静かな場所

音楽を聴きつつ自分のため家族のために「今、できることをする」日々を重ねていきたいと願っています。

マーラー/交響曲第9番 伊勢管30周年(2)

2011年05月28日 23時33分57秒 | コンサート
(前回からの続き)
 コンサートの日から、二週間が過ぎようとしている。「続きを書かなくちゃ」と思っているうちに、あれよあれよと日が過ぎてしまった。あの9番を聴いているときに感じたこと・頭に去来したことを文章化しようとしても、なかなかできなかった。時間もなかったのだけど、それ以上に、自分の文章力の貧しさはいよいよ深刻になってきたかと思う。
 でも、今日、神奈川で聖響さんが同じ9番を振ったということで、そして、流れているツィートを見る限り、演奏はかなり良かったようでもあり、また、その最後はアバドと同じように照明を落としていく「演出」もあったと聞いて、少しばかり合点がいったこともあった。例によって思いつくまま、まとまりはないが、とりあえずメモとして書いておこう。

 第4楽章は本当に感動的な音楽だと思う。生で聴くと、そのことが一層明確に伝わる。第3楽章の、まるで何かを決定的に断ち切られたかのような終結から間髪を入れず始まる音楽は、まるで別物であり、「覚悟」「達観」などを連想させる。

 もう(書いている)時間が無いので、先を急ぐ。

 伊勢管の演奏で、あの最後の音が消えたあとの静寂が表すものが実際の演奏で震えが来るほどに伝わってきた。村井翔氏は、その著書で、9番のこの幕切れについて「人間の肉体的な死の冷徹かつリアルな描写」と書いていて、私も、そう思えて仕方ない。だとしたら、その音が消えた後の静寂の時間は、今、まさに誰かが息絶えた直後の時間ということになる。伊勢市観光文化会館で、最後の音が消えて、指揮者や奏者の動きが静止した直後から、急に涙が溢れてきてこぼれ落ちそうになった。自宅でスピーカーの前で聴いている時には経験したことがない「音が消えた後」の感情の昂り。私は、父が逝ったときのことを思い浮かべていた。電池が切れるように、オルゴールのゼンマイが止まるように、次第に呼吸の間隔が開いて、途切れ途切れになり、そして静かに止まった、あの時間を。そして、その、呼吸を止めた父のベットの周りに立ち、思い思いの言葉をかけていた我々の姿、その空間を思い起こしていた。
 アバドの、照明を暗くしていく演出を、テレビの画面を通して観たとき、私は、「それほどたいしたことない」と思った。あの演奏後の沈黙も「長すぎる」とも感じた。しかし、きっと会場に居合わせた人たちには、全く自然に受け入れられたのだろう。あの沈黙の間に、先日の私と同様に、多くの聴衆が「リアルな死」を体感していたことだろう。
 音楽はリアルな「死」そのものみたいであるが、「死」をどう位置づけるか、どんな意味づけがあるのかは、聴き手一人一人違い千差万別。私だって、時により感じることは違う。今の私だったら、「天国も死の世界もない」「死ぬことは、コンピュータが壊れて止まるようなもの」と言ったホーキング博士の言葉が一番しっくり来る。それから、私はマーラーの9番には「悲観」や「絶望」は感じられない。

・・・また、時間があれば書き直します。
 とにかく、すっごく大きな感動を与えてくれた伊勢管のマーラーでした。(意味不明御免)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿