歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈




前回から少々時間が開きましたが、甲州街道を歩いてみた記録の続きを。歩いたのは10月22日です。もう1ヶ月も経ってしまったのか…。

【道標】


西八王子駅近くで昼食をとった後、再び西へと進みます。
長房団地入口の信号を北へ入ってすぐのところに、大きな道標があります。
「右高尾山 左真覺寺」
と刻まれています。道標が建てられたのは大正時代になってからのことだそうです。

【散田の枡形】

この道標のある場所は散田の枡形と呼ばれ、今まで歩いてきた千人町と散田村との境界でした(左側の草の生えている場所に道標が建っています)。
江戸時代、ここで甲州街道は左へ折れ、散田村を通って西へ続いていました。写真で見える直進する道は、江戸時代には小道程度のものだったようです。

【旧散田村辺り】


散田の枡形を左折して、江戸時代の散田村を西へと向かいます。とくにこの辺りは新地と呼ばれた地域で、その名があらわすように、江戸時代に甲州街道がここを通るようになってから、道に沿うようにできた新しい集落でした。
黒塀のお屋敷がいい感じを醸し出しています。
そのまま進んでいくと再び現在の甲州街道(国道20号線)と合流します。

【オオツクバネガシと散田の一里塚跡】


国道20号線に合流してしばらく歩くと、左手に八王子市役所横山事務所があります。その敷地内にドーンと立っている巨木は、八王子市の天然記念物・オオツクバネガシ。現地の案内板によると、樫の木の仲間(アカガシとツクバネガシの間種)で高尾が原産地と認定されています。高さは約18メートル。
江戸時代にも、この木はちゃんと記録に残っているそうです。
この辺りに江戸から12番目の一里塚があったようですが、今は跡形もなし。街道の左右に塚が築かれていた模様。

【イチョウ並木】


現在の甲州街道(国道20号線)は、高尾駅までイチョウ並木が整備されています。昭和2(1927)年に多摩御陵が造営された際に植樹されました。交通量は多いものの、歩いていて清々しい感じです。

【多摩御陵入口】


並木道をしばらく進むと、多摩御陵入口の交差点に差しかかります。
このまま甲州街道を直進すれば、高尾駅へ。
ここで旅の仲間から、
「せっかく近くまで来たのだから、御陵に参拝しよう!」
という声があがりました。私も含め、4人ともまだ御陵に参拝したことがないとのこと。
そんなわけで、甲州街道を大きく北へ迂回して(右折して)多摩御陵へと向かいます。

【参道入口】


甲州街道を右折して御陵への参道を進みます。当然のことながら、きれいに整備されています。途中、南浅川を越えます。
参道は大きな公園(陵南公園)を迂回するように進みますが、公園を突っ切ると若干近道になります。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)1】


参道を20分ほど進むと、御陵の入口に到着します。
多摩御陵と呼んでいますが、正式名称は武蔵陵墓地。
昭和2(1927)年に大正天皇陵(多摩陵)が築かれたのが最初で、大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后の4つの御陵があります。関東で御陵が造営されたのはここが初めてとのこと。
とくに入口で手続きをするわけでもなく、そのまま中へと進めます。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)2】


雰囲気としては明治神宮に似ているなぁ…と思いました。森閑にして厳かというのでしょうか…。
それにしても広い!

【昭和天皇御陵(武蔵野陵)】


昭和天皇の御陵は武蔵野陵と呼ばれています。
上円下方墳なのだそうです。
木々に覆われる前の古代の古墳も、きっとこういった造りになっていたのでしょうね。
武蔵野陵の他、多摩陵(大正天皇陵)、多摩東陵(大正天皇の皇后・貞明皇后陵)、武蔵野東陵(昭和天皇の皇后・香淳皇后陵)にも参拝して、武蔵陵墓地をあとにしたのでした。


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