【ふたりの恩師】
二人の「恩師」とは、K先生とU先生のこと。
その1「K先生」
1973年、U高校に入った私は、部活は吹奏楽か合唱に入りたいと思っていたが、どちらに入るかはなかなか決められないでいた。
当時はオーケストラ曲がとても好きだったこともあり、気持ちは7割方吹奏楽に傾いてはいたが、中学からの音楽仲間の一人は早々と合唱部に決めていて、練習にも参加しているようだった。
私にもさかんに入部を勧めてきた。
どちらの部活も何度も見学に行ったが、上級生の人と話をする機会は合唱部の方が多かったと思う。
そうこうしているうちに1年生全員を体育館に集めての新入生歓迎会があった。
そこでクラブ紹介もあったと思うが、ステージ発表があった吹奏楽と合唱以外はほぼ記憶にない。
そのときに合唱部の「宣伝」をしていたのがK先生だった。
その独特の喋りは生徒たちに大受け。
先生の話の中で「去年は全国合唱コンクールに出場した」「年末には大阪フィルと第九で共演する」の2点が、そのときの私にはたとえようもないインパクトだった。
この時点で、どっちのクラブに入るかの比率は逆転し「合唱7割」「吹奏楽3割」くらいになったと思う。
そして、合唱の演奏を聴いた。
これが決定的だった。
まず、昨日まで親しげに声をかけてくれた先輩たちが別人のような真面目な顔で並んでいる姿に、なんか感動してしまった。
曲目は「早春」(佐藤真作曲、組曲「蔵王」の終曲)。
最後のピアノがトレモロで地響きを立てるあたりでメロメロに感動させられ、そのときに合唱部入りを決めた。
もし、あのとき、先生の面白い話だけで演奏が別曲だったら、吹奏楽に行っていたかも知れない(笑)。
そして、フランクフルトに留学し、どこかの国内オケでホルンを吹いていたかも知れない・・・が、そうはならなかった。
K先生は、迷える私を合唱の世界にぐいっと引っ張り込んでくれた先生である。
そして、高校在学中の3年間、音楽の授業、毎日の合唱練習、(大学は音楽関係に進みたいとしていた私の)進路指導などで、高校の先生方の中で最もお世話になった。
失礼を顧みず率直に言わせていただくと、先生の音楽性とテクニックはさほど優れているとは思えなかった。
指揮は見づらく間違いも多かった。
ピアノの音も大雑把であった。
しかし、それを補って余りある熱意とエネルギーはすごかった。
自分で音を出さない指揮者という不思議な立場ならではの力の発揮だったのだろうか。
ハッタリと言ってもいいほどの舞台魂と教師らしからぬホンネの爆発。
なにしろ、「弁当は2限目の後に食って、昼は音楽室で練習せぃ」と、はっきりと聞いた覚えはないが、でも私たちはそうしていた。
(自分たちで勝手にそうしていたのかも???)
私たちが卒業するのと同時にK先生も異動となった。
春休みに合唱部と伊勢市民合唱団、そしてピアノでお世話になったT先生でお別れのコンサートが開かれた。
あのときは、さすがに過ぎゆく一音一音、フレーズの一つひとつが痛いほど胸に迫ってきた。
合唱部の後輩たちが歌った「冬の風」(大中恩作曲「風の歌」第4曲)の最後は鬼気迫るものがあった。
二人の「恩師」とは、K先生とU先生のこと。
その1「K先生」
1973年、U高校に入った私は、部活は吹奏楽か合唱に入りたいと思っていたが、どちらに入るかはなかなか決められないでいた。
当時はオーケストラ曲がとても好きだったこともあり、気持ちは7割方吹奏楽に傾いてはいたが、中学からの音楽仲間の一人は早々と合唱部に決めていて、練習にも参加しているようだった。
私にもさかんに入部を勧めてきた。
どちらの部活も何度も見学に行ったが、上級生の人と話をする機会は合唱部の方が多かったと思う。
そうこうしているうちに1年生全員を体育館に集めての新入生歓迎会があった。
そこでクラブ紹介もあったと思うが、ステージ発表があった吹奏楽と合唱以外はほぼ記憶にない。
そのときに合唱部の「宣伝」をしていたのがK先生だった。
その独特の喋りは生徒たちに大受け。
先生の話の中で「去年は全国合唱コンクールに出場した」「年末には大阪フィルと第九で共演する」の2点が、そのときの私にはたとえようもないインパクトだった。
この時点で、どっちのクラブに入るかの比率は逆転し「合唱7割」「吹奏楽3割」くらいになったと思う。
そして、合唱の演奏を聴いた。
これが決定的だった。
まず、昨日まで親しげに声をかけてくれた先輩たちが別人のような真面目な顔で並んでいる姿に、なんか感動してしまった。
曲目は「早春」(佐藤真作曲、組曲「蔵王」の終曲)。
最後のピアノがトレモロで地響きを立てるあたりでメロメロに感動させられ、そのときに合唱部入りを決めた。
もし、あのとき、先生の面白い話だけで演奏が別曲だったら、吹奏楽に行っていたかも知れない(笑)。
そして、フランクフルトに留学し、どこかの国内オケでホルンを吹いていたかも知れない・・・が、そうはならなかった。
K先生は、迷える私を合唱の世界にぐいっと引っ張り込んでくれた先生である。
そして、高校在学中の3年間、音楽の授業、毎日の合唱練習、(大学は音楽関係に進みたいとしていた私の)進路指導などで、高校の先生方の中で最もお世話になった。
失礼を顧みず率直に言わせていただくと、先生の音楽性とテクニックはさほど優れているとは思えなかった。
指揮は見づらく間違いも多かった。
ピアノの音も大雑把であった。
しかし、それを補って余りある熱意とエネルギーはすごかった。
自分で音を出さない指揮者という不思議な立場ならではの力の発揮だったのだろうか。
ハッタリと言ってもいいほどの舞台魂と教師らしからぬホンネの爆発。
なにしろ、「弁当は2限目の後に食って、昼は音楽室で練習せぃ」と、はっきりと聞いた覚えはないが、でも私たちはそうしていた。
(自分たちで勝手にそうしていたのかも???)
私たちが卒業するのと同時にK先生も異動となった。
春休みに合唱部と伊勢市民合唱団、そしてピアノでお世話になったT先生でお別れのコンサートが開かれた。
あのときは、さすがに過ぎゆく一音一音、フレーズの一つひとつが痛いほど胸に迫ってきた。
合唱部の後輩たちが歌った「冬の風」(大中恩作曲「風の歌」第4曲)の最後は鬼気迫るものがあった。
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