7/7
千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その九拾弐
延暦寺 ・ 興福寺 から奪い取った「 祇園さん 」
門前には茶屋が並び、花街として公認の島原をしのぐ発展ぶり
四条通りの突き当たり赤い楼門が 八坂神社 の西門です。
通称祇園石段下
八坂神社について・・祭神は・?
現在の祭神は、
中間 -- 素戔嗚尊(スサノヲノミコト)
東間 -- 櫛稲田姫命(クシ(イ)ナダヒメノミコト)
西間 -- 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)
となっていますが、明治時代の神仏判然令以前は、
中の座 -- 牛頭天王(ゴズテンノウ)
東の座 -- 八王子(ハチオウジ)
西の座 -- 頗梨采女(ハリサイニョ)
とされていた。
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、
日本では素戔嗚尊と同神とされていた。
頗梨采女は牛頭天王の后神であることから
素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。
櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る
歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり
暦神としても信仰された。
八王子は牛頭天王の8人の王子であり、
暦神の八将神に比定された
また、
東間には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(ダドクケノカミ)が祭られている。
この神はヤマタノオロチが変化したものとも言われているが定かではない。
歴史
社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、
高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、
新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、
「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。他にも各種の記録がある。
貞観18年(876年)に僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、
その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した
延長4年(926年)、ある修行僧が祇園天神堂を建てた
承平4年(934年)に祇園感神院を建てたとあります。
八坂五重塔(明治43年)
創建については諸説あるが、
祭神は古くから牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)
であったことは確実なようです。
古くからある神社であるが、
延喜式神名帳には記されていない。
これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、
神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、
後の二十二社の一社にはなっており、
神社としても見られていたことがわかる。
平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、
朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、
貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。
祇園社は当初は興福寺の配下であったが、
10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。
1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、
朝廷権力からの「不入権」を承認された
1384年に足利義満は、
祇園社を比叡山から独立させた。だが、
それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、
以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、
現在に至っている
慶応4年(9月8日に明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。
現在の八坂神社は東側にしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、
地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。尚、
正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と
京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。
また東西南北四方から人の出入りが可能な為、
楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように
夜間でも参拝することが出来る
(防犯のため、監視カメラが設置され、
また、夜間でも有人の警備は行われている)。
祭事
1月1日-白朮祭(おけら参り)
2月2日~3日-節分祭
3月17日-祈年祭(大祭)
6月15日-例祭(大祭)
7月1日~31日-祇園祭
11月23日-新嘗祭(大祭)
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
施設としては
本殿
中御座(素戔嗚尊)
東御座(櫛稲田姫命) 御同座 神大市比売命・佐美良比売命
西御座(八柱御子神 -- 八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、
宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)
傍御座 稲田宮主須賀之八耳神
摂社は
疫神社(蘇民将来)
悪王子社(素戔嗚尊の荒魂)[5]
冠者殿社(天照大御神との誓約時の素戔嗚尊の御気)
末社は
北向蛭子社(事代主神)
大神宮(天照大神、豊受大神)
美御前社(多岐理比売命、多岐津比売命、市杵島比売命)
大国主社(大国主神、事代主神、少彦名命)
玉光稲荷社(宇迦之御魂神):
玉光稲荷社権殿の「命婦稲荷社」と二社で一体の御社とされている。
日吉社(大山咋神、大物主神)
刃物神社(天目一箇神)
厳島社(市杵島比売命)
太田社(猿田彦命、宇受女命)
大年社(大年社、巷社神)
十社 --
多賀社(伊邪那岐命)、
熊野社(伊邪那美命)、
白山社(白山比命)、
愛宕社(伊邪那美命、火産霊命)、
金峰社(金山彦命、磐長比売命)、
春日社(天児屋根命、武甕槌神、斎主神、比売神)、
香取社(経津主神)、
諏訪社(健御名方神)、
松尾社(大山咋命)、
阿蘇社(健磐龍神、阿蘇都比命、速甕玉命)
五社は --
八幡社(応神天皇)、
竈神社(奥津日子神、奥津比売神)、
風神社(天御柱命、国御柱命)、
天神社(少彦名命)、
水神社(高龗神、罔象女神)
御旅所(境外社)
大政所御旅所 四条御旅所:四条京極南側にあり
祇園祭の7月17日から24日に神輿三基が安置される。
三条御供社ごくうしゃ(又旅社):
三条通黒門にあり7月24日の還幸祭の折に神輿三基が安置される。
大政所御旅所旧跡:烏丸通仏光寺下ルにあり
7月15日に長刀鉾の長刀が収められ、翌16日に神剣拝戴の儀が行なわれる。
古くは「大政所御旅所」と
「少将井(しょうしょうのい)御旅所」があり、
前者には素戔嗚尊(大政所)と八王子が神幸し、
後者には櫛稲田姫命(少将井の宮、少将井天王)が神幸していたが、
1591年(天正19年)、
豊臣秀吉の命によって四条京極の御旅所に統合された。
大政所旧跡には小社が建てられ、
現在でも毎年7月16日には長刀鉾の神剣拝戴の儀式が行われ、
その周辺は大政所町といわれている。
少将井御旅所の旧跡には天王社が建てられたが、
1877年(明治10年)、
京都御苑の宗像神社境内に遷された。
現在では烏丸通竹屋町下ル付近に
少将井、車屋町通夷川に少将井御旅町の地名が残されている。
文化財
重要文化財(建造物)
楼門 明応6年(1497年)‐西楼門とも称する。
本殿の西方、四条通りの突き当たりに建つ。切妻造の楼門(2階建て門)。
本殿 承応3年(1654年)‐一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を
1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式になり、「祇園造」と言われる。
末社蛭子社社殿 正保3年(1646年)
石鳥居 正保3年‐本殿南側の正面入口に立つ。
重要文化財(美術工芸品)
木造狛犬
太刀 銘豊後国行平作 平安末期の豊後(大分県)の刀工・行平(ゆきひら)の作
太刀 3口 各銘出羽大掾藤原国路金具御大工躰阿弥 祇園社御太刀 承応三甲午年九月吉日 江戸時代の刀工・出羽大掾国路(でわだいじょうくにみち)の作
鉦鼓(長承三年銘)1口 附:鉦鼓(無銘)1口
紙本着色祇園社絵図
祇園執行日記 9冊 附 祇園社記等 59冊
八坂神社文書(2,205通)89巻、40冊、1帖、1通
算額 元禄四年(1691年)長谷川鄰完奉納 絵馬堂にて復元額を展示
文献
八坂神社編 『八坂神社 改訂新版』 学生社、平成9年(1997年)
八坂神社 というのは、
明治時代になってからの社名で、
本来は「 祇園感神院 」
あるいは「 祇園社 」というのが歴史的な名前です。
祇園という語は、
仏教に縁のある言葉なので、
明治の神仏分離の政策によって、
古来この地が「 八坂郷 」と呼ばれていたことにより、
この名が付けられた。
けれども京の人には、
以前の通り「 祇園社 」
あるいは親しみを込めて「 祇園さん 」で通っている。
四条通りには西面に面していて馴染みがあるが、
社殿 は南に面していて、
ほんとうは 南楼門が正面 になる。
本殿 は室町時代の建築で、
仏殿 の形式も併せ持っていて、
重要文化財にも指定されています。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
電話かFAXで、メールでお気軽に・・
E-mail Kyoto-ee@gaia.eonet.ne.jp
URL kyoto-estate.com
ここを・ ・・ ポチット・・・・クリックして下さい。

↓ ↓ ↓
京都南部の不動産は京都エステートへご相談ください。
只今Athome Webより、より詳しい最新情報が見られます。
オールジャパンで頑張ろう!! 東日本にエールを・・
必ずや立ち上がってくれると・信じてる。
5年10年掛かるかも知れないけれど・
ずっと・ずっと・応援してる・
みんなでがんばろう!! 日本