オヤジのひとり言

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祇園白川のさくら

2011年04月11日 | ボランティア
4/11

仕事中にちょっと寄り道して、祇園白川の桜を・パチッ

例年より華やかさが無くてぇ~、

プロやアマチュアカメラマンもチラホラでした。

おかげで至近距離で撮れました。ラッキィー


千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史
その9


聖徳太子と広隆寺

5世紀末、わが国へ渡来した秦氏は葛野郡・紀伊郡一帯を本拠としたが、

一族の信仰の中心として寺と神社が造られた、広隆寺と松尾大社です。

広隆寺は、京では屈指の古寺の一つで、推古30年(622)の創建とする。

山号は峰岡山。別に太秦寺、蜂岡山、川勝寺、泰公寺とも呼ばれています。

創建当初、この寺は現在地から北東数キロの地に在り、

現地には平安京遷都の時、或はそれ以前に移ったものとされています。

さてこの広隆寺、寺号は秦河勝の実名「広隆」にちなむものといわれ、

付近一帯に勢力を広げていた秦氏の首領・秦河勝による広隆寺創建の由来は興味深い。

河勝は、秦氏の中心的人物であると同時に、

朝廷とも関りのある人物として知られています。

『日本書紀』では河勝は、

推古18年(610)10月に新羅、任那の使者が拝朝した際は、

新羅使者の導者を努め、

また皇極三年(644)7月には、東国の不尽河(富士川)あたりで大生部多という者が、

蚕に似た虫を、富と長寿が得られる常世の神と称し、

民衆を惑わしていたのを、討ち凝らしたとされている。

その河勝が、推古11年(603)に聖徳太子から仏像を授かり、

その像を安置するために創建したのが「広隆寺」です。


ちょうど同じ年、聖徳太子は冠位十二階を制定し、

翌年には17か条憲法を作っています。

まさに聖徳太子の絶頂期にあたる。

「聖徳太子伝暦」では、

河勝が聖徳太子のために物部守屋討伐軍に加わり活躍したことや、

定められたばかりの冠位十二階では、

はじめ大仁、

のち小徳の位を与えられたことなどが見え、

聖徳太子と秦河勝の関係がうかがえる。

広隆寺が聖徳太子建立七大寺のひとつとされ

「太秦の太子堂」と称されるゆえんです。

こうした太子と河勝の関係は、

広隆寺の信仰にも現われていて、


広隆寺は古代、中世、近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰で知られています。

病気平癒を願う薬師信仰では、

安置された薬師如来の霊験を頼り、

平安時代の初めから貴族が群れを成して参詣あるいは参籠しました。


一方、
聖徳太子を神格化する太子信仰は、

特に鎌倉時代頃から高まりをみせ、

広隆寺はその中心寺院の一つとされていた。

太子像を安置した上宮王院(太子堂)や桂離宮の八角円堂が太子信仰のの中心となり、

広隆寺にちなんだ太子にまつわる種々の太子の伝承がうまれることとなりました。

続きは次回に・・・・