
この辺りが、館跡の東端のようです。
水路まで歩いていき、微高地との段差を記録撮影します。
下の写真を見ると、水堀を埋め戻した痕跡があります。水路は、元々は、微高地にさらに寄った場所にあったようです。
次いで、東端の境界も確認します。
東端の境界には、かなりの大きな段差があるのがわかります。
それにしても土の盛り上がりは土塁でしょうか?
難しいですが、この辺りはあとで土を積んだ場所かもしれませんね。
以上のように、市田氏館の南側を巡検してみたわけです。
30年前、わたしが館跡として撮影したのは、今回の巡検で確認した館跡の東端だったようです。
あくまで推定ですが、市田氏館は南側の1辺が100メートル以上はあったようです。
もちろん館跡はこれより小さい可能性もあります。
館跡と思われる微高地も、周囲と30センチ~1メートルほど段差がありました。
土手に上がると、先ほどの男性が立っていて「市田氏館はあなたの写真撮影した通りの場所だよ。いい線行ってた」
と、褒めてくれました。
そこで、久下氏館跡についての追加情報を伺うことができました。
それについては、また、明日の記事で。
最後になりましたが、「こいしつ」とは、「しつこい」のバンドマン用語です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます