堤防上で待っていてくれた男性に、かねてから温めていた三島神社に関する質問をしてみました。
質問に答えてくださった男性を仮にAさんとしましょう。
以下は聞き取りの内容です。
私:外三島神社についてご存じですか?
A:外三島?
私:ええと、三島神社のことです。堤外にあるので外三島と呼ばれているそうです。
A:ああ、三島神社のこと・・。
私:どこにありましたか?
A:三島神社はその辺りにあったというね(伝久下氏館跡を指さす)
私:外三島はその辺りにあったのですか?
A:そういう話だね。大正10年頃に廃社にして、久下神社に統合した。
私:新川の三島神社は?
A:それはこの下のゴルフ練習場の近くにある。鳥居は半分以上も土に埋もれているけど。
私:久下氏館跡の三島神社は、今でも何か残っていますか?
A:何もない。全然ない。
私:内三島は?
A:うーん・・・。わたしは、内三島、外三島といわれるとよくわからないんだ。しかし、新川の三島神社が
あるのは知っている。久下神社が三島神社というなら、それは旧中山道沿いにあるね。
実はね、新久下橋を通すにあたって、発掘が行われたんだが、久下氏館跡からは何も出なかったんだよ。
私:何も出なかった?
A:そう。館跡も遺物も何にも出なかった。だから、あそこに館跡があったと言われても、怪しい気がするんだよな。
Aさんは、三島神社については誤認をしていらっしゃるのですが、久下氏館跡と(外)三島神社の関係を
セットの関係としてとらえている点、伝承される久下氏館跡を、怪しいと考えている点は重要なポイントです。
また、実際、久下氏館跡の発掘調査が行われたかについては記録がありません。
参考資料
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000048925
引用のレファレンス協同データベースによれば、2008年4月18日付作成事例で、「久下直光(クゲナオミツ)の館跡
(久下氏館・埼玉県熊谷市)の発掘調査が3年前くらいに行われたが、何も出てこなかったと聞いた。①いつ発掘が
行われたのか。②発掘の成果はどうだったのか。」
という質問があり、「久下地区では、発掘調査は行われていない。市田地区では、平成16年7月16日に発掘調査が
行われているが、埋蔵文化財の位置が住宅建設に影響するかしないかを確認する調査だった。影響しないことが
わかった時点で調査を終了したため、埋蔵文化財の詳細は不明。」との回答が記載されています。
それとも、久下氏館跡発掘と誤認させるような、あるいは有志による私的な発掘が行われたのか?
それは、わかりません。
熊谷市といえば、熊谷直実が有名なのですが、久下に限っては、久下氏に対する崇敬の念が篤く、
その崇敬の念が勢い、市田氏館跡の発掘調査を久下氏館跡の発掘として誤認させているのだと思います。
さて、わたしは新川の外三島神社に向いました。
外三島神社探訪は2度目になります。初訪問は1986~87年頃のことです。
当時はこんな様子でした。
砂に埋もれた鳥居が見えます。
1枚目の写真左のやぶは、旧新川集落の民家あとで、もとは質屋さんだったそうです。
さて、現在の、外三島神社周辺についてみたいと思います。
外三島神社は、久下小学校の向い側、荒川土手に向って斜めに入り、土手を超えてそのまま河川敷の
道を直進した、打ちっぱなしのゴルフ練習場の隣にあります。
境内には、ゴルフ練習場のプレイヤー席の後ろにある野良道を通らなければならないので、
一応、練習場の方に道の確認を兼ねて挨拶をします。
旧新川集落はすでに何もない廃村ですが、旧住民有志が清掃など、保存活動の手が入っています。
手製の見学案内看板に、じーんとしますね。
ゴルフ練習場の方も、気前よく通してくれます。
質屋さん跡の前を通過すると、外三島神社が見えてきます。
この日は、大雪のあとでかなり寒かったのですが、この風景を見た時には寒さが倍増した気がしました。
参道脇の陸田跡です。昔の写真で、麦が植えられていたところですね。
足元がぬかるんで、動きが取りにくいです。背後の神社の森も見えます。
前回来たよりも、大分、篠やぶが繁茂しています。鳥居をくぐるのは厳しそうなので、脇にできた踏み跡の参道に沿って、
境内に踏み入っていきます。
有志の外三島神社の解説板です。
解説板には、三島神社は2か所だったとあり、先ほどのA氏の伝久下氏館跡付近にあったとされる、
三島神社は無かったことがわかります。
解説板には、幼き日の熊谷次郎直実が叔父の直光のもとを訪ねた折、この神社の境内で遊んだと想像を膨らませています。
有志が管理しているとはいえ、境内の中の空気はずしりと重く冷たいです。
社も朽ちてボロボロです。ちょっと怖いですね。
境内中には、石碑、石塔が集められていました。
下の写真は、質屋跡を裏から撮影したものです。
外三島神社脇の陸田跡をもう一度撮影しました。
足元がよくなかったのですが外三島神社の背後の森にも接近してみます。
上の写真でもわかりますが、外三島神社及びその森は周囲よりもはっきりと盛り上がり、久下氏館跡の
もう一つの比定地としてもいいのではないかと思います。
むしろ神社との関係を踏まえれば、こちらの方が久下氏館跡にふさわしい気もします。
伝久下氏館跡が完全な誤伝だということではありませんが、市田氏館のように、久下氏館も
かなり大きな規模を持っていたのではないかと思います。
もっと細かな踏査をすれば、遺構と考えられる痕跡も見つかるのではないかと思います。
(つづく)
質問に答えてくださった男性を仮にAさんとしましょう。
以下は聞き取りの内容です。
私:外三島神社についてご存じですか?
A:外三島?
私:ええと、三島神社のことです。堤外にあるので外三島と呼ばれているそうです。
A:ああ、三島神社のこと・・。
私:どこにありましたか?
A:三島神社はその辺りにあったというね(伝久下氏館跡を指さす)
私:外三島はその辺りにあったのですか?
A:そういう話だね。大正10年頃に廃社にして、久下神社に統合した。
私:新川の三島神社は?
A:それはこの下のゴルフ練習場の近くにある。鳥居は半分以上も土に埋もれているけど。
私:久下氏館跡の三島神社は、今でも何か残っていますか?
A:何もない。全然ない。
私:内三島は?
A:うーん・・・。わたしは、内三島、外三島といわれるとよくわからないんだ。しかし、新川の三島神社が
あるのは知っている。久下神社が三島神社というなら、それは旧中山道沿いにあるね。
実はね、新久下橋を通すにあたって、発掘が行われたんだが、久下氏館跡からは何も出なかったんだよ。
私:何も出なかった?
A:そう。館跡も遺物も何にも出なかった。だから、あそこに館跡があったと言われても、怪しい気がするんだよな。
Aさんは、三島神社については誤認をしていらっしゃるのですが、久下氏館跡と(外)三島神社の関係を
セットの関係としてとらえている点、伝承される久下氏館跡を、怪しいと考えている点は重要なポイントです。
また、実際、久下氏館跡の発掘調査が行われたかについては記録がありません。
参考資料
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000048925
引用のレファレンス協同データベースによれば、2008年4月18日付作成事例で、「久下直光(クゲナオミツ)の館跡
(久下氏館・埼玉県熊谷市)の発掘調査が3年前くらいに行われたが、何も出てこなかったと聞いた。①いつ発掘が
行われたのか。②発掘の成果はどうだったのか。」
という質問があり、「久下地区では、発掘調査は行われていない。市田地区では、平成16年7月16日に発掘調査が
行われているが、埋蔵文化財の位置が住宅建設に影響するかしないかを確認する調査だった。影響しないことが
わかった時点で調査を終了したため、埋蔵文化財の詳細は不明。」との回答が記載されています。
それとも、久下氏館跡発掘と誤認させるような、あるいは有志による私的な発掘が行われたのか?
それは、わかりません。
熊谷市といえば、熊谷直実が有名なのですが、久下に限っては、久下氏に対する崇敬の念が篤く、
その崇敬の念が勢い、市田氏館跡の発掘調査を久下氏館跡の発掘として誤認させているのだと思います。
さて、わたしは新川の外三島神社に向いました。
外三島神社探訪は2度目になります。初訪問は1986~87年頃のことです。
当時はこんな様子でした。
砂に埋もれた鳥居が見えます。
1枚目の写真左のやぶは、旧新川集落の民家あとで、もとは質屋さんだったそうです。
さて、現在の、外三島神社周辺についてみたいと思います。
外三島神社は、久下小学校の向い側、荒川土手に向って斜めに入り、土手を超えてそのまま河川敷の
道を直進した、打ちっぱなしのゴルフ練習場の隣にあります。
境内には、ゴルフ練習場のプレイヤー席の後ろにある野良道を通らなければならないので、
一応、練習場の方に道の確認を兼ねて挨拶をします。
旧新川集落はすでに何もない廃村ですが、旧住民有志が清掃など、保存活動の手が入っています。
手製の見学案内看板に、じーんとしますね。
ゴルフ練習場の方も、気前よく通してくれます。
質屋さん跡の前を通過すると、外三島神社が見えてきます。
この日は、大雪のあとでかなり寒かったのですが、この風景を見た時には寒さが倍増した気がしました。
参道脇の陸田跡です。昔の写真で、麦が植えられていたところですね。
足元がぬかるんで、動きが取りにくいです。背後の神社の森も見えます。
前回来たよりも、大分、篠やぶが繁茂しています。鳥居をくぐるのは厳しそうなので、脇にできた踏み跡の参道に沿って、
境内に踏み入っていきます。
有志の外三島神社の解説板です。
解説板には、三島神社は2か所だったとあり、先ほどのA氏の伝久下氏館跡付近にあったとされる、
三島神社は無かったことがわかります。
解説板には、幼き日の熊谷次郎直実が叔父の直光のもとを訪ねた折、この神社の境内で遊んだと想像を膨らませています。
有志が管理しているとはいえ、境内の中の空気はずしりと重く冷たいです。
社も朽ちてボロボロです。ちょっと怖いですね。
境内中には、石碑、石塔が集められていました。
下の写真は、質屋跡を裏から撮影したものです。
外三島神社脇の陸田跡をもう一度撮影しました。
足元がよくなかったのですが外三島神社の背後の森にも接近してみます。
上の写真でもわかりますが、外三島神社及びその森は周囲よりもはっきりと盛り上がり、久下氏館跡の
もう一つの比定地としてもいいのではないかと思います。
むしろ神社との関係を踏まえれば、こちらの方が久下氏館跡にふさわしい気もします。
伝久下氏館跡が完全な誤伝だということではありませんが、市田氏館のように、久下氏館も
かなり大きな規模を持っていたのではないかと思います。
もっと細かな踏査をすれば、遺構と考えられる痕跡も見つかるのではないかと思います。
(つづく)
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