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【note】大久保長安の聖地巡礼・八王子(2)-浅間神社・富士塚-

2022-05-08 | 進め!大久保長安
大久保長安聖地巡礼の旅in八王子、2回目は浅間神社・富士塚です。
八王子市街から西方の台地上に、市民の憩いの場として親しまれている富士森公園があります。四季折々の自然に触れられ、また野球場などのスポーツ施設もあり、休日になると、散策する親子連れや、スポーツを楽しむ人たちで、けっこう賑わっています。夏には花火大会の会場にもなります。
その富士森公園の一角にある、浅間神社と富士塚を目指します。

富士塚とは、江戸時代に富士山信仰に基づき、富士山に見立てて造られた小さな山や塚のことです。関東各地に、今でも残っているものが多くあるようです。

【浅間神社・拝殿】


拝殿横にある案内板によると、浅間神社は木花咲耶姫を祭神とし、富士浅間様とも呼ばれ、駿河国の本宮浅間神社を分社したものだそうです。
そして、長安の登場です。案内板は以下のように続きます。
「慶長年間、大久保石見守長安が高さ約2丈(約6m)、周囲60間(約109m)余りの塚を築き、頂上に浅間神社を勧請したのが当社の起源」
とのこと。
江戸時代初期、長安は八王子の町づくりと同じ時期に、浅間神社を建てたということですね。
なお、現在の拝殿は昭和28(1953)年に大正殿(大正天皇のご大葬の時多摩御陵に造られた式典用の建物)を移築し建て直したものだそうです(案内板より)。

【浅間神社・富士塚】


拝殿の後ろ、富士塚とその上に鎮座する本殿です。
「新編武蔵風土記稿」には、
「杉、樫、その他の雑木陰森として…その林中に高さ2丈ばかり、周廻60間あまりの塚あり。頂上の平垣4間半ばかり、是に浅間の社あり。往昔、大久保石見守が勧請せしと云う」と記述されています。
「武蔵名勝図会」では、ほぼ同様の記述の後、
「小高き丘地の上に高さ2丈の塚を築きたれば、富嶽を望む勝地なるが、近来は塚の四辺の杉その外雑木成木せしゆえ、いまは土人富士森と唱う」
とあります。
この地誌が書かれた江戸後期、すでに社殿はなく、小さな石の祠となっていたようです。「武蔵名勝図会」によると、社殿は人家から離れていて、悪党の住まいとなったため取り壊して石の祠にした、と。
それでも土地の人たちによって、その信仰は守られ続けていったということですね。

【富士塚頂上】


石段をのぼった富士塚の頂上には、本殿と「八王子富士」があります。本物の富士山は木々に覆われ望むことはできませんが、長安が建立した当時は、素晴らしい眺望がひろがっていたのでしょうね。


境内の案内板には、昔からこの地は藤森、藤塚と呼ばれていたが、長安が浅間神社を勧請後、富士森、富士塚と書くようになったとあります。
地名が先か、勧請が先か?
個人的には浅間神社ができたからこそ、富士森、富士塚という地名がおこったのかなと、何の証拠もなく、ただ漠然と思ってみましたが、さて、どうなのでしょうか?

それと…
Wikipediaによると、安永9(1780)年に江戸の高田水稲荷に造られたものが最古の富士塚とされている、とのこと。
え?長安の富士塚の方がずっと古いでしょ?
それとも、ここでも長安の事績は抹殺されているのか?
恐るべし、江戸幕府。
…なんて、ほんのちょっとだけ、陰謀説を疑ってみたりする私でした。



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