この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

ウトサンドの想い出

2021-08-21 13:28:45 | つれづれ記
わたしが5歳頃だったと思う。兄がネフローゼ(腎臓病)に罹って母が看病に集中したいということで、わたしはコザ市(現沖縄市、当時越来町か?)にいた祖母のところに預けられたことがある。よく覚えていないがひと夏ぐらいのことだっただろう。
カタツムリ(アフリカマイマイ)を食べたのもその頃だ。オオバコか何かと甘辛く痛めたものである。最初は吃驚したが肉を嚙んでいるような歯ごたえで十分おかずになった。
その頃の結びつきがわたしをおばあちゃん子に育てた。

その後祖母は一緒に住むようになった。
普天間の家は三差路に面した3階建てのビルだった。父が祖父の遺産を糧に電気店を立ち上げたのだ。祖父の事業のことは別の機会に譲ろう。
ビル裏は普天間高校の校庭になっていた。2階のベランダというより物干し場から普天間琉映(映画館)が見えた。昭和32(1957)年当時、クーラーはなく夏場に日が落ちると映画館は窓を開けて涼風を取り込んでいた。祖母はベランダ(物干し場)に座って無料で映画を楽しんでいた。

師範学校を卒業して教員をしていた父が特別操縦見習士官に志願した。死を覚悟してすぐ下の弟に「おまえが後を継いでくれ」と父は言い残して滋賀の連隊に向かった。ところが農林高校にいた叔父は沖縄が戦場になったことで鉄血勤皇隊に徴用されて南部のどこかで死んだ。
特攻隊になって死ぬはずだった父は戦場をまったく知らずに終戦を迎えて帰ってきた。
叔父の仏壇はわたしが継ぐことになっていたが、兄が亡くなった後から祖母はことわたしに「あんたは2人の男の子を設けないといけない。嫡子(長男)は叔父の仏壇を継いで、次男は今の父の仏壇を継ぐんだよ」と、ことあるごとに言い聞かせた。
クロスするような仏壇の継ぎ方は当時の考え方らしかった。

学生時代東京で知り合ったカミさんと結婚して父の教育関係の会社で働いたが、飛び込みセールスで気持ちをすり減らし、資格を取りに行きたいとこじつけて沖縄を離れることにした。
祖母はとても残念がった。「東京いちゅんなー?(東京に行ってしまうの?)」と悲しそうな顔をされるのは辛かった。
今日発つというとき4階のわたしたちの部屋にきて「ウトサンド」を差し出した。「ウト」というのは祖母の名前だ。おばあさんのサンドイッチということで後に名付けたわけだが「おばぁサンド」でも良かった。「おばあさん」と「サンドイッチ」の「サンド」が掛かってていい感じだと思うが、どっちでもいい話だ。

このサンドイッチはここぞというときによく作ってくれたように思う。
スライスしたポークランチョンミート(スパム)を焼き、玉子焼きと玉ねぎ、トマトの輪切りを食パンに挟んだだけのサンドイッチだ。
何もかけない。スパムに玉ねぎの辛味が相まってトマトの爽やかさが上品に仕上げている。玉子焼きも影の役者だ。パンにトマトの汁をしみこませない役目を果たしながら全体を柔らかく包み込む役割を担っている。
ただ、厚さを間違えるとビッグマック並みに食べづらい。

祖母がどこでそのサンドイッチを憶えたのか知らないが、彼女は「サンキュー」という英語をさらっと使えた。米軍統治下の沖縄で暢気に暮らしてはいなかったということではないか?
そうそう、パンはトーストした方がいいのか?それとも焼かない方がいいのか?という問題があるが、ウトさんは焼いてなかった。しかし、わたしはトーストしてマーガリンを塗って玉子焼きを両サイドに敷いて、スパムの傍に玉ねぎ、そしてトマトを添えるという方がうまい。

東京で7年ほど働いているうちに祖母は足を悪くして寝たきりになっていた。
長女が生まれた機に、やはり子どもは沖縄でのびのび育てたいと思って帰郷することにした。
帰ってから毎日曜日には病院の祖母を見舞ってからどこかへ遊びに行くという日々だった。
長女にとって祖母は寝たきりで意思の疎通もできず、ただ指で瞼を開ける仕種をしながら「ひいおばーちゃん」と呼び掛けるだけの存在だった。
帰郷して3年経った頃だろうか、カミさんが妊娠した。その時証拠は何もなかったが直感的に男の子だと確信した。

見舞いのたびに「おばあさん赤ちゃんがでぃきとんどー(赤ちゃんができたよ)、嫡子どぅやんどー(長男だよ)」と耳元で語りかけた。
確信はないがそれで祖母が喜ぶならそれでいいと思っていた。付き添いの人が「元気になっていますよ」と嬉しいことを言う。
そして無事に長男が生まれて2カ月たった12月のある日、みんなで祖母に報告に行った。
祖母のベッドの脇に長男を添い寝させて「嫡子どぅやんどー」と声を掛けたら「おー、おー」と声を出したのである。これまでの反応は口をムチャムチャさせるぐらいで発声などなかった。付き添いの人も驚いて「喜んでますね」と言った。
それで安心したのだろう。それから1ヶ月も経たない翌年の1月27日に祖母は旅立った。享年97であった。
ただ、約束をはたしていないのは男の子は長男ひとりしかできなかったことだ。今、仏壇でどちらも同じように祭ってある。
今さら文句は言わないよね。ウトさん。

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