中学校一年の時、沖縄から東京に転校したことがある。
「したことがある」というのは、故あってたった9ヶ月間の東京生活だったからである。
入学式から入ったので誰も転校生とは思わなかったけれど、見慣れない真っ黒な顔は目立っていたようで、最初のホームルームの自己紹介の時に一同納得した様子だった。
まだ沖縄が珍しい頃だったから、休み時間にはみんなが周りに集まってきた。「日本語上手だね。普段、何しゃべっているの?」と無邪気に聞かれて困った。
沖縄の方言が日本語だということを知らない人は多いが、古い大和言葉から分かれてきたものであることを沖縄の人でも知る人は少ない。
外間守善(言語学者/法政大学名誉教授)は「沖縄の言葉と歴史」(中公文庫)で、服部四郎(言語学者)の研究に触れている。
「服部四郎は、沖縄の標準的言語である首里方言が日本祖語から分かれた時期について、言語年代的測定計算の結果を発表している(「言語研究」昭和29年)。
それによれば、京都方言と首里方言の分岐年代は、『今から約1450年乃至1700年前』という数値が示されている。服部は、その後、論文『琉球方言と本土方言』(「沖縄学の黎明」昭和51年)で、『殊に方言の場合、言語年代学的方法によって算出される数字は、分岐年代の可能性の最下限を示すものと考えるべきだ』と注意を喚起すると同時に、『奈良朝中央方言のいわば直系の子孫である京都方言とそれと〝姉妹関係〟にある琉球方言(首里方言)との分岐年代は、今から1500年まえ乃至2000年まえと推定される』と若干の修正をした発言をされている」
日本祖語という言い方は京都方言が祖語になると言っているのではない。琉球方言(首里方言)と京都方言はともにその源流である日本祖語から分岐してきていると言っているのだ。
服部四郎は次のような言語の移動を推測している。
「九州方言と琉球方言の共通祖語時代が、九州において、短くても二、三世紀は続いたものと考えなければならない。そうすると、九州・琉球方言と近畿方言の分岐は、北九州から近畿方面への住民移動によって起こったものとせざるを得ない。大移動ならば、三、四世紀ごろとすることもできようが、小移動ならば、二千年も前から始まり、恐らく度々繰り返されたとしなければならないであろう」
これは驚くべきことだ。九州方言がいわゆる日本祖語になるという見解なのだ。北九州から近畿地方への移動はおそらく「邪馬台国」から「大和朝廷」への権力の移動にともなう移動であり、きわめて大きな移動だったと思う。
そして九州方言と琉球方言の分岐であるが、それについては外間守善が本文中で、「二、三世紀頃から六、七世紀頃」と推定している。その後、琉球方言は著しい変化もないまま数世紀を経るが、十世紀前後から緩やかな変化を始めて十二世紀頃にはいわゆる「うちなーぐち」の完成にいたっているのではないかとしている。それは十六世紀初頭頃に編集された「おもろさうし」やその他の資料で既に琉球方言の特徴である三母音化が出来上がっているところからである。
三母音化というのは、「a」「i」「u」「e」「o」の五つの母音から、「e」「o」が転訛して、「a」「i」「u」の三母音だけになっていることである。
例えば「雨(あめ)」が「アミ」、「米(こめ)」が「クミ」となるのだ。
有名なところでは「ちゅらさん」は、「清(きよ)らさぬ」(清らしい)から「清らさん」となり、「ちゅらさん」となっているのだ。
なぜ三母音化したのかその理由についてはよく分かっていないようである。
「したことがある」というのは、故あってたった9ヶ月間の東京生活だったからである。
入学式から入ったので誰も転校生とは思わなかったけれど、見慣れない真っ黒な顔は目立っていたようで、最初のホームルームの自己紹介の時に一同納得した様子だった。
まだ沖縄が珍しい頃だったから、休み時間にはみんなが周りに集まってきた。「日本語上手だね。普段、何しゃべっているの?」と無邪気に聞かれて困った。
沖縄の方言が日本語だということを知らない人は多いが、古い大和言葉から分かれてきたものであることを沖縄の人でも知る人は少ない。
外間守善(言語学者/法政大学名誉教授)は「沖縄の言葉と歴史」(中公文庫)で、服部四郎(言語学者)の研究に触れている。
「服部四郎は、沖縄の標準的言語である首里方言が日本祖語から分かれた時期について、言語年代的測定計算の結果を発表している(「言語研究」昭和29年)。
それによれば、京都方言と首里方言の分岐年代は、『今から約1450年乃至1700年前』という数値が示されている。服部は、その後、論文『琉球方言と本土方言』(「沖縄学の黎明」昭和51年)で、『殊に方言の場合、言語年代学的方法によって算出される数字は、分岐年代の可能性の最下限を示すものと考えるべきだ』と注意を喚起すると同時に、『奈良朝中央方言のいわば直系の子孫である京都方言とそれと〝姉妹関係〟にある琉球方言(首里方言)との分岐年代は、今から1500年まえ乃至2000年まえと推定される』と若干の修正をした発言をされている」
日本祖語という言い方は京都方言が祖語になると言っているのではない。琉球方言(首里方言)と京都方言はともにその源流である日本祖語から分岐してきていると言っているのだ。
服部四郎は次のような言語の移動を推測している。
「九州方言と琉球方言の共通祖語時代が、九州において、短くても二、三世紀は続いたものと考えなければならない。そうすると、九州・琉球方言と近畿方言の分岐は、北九州から近畿方面への住民移動によって起こったものとせざるを得ない。大移動ならば、三、四世紀ごろとすることもできようが、小移動ならば、二千年も前から始まり、恐らく度々繰り返されたとしなければならないであろう」
これは驚くべきことだ。九州方言がいわゆる日本祖語になるという見解なのだ。北九州から近畿地方への移動はおそらく「邪馬台国」から「大和朝廷」への権力の移動にともなう移動であり、きわめて大きな移動だったと思う。
そして九州方言と琉球方言の分岐であるが、それについては外間守善が本文中で、「二、三世紀頃から六、七世紀頃」と推定している。その後、琉球方言は著しい変化もないまま数世紀を経るが、十世紀前後から緩やかな変化を始めて十二世紀頃にはいわゆる「うちなーぐち」の完成にいたっているのではないかとしている。それは十六世紀初頭頃に編集された「おもろさうし」やその他の資料で既に琉球方言の特徴である三母音化が出来上がっているところからである。
三母音化というのは、「a」「i」「u」「e」「o」の五つの母音から、「e」「o」が転訛して、「a」「i」「u」の三母音だけになっていることである。
例えば「雨(あめ)」が「アミ」、「米(こめ)」が「クミ」となるのだ。
有名なところでは「ちゅらさん」は、「清(きよ)らさぬ」(清らしい)から「清らさん」となり、「ちゅらさん」となっているのだ。
なぜ三母音化したのかその理由についてはよく分かっていないようである。
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