昨日の三重バッハ合唱団演奏会の静かな感動と言うか、余韻が、まだかなり高濃度で自分の脳内体内に残留しているのを感じながら、平常の営みが始まった。
演奏会と音盤鑑賞とでは決定的に違う・・・その、当たり前に前から知ってたことを、いまさらながら実感した昨日だった。もともと、年に数回のコンサート通いであったから、親しくしてくださっているブロガー諸氏と比べたら、私のコンサート体験など本当に取るに足らない回数である。日頃は、鑑賞部屋「奥の院」のスピーカーの前に座して「擬似コンサート体験」の真似事みたいにして音楽を聴いているが、近ごろは、その形態も難しくなっている。「だから、お前は、昨日のようなアマチュア合唱団のバッハでも感動しちゃうのさ」という声が、どこからか聞こえてきそうであるが、本当にそうなのだろうか?
高校生の頃まで絵画教室に通っていて今は映画関係の仕事をしている知人Tの影響で、私も少しであるが絵画展にせっせと行っていた時期があった。ゴッホ、ピカソ、モジリアニ、ルードビィッヒとその周辺、カンデンスキー、クレー、シャガール・・・その他いろいろと通った。画集も何冊か買ったし、タイムライフ刊行の大判の画家シリーズ(読み物としてかなり充実していた)も父に買ってもらった。そして、同じ絵を実物と画集との両方で見た、その印象の違いの違いすぎることには何度も驚いた。絵画では色合いの微妙なニュアンスはもちろんのことそのサイズが大きくものを言っていた。ハガキ大の中に繰り広げられる心情発露もあるし、(まるでプラネタリウムでも見るような)宇宙を見上げるような作品もある。画集(書物)の中では、どんなに美しい印刷仕様であったとしても、それらは画一的なサイズに調えられてしまっている。あれは「絵」の本質的な部分を大きく削いで伝えてしまっている。
音楽でもよく似たことが言える。実際に耳にした場合の演奏効果、楽器編成の違いによる音の厚み、パウゼによって止まる空気などなど、スピーカー鑑賞ではなかなか味わえない、そういう「臨場感」のようなものが、楽曲の本質的なものを形成する大事な要素になっていることが多いと思う。音盤聴きでは「想像付加」して聴くことが大切だ。漫然と垂れ流すみたいに音を鳴らしていては「聴いた」とは、私は言えない。もちろん、そんなこと承知で私も「垂れ流している」けども・・・。
昨日のバッハのBWV229の冒頭、三度の「komm」の呼びかけ、その間に深淵を見る思いがして、ぞっとするほどの切実感と慄きの気持ちを感じたが、何度もディスクで聴いてきたその冒頭が、あんなに真っ直ぐ突き刺さってきたのは初めてだった。生の音楽は文字通り「生きている」。テクニックはあるに越したことはないが、それだけではない「何か」があれば、聴き手はその楽曲の世界に入っていくことができる。
演奏会と音盤鑑賞とでは決定的に違う・・・その、当たり前に前から知ってたことを、いまさらながら実感した昨日だった。もともと、年に数回のコンサート通いであったから、親しくしてくださっているブロガー諸氏と比べたら、私のコンサート体験など本当に取るに足らない回数である。日頃は、鑑賞部屋「奥の院」のスピーカーの前に座して「擬似コンサート体験」の真似事みたいにして音楽を聴いているが、近ごろは、その形態も難しくなっている。「だから、お前は、昨日のようなアマチュア合唱団のバッハでも感動しちゃうのさ」という声が、どこからか聞こえてきそうであるが、本当にそうなのだろうか?
高校生の頃まで絵画教室に通っていて今は映画関係の仕事をしている知人Tの影響で、私も少しであるが絵画展にせっせと行っていた時期があった。ゴッホ、ピカソ、モジリアニ、ルードビィッヒとその周辺、カンデンスキー、クレー、シャガール・・・その他いろいろと通った。画集も何冊か買ったし、タイムライフ刊行の大判の画家シリーズ(読み物としてかなり充実していた)も父に買ってもらった。そして、同じ絵を実物と画集との両方で見た、その印象の違いの違いすぎることには何度も驚いた。絵画では色合いの微妙なニュアンスはもちろんのことそのサイズが大きくものを言っていた。ハガキ大の中に繰り広げられる心情発露もあるし、(まるでプラネタリウムでも見るような)宇宙を見上げるような作品もある。画集(書物)の中では、どんなに美しい印刷仕様であったとしても、それらは画一的なサイズに調えられてしまっている。あれは「絵」の本質的な部分を大きく削いで伝えてしまっている。
音楽でもよく似たことが言える。実際に耳にした場合の演奏効果、楽器編成の違いによる音の厚み、パウゼによって止まる空気などなど、スピーカー鑑賞ではなかなか味わえない、そういう「臨場感」のようなものが、楽曲の本質的なものを形成する大事な要素になっていることが多いと思う。音盤聴きでは「想像付加」して聴くことが大切だ。漫然と垂れ流すみたいに音を鳴らしていては「聴いた」とは、私は言えない。もちろん、そんなこと承知で私も「垂れ流している」けども・・・。
昨日のバッハのBWV229の冒頭、三度の「komm」の呼びかけ、その間に深淵を見る思いがして、ぞっとするほどの切実感と慄きの気持ちを感じたが、何度もディスクで聴いてきたその冒頭が、あんなに真っ直ぐ突き刺さってきたのは初めてだった。生の音楽は文字通り「生きている」。テクニックはあるに越したことはないが、それだけではない「何か」があれば、聴き手はその楽曲の世界に入っていくことができる。
うらやましいです。
だいたい、私も一生に一度でいいからプロ・オケの定期会員というものになってみたいと思っています。
「毎度感動」・・・それもよく分かりますよ。
まあ、退職でもしたら、大阪か名古屋のオケの定期会員にでもなれたらいいな、と思いますが、今はCD鑑賞の1回1回の時間も大切にしていきたいと思っています。
客演指揮者の広上さんがCDはインスタントラーメン、生はディナー、と言っていましたが。
でも、CDで聞くことも幸せなことであります!