秀吉の「なまつ大事」
豊臣秀吉が文禄元年(1592)に着工した
初代の「伏見城」は現在の観月橋の近く。
当初は隠居屋敷程度でしたが、
朝鮮出兵後に講和の動きが進んだ中国・明の使節に
国威を見付ける為大掛りな築城となった。
水深が浅かった宇治川を築城物資の運搬に使うため、
巨椋池と川を分離する大工事も行なわれ、後に「太閤堤」と呼ばれた。
着工の6年程前に中部と近畿地方東部に掛けての
広範囲を襲った推定M8級の天正大地震があり、
秀吉は伏見城の耐震には念入りに配慮したようで、
家臣宛の手紙に「ふしミのふしん(普請)なまつ(鯰)大事」と記している。
「鯰」は地震の意味で、
古くから地下深くに住む巨大な鯰が地震を起こすと信じられていた。
その伏見城は
完成後の慶長元年(1596)7月13日未明に起きたM7級の
慶長伏見地震であえなく倒壊しました。
城内だけで仲居など500人以上が犠牲になったそうです。
天正地震と慶長伏見地震はともに活断層が動いた内陸型地震で、
慶長9年(1605)には南海トラフを震源地とするM8級海洋型地震も発生しています。
豊臣から徳川へ政権が移り替る歴史上の激動期は、日本列島も地震の活動期だった訳です。
遺跡発掘現場から地震の痕跡を確認し、遺物や文献と照し合わせ、
いつ・どんな地震が有ったのかを特定する
「地震考古学」が今注目されています。
独立行政法人・産業技術総合研究所の
「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)によると、
液状化現象では地下水に混じった細かい砂が
逃げ場を求めるように帯状に伸び、
地震当時の地層の上に噴出す痕跡が残ります。
慶長伏見地震による液状化の痕跡は、
八幡市の木津川河床遺跡や、
久御山町の佐山遺跡など山城地域でも確認されてる。
日本書紀に7世紀後半の南海地震の記述が有るように、
多くの巨大地震は文献の記述に残されています。
経済産業省の審議会が
東日本大震災とほぼ同一の震源地の
「貞観地震」(869年)の再来の可能性を指摘していたのに、
東京電力が福島第一原発などの対策を先送りしていたことが分かりました。・・
・・・・MMMMMMM?wwwwwww???・・・・
えっ・低レベルの汚染水を海に放出?????
魚や海産物は大丈夫なんだろうか????
豊臣秀吉が文禄元年(1592)に着工した
初代の「伏見城」は現在の観月橋の近く。
当初は隠居屋敷程度でしたが、
朝鮮出兵後に講和の動きが進んだ中国・明の使節に
国威を見付ける為大掛りな築城となった。
水深が浅かった宇治川を築城物資の運搬に使うため、
巨椋池と川を分離する大工事も行なわれ、後に「太閤堤」と呼ばれた。
着工の6年程前に中部と近畿地方東部に掛けての
広範囲を襲った推定M8級の天正大地震があり、
秀吉は伏見城の耐震には念入りに配慮したようで、
家臣宛の手紙に「ふしミのふしん(普請)なまつ(鯰)大事」と記している。
「鯰」は地震の意味で、
古くから地下深くに住む巨大な鯰が地震を起こすと信じられていた。
その伏見城は
完成後の慶長元年(1596)7月13日未明に起きたM7級の
慶長伏見地震であえなく倒壊しました。
城内だけで仲居など500人以上が犠牲になったそうです。
天正地震と慶長伏見地震はともに活断層が動いた内陸型地震で、
慶長9年(1605)には南海トラフを震源地とするM8級海洋型地震も発生しています。
豊臣から徳川へ政権が移り替る歴史上の激動期は、日本列島も地震の活動期だった訳です。
遺跡発掘現場から地震の痕跡を確認し、遺物や文献と照し合わせ、
いつ・どんな地震が有ったのかを特定する
「地震考古学」が今注目されています。
独立行政法人・産業技術総合研究所の
「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)によると、
液状化現象では地下水に混じった細かい砂が
逃げ場を求めるように帯状に伸び、
地震当時の地層の上に噴出す痕跡が残ります。
慶長伏見地震による液状化の痕跡は、
八幡市の木津川河床遺跡や、
久御山町の佐山遺跡など山城地域でも確認されてる。
日本書紀に7世紀後半の南海地震の記述が有るように、
多くの巨大地震は文献の記述に残されています。
経済産業省の審議会が
東日本大震災とほぼ同一の震源地の
「貞観地震」(869年)の再来の可能性を指摘していたのに、
東京電力が福島第一原発などの対策を先送りしていたことが分かりました。・・
・・・・MMMMMMM?wwwwwww???・・・・
えっ・低レベルの汚染水を海に放出?????
魚や海産物は大丈夫なんだろうか????