この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

ノーテレビデー

2010-03-31 06:59:57 | つれづれ記
佐世保の同級生殺人事件というのを覚えているだろうか。教室で同級生の首をカッターナイフで切った事件である。小学六年生の12歳の女の子が、白昼、しかも学校の教室の中で同級生を殺害したというかなりセンセーショナルな事件だったのでご記憶の方も多いだろう。
「加害者のK子は、同級生に目隠しして後ろからカッターナイフで首を切り、相手が床に倒れた後も、死んだことを確かめている。死んだことというより、生き返らないことを確認したと、女児は言っているという。その殺害の行為の詳細は、とても書くに忍びないほど残酷なものだった」(「壊れる日本人」-ケータイ・ネット依存症への告別 柳田邦夫著)より

「喧嘩しているうちに、そこまでするつもりはなかったのに、夢中でなぐったら、相手が倒れて頭を打ち、脳挫傷を起こして死んでしまったなどというのとはまるで違う。明確な、しかしじとじととした殺意を抱き、あらかじめ場所や殺害方法やタイミングを計画し、そのとおりに着実に実行している。そこには、相手の子が受けるであろう心の痛みや苦痛、家族が受けるであろうショックや悲しみや怒りといった、他者の心に思いを致す気持ちは微塵もない。心が傷ついたり恨んだり苦しんだりするのは自分だけ。自分は世界の中心であって、他者は自分の感情のままに仲良くしたり成敗したりする対象に過ぎない。人みなそれぞれにかけがえのない一度きりのいのちによって生きているということは、意識の中にない」

十七歳のKにしても、どうして人間を人間として見ず、あのような校門の上に切った首を置いたりする残酷なことができるのか不思議でならなかった。すると、柳田氏の本の中に、長崎家庭裁判所佐世保支部が公表したK子の「審判決定要旨」が載っていた。
そこにはK子の「人格特性」として、四点が挙げられている。

(1) 認知・情報処理の特性 ― 自分の中にあるあいまいなものを分析し統合して言語化する作業が苦手。

(2) 情緒的特性 ― 幼少期より、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的だった。自分の欲求や感情を受け止めてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難かった。愉快な感情は認知し、表現できるが、怒り、寂しさ、悲しさといった不快感情は未分化で、適切に処理されないまま抑圧されていた。

(3) 対人関係、コミュニケーションにおける特性 - 言語や文章の一部にとらわれやすく、文章の文脈や作品のメッセージ性を読み取ることができない。相手の個々の言動から相手の人物像を把握するなど、断片的な出来事から統合されたイメージを形成することが困難。このため、他者の視点に立って、その感情や考えを想像し、共感する力や、他者との間に親密な関係をつくる力が育っていない。

(4) 怒りの自覚とその対処方法の二極化 - 情緒的な分化が進んでおらず、愉快な感情以外の感情表現には乏しかった。そのため、周囲から、おとなしいが明るい子として評されていた。怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために、怒りを適切に処理できずに、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して怒りを発散するかという両極端な対処方法しか持ち得なかった。同級生から、「怒ると怖い子」と評されていた。

K子に限らず昨今の子どもたちの特徴がよく捉えられていると思った。(1)の「言語化の作業が苦手」というのは、1980年頃からの傾向だそうで、あるスクールカウンセラーの話では、問題を抱えた子どもたちと面接しても、言葉が断片的で、会話が上滑りのままで深まっていかない。児童の心の中にあるものを把握することが非常に難しくなってきていると途方にくれている。
きっと親子間でもちゃんとした会話が成り立っていないのだろう。
(2)の情緒的特性については、幼児期における親子の関係に大きく影響されているのではないかと思う。
赤ちゃんは泣くことによって意志を訴える。「お腹空いたよー」、「オムツ替えてよー」、「遊んでよー」。しかし、母親がすぐ対応せず、自分の都合の良い時におっぱいをあげたり、オムツを替えたり、あやすとしたらどうだろう。赤ちゃんは自分の欲求を次第に抑圧するようになり、唯一のコミュニケーションの手段である泣くこともしなくなるだろう。言語の発達は当然遅れてくるし、駄々をこねたり、怒ったりすることもなくおとなしくていい子に育っていく。
それが本当は恐ろしいことであることを世の親たちは全く知らない。

(3)についても親子の希薄な関係やテレビやゲームに子守をさせていたことが考えられる。幼児がテレビの向こうの世界に呼びかけたり、話しかけたりすることがあるが、テレビの向こうの人間がまったく応えてくれないと知るとコミュニケーションを取ろうとしなくなる。そうしてテレビの世界は別世界であることを知る。ところが同じように、呼びかけても反応しない自分の母親に気がつくとこの世界もテレビとおなじようなバーチャルな世界と感じてくるのではないだろうか。少し乱暴な推理かもしれないが、少なくとも相手の心象を汲んだり、共感する心は育たないのではないだろうか。

アメリカの小児科学会では1999年に「2歳以下の児童にテレビを見せるな」という勧告を発表している。日本小児科学会もまた2004年にテレビ・ゲームの制限について提言を行っている。これは、最近いくつもの実態調査でわかったことであるが、乳幼児期からテレビを長時間見ていた子どもに、言葉の発達がおそく、表情も乏しく、親と目線をあわさず、いっときもじっとしていないで、人とうまく関われない子が目立って多くなっているなどの傾向がみられるというのだ。子どもにテレビを見せなくしたら、その傾向が改善されたという報告もあるという。
柳田邦夫は著書の中で、一ヶ月に一度、一年に四回とかの「ノーテレビデー、ノーゲームデー、ノーケイタイデー、ノーパソコンデー」を持とうと声を大にしている。

近頃は、食事をやらない面倒を見ないほっとく母親だけではなく、ゴミ箱に入れてビニール袋で閉じ込め窒息死させるDV母親まで出現している。テレビに育てられた世代が親になってから起こる現象ではないだろうか。そう考えると怖くなってくる。
わたしの子育ては終わったからもうこんな問題は考えても仕方ないと思っていたら、いやいや孫ができるかもしれない。テレビっ子の子どもたちがはたしてちゃんとした母親、父親になれるかと考えたらまだまだ引退などしてはいられない。
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1 コメント

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なるほど! ()
2010-04-01 00:03:39
勉強になります!
孫はまだ先だと思うので、まだ見ぬ孫の為にも、まだまだ元気に長生きしてくださいね☆(笑)
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