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横浜DeNA工藤監督が最有力か!??

2011年11月22日 | オヤジのひとり言

 横浜DeNA工藤監督が最有力!

 新生「横浜DeNAベイスターズ」の新監督の最有力候補に、

通算224勝左腕、工藤公康投手(48)が浮上していることが21日、明らかになった。

若く、明るい人材を求める新球団にぴったり合致。

また、理論的な投球やトレーニングで長く一線で活躍した経験は、

成長段階にあるチームにとって適任と判断された。

 球界参入について審議される今日22日の臨時実行委員会などの状況を見ながら、

工藤に就任を要請する見込みのようだと。  

新生ベイスターズのかじ取り役として、DeNAはフレッシュな人材に白羽の矢を立てた。

これまで、守安功社長は監督を人選する際の要素として「経験のある、なしは大きな要件ではありません。

若くて(チームを)引っ張っていける人にお願いしたい」などと話していた。  

工藤は指導者経験がないどころか、まだ現役投手。

昨オフに西武を退団し、今季はどこにも所属せずトレーニングを続けてきた。 

現役へのこだわりは強いものの、将来的には指導者を目指す気持ちも持っているという。

 DeNAから就任を要請されれば、指導者への道を歩み始める可能性もおおいにあるようだ。 

 論理的な投球フォームやトレーニングには定評がある。

さらには雅子夫人の力を借りて食事にもこだわり、47歳の昨年までプロのマウンドに上がり続けてきた。

存在そのものが、プロとしての手本だった。

指導者としての力量は未知数だが、DeNAが求める「チームを引っ張っていける」という素養を十分に持っている。 

 DeNAはTBSホールディングス(HD)との売買交渉を終え、4日に日本野球機構(NPB)へ加盟申請。 

この前後から水面下で新チーム作りに着手。

チーム編成の全権を握るゼネラルマネジャー(GM)として、日本ハムでGMを務めた高田繁氏(66)に要請する方針を決めた。

監督についても複数の候補(佐々木・新庄・古田等々)を挙げながら検討した結果、

工藤を最有力候補として今後の交渉に臨む方針を固めた。  

加盟承認に関しては、今日22日に都内ホテルで臨時実行委員会が開かれて協議される。

楽天などパ・リーグの球団から、参入に反対する声も出ており、同委員会は慎重に審議していくものとみられる。

DeNAはこうしたNPBの動きを見ながら、工藤へ就任を要請することが濃厚になりそうだ。  

工藤にとって、横浜は

3年間所属した古巣。西武、ダイエー、巨人、横浜と渡り歩き、計14度のリーグ優勝、計11度の日本一を経験したものの、

唯一、横浜だけ優勝できなかった。

監督就任を受諾した場合、現役選手としてできなかった「横浜を優勝させる」という目標に再び挑戦する。

4年連続の最下位に沈むチームの再建は、決して簡単ではない。

新生球団が、どこまでチームをバックアップできるか不安要素も大きい。

それでも「工藤なら…」と、期待を抱かせてくれる男ではある。 

*参考

 ◆工藤公康(くどう・きみやす)1963年(昭38)5月5日、愛知県生まれ。

名古屋電気(現愛工大名電)から81年ドラフト6位で西武入団。

87年正力松太郎賞。

93年に最優秀防御率と最高勝率を獲得しパ・リーグMVP。

94年オフにFAでダイエー移籍。

99年にダイエーを初優勝に導き2度目のMVP。

00年2度目のFAで巨人移籍。

07年に門倉のFA移籍による人的補償で横浜移籍。

10年には西武に復帰したが、1年で退団。

今年はどこにも所属せずトレーニングを続けてきた。

最優秀防御率4度、

最高勝率3度、

最多奪三振2度、

ベストナイン3度、

ゴールデングラブ賞3度。

左投げ左打ち。家族は夫人と2男3女。

 [2011年11月22日スポーツ紙 紙面から]

愛工大名電というばイチローの先輩、

古くは沖縄国体(昭和62年)で工藤を観た時、

高校生ながら凄いピッチャーだなあと思った事を思い出してしまいました。

 


草庵の茶や自然を屋内に取り込む立花

2011年11月22日 | オヤジのひとり言

 

11/22

  

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その弐百四拾五

 

立花と同じ時期に盛んになった茶の湯も、

 

座敷飾りの文化にも相当寄与しました。

 

最もこの場合の茶の湯は上流武家の間で流行した殿中茶湯で、

 

現在我々が親しみのある茶道とは随分違う。

 

現在につながる茶の湯は草庵の茶( 侘び茶 ですが、

 

これは殿中茶湯に遅れるものの15世紀後半にその兆しを見せ始め、

 

市中の山居 という言葉に代表されるように、

 

露地の奥に茶室を配置した草庵の茶がその表現をいっそう深化させていった。

 

室町中期以降、

 

都市の商工業民が新たな文化の担い手として登場してきたのですが、

 

彼らが居住した都心部は人口密集地で、

 

そうした場所ゆえに、

 

わずかな空閑地に野趣な自然を見出すような、

 

草庵の茶自然を屋内に取り込む立花が珍重されたのでしょう。

 

立花が下京の町衆が集まる六角堂で始められ、

 

そして発展していったと云うのも、

 

都心部に暮らす商工民の支えがあったからに違いないと思うのです。

 

 

今回はここまで・・   

 

続きは次回に・・    

 

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三基の神輿

2011年11月22日 | オヤジのひとり言

12/22

千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史 その弐百七拾参

 

710日、

鴨川で洗い清められた三基の神輿( 東御座・中御座・西御座 が、

 

17日、24日の両日、氏子区域を巡り、

 

再度鴨川で洗い清められる、「 神輿洗い 」と「 神幸祭 」・「 還幸祭 」です。

 

つまりこのこの 神輿渡御の一連の流れは、

 

鴨川で清められた神輿が祇園社の神を乗せて、

 

氏子地区を巡ることで神の力を人々にもたらし、

 

また逆に氏子地域の災厄( 疫神 )を巡る神輿に集められ、

 

そして鴨川で洗い流されるという儀式です。

 

この神輿の渡御範囲は、

 

八坂神社を東端に、

 

北は 二条通り、

 

南は 松原通り、

 

西は 千本通りまでと、

 

かなり広い地域に及んでいます。

 

渡御の経緯や範囲も、時代によって変遷が有り、

 

下京( 現在の中京・下京区 )の過半数を含んだ地域で、

 

祇園祭が町衆の祭りと言われる所以ともなっています。

 

 

今回はここまで・・   

続きは次回に・・    

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