歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




甲州街道を府中宿から日野宿へ向けて歩く旅、2回目です。

【高安寺】


府中宿の西端、番場宿を出てすぐ高安寺です。
そもそも、ここは平将門を討伐した藤原秀郷の館跡と伝わっています。
その後、見性寺というお寺が建てられましたが、戦乱により荒廃したらしく、南北朝時代に足利尊氏が再興しました。高安寺の「高」は尊氏の旧名・高氏からとったのだそうです。

【高安寺・山門】


総門を入って右に折れると、びっくり!巨大な山門が現れます。
この山門、1872(明治5)年の建立だとか。街道からはまったく見えなかった(予想もしていなかった)ので、突然に目に飛び込んできたときには、
おおー、でかいぜ!!
と、思わず驚嘆の声をあげてしまう、そんな感じです。

【高安寺・山門の奪衣婆】


山門の正面では仁王像がこちらを睨みつけていますが、裏側にはなんと、奪衣婆。

【高安寺・本堂】


尊氏は、国の平安を願って全国に安国寺を建立しました。武蔵国の安国寺が、ここ高安寺で、正式には龍門山高安護国禅寺といいました。
尊氏が再興した時は臨済宗でしたが、江戸時代初期に曹洞宗にあらためたそうです。

【高安寺・鐘楼】


1858(安政5)年に改鋳された鐘楼は、幕府公許の「時の鐘」でした。現在も朝5時、昼11時半、夕方5時の1日3回、鐘が鳴るそうです。

【秀郷稲荷】


平安時代、藤原秀郷がこの地に館を構えたといわれています。
本堂の裏手にまわると、秀郷稲荷がこじんまりとたたずんでいます。江戸名所図会にも、
「境内坤の方にあり。いま稲荷明神に勧請す。この地は秀郷の宅地の旧跡なるによれり」
と記されています。

【藤原秀郷】


俵藤太の別名でも知られる藤原秀郷。
平将門を討ち取ったのが彼。で、祖先の因果は子孫に廻る。江戸時代、秀郷の子孫の旗本・佐野家では、将門を祀った神田明神への参詣はもちろん、社前を通ることさえ禁じていたそうです。逆に、神田明神の氏子は、将門調伏を行った成田山への参詣をしなかったとか。
とすると、将門びいきが多かった(…と勝手に想像してみた)江戸っ子にとって、ここ高安寺も微妙な位置づけだったのでしょうか…。

【弁慶硯の井】


秀郷稲荷の脇をさらに奥に進むと、弁慶硯の井があります。
頼朝の逆鱗に触れて京都を追われた義経・弁慶主従が、ここで赦免を祈願して大般若経を筆写した際に、この井戸の水を使ったのだとか。


秀郷稲荷から弁慶硯の井あたりにかけては、けっこう蚊がいます。旅の仲間たち、もれなく蚊の襲撃にあいましたので、夏場に訪れる場合には虫除けスプレーをお忘れなく。


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