一気に本格的な冬になっちまった今夜、なんかブルックナーが聴きたくてたまらない。
ブルックナー/交響曲第9番
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ズービン・メータ
録音:1965年
メータがまだ20歳代の終わりだった時の録音。
今日、初めて聴きました。
第1楽章の主部に入ってすぐに感じたのは、この演奏はとにかく、スコアに含まれた「歌」を丹念に耳にはっきり聴こえるようにクローズアップさせながら少し遅いテンポで進む演奏だな、ということでした。
そして、だいたいその通りでした。
それは、若きメータの主張だったのでしょうが、ひょっとするとミキシング・ルームの意向もかなり強かったかも知れないと思いました。
と言うのも、音の録り方がいかにも「はい、マルチマイクを駆使しました」と言わんばかりの、昨今の自然な音場とはかなり違うもので、ステレオ初期の不自然極まりない録音とまではいきませんが、それでも、かなり作為的な音場だったからです。
主部以降の弦や管のフレーズの一つひとつ、短い動機のひとつひとつに少しでも「歌」があれば、そこにスポットライトを照らしつつ進んでいく、そんな感じでした。
聴いていて、それが嫌だったのかと言われると、実はそうではなく、私にはとても新鮮で楽しく最後まで退屈せずにブル9に浸らせてもらいました。
何と言っても60年代ウィーン・フィルのデッカ録音の魅力全開。
木管のソロはスポットライトを当てるのも当然と言えるほどの美しさ。
その美しさは、煌びやかさや光沢の度合いではなく、なんと言いますか、そう、あのウィーン・フィルの美しさなのですよ。
もちろん、弦の響きも同じです。
強奏部でのブルックナー特有の同音反復の洪水の中に少しでもメロディックな動きが埋もれていると、そこは必ず、きちんと耳に届くように強調されていました。
そんなアプローチですから、「歌心」をくすぐる箇所か多い第3楽章は特によかったです。
力感も十分あり、特にホルンは他オケでは聴けない独特の音色を思いっきり強奏させて痛快。
「楽しい」とか「歌」とか言うと、ブル9という曲の性格とはちょっと違うのではないか、と思われるかも知れませんが、聴いていて、そんなことは思いませんてした。
これは、楽曲の持つ許容の深さの中で十分ありえるアプローチでしょう。若いメータを迎えたウィーン・フィルとスタッフが生み出した「このときしか出来ない」演奏だったのかも知れません。
ブルックナー/交響曲第9番
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ズービン・メータ
録音:1965年
メータがまだ20歳代の終わりだった時の録音。
今日、初めて聴きました。
第1楽章の主部に入ってすぐに感じたのは、この演奏はとにかく、スコアに含まれた「歌」を丹念に耳にはっきり聴こえるようにクローズアップさせながら少し遅いテンポで進む演奏だな、ということでした。
そして、だいたいその通りでした。
それは、若きメータの主張だったのでしょうが、ひょっとするとミキシング・ルームの意向もかなり強かったかも知れないと思いました。
と言うのも、音の録り方がいかにも「はい、マルチマイクを駆使しました」と言わんばかりの、昨今の自然な音場とはかなり違うもので、ステレオ初期の不自然極まりない録音とまではいきませんが、それでも、かなり作為的な音場だったからです。
主部以降の弦や管のフレーズの一つひとつ、短い動機のひとつひとつに少しでも「歌」があれば、そこにスポットライトを照らしつつ進んでいく、そんな感じでした。
聴いていて、それが嫌だったのかと言われると、実はそうではなく、私にはとても新鮮で楽しく最後まで退屈せずにブル9に浸らせてもらいました。
何と言っても60年代ウィーン・フィルのデッカ録音の魅力全開。
木管のソロはスポットライトを当てるのも当然と言えるほどの美しさ。
その美しさは、煌びやかさや光沢の度合いではなく、なんと言いますか、そう、あのウィーン・フィルの美しさなのですよ。
もちろん、弦の響きも同じです。
強奏部でのブルックナー特有の同音反復の洪水の中に少しでもメロディックな動きが埋もれていると、そこは必ず、きちんと耳に届くように強調されていました。
そんなアプローチですから、「歌心」をくすぐる箇所か多い第3楽章は特によかったです。
力感も十分あり、特にホルンは他オケでは聴けない独特の音色を思いっきり強奏させて痛快。
「楽しい」とか「歌」とか言うと、ブル9という曲の性格とはちょっと違うのではないか、と思われるかも知れませんが、聴いていて、そんなことは思いませんてした。
これは、楽曲の持つ許容の深さの中で十分ありえるアプローチでしょう。若いメータを迎えたウィーン・フィルとスタッフが生み出した「このときしか出来ない」演奏だったのかも知れません。
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