二人はこの歌の元々の意味を知っていたから、あえて詠み人を知らないふりをしていたのだ。間違いない!
しかし、氏郷はこの歌を辞世の歌として詠んで、その意味は社長のものとはかなり違う。病気で若くして死のうとする氏郷にとって、もう少し命がながらえれば天下を動かす野望もあったに違いない。だからこの歌の元々の意味は「だれでも必ずいつかは死ぬものなのに、なぜそうせかせて早死にさせようとするのだ、この病(あるいは死神)は」という意味だと思う。
社長はこの歌の意味を、「口ではいわなくても(あるいは、他人にいわれなくても)、会社の不文律の2期で退任するつもりであるのに、周りは勝手にいろいろ憶測する。信頼してみてればいいものを」ということで捉えている。
二人の知らないことを僕が知っているというのではない。むしろ本当に知らないのなら詠み人を詮索せずにその歌のみをただただ愛する姿勢は好感が持てる。
でも本当は二人とも詠み人が蒲生氏郷だということはご存知だったと思う。それが二人ともそ知らぬふりをするのは歌の意味の捉え方による。
でも本当は二人とも詠み人が蒲生氏郷だということはご存知だったと思う。それが二人ともそ知らぬふりをするのは歌の意味の捉え方による。
今日の日経の文化欄は、時代小説家の山本一力さんの桜にかかわる思い出についての随筆「吹かずとも」だ。その中に、山本さんが世話になった社長がその退任にあたっての心境を山本さんに伝えた古歌にふれられていた。
吹かずとも 峰の桜は散るものを こころ短き 春の山嵐
この歌を社長は「詠み人はしらないが、いまの私の心境は、まさにこれだ」といった。
おや、この歌は蒲生氏郷の有名な辞世の歌ではないか。時代小説家である山本さんが知らないとは思えないのだが、山本さんはこの随筆のなかで詠み人にふれない。しかもこの社長は「飛び切りの時代小説好き」ということなので、社長が知らないのも何かおかしい。
吹かずとも 峰の桜は散るものを こころ短き 春の山嵐
この歌を社長は「詠み人はしらないが、いまの私の心境は、まさにこれだ」といった。
おや、この歌は蒲生氏郷の有名な辞世の歌ではないか。時代小説家である山本さんが知らないとは思えないのだが、山本さんはこの随筆のなかで詠み人にふれない。しかもこの社長は「飛び切りの時代小説好き」ということなので、社長が知らないのも何かおかしい。