《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その4中国4》
4中国4 東晋
凡例に記してあるように、本巻は、東晋のはじめからその滅亡に至るまで(317-420)の104年間の書蹟を収めている。この巻では、二王の書蹟を中心として取り扱い、併せて石刻を収めている。
中国書道史4 神田喜一郎
まず、神田喜一郎は、東晋の王朝について次のように説明している。
東晋の王朝は、南渡の喪乱にあたって江南地方に移住した門閥貴族によって支持され、その政治上の枢要な地位は、ほとんど彼らによって独占された形であった。元帝のときの王導をはじめとして、桓温、謝安など名族出身の丞相が相ついで権柄を握り、内治、外交ともに治績があげられていった。彼らは北方の旧領土の回復を念願したが、実現しなかった。しかし江南土着の豪族を懐柔し、この地方の経済力を背景として、新しい佳麗な文化を発展させた。
江南に再建された東晋の王朝政権を掌握した門閥貴族の中で、とりわけ名門とよばれたものに琅邪の王氏がある。中国の書道の歴史の上において、書がもっとも発達したのは東晋であると考えてよいと神田はみているが、その東晋の書道においてもっとも偉大な貢献をなしたのは、この琅邪の王氏の一族である。
ところで、今日一般におこなわれている楷書、行書、草書の三つの書体は、三国西晋のころから普通に用いられるようになり、篆書や隷書は特殊な場合にのみ用いられるにすぎなかった。東晋の初めになってから、江南に移住した貴族の間において、この普及された三つの書体が、さらに芸術的な美しさにみがかれていった。彼らの間にとりかわされた尺牘には、行書や草書または行草をあわせた書体によって、「飄として浮雲のごとく、矯として驚龍のごとし」と批評されたような美しい書がしたためられた。また時に著名な詩や文章を新しい楷書の体に清書して、その清絶さを称讃することもおこなわれた。
このように、楷、行、草の書芸術としての美しさが完成の域に到達した。この偉大な事業をなしとげた天才こそ、古来書聖と仰がれる王羲之その人であった。ここにおいて中国の書は一時期を画し、こののち中国の書体は一つの美の標準をもつことになった。
さて、その王羲之は琅邪の名族王氏の出身で、南渡のときの功臣王導の従子にあたる。あざなは逸少といい、かつて右軍将軍という官についたことがあるので、王右軍と称された。その生卒年月については、いろいろ異説があるが、西晋の懐帝の永嘉元年(307)に生まれ、東晋の哀帝の興寧3年(365)、59歳で没したというのがほぼ正確に近いものと、神田は考えている。
王羲之は45歳のときに、右軍将軍、会稽の内史となり、任地におもむいた。この会稽というところは、春秋時代の越の古都で、今の浙江省の紹興市にあたり、美しい山水の風景にめぐまれた土地である。
彼はここに4年間、在任し、永和11年(355)に官を辞した。その後もこの地で優遊自適の生活を送り、その一生涯を終えた。
さて、王羲之は伝説によると、八分、隷、行、草書、飛白など各体の書をよくし、とりわけ隷書(すなわち楷書)をよくし、古今第一と称ばれていたといわれるが、今日彼の書蹟として伝えられているものは、すべて楷、行、草の三体に限られている。この点について、神田は次のように推測している。この頃、この三体の書がまだ十分成熟していなかったのを、王羲之が初めてこれを芸術的に立派な書体にまで完成することに心血をそそいで努力したからであって、その他の書体は実際あまり書かなかったのであろうというのである。ともあれ、現に彼の書蹟として伝えられているものも、すべてこの三体に限られている。
次にその代表的な作品をとりあげてみよう。
まず楷書で書かれたものとしては、
1.「楽毅論」(図1-5)
2.「東方朔画賛」(図6, 7)
3.「黄庭経」(図8, 9)
がある。この中でも「楽毅論」は王羲之の正書の第一等のものとして、古来もっとも著名な法帖である。これはすでに梁王朝のときに模本がつくられて、人々の間に珍重され、また臨書されている。中国のみならず、日本の正倉院に尊蔵される光明皇后の「楽毅論」(9巻図42, 43)も、古く日本に伝えられた模本によって臨書された。このことから考えても、この法帖がいかに名蹟として重んぜられていたかがよくわかる。
そして行書には、とくに名高いものとして、
4.「蘭亭序」(図12-27)
5.「集王聖教序」(8巻図50-57)
がある。「蘭亭序」は永和九年(353)王羲之が47歳のとき、3月3日の佳節に、当時、会稽の内史をしていた彼が同地方の名所である蘭亭に、名士および一族など41人を招いて、みそぎをおこない、曲水に杯を浮かべて、宴遊の雅会を催したとき、おのおのが作った詩をあつめて一巻としその巻首に王羲之みずから毫を揮うてかいた序文である。これは王羲之の会心の作であったといわれるものである。
しかし、その原本は唐の太宗の時まで伝えられていたが、太宗が崩御するとともに、その昭陵に殉葬されて、この世からすがたを消してしまったといわれている。したがって、現在「蘭亭序」として伝わっているものは、唐代において、臨模したり搨模したりしたものである。それには欧陽詢、虞世南、褚遂良の臨模したといわれるものや、搨書人の趙模、馮承素(ふうしょうそ)などによって搨模されたものなどが伝えられている(図12-23)。そしてその伝本の種類によって書風の異なったものが幾通りもあり、「蘭亭序」は王羲之の書としては必ずしも信用できないところがある。しかし、その成立した由来が風雅であるために、昔から王羲之の書として特に賞美されている。
宋代以後になると、各種の伝本にもとづいて石に刻された無数の拓本が流布するようになったが、そういう拓本の中でも定武本(図18, 19)と神龍半印本(図26, 27)はもっとも伝来も古く、代表的なものとして知られている。
一方、「集王聖教序」というのは、唐の高宗の咸亨3年(672)に僧懐仁が勅令を奉じて
宮中に秘蔵された王羲之の多くの筆蹟の中から文字をよせあつめて、聖教序の原文をあたかも王羲之が書いたかのようにしたてて、それを碑に刻したものである。その原碑は今日なお残存していて、王羲之の行書をうかがうには、「蘭亭序」よりも字数が多く、拠り所にした原蹟にもよいものがあったと考えられており、かえって信頼するに足る貴重な資料とされている。
さて、草書には名高いものとして、「十七帖」(図46-57)がある。これは王羲之の尺牘29通ばかりをあつめて一巻とした法帖である。
その「十七帖」と名づけられているのは、最初にかかげられた尺牘が十七日云々という文句ではじまるのにもとづいている。もとよりその真蹟は今日すでに佚して伝わらない。ただ唐代の初め官立の学問所の弘文館における学生の書を学ぶ手本として搨模されたものにもとづいて後になって模刻した拓本が残っていて、ほぼその原蹟の面目を想像しうる。
この法帖に用いられている書体は単に草書といっても、今日の草書とは異なり、いわゆる独草体とよばれる種類のものである。つまり、一字一字がおちついて単独に書かれ、時には二字ほど続けて書くこともあるが、後に唐代になって発達した張旭(8巻図98, 99)とか懐素(9巻[ママ]図72-75)のような連綿体の草書とは性質が別のものである。
その他、南唐李氏の刻本に擬せられている「澄清堂帖」(図58-67)は、内容も比較的精選されており、刻法も良好であり、王書の鑑賞には欠いてはならないものである。
以上が、王羲之の書蹟として一般にもてはやされてきた主要なものである。しかし、これらはいずれも肉筆そのままのものではなく、転々と模写され翻刻されたりしていくうちに、原蹟の精彩を失って、かなり感じのかわったものになっている。
ところが、日本には幸いなことに、古くから王羲之の真蹟の搨模本が伝わっていて、それによって以上のものでは知られなかった王羲之の真面目をうかがうことができる。
すなわち、王書の至宝とされている次の二帖がそれである。
1.「喪乱帖」(図28-31)
2.「孔侍中帖」(図32, 33)
これは唐代あるいはそれを遡る六朝時代に王羲之の肉筆から精密な方法をもちいて搨模してつくられたものである。だから王の真蹟にもっとも近いものと考えてよく、現在、日本に伝来したものには、これほど立派なものは一つとして見当らない。
ただ、「奉橘帖」(図34,35)とか、乾隆帝の内府に秘蔵されて、三希堂法帖に刻された「快雪時晴帖」(図36)や、のちになって日本に舶載された「遊目帖」(図39-41)などのたぐいがあるくらいである。
また明代の集帖の真賞斎帖に刻された「袁生帖」(図72)、「姨母帖」(図73)、「初月帖」(図74)や、余清斎帖に刻された「思想帖」(図77)、「遅汝帖」(図78, 79)なども直接筆蹟から模刻したものであるといわれる。しかし、神田によれば、これらはやはり「喪乱帖」と「孔侍中帖」には劣っているという。つまり現在ではこの二帖こそ王書の無上の神品と称してよいとする。
さて、王羲之の完成した楷、行、草三体の書はもとより彼が名族の出身であるだけに、そのすがたはいかにも貴族的で、高い香気をはなち、典雅端正である。その上、王羲之の性格から発した縹緲たる仙気とでもいうようなものが揺曳していて、それまでの書とは全く異なった一種の風格がそなわっていると神田はみている。これがその当時はいうまでもなく、さらに後世にいたるまで久しく書法の典型として、ほとんど絶対といってよいほどの権威を維持してきたのは当然であるとする。
ところで王羲之には7人の男子があった。これら7人の中で末子の王献之がもっともすぐれていたことは六朝時代から定評のあったところである。現に『淳化閣帖』を見ても、巻6, 7, 8の王羲之についで、巻9, 10と2巻にわたって編纂されている。
その王献之はあざなを子敬といい、東晋の康帝の建元2年(344)に生まれ、没年については孝武帝の太元11年(386)と太元13年(388)の両説がある。
その書はすでに在世のころから著名であったらしく、『晋書』によれば、桓玄が王羲之と王献之の書を1巻として、座右において愛玩していたという。また南朝宋につかえた虞龢の「論書表」にも「晋末の二王、英と称す」とあり、王献之を父羲之と併称して二王とよんでいる。
王献之の現在伝えられている書蹟も、やはり父羲之と同じく、楷、行、草の三体に限られている。楷書としては、「洛神賦」(図90, 91)がある。これは魏の曹植の名文として知られた洛水の女神のことを賦した文章を書いたものである。
草書の代表的なものとしては、
「中秋帖」(図96)
「地黄湯帖」(図92, 93)
「鴨頭丸帖」(図97)
がある。「中秋帖」は王羲之の「快雪時晴帖」(図36)および王珣「伯遠帖」(図106)とともに乾隆帝の秘蔵した3つの希宝の1つで、あわせて「三希堂法帖」に刻されているので知られている。
「地黄湯帖」と「鴨頭丸帖」はともに『淳化閣帖』に刻されて名を知られているが、「地黄湯帖」はその搨模本が伝存し、「鴨頭丸帖」には明のとき呉廷が原蹟と称せられるものにもとづいて「余清斎帖」に模刻したものがある。
王献之は父王羲之の衣鉢をよく伝えたが、その書風は概して父よりも自由で、その上妍媚なところに特色を発揮しているが、一面においては父の書に見るような骨力に欠けるという憾みがあった。しかしその書風は父よりもさらに広く南朝貴族の間に流伝し、宋の羊欣
、謝霊運をはじめとして、その影響を受けたものは少なくない。
琅邪の王氏の一族は、王羲之、王献之父子をのぞいたほかの人々も、たいていは書をよくしたといわれる。王導は魏の鐘繇と衛瓘から出て行草をよくし、晋の南渡のとき鐘繇の「宣示表」をふところにしのばせて戦禍を逃れたといわれるほどの書の愛好家であった。その子の中では王洽(図104)が特にすぐれており、かつて王羲之が、「洽の書は自分に劣らない」といって称揚したそうだ。
最後に神田は「東晋の石刻」について言及している。西晋においては、石刻の残存するものはきわめて乏しかったが、東晋になると、立碑の禁令はさらに徹底したとみえて、石刻の見るべきものはほとんど絶無といってよいくらいである。だから東晋においては、石刻としてはただわずかに2、3のものが知られているにすぎない。
その一つが「爨宝子(さんぼうし)碑」(図110, 111)である。これは太亨4年=義熙元年(405)に、雲南地方の爨宝子の墓地に立てられた記念碑である。彼が生来の美徳を備え弱冠にして建寧太守となり、しかもわずか25歳で世を去ったことを悲しみをこめて伝えている。隷書から楷書に移行する過渡期のもっとも代表的な書とされる。ともかく王羲之がかの流麗な書風を完成したのちにおいても、雲南の辺境では、なおこうした一時代古い西晋風の、しかも田舎じみた書が行われていたと、日比野丈夫は付言している(日比野丈夫、図版解説、199頁~200頁参照のこと)。
ともあれ、この「爨宝子碑」は、宋の大明2年(458)に建てられた「爨龍顔碑」(5巻図4-13)とともに、二爨の碑とよばれて北碑を愛する人たちにも喜ばれているものである。この碑は、文化の中心からはるかに離れた雲南地方に伝わったものであり、建碑の年代は東晋の終わりに近い頃のものであるが、辺鄙な地方においてつくられたためか、二王の書法の影響は全く認められず、漢隷の八分の技法を誇張したような、きわめて素樸なすがたをなしていると神田は解説している。
神田は東晋の中国書道史について、次のような結語を記している。中国の書法は王羲之、献之父子の出現によって一変することになった。この二人の天才的な技能とめざましい努力によって、はじめて楷、行、草の三体が完成の域に達し、独立した書芸術としての地位を確立した。
このように芸術作品としてすぐれた書が現われるとともに、その題材の上においても、例えば王羲之が夏侯玄の「楽毅論」や夏侯湛の「東方朔画賛」をかき、王献之が曹植の「洛神賦」をかいているように、文学または歴史に関する文章をとりあげることによって、新生面を開いている。
また日常往復の尺牘にも洒脱な草書芸術の新境地を展開して、論評をこのんだ当時の士人の間に賞玩に供した。そしてそれによってますます書の芸術性がみがかれていった。こうして書芸術の鑑賞法が次第に高まっていくにつれて、書道の本質を理論的に探求したり、書品の優劣上下を品第したりする傾向がさかんになってきたことは、中国の書道史の上において看過することのできない大きな現象であると神田は捉えている。
やがて梁代になると、袁昻の「古今書評」とか庾肩吾の「書品」のような書に関する専門の評論書が著わされて、書が詩文とあいならんで、立派な一個の芸術として重んぜられるようになってくる。こうした情勢をつくりだす基盤を築いた二王の功績は偉大であったと神田は理解している(神田、1頁~11頁、199頁)。
王羲之とその周囲 外山軍治
前述したように、王羲之の家は琅邪の王氏といって、山東臨沂の名家であった。この一族が声望をえたのは東晋に入ってからのことで、それは王導が建康において司馬睿を擁し、江南土着の豪族の勢力を結集し、晋室再興の大事業をなさしめたことによる。
王羲之の父の王曠は、この王導の従弟にあたる。『晋書』の王羲之伝にはその冒頭に「王羲之あざなは逸少、司徒導の従子なり」といっている。
前述したように、王羲之の生年については、その没年とともに諸説あって一定しない。この生没年について、外山は詳しく解説している。
1.その享年については、主として『晋書』列伝の59歳説が信じられているようである。「右軍集」の題衛夫人筆陣図後の最後に、「時に年五十有三、永和十四年四月十三日書」とあるから、これによって逆算すると、恵帝の光熙元年丙寅(306)に生まれ、哀帝の興寧2年甲子(364)に没したことになる。しかし永和という年号は12年で終わり、永和14年という年はない。これは偽託であることが明らかで、したがってこの説は信ずるに足りないと外山はみなす。
2,次に羊欣の「筆陣図」に、「羲之三十三歳にして蘭亭叙を書す」といっている。これによって推定すると、元帝の太興4年辛巳(321)に生まれたことになる。ところがこれを信ずると、王羲之列伝の記事と符合しない点が生ずる。すなわち、列伝には、王羲之が13歳で周顗(しゅうぎ)に謁したという記載があるが、その周顗は太興4年の翌永昌元年(322)に没しているから、王羲之はまだ生後1年になるかならないかで、周顗に謁したことになるわけである。銭大昕の『疑年録』に、太興4年辛巳(321)に生まれ、太元4年己卯(379)に没した、としているのはこの羊欣の「筆陣図」によったものであるが、上記のような理由で直ちにこれに従うことはできない。
羊欣は宋の人で、王献之に書法をならった人であるから、もっとも正しい記録を残すはずの人である。しかし王羲之と周顗との関係は『世説新語』汰侈篇にもみえていて、全然無視してかかることもできないので、この点が落着しない限り、この説には従い難いとする。
3.唐の張懐瓘の『書断』には、王羲之は升平5年(361)に卒したと書いている。宋の黄伯思の『東観余論』の「跋瘞鶴銘後」の条には、『書断』の説を採り、『晋書』列伝の59歳説から推して、晋恵帝太安2年癸亥(303)に生まれ、穆帝升平5年辛酉(361)に没したとしている。
4.この説について、魯一同の『右軍年譜』は次のようにいう。右軍集に桓公以江州還台帖があるが、桓温が江陵から入朝したのは興寧2年(364)7月のことであり、その鎮を姑孰に移したのは興寧3年2月である。
ここにおいて固く内録を譲り、揚州を遙領したが、この事実を還台といったもので、升平以前にはかつて還台のことはなかったのである。
したがって右軍集の桓公以江州還台帖は、興寧3年2月以後の筆であり、王羲之は升平5年以後、少なくとも4年、すなわち興寧3年まで生存したことが明らかであると魯一同はいう。
魯一同はさらに次のようにいっている。
郗曇は升平5年に卒したが、『晋書』の郗愔伝には、愔は曇が卒してから、ますます処世の意なく、郡(会稽郡)にあって優遊し、姉の夫王羲之、高士許詢と心を棲まし穀を絶ち、黄老の術を修めたことを載せており、また『世説新語』には右軍が王敬仁(名は脩)、許玄度(名は詢)とよく交わったこと、この両人が王羲之よりもさきに没したことが知られることなどを指摘し、これらのことを綜合すると、王羲之は郗曇と同年の升平5年に没したとは考えられない、といっている。
この魯同一の批判について、外山は大体当っているとみなしている。なお、王敬仁は永和12年5月13日、王羲之が「東方朔画賛」(図6, 7)を写し与えたという人物で、『書断』によると、升平元年(357)、24歳で没したとなっている。
また『右軍年譜』によると、「十七帖」の中に「足下今年政(まさ)に七十なるか。(中略)吾、年耳順に垂んとす」という言葉がある(図48, 49)
これは王羲之から周益州(名は撫)におくった書と考えられているが、周撫は蜀に鎮すること20年で、興寧3年(365)6月に卒した人である。この書に、年耳順に垂んとすといっているから、そのとき王羲之はまさに59歳であったわけである。
それで王羲之の卒もまた興寧3年の後に至ることをえない、という推定を下している。59歳は『晋書』王羲之伝の説とも一致する。この点について魯同一は力をえたものであろうとし、この魯同一の説が現在のところ、もっとも妥当な説のように思うと、外山は考えている(神田もこの説である、3頁参照のこと)。
王羲之が興寧3年(365)に没したとして逆算すると、永嘉元年(307)、司馬睿が建康に鎮した年に生まれたことになるわけである。
5.このほか、姜亮夫の「歴代人物年里碑伝綜表」によると、太安2年(303)に生まれ、太元4年(379)に没したとしている。ただ、そうすると77歳まで生存したことになるが、その論拠を知ることができないと外山は否定している。
以上の王羲之生没年の諸説を整理すると、次のようになる。
1.「王羲之題衛夫人筆陣図後」
光熙元年(306)~興寧2年(364) 59歳
2.羊欣の「筆陣図」→銭大昕の「疑年録」
太興4年(321)~太元4年(379) 59歳
3.張懐瓘の「書断」→黄伯思の「東観余論」
太安2年(303)~升平5年(361) 59歳
4.魯一同の「右軍年譜」
永嘉元年(307)~興寧3年(365) 59歳
5.姜亮夫の「歴代人物年里碑伝綜表」
太安2年(303)~太元4年(379) 77歳
次に外山は王羲之が薫陶を受けた人物について考察している。王羲之は幼にして父に死別し、母兄の訓育をうけたという。王羲之が永和11年(355)3月、会稽内史を辞するときにかいた「祭墓文」に「羲之不天、夙に閔凶に遭い、過庭の訓を蒙らず、母兄に鞠育せられ、漸く庶幾するを得たり」といっている。
ところが、この母兄については『晋書』その他にも記すところがない。この点について、外山は姚鼐の「愔抱軒法帖題跋」が興味ある考えを出しているとして、詳述している。
同書の王廙の妻の条と兄霊柩垂至帖の条とにおいて、王羲之の兄として王籍之という人物を姚鼐は想定した。
叛乱をおこした王敦の敗死後、この乱に関係した王彬(おうひん)と兄の子の安成太守王籍之は罪に問われ、王籍之の方は建安(福建省)に徙されてそこで没した。謫徙の人であるから帰葬することができなかったので、隔絶すること30年、つまり王羲之51歳になってはじめて、乞うてその兄の柩を返葬することができたと姚鼐は考えた。
王羲之の帖に、「慈蔭幽絶して、卅年に垂んとす」(「建安帖」、図85)とか、「慈顔幽翳して、三十年に垂んとす」とあるのは、このことを指すものと姚鼐はみなした。
この姚鼐の説に対して、外山は次のように批評している。王籍之は『晋書』王彬伝によると、彬の兄の子となっている。王彬の兄といえば、王羲之の父の王曠か、叔父の王廙(図108)などのことである。何故、何某の子と明確に書いていないのか、この間の事情はわからないとしながらも、この王籍之を王羲之の兄にもってくるのはよい着想であると外山はいう。ただ、姚鼐は王羲之の没年を興寧3年(365)ではなく、升平5年(361)としている点はなお検討を要するし、王籍之だけは許されないで、建安(福建省)に徙され、そこで死んだというのは、姚鼐の考えであり、臆測に過ぎる嫌いもないではないと外山はコメントしている。
この点、「建安帖」(図85)の図版解説をした中田勇次郎の批評も紹介しておこう。この「建安帖」は王羲之の兄の霊柩と見てよいようであり、王羲之が30年前に死別した兄の霊柩が長らく建安の方にあったのが、今度こちらの方へうつされたことを報知した手紙ということになると、中田も解している。この兄というのが、姚鼐の「法帖題跋」の説では、王籍之をさすが、「琅邪臨沂王氏譜」では王籍之は彬の兄の子となっていて、王羲之の実兄ではない。そこで姚鼐の説は一説として参考にとどめておくと中田は断っている(中田、図版解説、189頁~190頁参照のこと)。
話を元に戻そう。少年時代の王羲之を庇護した人としては、宰相周顗、叔父の王廙、父と従兄弟の間柄にある王導、王敦らがあった。そのうち、王廙は、衛夫人とともに王羲之の書の上にもっとも大きな影響を与えた人として考えられている。王羲之は永嘉元年に生まれたという説に従うと、その時、すでに16歳になっていたから、十分その影響をうけることができたはずである。王導、王敦からも一族のホープとして大いにその将来が期待されたらしい。
ところで、王羲之はそのうち郗鑒の女を娶った。名は璿(せん)といった。郗鑒は高平金郷(山東省)の人であった。
『世説新語』雅量篇には、この婿えらびの経緯を記していて、それが有名な話になっている。京口(江蘇省鎮江)におった郗太傅(郗鑒)が門生を遣わして王丞相(王導)に書をおくり、女婿を求めた。丞相は郗の信君(使者)に語げ、東廂に往って任意にこれを選べ、といった。門生が帰って郗に報告していうことには、王家の諸郎はみなりっぱであるが、婿さがしにきていると聞いてみな堅くなっていた。ただ一人だけ東床上に坦腹して臥し平気にしているのがいたと。郗公がいうには、これこそもとめる婿がねだ、といって、たずねてみるとこれが王羲之であった。そこで女を嫁入らせた、と。
その注に引いた王氏譜によると、郗鑒の女、名は璿(せん)といい、王羲之との間に七男と一女とをもうけた。そして王羲之はまたその末子王献之のために郗曇(夫人の弟)の女を娶ったので、王、郗両家はのちに重縁になった。
王羲之の官歴について、外山は述べている。その第一歩は秘書郎からはじまった。そして咸和9年(334)、28歳のとき、征西将軍庾亮の請によってその軍府の参軍となり、武昌に赴いた。庾亮は元帝の中興の業をたすけ、蘇峻の乱のとき、征西将軍となって長江上流の鎮撫にあたった人である。
王羲之が章草をもって庾亮に答えたのをみた亮の弟の庾翼が、深く歎服して、書をおくって、次のようにいった。
「吾、昔伯英(張芝)の章草十紙を有したが、過江顚狽、ついに乃ち亡失せり、常に好迹の永えに絶えたるを歎きしところ、忽ち足下が家兄に答えたる書をみたるに、煥として神明のごとく、頓みに旧観に還る」と。
兄の庾亮も草、行を善くしたと伝えられるが、書名は庾翼の方が高く、隷、行を善くし、若い時分には王羲之と比肩したといわれる。のち王羲之の名が高くなってからも、庾翼はこれに服さなかったが、王羲之が庾亮に与えた書をみてはじめて王羲之に服したと伝えられる。
書人としての王羲之の輪郭が次第にはっきりしてきた時期、および王羲之の政治上の意見が次第に明確になってくる時期は、おそらく庾翼がこの書を送った頃であったと外山は推測している。
咸康4年(338)、王導が丞相となり、郗鑒が太尉、庾亮が司空となった。この頃、王羲之は王導からたびたび建康政府に入れといわれたが辞退したという。これは後年殷浩に報じた書にみえている。殷浩は会稽王昱がその相談役にした人物で揚州刺史であった。王羲之はこの殷浩に嘱望されて輔軍将軍に推された。このときに答えたのが、この殷浩に報ずる書である(魯一同によれば、永和2年(346)に書かれた)。
そこには、もとより廟廊の志のないことをいい、「兒娶り女嫁してより、すなわち向子平の志を懐き、しばしば親知とこれを言うこと一日にあらざるなり」といっている。
子供たちがそれぞれ成人した上は、官界を去って悠々自適の生活に入りたいというのがその素志であるという。王羲之は天師道(五斗米道)に熱心であったというから、自然に遊び、服食養生の道を楽しみたいというのが本心であったと思うが、それだけの理由で建康政府に入ることを望まなかったとは外山には思われないという。
その理由として、王羲之は中央政府に入ることは望まないが、地方官として外に出ることならば嫌うところではないと、殷浩に報ずる書で記している点を指摘している。そこには「もし駆使を蒙らば、漢隴巴蜀もみな辞せざるところである」とある。
王羲之にとっては、中央政府部内の空気に入りきれないものがあったのではないかと外山は推測している。つまり姑息な平和をたのしみ、わが身の栄達、家門の繁栄をのみ望む人々が集まり、遊惰な気分がみなぎっているような中央政府へ入る気がしなかったのではなかろうかという。
ところで『世説新語』言語篇に、王羲之が謝安とともに冶城に登って四周を眺望しながら語り合ったことが書かれている。このとき王が謝にいって曰く、
「いま四郊に壘多し、よろしく人々自效すべきに、虚談務を廃し、浮文要を妨ぐ。おそらくまさによろしきところにあらず」と。
このような王羲之のきびしい気持ちが建康政府部内の空気にあわなかったと外山はみている。
また『世説新語』には、「高爽にして風気あり、常流に類せず」とか「風骨清挙」とか王羲之を評したいろいろな言葉がある。この点からも常人とは違った気骨の持ち主であったことが知られ、このようなきびしい気持ちと、世俗を避けて隠遁したいという気持ちとが、いつも背中あわせになっていたと外山は解している。
それでも王羲之は一時建康政府に入ったが、永和7年(351)、45歳のとき、右軍将軍、会稽内史として会稽郡山陰県に赴任した。会稽郡は、土着の豪族の数も多く、食糧も豊富であり、江南第一の形勝の地であったが、王羲之はここで4年間在任する。
この地には、謝安(図109)、道士許詢、僧支遁など各界の名士も多く住んでおり、名士や土着豪族と交わりながら、会稽内史としての職責を果たした。その交友の広いことは、永和9年(353)3月3日、蘭亭に集まって、禊を行った人々の顔ぶれを一見しただけで十分であろう。
王羲之が病と称して会稽内史を辞したのは永和11年(355)49歳である。ただ王羲之の会稽住まいは退官後の方がむしろ長く、その死に至るまでの10年間があった。これは王羲之がその素志の通り余生を楽しんだ期間である。山水の遊びを尽くし、釣糸をたれてたのしみ、また道士許邁とともに服食を修め、東南の諸郡を徧遊した。山陰の一道士に「道徳経」を写して与え、好鵝と交換したというのもこの間のことである。しかし彼は全く世を捨てたわけではなく、政治の動き、ことに北方政策に関心を抱いていた。例えば、永和12年(356)、桓温による洛陽の回復、琅邪に存在する王氏の祖先の墳墓の修復の報に歓喜し(図66, 67)、そしてその後幾ばくもなく前燕の進出のために、旧京、先墓の再び失陥したことを嘆き悲しんだ(図28-31)。
ここで、356年、桓温による洛陽の回復のことを伝える書をみておこう。「王略帖」(澄清堂帖、紫藤花館本)によれば、
「知虞師春。桓公以至洛。即摧破羌賊。賊重命。想必禽之。王略始及舊都。使人悲慨深。此公威略實著。自當求之於古。真可以戦。使人嘆息。」(後略)
この帖は、「桓温が洛陽に至って羌賊すなわち姚襄を撃破した。賊は命を重んじている。きっとそれを捕虜にしていることとおもう。今までしばしば北伐して奪還しようとした旧都洛陽が、はじめてわが王朝の領土となり、まことに感慨無量である。この桓公の威略はまことにすばらしいもので、このような人物は現代にはなく、当然、古に求むべきである。まことに恐るべきことで、感嘆させられる」という。
先述したように、桓温が姚襄を破って伊水に至ったのは永和12年(356)8月のことである。東晋の人士がひとしく抱いていた北土回復、旧都奪還の念願がひしひしと文字の上にあらわれ、その奪還した時の喜びが目の当たりに浮かぶようである。
この点に関して、中田勇次郎は次のようにコメントしている。
「手紙というものが単に文学作品でなく、現実の社会に根をおろした切実なものであることがこれによってよく示されているとともに、当時第一の書人であった王羲之によってこのような史実がありありと伝えられていることはまことに興味のふかいことである。」
(中田、図説解説「図66, 67 王略帖」、181頁~182頁参照のこと)。
話は元に戻し、外山軍治は王羲之について北方回復を忘れえない点では、もっとも北方豪族の気概をもった人物として理解している。そして同時に会稽で優遊するにふさわしい文雅の士でもあったと捉えている。東晋特有の優美な中に、気骨を感じさせる人物であった。
王羲之とその子供たちと比較して、王羲之は、骨っぽく、そして毅然たるものをもっていたと外山はみている。王羲之の子たちはその数も多いが、何となく線が細く、家庭生活においても、少しく乱れがみられた。例えば、第七子の献之にしても、はじめ母の弟にあたる郗曇の女と結婚したが、のち離婚して新安公主に尚した。離婚は東晋貴族の間ではさして珍しくなかったようだ。
しかし、献之が後年病気になったとき、離婚した前妻のたたりであろうか、と恐ろしがったりしているのは少々だらしないと外山は評している。
また、次男の凝之は会稽内史となり、会稽に住んだが、父ゆずりの五斗米道にこり過ぎて、孫恩が会稽に攻めよせたときに防備を施さず、命をおとすという情けない人物であった。その妻の謝道蘊は、才女のほまれが高かったが、凝之は、この夫人からも馬鹿にせられていたことが『世説新語 賢媛篇』に見えているそうだ。ともあれ、王羲之の子供たちは家範を得たがそれぞれ特徴があり、凝之はその韻をえ、操之はその体をえ、徽之はその勢をえ、渙之はその貌をえ、献之はその源をえたといわれる(外山、12頁~19頁、203頁)。
二王法帖の系譜 中田勇次郎
中国の伝統的書芸術の最高権威と称せられているだけあって、王羲之、王献之父子の伝存する書蹟は、夥しい数にのぼっている。そこで中田勇次郎はその数多くの法帖について、その書蹟の研究資料としての大体の系統を立てることを試みている。とりわけ、唐宋二王朝における法帖の資料の主要なものを検討している。
唐王朝にはかなり多数の二王の書が、王室を中心にして閲玩し、収蔵されていたようだが、その内容が実際どんなものであったかについては、記録の上には詳しくあらわれていない。幸いに、褚遂良の撰んだ「晋右軍王羲之書目」および張彦遠の録した「二王書語」(「右軍書記」と「大令書語」よりなる)の2つの文献によって、その一部をうかがうことができる。以下、中田の解説をまとめてみよう。
1.褚遂良の「晋右軍王羲之書目」
これは唐太宗の貞観年間(627-649)に褚遂良が禁中において王羲之の書蹟を臨写したときに録出しておいた法帖目録である。一に貞観目録ともよばれている。
内容は正書は5巻14帖あり、「楽毅論」(図1-5)を第一とし、「黄庭経」(図8, 9)、「東方朔画賛」(図6, 7)がこれにつぎ、魏の鐘繇の書を臨したといわれる「墓田丙舎帖」(3巻図114)、「宣示表」(3巻図107-110)などを列挙している。
行書は58巻266帖あり、「蘭亭序」(図12-27)を第一とし、第二以下には多く尺牘を載録している。この中には有名な「孔侍中帖」(図32, 33)が含まれているし、「奉橘帖」(図34,35)、「快雪時晴帖」(図36)などもあり、「官奴帖」(図82-84)にあたるものもあり、「右軍書記」の中に見えるものもかなり多い。
撰者の褚遂良は王書の真偽の鑑定についてはもっとも精審であり、その識別には一つとして舛誤はなかったと称せられているほどである。だからこの書目も彼の観賞した王書の中から真蹟として疑いのない名品を録出したものと考えられる。したがって、この書目こそは王書の研究の第一位に置かれるべき貴重な資料であると中田はみている。
ただ、この書目においては各法帖のはじめの数句が書きとどめられているだけで、全文が明らかではないので、正確にはその内容がわからないのが遺憾であるという。しかし概して日付と名の書き出しではじまる尺牘の形式のものが多く、単に王書の断簡零墨といったようなものではなく、書式の完備し、もちろん書も立派な法帖が選択されていると中田は想像している。
2.「二王書録」
二王の法帖を集録したもので、「法書要録」に収録され、「右軍書記」と「大令書語」よりなる。「右軍書記」は張彦遠が好事者に王羲之の草書を知らせるために集録したもので、「貞観書目」の正行体に対して、草書のものをこれによってうかがうことができる。内容は主として相聞の尺牘であって、巻頭に有名な「十七帖」を掲げており、集録した法帖の合計が465帖あると巻末に記しているが現存のものはその数に達しない。
しかし古い時代における一人の人物の尺牘がこのように多数伝わっていることは珍しいことで、ことにこの書記では法帖の全文がそのまま釈されていて、王羲之の日常生活が生きた通俗の文字資料として目の当たりに展開され、彼の人となりを各方面から観察できることは、王書の研究にとっても、この上もないありがたいことであると中田はみている。
一方、王献之の「大令書語」は帖数もきわめて少ない。ただ、梁の鑑定家の徐僧権や唐代における二王の収蔵家の鐘紹京などの押署のあるものがあることは注目を要するという。
3.「十七帖」
「右軍書記」の巻頭にかかげて、唐太宗の蒐集品の中でももっとも著名なものであるといっている。貞観年間の秘府における草書帖の装背の式どおり、長さ1丈2尺とし、107行、942字すべて23帖よりなり、貞観2字の小印と、開元2字の小印があり、跋尾に当時の大臣の名が列記されていたという。
「十七帖」の名称は巻首に「十七日」という字があるのでそれを取って名づけられたものである。現在伝わっている「十七帖」は唐模本によったとおもわれる刻本で、帖数は29帖ある。
「右軍書記」の記載より6帖多く、のちに勅字と「付直弘文館臣解无畏勒充館本、臣褚遂良挍無失、僧権」の21字とがある(挿51)。すなわち直弘文館の解无畏に模勒させて、館に出入する子弟の書の手本に充てたものであり、褚遂良の校定を経ている。僧権は梁の徐僧権が合縫にしるした押署であり、梁王室から伝来した証左と考えられる。
ところで、この後記はまず勅押が唐玄宗の「鶺領頌」(8巻図92、93)にあるのと同筆といってよいくらい似ているので、その下にかかれた跋と僧権2字の位置なども、ことさらに配置したようで、刻本にするときに作為したような気味があると中田はみている。ただ、「右軍書記」より多い6帖の中には、『淳化閣帖』に刻入されているものがあり、いきおい閣帖より以前にあったものと考えるのがよく、またこの6帖の書風も内容も他の帖と決して不調和ではないので、「右軍書記」の本よりのち、『淳化閣帖』より以前においてこのような形式のものが作られていたと中田は推定している。
この帖はその手紙の文章も趣旨ももっともよく王羲之という人物を知るに役立つところがあり、しかもその書は彼の草書の典型として第一位におくべきであろうと中田は位置づけている。
4.「伝藤原行成臨王右軍尺牘」
日本に伝来した王羲之の法帖に「喪乱帖」(図28-31)と「孔侍中帖」(図32, 33)があることは衆知のとおりである。「孔侍中帖」は「貞観書目」に収録されているもので、中国においてもその由緒の正しいものであることが考えられる。
この二帖のほかに、やはり「東大寺献物帳」(9巻図48, 49)に搨模本によって臨書したとおもわれるものに伝藤原行成筆の「王右軍尺牘十二帖」がある。「秋萩歌巻」(12巻図30, 31)の巻尾にあるもので、王の尺牘を行成風の筆致で臨書したものである。
5.「宝真斎法書賛所載唐模王右軍尺牘」
宋の岳珂の「宝真斎法書賛巻七」に載せられている王羲之の尺牘で、10帖あったというが、今、刻本で見られるのは「遣言帖」「河南帖」の2帖だけである。
次に宋代における二王の法帖を見てみよう。この時代の法帖はすべて刻本の形式で伝えられているので、原本を模勒して鐫刻し、さらにそれを拓本にとるという3段の工程を経ている。だから、唐代およびそれ以前における搨模本のような華潤さに乏しいという難点がある。その代表的なものは『淳化閣帖』である。閣帖が刻されてからのちも、多くの刻本や集帖があらわれたが、今日伝えられているのは閣帖のほかに「大観帖」「絳帖」「汝帖」「鼎帖」「宝晋斎法帖」「二王帖」などで、大半は亡佚してしまっている。ここでは二王の法帖をこれらの諸本の中から拾っている。
6.『淳化閣帖』
宋の太宗の淳化3年(992)、翰林侍書王著に命じて内府の名蹟を模勒上石せしめた法帖である。全10巻あり、その中、巻6, 7, 8に王羲之、巻9, 10には王献之を収めている。
内容から見ると、「貞観書目」や「二王書録」などに載せられているものもあるが、前代の
名蹟を精選したものではなく、これ以外の著名なすぐれた筆蹟がのちの増補した刻本にあらわれてくる。
そのうえ全帖にわたって偽蹟とおもわれるものが多数その中に交じっている。これについては宋の米芾と黄伯思が一々の法帖の真偽を鑑別した。さらに清朝になって、王澍が「淳化秘閣法帖考正」をあらわし、諸方面からの考証を詳細にした。
7.「絳帖」
北宋のとき潘師旦が『淳化閣帖』を増損して翻刻した集帖である。夙に欧陽脩の「集古録跋尾」に見えているもので、現存する翻刻本ではもっとも古いものである。前後各10巻よりなり、前巻の第6, 7、後巻の第3, 4, 5, 6が王羲之、前巻の第8, 9, 10、後巻の第7が王献之となっている。後帖の第3, 4, 5, 6は東京の書道博物館に所蔵されている。
8.「汝帖」
大観3年(1109)8月、河南汝州の郡守王宷が刻した集帖である。すべて12巻あり、第6巻に二王の尺牘と「洛神賦」が刻されている。本来この法帖は『淳化閣帖』や「秘閣続帖」から雑取してつくられたものであるが、現存する拓本は文字が漫滅してほとんど鑑賞には堪えないという。
王羲之は「想無悪帖」以下10帖を収めている。すべて閣帖に載っていないもので、「姨母帖」と「初月帖」は「万歳通天進帖」の中にある名品であるが、その他の帖とともに「秘閣続帖」から取ったものと中田は推測している。「姨母帖」を除く他はすべて今の「澄清堂帖」に見られるのも注意すべき点であるという。王献之の尺牘は「授衣帖」「東家帖」「月終帖」の3種で、いずれも閣帖に刻されているものである。
9.「鼎帖」
紹興11年(1141)、鼎州(湖南)の郡守張斛が『淳化閣帖』のほかに「元祐秘閣続帖」、「潭帖」「絳帖」「汝帖」などを合せて刻したといわれる集帖である。現在その残本第10から第15に至る6帖を存し、東京書道博物館に所蔵されている。
10.「宝晋斎法帖」
南宋の宝祐年間(1253-1258)、無為郡(安徽)の通判をしていた曹之格が刻した集帖である。すべて10巻よりなり、巻1から巻6までは王羲之、巻7, 8は王献之を収めている。宝晋斎は米芾が晋の謝安の「八月五日帖」および王羲之の「王略帖」を手に入れてその書斎に名づけた号といわれる。米芾が無為の太守となったときに、この地で晋帖を刻したことがある。曹之格は宝晋斎のあとをついで米芾の刻帖に基づいて晋帖を主とした集帖10巻を編して刻し、「宝晋斎法帖」と名づけたものと中田は推測している。
この帖は米の臨書という説もあるが、中田はこの説を否定し、やはり原蹟または原帖からの模刻であろうとする。この中には「王略帖」をはじめとして、「貞観書目」に見える「期小女帖」など、めずらしい法帖がある。米の臨本は「戯鴻堂帖」巻14に7帖刻されているが、この帖に比べると米の筆癖が出ていて、「宝晋斎法帖」が米臨でないことがよくわかると中田は強調している。
11.「二王帖」
南宋の許開が清江(湖北)の太守をしていたときに刻した集帖である。上中下3巻よりなり、王羲之は上巻に56帖、中巻に50帖を収め、王献之は下巻に44帖を刻している。『淳化閣帖』のほか、「宝晋斎旧帖」「絳帖」などから集めて刻したもので、各帖にその依った帖名をことわっており、のちに「二王帖目録評釈」がついているので、研究に役立つところが多いという。
「石脾帖」「愛鵞帖」「筆精帖」などは他の集帖ではあまり多くは見られぬ珍しいものである。中でも「筆精帖」は「澄清堂帖」(戯鴻堂帖本)にも載ってはいるが、もと米芾の「書史」にも見え、貞観の印記のあったという名蹟である。
12.「澄清堂帖」
王羲之の尺牘を集刻した法帖の残巻で、現在では5巻まで知られている。すぐれた法帖によって精刻していると思われる点においては類例のないよい集帖であるという。大体の形式は第1巻から3巻までは『淳化閣帖』に相当し、第4, 5巻は閣帖以外の法帖を収めていると中田はみている。また閣帖の部分は米芾と黄伯思が偽蹟と鑑定したものをほとんどそのまま刪除したかのようになっていることから、米、黄二氏より以後にその意見を参照して編せられたと中田は推測している。
以上、唐宋二王朝における法帖の資料の主要なものを中田は検討している。二王の法帖の資料の中で、もっとも基礎的なものは「喪乱帖」「孔侍中帖」のように由緒の正しい搨模本を第一とすべきであるが、文献の上からは褚遂良の「貞観書目」における正行体の書と、「二王書語」における草書がもっとも大切であると中田はいう。
特に「貞観書目」に載っているものはもっとも信頼すべきものであろうとする。ただ草書のものは数もおびただしく、あるいは南朝貴族が学書したものや戯習したものが交っているかもしれないので、各帖について諸方面からの考究が必要であるという。
ところで宋代になると模刻の形式をとるために真蹟の精彩が失われる。『淳化閣帖』には五代の宮廷人の倣書したという偽蹟が混入しているといわれているが、米芾や黄伯思があらわれて精審な鑑別をおこなうころから、鑑賞が更に進んできて、閣帖に取り入れられなかったすぐれた法帖が見出されて、官私の集帖に模刻されていった。
けれども刻本のものは結局肉筆には及ばないという嫌いはあった。しかしながら、正しい真蹟によって、これらの不足を補って原蹟を想定することにより、これらの刻本のものにもその書の美しさを還元し、こうして伝えられた資料をよりよく生かしてゆくべきであろうと中田は主張している。
最後に、これらの資料を書風の上から簡単に大別すると、
1.「姨母帖」(図73)のような一見未熟とおもわれるものを一類とする
2.「喪乱帖」(図28-31)、「孔侍中帖」(図32, 33)にほぼ合致するもの、またはそれに近いものを一類とする
3.「十七帖」(図46-57)に似ているものを一類とする
4.「初月帖」(図74, 75)「遠近清和帖」(図64)のような「十七帖」よりもいくらか放逸な草書のものを一類とする。
5.「思想帖」(図77)や「裹鮓帖」(挿44)のような技巧的で趣味のゆたかなものを一類とすることでできるのではないかという
そしてこの書風の区分は「羲之」二字の署名の結体用筆によってある程度まで見分けることができるとする。このように書風を類別することによって、上記の諸資料をまた各法帖について識別することができると中田は考えている。
二王の法帖の系統を立てるには、このほか尺牘の書式、材料、用語、内容にもられた史実、ひいては二王の人物にも及ばねばならないと残された課題を付記している(中田、20頁~36頁)。
押縫について 内藤乾吉
内藤乾吉は本巻で担当した王羲之の書の解説の中で、しばしば押縫のことに言及しているが、解説の中で十分説明することができなかったので、ここに補説を記している。
唐以前の書道の研究には必須の文献である「法書要録」を読んだ人には押縫については説明するまでもないことだが、近来は書道の専門家でも、こうした書物を敬遠し読まないで議論する人があるので、ここで内藤は説明しておきたいという。
押縫というのは、縫すなわち絹や紙のつぎめに押署する、すなわち署名をすることである。その目的は、今日、証文が2枚以上になると割印をするのと同じで、前紙と後紙が連続して分離すべきでないことを証し、差しかえなどの詐欺行為を防ぐにある。したがって押縫は本来は公私の法律文書に施された方法である。
内藤は西本願寺の大谷探検隊が西域からもたらした唐代の官文書を調査したが、それら官文書には数多くの押縫の例が見られ、古法帖の押縫研究に参考になることがわかったという。
その官文書は主として唐の開元、天宝(713-756)頃までの敦煌県、西州都督府、高昌県で処理・保管された官文書であった。そこには、一つの文書の用紙が2枚以上にわたって、貼りつぎの必要のある場合、および当時の官文書の整理保管の方法として、多数の文書を今日のように綴り込みにせずして、次々に貼りついで巻子として保存した。その貼りつぎをする場合には、みなその文書処理の責任ある官吏が押縫をしている。
その押縫は紙背にしている場合が多く、原則としては紙の下端から約5, 6糎のところにしている。押縫の署名は、姓を書かずに名の一字を書き、2字名の場合もその中の1字だけを書いている。このような唐代の官文書の押縫の方法はおそらく六朝時代から継承されたものであろうという。
また日本の正倉院の古文書にも同様の押縫があり、これは中国の方法を継承しているものであるという。法帖に押縫があるのは、何通かの帖を巻子に仕立てて整理保存する場合に、官文書の整理保存の方法が応用されたものであるとみている。王羲之その他の法帖に見える押縫は「法書要録」などに見える記録によると、みな法帖の整理を命ぜられた官吏のものである。つまりそれらの官吏が法帖を整理する場合に、官文書の整理保存法に準じた方法を取ったものとみなしている。
ところで「法書要録」には、六朝時代および唐代に朝廷が古法帖を蒐集整理したことに関する記録が載っている。その記録に見える法帖整理担当者の名には、梁では徐僧権、唐懐充、姚懐珍、満騫、朱异、沈熾文、隋では江総、姚察がみえる。これらの人々は整理された巻の跋尾に署名したことは勿論、その大部分の人は巻中の押縫をもしたであろうと内藤は推測している。
そして内藤は王羲之と王献之の法帖にみえる押縫の例を挙げている。例えば、「蘭亭序」の「僧」(挿49, 50)、「喪乱帖」(図28-31)の「僧権」(図28)と「珍」(図30)、「奉橘帖」(図34, 35)の「僧権」「懐充」「察」、「万歳通天進帖」中の王献之の「廿九日帖」(図102)の「僧権」である。
そして内藤は「喪乱帖」(図28-31)の図版解説においても、この点について詳述している。
御物の「喪乱帖」は、前田家の「孔侍中帖」(図32, 33)とともに、現存する王羲之書の摹
本中での第一級品である(実際、全集第4巻、中国4東晋の附録は、この二帖の搨模本である)。
その第1行の「之極」の右側にやや薄れて見えているのは「僧権」という字の左半である。これは梁の徐僧権の押縫をそのまま摹したものである。ここは原本では、紙縫のところで紙が破断されていたために、「僧権」の文字の左半だけが残っているという。その紙の破れ目を写した細い線が、乱の字の末筆から下へかけて認められる。そしてこの僧権の押縫は「奉橘帖」(図34,35)の中の「平安帖」(図34)に見えるものと全く同じ形をしている。
また第9行の「良不」と第10の「拝」の間にある字は、おそらく姚懐珍の押縫で「珎」の形が少し崩れたものと内藤はみている。
徐僧権も姚懐珍も梁の時に内府の法帖の整理を命ぜられ、法帖の首尾や縫に押署した人々であることは「法書要録」その他に見えている。例えば「法書要録」の「右軍書記」の中の「足下晩…」の条には、「前辺僧権、後辺珍」と記してあって、僧権と珍とが同じ帖に押縫をしている例のあったことが知れると内藤は解説している(内藤、図版解説「喪乱帖」、164頁、参照のこと)。
さて、法帖に押縫をしたのは大体に隋までで、唐の太宗が貞観中に整理させたものには、縫に貞観の印を押し、開元の時には開元の印を押した。
官文書に押縫をすることは何時まで続いたかは詳かにしないが、宋代になると押縫というものに対する認識が漸く乏しくなっているという。例えば、黄伯思の「法帖刊誤」第九王大令上に、法帖の摹刻には往々原本では行傍にある字を行中に入れている場合があることを指摘し、それらは文意の上では別に差支えのないものもあることを述べている。
その後、黄伯思は次のように述べている。引用が長くなるが、記しておく。
「蘭亭敍を読むものが、不知老之将至の傍にある僧の字を、王羲之が曽字を誤書したものと考えて、かりにそれを行中に摹入したとしたら、これは不都合である。大体、古の蘭亭敍は元来二十八行で、第十四行のところに至って行間が特に広いのは、紙のつぎめに当るからであって、知の字(不の字の誤りか)がたまたまこの行の末にあることとは無関係である。梁の舎人徐僧権がその傍に名を書いたが、当時これを押縫といった。梁の御府中の法書はおおむねこの通りである。この帖は僧字の下にその権字を失ったものである。
近世の人がこれを知らずして、僧は曽の誤りであるといい、よって曽不知老之将至と読むのは間違いである。そのことは「晋史」の王羲之の本伝および「法書要録」第十巻(右軍書記)にはみなこの敍を載せているが、ただ不知老之将至とあって曽字はないところから見てもわかる」といっている。
なお僧字を曽の誤りと見る説は蘇東坡の「書摹本蘭亭後」(東坡題跋巻四)に見えていると内藤は付言している。
「蘭亭序」の僧字が押縫であることはもはや言うまでもないことであるが、そうすると開 皇本や定武本(挿49, 50)のように僧字のある「蘭亭序」は、やはり梁の内府を通って来た本をもとにして、それを忠実に伝えているということになると、内藤は理解している(内藤、37頁~40頁)。
別刷附録 王羲之 喪乱帖 孔侍中帖
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その3中国3》
3中国3 三国・西晋・十六国
「第3巻 中国3 三国・西晋・十六国」には、三国魏の建国した時から西晋の滅亡に至るまで(220-316)の97年間および十六国(304-439)の書蹟を収めている。
中国書道史3 神田喜一郎
三国は群雄の天下争奪に終始した時代であった。その中で比較的国勢の栄えたのは魏王朝であった。魏・呉・蜀三国の鼎立した時代から西晋の末年にいたるまで、すなわち、およそ西紀3世紀の期間においては、漢以来の篆隷とともに、それから新しく脱化してきた楷行草の書体が相伴って行われた。
いいかえれば、古代型の篆隷と近代型の楷行草とがたがいに交錯して用いられた。普通の文書や消息文では楷行草の書体が用いられたが、儀式ばった文書では、やはり前代からの
篆隷が用いられたようだ。つまり、古代型の篆隷は、ある特定の場合に限って古い書体を意識的に学んだにすぎず、その用途は特殊化されつつあったが、それにひきかえて、楷行草の新しい書体がひろく実用に供せられるようになってきた。ただ、そうした新しい書体も、この時代においてはまだ書体的にも芸術的にも完成への途上にあり、それからおよそ100年の後、東晋の初め、すなわち4世紀の半ばにいたって、それが実を結ぶこととなった。
ところで、三国から西晋時代にわたって石刻の遺存するものは後漢の隆盛さに比べると、やや寂しい。その大きな理由の一つは、建安10年(205)、曹操が故人を葬る儀礼が繁縟になり、そのため天下が疲弊するというので、石室、石獣、碑銘の製作を禁止したことにある。かといって、この時代を通じて、全然遺物がないのではなく、ときにはこの時代の書蹟をうかがうことのできる石刻の伝存されているのを見ることもできる。三国の中では魏碑がかなり多く、呉碑はこれにつぎ、蜀碑はほとんど伝わるものがないという。西晋になると多少見るべきものがある。
魏、西晋の諸碑は隷書でかかれているが、前代からの伝統をうけて、堂堂たる風格を備えており、芸術的にも立派である。「廬江太守范式碑」(図63、64、235年、山東済寧)は唐の李嗣真の書後品に、風華艶麗にして古今に特絶すと称讃しているように、漢碑と肩を並べてもはずかしくない。概して、魏、西晋の諸碑は、後漢末葉の流麗なものに比べて、かえって筆力のある強いものとなっている。この点については、おそらく流麗な隷書が発展して楷書となったので、新しい隷書を書くのに古い隷書を意識的に学んだためと、神田は推測している。ただ、楷書と同じくなることを避けようとした結果、漢隷のおおらかさを失って、鋭くなりすぎているのが特徴として目立つという。
篆書の碑はあまりふるわず、ただ一つ、呉の「天發神讖碑(図77-82、276年、江蘇江寧)がある。古い拓本によると、いわゆる斬釘截鉄の折刀法でかかれたものである。その字勢は雄偉であり、一種の奇異な古樸さを帯びている。また呉の「衡陽太守葛祚碑額」(図84、257年以後)は、楷書でかかれた碑の元祖としてその歴史的意義が認められている。
つぎに墓誌についてであるが、墓誌はもともと死者を埋葬するにあたって、その墳墓の上にその人の行状文を刻した石碑、すなわち墓碑を建てるのに対して、葬る人の名前や履歴を石に刻して地下に埋めたものを意味する。
魏晋時代においては立碑が禁止されていたために、墓碑の例は乏しいが、西晋のころから地上に建てる墓碑を縮小した形式のものをつくって地下に埋める習慣が生じた。このような小型の墓碑がさらに変形して、方形の板石に文字を刻して棺前に建てることが行われるようになったが、まだ銘辞の体裁もととのわず、墓誌という名称もなかった。
これが形式内容ともにいわゆる墓誌として成立するのは、次の南北朝になってからである。この時代の墓誌で比較的古くから知られているのは、「劉韜墓碑」(図100)で、他は洛陽方面から出土したものばかりである。刻されている文字の多くは隷書で、ほぼ類似した書風で、漢以来の筆法を守って、ほとんど特色を見出しにくい。
この時代においては、漢王朝の場合と同じく、石刻以外の文字資料が少なくない。中央アジアから発掘された簡牘(図1-5)はこの時代においても見ることができる。その他、紙本墨書(図6-27)の断片が多く残されている。その中には歴史的考証によって魏晋時代の人の手になったことが認められるものがあり、魏の鐘繇や東晋の王羲之と相接近する時代の産物であるだけに、その資料的価値は貴重である。
木簡では魏の景元4年(263)簡(図2の78)、咸熙2年(265)簡、西晋の泰始2年(266)から5年(269)にいたる諸簡(図3の14-17)には、隷書から楷書への移行のあとがみとめられる。とりわけ、泰始5年(269)7月26日簡(図5の28)には、すでに完全な楷書の体が備わって、この時代の書体のありのままの相をよく示している。
文書では、李柏(図23-27)と張超済の関係文書(図12, 13, 14, 15)を中心として、相当数のものが残されている。その多くは楷行草の消息または記録である。その中で明らかな紀年のあるものとしては、西晋の末葉、懐帝の永嘉4年(310)8月19日付のもの(図19の38)があり、当時に通行した書体を想像させるに十分である。
その他に、仏教経典を書写したいわゆる写経や、仏教経典以外の書籍を書写した写本がある。呉の建衡2年(270)の跋のある「太上玄元道徳経」(図119, 120)は老子を書写した残巻であるが、その所蔵が明らかではないという。
写経で紀年のあるものは、西晋の元康6年(296)の「諸仏要集経」(図121, 122)などわずかに数巻が発見されているだけで、西晋以上にさかのぼるものはない。
古来、法帖に刻された書には、漢時代の人のものもあるにはあったが、それほど重要なものではなかった。三国になってその目標がはっきりしてきて、そのもっとも注目すべき書家は、魏の鐘繇である。彼は後漢の末葉のころの草書の名人として知られた。張芝と並称され、そののち東晋になって現れた王羲之に先行する書家の最上の一人として、永く世に称せられている。もとより八分および楷行草をよくし、とりわけ楷書のたくみなことで有名である。
今日、その筆蹟として「宣示表」(図107-110)、「還示帖」(挿12, 35)、「関内侯薦季直表」
(図111, 112)、「賀捷表」(図113)、「力命表」(挿37)がいろいろな法帖の中に刻されている。しかしこれらは真偽不明というより、むしろ後世の人の作為になるものであろうと神田はみている。ただ、当時の楷書の名家として鐘繇という特定の人物の名が伝えられているところに、大きな意味を見出すべきであるという。
鐘繇の存在は当時の書家たちが新しい楷行草の完成に努力していたことを物語るもので、鐘繇こそはその動きの中の代表的人物であり、その後の書の世界の大きな指導力となった。
鐘繇以外にも、呉の皇象、晋の衛瓘、衛恒、索靖など、当時名のあった人々がいるが、わずかに宋の『淳化閣帖』などの伝世の法帖に刻されたもの(図115)によって、そのおもかげの一端を知りうる程度にすぎない。
西紀304年から439年にいたるおよそ135年間にわたる五胡十六国の時代、モンゴル、トルコおよびチベット系の異民族は、漢民族の文化を吸収して、その文物制度にならった政治組織を備えたものもあった。十六国の中でも最も勢力の大きかった前秦においては、漢人にして書をたくみにした崔悦と盧諶がつかえたことが史籍に見えているし、この国の遺品として「鄧太尉祠碑」(図101)、「広武将軍碑」(図102)が伝えられている。しかしこれらの碑はまだ三国、西晋以来の隷書の気味を脱却しきれぬ過渡的なもので、その技法においても中原のものに及ばない。
また十六国の中には西域から来朝した僧侶によって、仏教が弘められ、仏典の翻訳とともに写経が行われた。その写経から当時の書の動静をうかがうことができるようになった。
例えば、北涼の「仏説菩薩蔵経」(図125, 126)はその書風が石刻の「且渠安周造像記」と同一であって、しかも特色のある隷書の体をなしている。また供養経の一つである「持世第一」の跋語には呉客丹揚郡の張休祖が書写したことが記されていて、その書風は秀媚な楷書で書かれている。このような事実は書の方向がまだ一定せず江南の書風がはいって来ていながら、まだ隷書の体を同化するにいたらず、過渡的な現象を呈していたと神田は解している。
漢王朝のときに完成した隷書が、次第に楷書へ移行していった理由には、文字の形式が篆書から隷書へ、隷書から楷書へと、順を追って簡略に書きやすくなっていった原則的方向にもとづくようだが、また一面には三国以後、儒教思想が崩壊して、新しく老荘思想や神仙思想が勃興してきた風潮がその背景をなしていると神田はみている。
いかめしい八分の隷体が儀礼的な用途にのみ限定されて、やがて一般には平明で安易な楷書が行われるとともに、神韻縹渺とした風致のある行草がよろこばれるようになっていく。ただ、その移行にあたっては、三国から西晋におよぶ約100年の間においては、まだ漢の文化を踏襲して、いくらかその様相を変化した程度のものであって、書の上においても、新しい美しさを完成するにいたらなかった過渡的時代と神田は捉えている。
けれどもやがて来るべき東晋の初めの一大飛躍の踏台は、この時代にこそ築かれつつあったので、この意味からいえば、この時代の書道の歴史の上に占める地位は看過してはならないとする(神田、1頁~11頁)。
西域出土の書蹟 森鹿三
西域というのは広く中国の西方をさすが、紀元前2世紀に漢の武帝が黄河をこえて河西の地に四郡を建置し、タリム盆地周辺のオアシス国家を服属させ、さらにパミール高原のかなたのフェルガナ地方にまで軍を進めて以来、この言葉が盛んに用いられるようになった。
普通には今の新疆ウィグル自治区、それも主として天山以南の地域をさすもののようである。
森鹿三は魏晋時代において、この西域から出土した書蹟について再説している(その概要は2巻「漢晋の木簡」において既述)。
魏晋時代つまり紀元後3、4世紀の頃は紙が発明されてから100年もたっているから、書写材料として紙が普及していたはずで、現に西域出土の魏晋の書蹟には紙に書かれたものが数多く存している。
しかしそれらとともに、木片に書かれた簡も少なからず出現しているので、いわばこの時代は紙木併用期である。そして発掘結果からいえば、西域出土の魏晋書蹟は、ほとんど楼蘭出土といってよい。そこで魏晋の書蹟を集中的に出土した楼蘭について森は説明している。
『史記』の大宛伝は、武帝の即位の翌年(139 B.C.)に西域に使した張騫の西域探検報告をもとにしたものである。それによれば、楼蘭の近くには姑師という国があり、両国ともに城郭に囲まれた都市で、鹽沢すなわちロブノールに臨んだ場所に位置することが伝えられている。武帝の次の昭帝の時代に、楼蘭国王は漢人に殺され、都を南の伊循城(今のミーラン)に遷すことになった(77 B.C.)。
そしてもとの楼蘭城は漢帝国の西域経営の根拠地となった。一方いわゆる南道の要衝の地ミーランに移った旧楼蘭国は鄯善と名を改めた。漢の前進基地となった楼蘭と、長城西端の敦煌の間には、沙漠が横たわっているが、両都市を結んで要塞や望楼が立ちならび、長城の延長線として匈奴の南侵に対する防備となった。その後、漢軍は天山南麓の沃地であるトゥルファン地帯までもその勢力下に入れ、こちらが漢の西域経営の要地になり、紀元後1, 2世紀頃楼蘭は影の薄い存在になっていた。
しかし三国の魏の時代になると、かつて西域の孔道として盛んに利用された白龍堆を横断する敦煌、楼蘭間の路線が復活し、天山南麓に沿う北道およびコンロン山脈の北麓に沿う南道に対して、この新道を中道と命名した。
このような中道が新たに脚光を浴びるようになったのは、楼蘭が再び繁栄をとりもどしたことを意味する。今までの文献では直接にそのことを物語ってはくれなかったが、20世紀に入って、西欧や日本の探検隊が楼蘭の遺蹟から三国の魏、それにつづく西晋、前涼時代の生々しい文書を発掘するに至って、楼蘭についての知見は増大した。
楼蘭の遺蹟をはじめて発見したのはヘディンである。彼はその師リヒトホーフェンが予見したロブノールの移動を実証するために、この湖の付近を調査していた時、幸運にも楼蘭の故城址をさぐりあてた。それは1900年のことである。彼は翌年1901年、この遺蹟に魏晋時代の木簡(図5の27-30)と、紙にかかれた文書(図10-22)を発掘した。
ついで1907-08年、スタインが第2回の中亜探検を行った際、楼蘭遺蹟と認定されたこの廃都において同じく魏晋時代の紙木文書を発掘した(図1-4, 6, 7)。ついで日本の大谷光瑞が組織した西本願寺西域探検隊もまた魏晋の紙木文書を獲得したが、中でも特筆大書すべきは、李柏文書(図23-27)である。これは前後3回にわたる探検中、第2回の1908年橘瑞超が楼蘭遺蹟において発掘している。
以上が20世紀の初め、10余年間に楼蘭遺蹟において発掘された紙木文書であって、これら文書によって千数百年間、砂の中に埋もれていた楼蘭の歴史がある程度再現しうるようになった。ただここで注意すべきは、王国維が流沙墜簡の序文の中で提出している断案である。それはヘディンらが楼蘭と確定したこの廃墟が楼蘭ではなく、居盧倉と呼ばれていた要塞の遺蹟だというものである。
そこでもし王国維の説が正しいとするならば、先に列記したヘディン、スタインらによって発掘された魏晋時代の紙木文書は、居盧倉出土ということになる。このヘディン発見の廃墟が楼蘭なのか、それとも王国維の言うように居盧倉なのか、森は検討している。
王国維がヘディン発見の古城址を楼蘭ではないとする第一の理由は、この地から出土した文書の中に、「三月一日楼蘭白書。済逞白云々」(図12)というように、楼蘭から発信したと理解すべきものが含まれていることである。当時の尺牘の書式として、発信月日の下に発信地を記す例が少なからず認められるから、このように楼蘭から発信した尺牘の出土する場所を楼蘭とはいいえないのであって、王国維の指摘はもっともと思われると森は述べている。
次に第二の理由として、『水経注』によるとタリム川あるいはコンチダリアと考えられる河川が楼蘭城の南を過ぎて東流し、ロブノールに注ぐとあって、楼蘭城はロブノールの西北隅に位置するはずであるのに、いま楼蘭と擬定される廃墟はロブノールの東北隅にあるから、地理的に見ておかしいというのである。しかしこの第二の理由は王国維の思いちがいであると森はみている。
というのは廃墟の位置は北緯40度31分34秒、東経89度50分53秒にあり、発見当時は干上がって乾湖になっていたロブノールの西岸に位しているのであるから、これを湖の東北隅にありとするのは、誤解であると森はいう。
さらに第一の理由についても、月日の下の地名が発信の場所であることは王国維のいう通りであるが、これら発信地を楼蘭と記す尺牘が草稿であるかもしれないということを考慮に入れると、この理由も決して楼蘭説を否定する強力な根拠にはなりえないと森は考えている。
事実、尺牘の草稿は数多く発見されており、かの「李柏文書」はその著しい例であるという。しかし王国維は一方で楼蘭説を否定しながら、この「李柏文書」の草稿によって、この廃墟を海頭と定めている点は森は納得できないとしている。
このように見てくると、王国維の反論には必ずしも従えないという。王国維はこの二つの理由によって楼蘭説を否定した後、ここを海頭と定め、さらに古く姜頼墟、居盧訾倉、龍城と呼ばれたことを考証しているが、この新説にも賛成しかねると森はみなしている。
というのは、1930年と1934年の調査で、黄文弼が楼蘭遺蹟東北方の土垠と命名した地点において、漢代の要塞を発掘した際、「居盧訾倉以郵行」と記した木簡を獲得しているからである。
居盧訾倉あての封検の出土したこの土垠の地こそは居盧訾倉に擬定されるべきであり、またそうすることによって魏の時代に復活された中道の経過する地点が都合よく理解される。この新中道のことを記した「魏略」の西戎伝によると、敦煌から西出して沙漠を横断し、居盧倉を過ぎた後、故楼蘭に至るとあり、土垠を居盧倉、例の廃墟を故楼蘭と擬定する方が無理が少ないとみる。
次に海頭という名称の解釈については、かの「李柏文書」が出土した場所が海頭であることは自明であるから、発掘者の橘が語るように、これが楼蘭故城内で発見されたのであれば、海頭という名称は楼蘭の別称と森は解している。
ただ橘が示した出土地の写真を、スタインの第3回中亜探検報告と照らし合わせて考えると、その出土地は楼蘭故城址(スタインのLAと命名したもの)ではなく、その南方50キロにある別の故城址(スタインのLKと命名したもの)であるらしい。
スタインの写真と比較すると、「李柏文書」発見の場所はLAではなくLKとする方がよいようであるとみる。そうするとここから発見された尺牘の草稿に、楼蘭本城に対して、この地を海頭と呼んでいることも首肯できる。ちなみに、LKの西南100キロには旧楼蘭国の遷都した鄯善すなわちミーランがあり、LAから湖岸をめぐって東北行すれば居盧倉があり、そこから沙漠を横断して東行すれば長城西端の敦煌に達する。いいかえると、敦煌―居盧倉(土垠)―楼蘭(LA)―海頭(LK)―鄯善(ミーラン)というロブノールの北から西に沿う路線上の諸地の排列が考えられる。それとともに、非楼蘭説を唱える王国維にくみしえない理由も明らかになる。王国維の説をこの図式で説明すると居盧倉も楼蘭も海頭もすべて同一地点になってしまう。もっともこれらの三地点を楼蘭と汎称することは許されてよいと森は考え、本全集においても居盧倉の漢簡および海頭の李柏文書を楼蘭出土としたという。しかし楼蘭を狭義に解すると、LAだけを楼蘭とすべく、この楼蘭本城に対してその東北の湖岸にあった漢代の要塞址を居盧倉、LAの南方約50キロにあるLKを海頭と称して区別すべきであろうという。
なお後漢時代の西域経営はトゥルファン盆地に重点がおかれ、楼蘭の方はほとんど放棄されていたようだが、魏晋時代になると楼蘭は再び活況を帯びる。このことを明らかにしてくれたのが、LA出土の紙木文書であった。
王国維の投げた波紋は重大であったが、それを検討した結果、森はLAを楼蘭本城と比定した。王国維の非楼蘭説の重要な根拠となった月日の下に「楼蘭」の二字が見える尺牘を草稿とみる方が円滑に解釈できるとする。
次にこれらの紙木文書の年代については、最も早いのは魏の最後の皇帝である元帝の景元4年(263)の木簡であり、最もおそいのは前涼の建興18年(330)の木簡である。この約70年の間で紙木を通じて最も多くあらわれるのは西晋の武帝の泰始という年号(265-274)であり、無年号の文書も大体これに準ずるものと森は推測している。建興18年の木簡(図3の18)が出現したことによって、前涼国では西晋の滅亡した後も、西晋最後の年号をひきつづいて使用していた事実が知られている。
次にこれら文書を通じて、楼蘭本城が西域長史の治所であったことが知られる。楼蘭を通過する新中道が復活したことの背景には、楼蘭が西域長史の治所として西域経営の中心になったことを森は想像している。そして楼蘭に西域長史がおかれたのは魏の時代のことであり、西晋、前涼にひきつがれたと推測している。前涼時代の西域長史として史上に名をとどめているのは前涼張駿時代の李柏があるのみであるが、前涼に相当数の西域長史があったという。西域出土の魏晋書蹟はほとんどが楼蘭から出土しているために、森はもっぱら楼蘭について話を進めてきた。ただ南道のホータン(于闐)などからも魏晋時代と思われる木簡がスタインによって発見されており、北道のトゥルファンからも晋代の写経(図121, 122)が大谷探検隊によって発掘されている。この時代の史実が明らかにされ、書法の歴史についても、より正確に知られることを森は期待している(森、12頁~18頁)。
天發神讖碑について 外山軍治
280年、呉は晋のために攻め滅ぼされたが、「天發神讖碑」(図77-82)が立てられたのは、呉の滅亡より4年前の天璽元年(276)で、「封禅国山碑」(図83)と同様に、讖緯説の所産にほかならない。予言を重んじる迷信的な思想に過ぎない讖緯説は前漢の中頃より後漢にかけて盛行し、三国時代に入っても依然行われていた。
さて、「天發神讖碑」を立てた経緯は次のようである。天璽元年の前年である天冊元年(275)、呉郡(浙江省)から呉帝のもとへ、漢末から塞がれていた臨平湖が今年になって開流するようになった、という報告が届いた。そして次のように言い添えてあった。「古老の言によりますと、この湖が塞がれば天下が乱れ、この湖が開けば天下が平和になるといい伝えております。近ごろこれというわけもなく、突然また開流いたしました。これは天下がまさに平和になり、青蓋、洛陽に入る祥であります」と。青蓋とは王車の意で、前年術者に天下の形勢を占わせたところ、庚子の歳に青蓋まさに洛陽に入るべしと言った。すなわち、晋を平定し、天下を統一すべき皇帝としてその都にのりこむことができる、という予言であった。臨平湖の開流はこれに応ずる祥瑞だというわけである。祥瑞はなお続き、ある人が臨平湖辺で、呉真皇帝と刻した小石を手に入れて献上した。そこで呉帝は大赦し、天璽と改元し、そして呉の功徳をのべるために「天發神讖碑」を立てたという。呉真皇帝という文字の刻された小石を天璽とみたわけである。「天發神讖碑」とは、天から下されたおつげという意味である。
このように立碑の事情から神怪不思議なものを含んでいるが、この碑については判らないことが多い。何しろ、清の嘉慶10年(1805)火災にあって、原石が消滅しているので、その形状がはっきりしない。拓本が少なく、あっても磨泐した個所が多くて判読が困難である。初め立てられた場所もはっきりしないし、書人の名も判らない。それで、この碑全体が神秘のヴェールにおおわれた感じになっているが、これがこの碑の特徴ある書体への興味と相俟って、多くの人々の研究対象になってきた理由である。
この碑に関する文献で、もっとも完備したものは、清の康煕年間(1662-1722)に書かれた周在浚の「天發神讖碑考」であり、これを一歩進めたのは羅振玉の「天發神讖文補考」である。そこで、外山はこれらを参考にしながら、この碑の問題点を解明しようとしている。
まず立碑の時期であるが、碑の中に天璽元年(276)桼月(7月)また8月云々の文字がみえるから、天璽元年8月、あるいはそれ以降に立てられたものと外山は考えている。立碑の場所に関しては、もっとも古い記録は、晋の山謙之の「丹陽記」で、もと秣陵県南30里の巌山にあったという。このほか、唐の許嵩の「建康実録」の注に、県南40里の龍山下にあったというが、この龍山は巌山の改称のようだ。巌山説を一番信用すべきで、秣陵県は今の南京の東南にあたる。
その後、この碑は立碑の場所を離れ、これを再発見したのは北宋人である。碑額に三つの題記が刻されているが、その一つである北宋元祐6年(1091)転運副使胡宗師の題記によると、彼は江寧府南の天禧門外でこれを発見した。そして転運使司の後庭の籌思亭に輦置して保護を加えて、その後府学に移され、明の嘉靖年間(1522-1566)には明徳堂の後の尊経閣下におかれ、ここで火にあったようだ。
「天發神讖碑」はまた「三段碑」とも呼ばれる。それは碑が折れて三段になっていることから生じた称呼である。既に山謙之の「丹陽記」に、碑が折れて三段になっていることを指摘している。三段になった原因を、碑が折れたためであるとする考えは、晋宋以来ひきつづいて行われてきた。周在浚は江寧府学明徳堂後の尊経閣下にあった碑の形状を記し、はじめて三段を聯読して解読することができた。これは彼の功績で、天發神讖碑の研究はここに一応の完成をみた。
さらに羅振玉は、周在浚の研究の上に自らの構想を打ち立てた。「天發神讖碑」は三つに折れたのではなく、初めから三石を積み重ねて、それに刻したという新説を出した。外山はこの羅振玉の説を大変面白く十分な説得力をもっていると評している。
ところで、晋の張勃の「呉録」ではこの碑の撰者を華覈、書人を皇象であると考えている。皇象は呉の書人として知られているが、その書が他に伝わっていない。それで、これこそ皇象の書だと考えようとした人もいるが、外山はやはり皇象とするには無理があるとみている。その他、「封禅国山碑」と同じく蘇建の書、また朱育の書とする人もあるが、確証がなく、書人不明というよりほかないと外山はみている。
さてこの碑の書については、その一種奇古な書風が人々の興味をひいた。この書は篆、隷の間にあり、とか、篆にあらず隷にあらず、とか、篆にして隷を兼ぬ、とか、また篆多く隷少なきもの、とか言われているように、篆書的な曲線と隷書的な直線とが並存している。この点では、後漢の元和4年(117)の「祀三公山碑」に通ずるものがある。このような書体は、隷筆をもって篆書を書いた結果でき上がったものだと考えている人が多いが外山もこの説に賛同している。つまり隷書通行の時代に、ある意図をもって書かれた篆書であろうとみる。ある意図とは、天のおつげを書くにふさわしく、神秘的な効果を出そうとしたことである。それには当時世間に行われている書と同じではなく、それで通行の隷書よりも古い書体がえらばれ、このような何か気どったところのある、かわった書ができ、その意図はかなり成功していると外山はみている。
「天發神讖碑」は同じ年に刻された「封禅国山碑」とともに、呉の石刻を代表するものであるが、後世にもかなり大きな影響を与えている。楊守敬は「平碑記」の中に、鄧完白の篆書もこの碑と「三公山碑」から出ていることを指摘している。また古怪な書をもって聞えた金農も「天發神讖碑」の影響をうけているといわれる(外山、19頁~23頁)。
鐘繇について 中田勇次郎
書体がもっとも大きな変動を来したのは漢末から魏晋にかけての、篆隷から楷行草への移行であった。八分の隷法が次第に退化して、楷書に変じていくとともに、楷書を更にやわらかくした行書が形成された。草書においても、漢代以来の章草がすたれて、新しく今草の美しさを完成していこうとする。このような時代にあって、もっとも書をよくし、またもっとも指導的地位にあったのが、鐘繇である。
鐘繇はあざなは元常といい、潁川郡長社県(河南省許昌県)の人である。もと墓碑があったことが宋代の記録に見えているが、今は伝わっていない。その伝記は『三国志魏志』巻13に見えている。彼ははじめ漢王朝につかえて、尚書僕射となり、東武亭侯に封ぜられたが、魏の太祖曹操に従って魏王朝の建国に功労があり、魏につかえて宰相となった。明帝のとき、定陵侯に封ぜられ、太傅を授けられ、太和4年(230)、80歳で没した。いわば魏の功臣の一人である。しかし、彼が書にたくみであったということは本伝には少しも記されていない。
けれども同じく『魏志』巻11の管寧伝には、胡昭は史書(隷書をいう)をよくし、鐘繇、邯鄲淳、衛覬、韋誕とともに、並びに名があり、尺牘の手蹟は時として模範とされたといっているから、正史においても彼に書名があったことを認めていないわけではない。ただ、彼は元来立派な大官であって、書はただそのたしなみの一つにすぎず、それによって彼の履歴のすべてをおおうことのできるものではない。
ところが鐘繇は後世政治家としてよりも書家としての名が高くなったため、正史の他にも書家としての俗伝がある。晋の虞喜の『志林』(「重較説郛」巻59)によると、鐘繇はある時韋誕のところで、蔡邕の筆法を見て、ねんごろにそれを求めたけれども、与えられなかった。そこで彼は胸を搥って血をはいて自殺を図った。太祖(魏の武帝、曹操)は五霊丹をのませて命を救った。韋誕が死んでから、鐘繇は密にその墓をあばいてその秘伝を手に入れたという。『太平広記』巻206にも、鐘繇が若い時、劉勝に従って抱犢山に入り、書を学ぶこと3年、ついに魏太祖、邯鄲淳、韋誕などと用筆を論じたとある。
これらはほとんどすべて伝説的なもので、鐘繇の事蹟としては信ずるに足らないと中田はみなしている。このような創始の人に苦心談がともなうことは漢の張芝が池に臨んで池水がみな黒くなったというのと同じことで、書の大家を美化した作り話にすぎないと中田は解説している。
鐘繇の作った文章として知られているのは、主として『魏志』に伝えられている書疏のたぐいと、法帖によって残されている上表と書簡文だけである。鐘繇の在世した漢末魏初の頃は、一時文学の栄えた時で、魏武帝および文帝をめぐって、いわゆる建安の七子たちが互いに詩文の応酬をした。このことは文学の歴史の上でも著名な事実であるという。鐘繇には魏武帝や文帝との書簡の往来のあったことは文献によって知られるけれども、彼自身の作ったこういう関係の詩文は何も残されていない。鐘繇のあらわしたものとしては「周易訓」「老子訓」「筆勢図」があったことが姚振宗の「三国芸文志」に見えているが、いずれも今日は見られない。また晋の衛恆の「四体書勢」の中にある隷書勢が、唐の徐堅の編した「初学記」巻21に、鐘繇の作として引用されている。
結局、鐘繇の著述として比較的確かなのは、「書疏」と「上表」のたぐい(「全三国文」巻24)であるが、このようなものが伝えられているということは、単に史料としてだけではなく、彼がこれを作り、またこれを書写するのにたくみであったからではないかと中田は推測している。そしてこれは鐘繇の書がその在世当時においても、世の人々にもてはやされていたであろうとしている。
文献の上で鐘繇の書に関する記事が残されているのは、西晋時代からはじまるという。衛恆の「四体書勢」の隷書勢の条に、魏のはじめ、鐘繇と胡昭の二家があり、行書の法をよくした。いずれも劉徳昇に学び、鐘はいくらか異なっていた。しかしおのおの技巧をそなえて、今の世に盛んに行われているという。
斉の王僧虔の「古来能書人名」にも、潁川の鐘繇は魏の太尉、同郡の胡昭は公車徴で、この二子はともに劉徳昇に学んだ。そして胡の書は肥え、鐘の書は痩せていたという。梁の庾肩吾の「書品」にも、劉徳昇のよいところは、鐘と胡がおのおのその美点を採り入れたといい、また胡は肥えて鐘は痩せているという。
いずれも鐘繇が漢末の行書の名家として知られた劉徳昇に学んで、同郷の胡昭とならび称せられていたことを説いている。そしてその特色としては鐘は線が細く痩せているが、胡は太く肥えていることをあげている。
東晋になると、陸玩(278-341)は筆力が痩硬で、鐘繇の法があったことが『宣和書譜』巻7に見え、王濛(309-341)は隷書は鐘繇を法とし、状貌は似ていたが、筋骨は備わっていなかったということが「書断」に見えている。
衛夫人(鑠)は鐘繇の法をよくし、王羲之の師となった人であるということが「古来能書人名」に見え、王廙は章楷をよくし、謹んで鐘繇の法を伝えたということが、同じく「古来能書人名」に見えている。そしてこの人もまた王羲之の師であったことは庾肩吾の「書品」や王僧虔の「論書」にも記されている。
要するに、西晋では鐘繇は胡昭とならび称せられていたが、東晋になると胡昭の名はあまり聞えなくなるようである。
『宣和書譜』巻7の説によると、この二人は同じく劉徳昇の門から出て行書をよくしたのであるが、胡昭は用筆が肥重であり、鐘繇の痩勁に及ばなかったので、胡昭が没してからは名があがらず、ひとり鐘繇だけが行書であらわれるようになったという。この説のように、東晋になってからは胡昭の名は聞えなくなり、鐘繇だけが称せられている。
東晋の王羲之は書の上ではもっとも重要な人物であるが、これも衛夫人や王廙について鐘繇の法を学び、またみずから鐘の遺蹟についても得るところがあったようだ。しかし、本来王の学び方は今までの名家の書を集めて大成することにあったと中田はみている。王が学んだのは、鐘繇においては隷書であり、それとは別に草書では張芝を学び、この二家の長所を取り入れて善を尽くし美を尽くし、従来の古い書風を新しいものに切りかえた。
こうして王が出てから後は、鐘法がすたれて王書が流行するようになった。王羲之の子の王献之になると、父の書風に逸気を加えて、いくらかそのすがたが変化した。王羲之父子の書風はその後南朝の宋、斉、梁の貴族たちの間にもっぱら流行した。しかし鐘繇のすぐれた隷書の名家としての地位はゆるぐことなく継続されていた。南朝の名家で鐘繇の古い筆意を学ぶものは幾人かを見出すことができる。王家の一族の王僧虔の楷書、例えば「太子舎人帖」などにも鐘法がうかがわれ、蕭子雲が鐘繇を学んでいることは鐘繇と王羲之に效って少し字体を変じたとみずから言っている言葉によっても知られるし、その書として伝存する「列子」もやはり鐘法と見てよいものである。
梁武帝には鐘繇の書法十二意を観るという文章があり、いわゆる鐘法の技法が知られる。また梁武帝と陶弘景の応答の「書論」にも、陶弘景が当時江東においては鐘の真蹟が絶滅してしまったので、せめて模本でもよいから見たいと申し出ることが記されている。梁の簡文帝も鐘繇を慕ったことが「述書賦」に見えている。梁の周興嗣の千字文にも「杜藁鐘隷」という句があり、漢の杜度の草書に対して鐘繇の隷書が重んじられていたことがわかる。
このように南朝においても鐘繇は広く重んぜられていたが、それが実際どのように評価されていたかは、その当時の書の品第によって更によくうかがうことができる。
梁の庾肩吾の「書品」においては、古今の書を品第するに当って、張芝と鐘繇と王羲之の三人を上の上の位におき、張は工夫は第一であって天然はこれに次ぎ、鐘は天然は第一であって工夫はこれに次ぎ、王は工夫は張に及ばないが天然はそれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はそれ以上であるといっている。これによると、張は精神よりも技巧にすぐれていたのに対し、鐘は技巧よりも精神にすぐれていた。そして王は張と鐘の長所をよくとり入れて、中和をえていたことがわかる。
また、王羲之が書を論じた言葉として、私の書を鐘と張に比べる時は、鐘は抗行することができる。あるいはそれ以上に出られるかもしれない。張の草書はまだ雁行することができるといい、また昔の書の中では鐘と張はもとより絶倫である。その他のものは少しましな程度で、気にとめるには足らない。この二人をおいては自分の書がこれに次ぐという。この言葉は唐の孫過庭の「書譜」にもほぼ同じ意味の文章が引かれていて、古くから王のものとして知られている。これは王の立場から張・鐘二家の優劣を論じたもので、鐘の王に対する比重をよく示している。
梁武帝の言葉に、王羲之は鐘繇を学ぶ時には、字勢が巧妙に、字形が密になるが、自運するとなると、筆意が疎略に、字形が緩になったといい、また王献之が王羲之に及ばないのは王羲之が鐘繇に及ばないようなものであるという。これは王が鐘を学んでもその精妙さに至らなかったことを述べたもので、王より鐘の方が高く評価されていたことがこれによって知られる。
南朝人は書を自然現象になぞらえて鑑賞する。今、梁の武帝の「書評」の中から、張、鐘、王三家の書を品評した言葉をとりあげてみると、張については、漢の武帝が道を愛し、虚(そら)によって仙化しようとするごとくであるといい、鐘については雲鵠が天に飛び、群鴻が海に戯れるようで、行間が茂密で、まことにこれ以上に出ることは難しいといい、王については字勢が雄逸で、龍が天門に跳り、虎が鳳閣に臥するようであるという。張は草書のたくみなすがたが神仙のように縹渺とした風韻を帯びていることを形容したもののようである。
鐘は隷書の字画の構成がたくみによく組み合わせられ、筆勢の生動するさまがいかにも翩翻として巧妙であることを形容した。たとえを飛鳥にとっているのは、筆法に八分の隷意があったことを意味するのかと中田は想像している。王は字勢が雄大で、逸気のあることを龍虎にたとえたもので、威風堂々として渾成されたすがたが想像される。梁の袁昂の「古今書評」に、張を驚奇といい、鐘を特絶といい、王を鼎能といっているのも、これとほぼ同様で、張の草書の軽妙さ、鐘の隷書の精巧さに、王の二者を調和した各体における完成された美しさを述べているものと中田は解釈している。
このように南朝において、書の第一等の人物として考えられていたのは、張芝、鐘繇、王羲之の三家であり、張は草書、鐘は隷書にすぐれ、王はこの二つを兼ねていた。したがって鐘は三家の中では隷書においてもっとも傑出し、その書の技巧よりも精神においてすぐれているのが特色であった。
王僧虔の言葉に、書の妙道は神彩を上とし、形質はこれに次ぐ、これを兼ねるものこそ古人に紹ぐことができるという。鐘の書は要するにこの神彩においてすぐれた書であるということができるとする。
魏の文帝の「典論」の中に文章を論じて、文は気をもって主となすといった有名な言葉は、精妙な技巧の上に強い気象を盛り上げたと思われる鐘の書についてもいいうると中田はみている。
以上によって、南朝における鐘繇の評価とその位置の大略を中田は示したが、次に鐘繇の作品について考えている。
鐘繇は三つの書体をよくしたといわれる。すなわち、「古来能書人名」によると、銘石の書はもっともすぐれたものである。章程書は秘書に伝え小学に教えるものである。行狎書は相聞するものであるという。
第一の銘石の書は、碑銘にもちいる書体のことで、八分をさすと中田はいう。鐘繇は漢末から魏の初めまで生存した人で、その生涯の大半は漢代にすごしている。その当時の書体から考えるならば、まだ八分の隷法が流行していた時代である。例えば、「曹全碑」(2巻図118, 119)は西紀185年、「張遷碑」(2巻図120, 121)は186年の作であり、魏の初めの黄初元年(220)とわずかに30年ほどのへだたりにすぎない。鐘繇の生存した時代はまだ漢末の八分の最盛期に接近しているのであるから、彼が八分をよくしたという言葉はきわめて自然である。
「書品」には許昌の碑を妙尽し、鄴下の牘を窮極するとある。これは鐘繇が碑と尺牘をよくしたことを述べたものである。許昌の碑とは、河南許昌にある碑という意味で、具体的には「公卿上尊号奏」(図55, 56)と「受禅碑」(図57, 58)、またはそのいずれかを指すという。
王羲之の作と伝える衛夫人の「筆陣図」の後に題するという文章の中にも、鐘公の太山の銘および魏文帝、「受禅碑」の中に八分の一法があるといい、許下にゆき、鐘繇と梁鵠の書を見たという。この文は唐人あたりの偽作らしいが、やはり彼の碑について述べたもので、その中に許昌の二碑をとりあげている。
これらから考えてみると、彼のもっとも上手であった銘石の書、すなわち八分としては南朝からこのかた「公卿上尊号奏」と「受禅碑」を目標としていると中田は解釈している。
この二碑の書が鐘繇の手になるかどうかはしばらくおくとして、鐘繇の八分としてはこの許昌の二碑のようなものを想像しておいても大差はないと中田はみている。
第二の章程書というのは、上奏文とか法令の公文書や記録に用いる書体のことで、秘書官に授けたり、児童を教育したりする正式の実用体と解される。張懐瓘はこれを八分としている。後世この説に従っている者もあるが、八分は銘石の書に当たるから、これは八分をもう少し実用化した、今日のいわゆる楷書に相当するものであろうと中田はみている。
「古来能書人名」に、晋の王廙が章楷をよくし、謹んで鐘法を伝えたという。現存する王廙の書としては、『淳化閣帖』などに二表が刻されている。その書体は鐘の「宣示表」(図107-110)などと全く同様であり、これはやはり鐘法で書いたものと中田はみている。そしてここに章楷といっているのは、章程書と解してよいとする。したがって章程書というのは「宣示表」のたぐいの書体を意味するものとみている。
第三の行狎書は相聞すなわち書簡にもちいる書体をいう。梁の庾元威の「論書」の中に、宋の宗炳の作った九体書をあげており、その中に行狎書がある。その体は行書であるが同じ行書といっても色々な書法があるわけであるから、鐘の場合にはその特有の行書の体があったと中田は推測している。本来鐘繇は胡昭とともに劉徳昇から行書を学んだことになっており、張懐瓘の「書断」では鐘繇の行書を王羲之、王献之、張芝とともに神品四人の中に入れているが、この書体の実際を知ることは困難である。
以上、三つの書体は要するに八分、隷(今隷、楷書)、行の三体と解してよいとする。鐘繇の書いたこの三体の書はいずれも南朝を通じて鑑賞されたのであろうが、この中でも八分は既に漢隷に模範があるから、それよりも近代性のある隷、行の方に人々が注目し、王羲之などの新書風もこの面から出てきたものと中田はみている。
また隷、行の中でも、隷書の方がすぐれていたらしく、鐘繇の「宣示表」のたぐいのものが王羲之の臨書を通じて世に残されて、鐘繇の八分よりも隷書が代表的なものとされるようになった。
西晋から東晋へかけて、北方民族の圧迫を受けて江南に逃れた漢人たちは、争乱の中にあっても鐘繇の書を袖中にしのばせていたという。南朝において鐘繇の遺品が少なかったにもかかわらず、その影響するところは上述したように多大であった。一方、北方民族の間においても、漢人によって鐘法が伝えられた。崔悦や盧諶の二人は鐘法をよくしたが、のちに羯族の後趙に仕えている。また中央アジアから発見された文書の一つの焉耆の玄の尺牘(図6の1)はいわゆる鐘法とよばれる筆法とすこぶる類似している。降って北魏の洛陽に遷都してから後つくられた多くの墓誌に、楷書の優秀なものがあり、勁健でしかも自然の風神をえた書風はかつての鐘法へのつながりをもっていると中田はみている。例えば、「司馬昞墓誌」などは全く鐘法に範を取っているという。
隋唐時代は南北朝の楷書を清算して、新しい美しさを完成したが、隋代にはまだ鐘法の名残をとどめている。例えば「美人董氏墓誌」がそれである。そして欧陽詢と虞世南の法があらわれてからは、もはや鐘法は行われなくなって、もっぱら唐楷の世界となった。唐代は王羲之を貴んだ。鐘書の流伝も少なく、わずかな臨本によって鑑賞していたらしく、鐘繇の書を論ずるにはただその隷書をよいとした。唐太宗、虞世南などにもその説があり、張懐瓘の「書断」にも隷書を第一として八分の上におき、李嗣真の「書後品」にも正書をとり逸品五人の中に入れている。しかしこの時代の書人の中で鐘法を学んだといわれている人はきわめて稀である。
宋代の初めに『淳化閣帖』が刻されてから、書の歴史と分野が概括的にまとめられて、広く世に認識されるようになった。それとともに書に関する学問的研究がようやく深くなってきて、古法帖に対する批判がきびしくなり、唐以来の二王におけるほとんど盲目的な崇拝の熱情がさめて、新しく王書への反省がなされてきた。王よりさらにすぐれたものとして鐘繇を求める気運が次第に生じてきた。北宋から南宋にかけて、そういう人々が現れ、蘇軾の行楷には王僧虔に似たものがあり、その書風は二王よりも鐘に近づいていると中田はみる。その門に出た黄庭堅も鐘繇の小字を善くしたとみずからいっている。
明代になって法帖の趣味が流行するに伴い、集帖の中に鐘繇の法書が多数刻された。「関内侯薦季直表」(図111, 112)、「賀捷表」(図113)、「力命表」、「墓田丙舎帖」(図114)がそれである。これによって鐘繇の輪郭が益々明らかに形成された。文人の中には特に好んで、このような鐘法を習う者もあった。例えば、祝允明などは小楷において鐘法をもっとも学んだ一人で、その「出師表」をみると、その当時の鐘法というものがどのように理解されていたかがわかる。要するに王羲之以前の楷書として、その妍媚繊巧のすがたのない高古純朴な書風が喜ばれた。
鐘繇はその長い歴史の上において、三度の変遷をへたと中田はいう。つまり①鐘繇の在世時代と、②王羲之が学ぶようになってから以後唐代までと、③宋の閣帖に刻されてから以後との三段階においてそれぞれその実質と見方が変わってきた。本来在世当時は主として八分の名手であったのが、王羲之以後は楷書によって名をあげ、それが宋代において法帖に刻されてから以後は、また一種の法帖としての鐘法の美しさを生み出して多くの後世の文人たちの好尚に投じた。今日我々の考える鐘繇は宋以後の法帖によってつくりあげられた鐘繇であってそれなりに一つの書芸術の佳境にまで到達している。しかし六朝における実際の書論とは合致しないものがあると中田はいう。本当の鐘繇というものは六朝時代の色々な書論に見えるように、技巧にもすぐれているが、さらに精神においてより一層すぐれており、そのすがたは雲鵠の天に遊び、群鴻の海に戯れるごとく、結体も緊密で、筆勢も潑剌として躍動していたとみる。
鐘繇の生きた漢魏のころは英雄豪傑が天下を睥睨した時代であり、その特質は豪快な気象のあらわれにあったから、鐘繇の書にも精神力の強さと鋭さにおいて、きびしいものがあったにちがいないと中田はみる。つまり法帖に見られるようなただ単に淳古という書風だけではなかったというのである。遺憾なことには、古来その書蹟の伝わるものが稀で、今日その信頼しうるものが残っていないことであるが、本当の鐘繇のすがたを理解するには、このような特性を念頭においていなければならないと中田は主張している(中田、24頁~32頁)。
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その2中国2》
2中国2 漢
「第2巻中国2漢」には、秦の滅亡(前206年)から漢の滅亡(220年)に至るまで、すなわち前漢、新、後漢にわたる425年間の書蹟を収めている。
中国書道史2 神田喜一郎
中国において実質的に書道の歴史というものが考えられるようになるのは漢代からである。漢代になると、文字の書体がようやく安定するとともに、書の技法が発達し、専門の書家がはじめて世にあらわれて、書の芸術性が認識されるようになった。ここに中国の書道の歴史が本当の意味において成立する。漢代は中国書道史の第一歩を踏み出す、最も意義のある時期にあたっていると神田喜一郎は捉えている。
とりわけ後漢末葉の桓帝、霊帝の時には、その文化が最も爛熟の極に達し、漢代の書道もこの二帝の朝において、その最も華やかな様相を呈するにいたった。
ところで、文字はそれぞれの時代において時代の性格をあらわした体を備えている。殷王朝の甲骨文、周王朝の金文、東周の末期における六国の古文、秦の籒文(ちゅうぶん、大篆)があった。
そして秦において、政策の上に文字の統一を取り上げて、秦の大篆をもとにして小篆を定めた。ここにおいて、一応文字の体に一定の規準がつくられたが、さらに実用に適したところの、身分の低い官吏が事務にもちいるにふさわしい別の体が生じた。いわゆる隷書がそれである。
前漢の王朝は中国の書の歴史からいうと、ほとんど暗黒時代で、徴すべき資料が乏しいが、ただ小篆がそれよりも簡便な隷書に移りゆきつつあった。こうして篆書が次第に実用の世界から駆逐されて隷書がその席を占め、両漢を通じてひろく使用されるようになった。
後漢の末葉になって、はじめて古代型の篆隷から近代型の楷行草が脱化してくる。石碑にかかれた隷書は、多くはいわゆる八分の隷法をそなえた模範的な整った字体をなしているが、実用的に隷書をかく場合には、このような隷法をさらに簡略化して、のちの楷書に近い字体にかくような傾向をもつようになった。
この傾向がすでにこの時代に行われたことは、木簡の文字によっても知ることができるが、石碑においても流麗なものから方整なものへ移行してゆく傾向を示した。この傾向によって、後漢の末葉の頃に楷書が生まれたものと神田は推定している。しかし楷書といい、行書といってもこの頃まではまだ楷書とか行書とか独立した書体があったのではなく、このような書体が事実上成立するのは、むしろ次の三国魏以後であるとみている。
楷書が隷書から脱化したのより古く、すでに前漢の時代からおこってきた字体に草書がある。普通に考えられるところでは、隷書から楷書が生まれ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたとされているが、この考え方は明らかに誤謬であると釘をさしている。草書は篆隷から生まれたもので、決して行書から生まれたものではない。いったい草書とは、急ぎの場合に書く字体の意味であって、篆書や隷書を簡略化してかいたものである。したがって、草書は、篆書がまだ行われており、しかも一方では隷書がすでに繁雑視されてきた、そういう時代の産物である。そして『説文解字』の序文に「漢おこって草書あり」と称しているのはもっともと思われると神田は述べている。
資料的には、前漢時代の簡牘の中にすでに当時の草書らしいものが見えるが、その当時はまだ草書という一つの字体が確立されるまでには至らず、多くは草書と隷書とをまじえて書いている。それが一つの字体として確立したのは、おそらく後漢になってからと推測している。ただ、このようにして後漢あたりから行われた草書は、普通の草書とは異なり、章草といって、一字ずつ離して書いたものである。章草という名称の由来については色々と異説が立てられている。例えば、臣下が天子に奉る章奏に用いた字体であるからこのように名づけられたとか、あるいはまた後漢の章帝が発明した字体であるとかがある(神田はいずれが正しいか、よくわからないという)。この章草は、その後、幾字かを連ねてかく草書、すなわち連綿草に変化していった。これが我々が普通に草書といっているもののことであり、またこれを今草という(神田、1頁~12頁)。
漢鏡とその文字 梅原末治
古鏡の銘は、文字を重んずる中国では殷、周の尊彝の款識につづく漢代金文の一つとして、古くから知られている。このことは宋代の「博古図録」において、夙に注目されたところである。そして清朝になると、古銅器の文字と並んで、漢鏡の銘文に関するすぐれた考察がその時代の金文学者によってなされた。もっとも鏡そのものの沿革については、早くから前漢より六朝までの数百年間のものを一括して漢鏡として取扱ってきたために、時代による鏡式の変遷を通じての文字の性質などについては、顧みられるところが少なかった。この鏡式の発展こそは、20世紀になって、日本の学者の手で新たに解明された分野であるという。
古くから知られた漢鏡は、その前漢代のものには、虺(き)龍形を主文とする鏡式や、それから発展したと認められる百乳星雲鏡や弧文帯を主な意匠とした鏡式となり、また蟠螭鏡の流れを受けてそれの渦文化した鏡など、前代の鏡式につづく類も見られる。だが、いずれも鏡体が円く、背文は鈕を中心にして縁に至る間の帯圏が多くなり、その間に意匠された構図が、円い鏡の図文として間然するところのないものとなっており、うちに文字を表わしていることが著しい特徴であるという。
そしてこの文字は、時には構図のうちに図文的に布置されているものもあるが、その多くでは、銘文を主とした帯圏があって、前漢代の鏡式の中には、これが意匠の主要な部分を構成しているものさえある。
鏡背に文字(特に銘文)をいれた帯のある古い鏡式としては、今日では蟠螭鏡のある種のものが挙げられる。帯圏を加えたこの種の蟠螭鏡としては、安徽省寿県から出土した遺品が最初に注意された。その銘文を見ると、「大楽貴富。千秋萬歳。宜酒食。脩相思。愼毋相忘」(図20)とある。短い文ではあるが、書体もいわゆる秦篆である。寿県から出たこの種の鏡の銘文には、本来「長相思」とあるべきところを、長の文字を諱んで、この例に見られるように、「脩相思」に作ったものがある。これは「長」という字が前漢の初期にその地、すなわち当時の寿春に都した淮南王劉安(165-122B.C.)の父の名であるので、それを諱んで「脩」としたものである。そうするとこの種の銘のある蟠螭鏡は、淮南王劉安の代のものであり、蟠螭鏡中での時代の下る鏡式であることが知られると梅原は解説している。
さて、同じ前漢代の銘文では、四方に一つずつの虺形を大きく写した鏡式の鈕を繞って設けられた方格のうちに、3字ないし4字句から成る文をいれたのがある。また縁が内行花文(連弧文)で、主文が乳と一種の葉文から成るいわゆる方格四乳葉文鏡にも同じ銘文を表わした例が多い(図22、23)。これらにあっては、その文字の篆書の体がかなり意匠化された目立ったものとなっている。
古くから中国で日光鏡ないし精白鏡の名で呼ばれてきた前漢代のこの鏡式は、その称呼の示すように、銘帯が意匠の重要な部分をしていて、遺例も多く当代広く行われたものである。その背文は概ね鈕を繞って内行花文(連弧文)の帯があって、これと縁との間に角張った一種の篆書の銘文を配してある。この文字の体が呉の「天發神讖碑」に似通っているというので、中国では従来三国から晋代の鏡と見られてきたが、銘文の簡単なものにあっては、「見日之光、天下大明」とあるものをはじめ、長い整った文章が目立って多い。そしてその文字は隷体となっている。
さらにこの種の鏡式では、内行花文帯に代えて、その部分をも銘帯としたのが、いわゆる重圏精白鏡である(挿22)。それにはまた書体の上で差異のある優れたものが並び存して、小さな鏡背の上に、当代書道の造詣の表われを見ることができる(図24-26)。同種の鏡式は、王莽から後漢のはじめにも、書体に柔らか味を加えながらも行われた。
以上のような、銘文が鏡背文の重要な部分をなして文章、書体ともに優れた前漢代の鏡式についで、同代の終わりに近くなると、そのあるものの構図を承けながら、背文として
新たな意匠を示すのがある。いわゆる方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡とがそれである。ことに前者が目立って漢代の鏡を特色づけるという。方格四神鏡は、背文の構成の上で四乳葉文鏡と似たところはあるが、内区に線表出で絵画的な青龍、白虎、玄武、朱雀なる四神形を布置するとともに、鈕を繞る方格内に十二支の文字を表わしていて、その構図は思想的な内容を示した複雑なもので、それを繞る銘帯の文字がまたその構図と相応ずる(挿24)。
なお同種の鏡の銘文には、「上大(泰)山見仙人」という神仙の思想を端的に示した句ではじまるものもある。文章はほとんどすべてが7字句の整ったもので、また書の体も細手で篆体より隷書に近い。この点は、銘帯があまり目立たないこととともに、上記前漢の諸鏡とは余程違う。
ところで銘文には、漢の官工たる尚方で作ったことを明記したものもあり、他にも漢における銅の産地を記した点で公的な意味を示している。そうすると、このような構図の鏡が前漢の後期に官工で新たな意匠として作られたことになる。その背景として、武帝による漢国家の充実に伴い、その理念とした思想が強くはたらいて、それが鏡文の上に表われるに至ったと梅原は推測している。
漢室を簒奪した王莽の時代の鏡は、その治世が一時的であったにもかかわらず、王莽鏡として、その名が高い。この王莽の鏡は、鏡式そのものとしては、前漢末に出来上がった方格四神鏡、獣帯鏡と少しも違っていないが、その銘文に、時代を明示するものや、自家の功業を誇示するものもあるところに特色がある。すなわち、前代の鏡における「漢に善銅有って丹陽に出ず」とある「漢」に代えるに自家の建てた「新」なる国号をもってし(図32)、また漢の尚方官工の作鏡に代えるに、初めに自家の姓たる「王氏の作竟」たることを示し、また「多賀国家」の句の「国家」を「新家」としたごときである。
「新興辟廱建明堂。然于挙土列侯王。将軍令尹民所行。諸生萬舎在北方」とあり、特殊な事実を記した銘文である(図33)。これは『前漢書』王莽伝の元始4年(4)の条に見える記事と相応ずるものである。同種の銘文では、いま上海文物保管委員会にある一鏡が特に著しい(図29)。その背文の構図は方格でなくて、円圏の間に主文を配したいわゆる獣帯鏡であるが、縁の近くにある銘文は奇古の趣を示す篆体で書かれ、始建国2年(10)なる紀年から始まる51字から成る。
再び漢室となった後漢の官工での作鏡が、もとの銘文に返ったことはいうまでもなく、その鏡式は方格四神鏡や長宜子孫内行花文鏡であった。それは例えば後者に永平7年(64)の紀年銘を印した鏡のある点などから知られる。しかし時代とともに、他方ではまた新たな意匠の鏡が作られて、それに一方での後漢代の鏡式が見られる。後漢代のこの種の鏡式になると、幸いにもその銘文に年紀を表わした遺品が少なくないので、的確に知ることができる。
さて、これらの諸鏡式で目立つ点は、以前の平面的な背文の表出に対して、肉刻をもってしたものがあること、鏡体においても、鈕から一段高い平縁に至る漢前半のいわば定型的なものから、鏡体断面の複雑化したもののあることと、一方それとは違った全く平面的な類の並び存することであるという。古くから盤龍鏡と呼ばれてきた鏡式、いわゆる環状乳神獣鏡が前者であり、鏡体は平面的であるが、意匠の点で新しい獣首鏡、夔(き)鳳鏡が後者に属するものである。
盤龍鏡は、完好な鈕と一段高い平縁との間に主な図形をいれるという背文の構成の上では
方格四神鏡と異なるところがないが、龍虎の図像が肉刻表出で、鈕を体躯のようにして相向かったものを主文とした点に特色がある。また銘帯も幅が広くなっている。
後漢代の鏡式のうち、獣首鏡と夔鳳鏡とは、鏡体が平面的な点で内行花文鏡に近いが、その構図に特色がある。すなわち二者ともに鈕を繞って四葉形の拡大した糸巻状の図形があり、それで四分したそれぞれに主文をいれ、その外側は縁までの間に内行花文その他の帯圏を配した鏡式である。その主文は、渦雲文をめぐらした正面を向いた獣首であるものと、相向かう目立った夔鳳形であるのとがある。ともに古い銅器の文様中の著しいものをとって鏡背の意匠としたことで一致する。この種の鏡の文字は、長宜子孫内行花文鏡のように、拡大された鈕を繞る区画内に、「長宜子孫」「長生宜子」といった吉祥語をいれているほかに、他の鏡式と同じく、内外両区の間の銘帯にながい主銘がある。
さて獣首鏡の銘帯の文では、その初めに鋳造の年時を記しているものが少なくない。この紀年は後漢桓帝の永寿からはじまって、熹平、光和など後漢代の後半を通じて、魏の甘露5年(260)に及んでいる。現存の夔鳳鏡中の紀年のある永嘉元年(145)鏡の主銘と相似ている(図37)点から、獣首鏡と夔鳳鏡といった両鏡式は後漢での官工で作られた意匠であろうと梅原は推測している。
次に画象鏡は後漢の石祠石闕における画象と同様な表現の図像をもってした鏡式である。この種の鏡は、中国では古くから周仲作の銘のある鏡が著聞し、日本の古墳からも、当時舶載された好例が多く見出されているが、1920年代の後半になって、浙江省紹興で古墳群の掘開があって夥しい遺品が出た。これらからすると、この鏡式での古い型は、大形の鈕を繞って方格があり、また一段高い外区を流雲文で飾るところは、漢盛時の方格四神鏡とその趣を同じくする。しかし他方で、内区にいわゆる規矩形がなくて、四隅に置いた乳で四分された各々に、龍虎形と男女の図像(東王父、西王母なる神仙を表わした)を薄肉凸起の手法で大きく表わし、外区の流雲文が異形縮小化し、縁辺がやや突起して三角縁に近い趣を示すようだ。
さて、画象鏡の銘文中には、東王父、西王母の名が見えて図像と相俟って、その神仙思想が顕著に表われており、また文章の上にもかなりの違いが認められる。また画象鏡には現在鋳造の時代を示す紀年鏡例はなお知られていない。しかし鏡式その他からすると後漢にすぐに行われた鏡式であることはほとんど疑いない。これを銘文の上からするも、日本の大和の佐味田宝塚出土の尚方画象鏡の銘に「保」の字が見えているのは、「保」が順帝の諱であるので、その後の漢の世ではこの字に代えるに「治」の字を用いた点に顧みて、順帝即位の紀元125年以前のものであることを示すものと解釈される。
盤龍画象の両鏡式とは違った肉刻で主文を表わしたものに神獣鏡がある。二神二獣を配したものは、鏡体が盤龍鏡に近い。しかしこの種の鏡式で後漢の紀年のある鏡に割合に数多く見られるのは、いわゆる半円方形帯環状乳神獣鏡である。その鏡式は背面の内外両区の間に新たに半円方形帯を伴う突起を作って、体の断面が複雑になり、内区の神獣の一部が環状様となっている点に特色がある。
鏡式で紀年のある元興元年(105)の遺品が早く銭坫の「鏡銘集録」に著録されており、つづいて延熹2年(159)、永康元年(167)、熹平2年(173)の諸鏡がある。その銘文から、当時の尚方の官工で作られたことを示している。
ところでこの銘文は、同じ尚方作竟でも漢盛期の方格四神鏡が整った7字句の文であるのに較べると、4字句を混えたかなり自在のもので、時代相を示している。そしてこの鏡式は神獣の形は変わっていくが、三国代になって盛んに作られたことは、南方呉の紀年鏡例の示すところである。
肉刻で表出した神獣鏡では、半円方形帯の方格を内区に四獣と交互に配した中平6年(189)の紀年のあるもの(図41)や、翼を持つ神仙像を階段状に並べて、周辺に四霊獣を配したいわゆる重列神獣鏡などがある。その重列神獣鏡は建安元年(196)から、紀年鏡があり、一部三国時代に及んでいる。フリア美術館(ニューヨーク)が蔵する建安7年(202)鏡は、中でも最も優れたものである(挿29)。書体はこの時代としては珍しい方形化の目立つ隷体で、前漢の精白鏡に似通いながら、また別個な風格がある。
要するに、後漢時代の諸鏡式は、これを銘文から見ると、前漢の末に出来上がった方格四獣鏡のそれを承けながら、同じ尚方の官工では新たに夔鳳、獣首の両鏡、画象鏡、半円方形帯環状乳神獣鏡などが次第に作られて、これらの意匠が行われた。そして銘文は7字句の文章より、必ずしもそれにこだわらないものから、4字の対句のものが多くなっており、またそれに東王父、西王母の神仙思想が顕著な表われを見るのである。なお漢盛時の尚方官工のもののほかに、早く王莽が魁をなした何某氏作竟ではじまる銘文例が多いことが注意される。それは盤龍鏡銘に著しく、やがて本来尚方作竟の画象鏡その他の鏡式においても多きを占める。これはもと官工の手に成ったものが、時代の進むとともに、貴族の抬頭するに従って、鋳鏡の上にもそれが反映したものとして興味深いという。もっともこのように各地で鋳鏡が行われたために、その銘文や書体は、前漢代における篆書から王莽代に見る隷書として整った書体に較べると、その流れを受けながらも、自由にまた簡単に工人の手で書かれたものが多いと梅原は要約している(梅原、13頁~21頁)。
漢晋の木簡 森鹿三
紙が発明される以前、中国では書写の材料として竹帛が用いられた。が、帛すなわち絹布は高価なものであるから、竹の方が広く用いられた。
竹を書写材料とするには、節を切りおとして適当の長さにし、さらに縦に裂いて札状にし、その青みを抜いて(殺青)、書写の用に供するのである。この竹札のことを簡という。後には竹のかわりに木で作った札のことをも、やはり簡と呼びならわした。ともかく紙以前の書写材料には、簡と呼ばれる竹または木で作った狭長な薄片が使用されていた。秦の始皇帝が焼き捨てた書物も、その後、漢代になって孔子の旧宅の壁の中から発掘された書物もみな、このような簡に書かれていた。降って、晋の時代に河南省北部の汲県にあった魏王の墓を盗掘して発見された中国の古い年代記には、その名も竹書紀年というように、竹簡に書かれていた。降って南朝の斉の時代に、湖北省西北部の襄陽にあった楚王の墓を盗掘して竹簡を発見した。それから6世紀ほどの間は、古簡の発見されたことが記録の上に見えないが、北宋の末に至って、陝西省において地下に埋まっていたかめを掘り出したところ、後漢時代の竹簡や木簡が出現したと伝える。過去の記録に見える竹木簡発見の歴史はほとんど以上で尽きるという。
その後、19世紀を終えるまでの800年間、竹木簡の出現したことを聞かない。しかるに20世紀に入ると、竹木簡の知見はとみに増大した。そのいきさつを概観している。
過去8世紀間、地上から姿を消していた竹木簡を再確認しうる機会を与えてくれたのは、スウェーデンの探検家、スウェン=ヘディンである。彼はタリム盆地(今の新疆ウィグル自治区南部)とチベットを調査するため、1899年から1901年にかけて、この地方をめぐり、1900年には紀元3、4世紀に繁栄した楼蘭の古址を発見し、翌年、多数の古文書を発掘した。同時に、書写年代が3、4世紀を出ない木札文書(121片)をも見出した。
ヘディンが楼蘭で木簡を発見した年には、タリム盆地南辺のニヤ(尼雅)古城址(今のホータンの東北約200キロ)において、イギリスのアウレル=スタインが50片の漢文木簡を発見した。その書写年代は、さきの楼蘭簡とほぼ同時代のものであった。
1906年~1908年、スタインは第2回の探検を行ない、ホータン地方と楼蘭故城址で、191点の木簡を得て、東方の敦煌地方からそれより時代のさかのぼる漢代の木簡(図1-10)を探しあてた。その数は702点にも上り、中に数点の竹簡を含んでいた。その解読はフランスのシャヴァンヌが担当し、1913年にその研究が481点の写真を添えて単行された(Les Documents Chinois Découverts par Aurel Stein dans les Sables du Turkestan Oriental.)。
また羅振玉、王国維も解読を行ない、『流沙墜簡』という著書を刊行した。両書ともに不朽の名著と評価されている。ついで、1908~09年には日本の大谷探検隊が楼蘭で数簡を得ており、1913~15年のスタイン第3回中亜探検では楼蘭および敦煌で219点の木簡を獲得している。そして楼蘭出土のものは晋簡、敦煌出土のものは漢簡であることは、前の場合と同様である。
さて、スタインの発掘の木簡については、それまではシャヴァンヌが解読していたが不幸にも1917年に亡くなったので、第3回分の木簡解読は、フランスのマスペロに委託することになり、戦後1953年に公表された(Les Documents Chinois de la troisième Expédition de Sir Aurel Stein en Asie Centrale.)。
20世紀になってからの木簡の発見は西方から開けはじめ、シルクロードに沿って東漸してきたわけであるが、ここに画期的な大発見がおこった。それは敦煌の東北、今の内蒙古自治区のエチナ旗での1万点に及ぶ漢代木簡(図11-15)の大発見である。
1931年、この1万簡が北京にもたらされ、北京大学の馬衡をはじめとする学者がその整理と解読に参加し、労榦が1943年に『居延漢簡考釈』と題する石印本を公けにした。居延というのは漢代にこの地方におかれた県の名であって、その県治は今のカラホトにあった。
20世紀になって発見された竹木簡は、長沙の楚墓の竹簡を除けば、中国の西北辺境から出土したものである。これらの竹木簡が発見された黄河以西の地域は、紀元前2世紀の後半に、漢の武帝によって開拓されたところである。上述の居延、敦煌などは当時における重要な軍事基地であった。
これらの地域の当時における性格を反映して、発見された漢晋木簡の内容も、北方民族に対する防禦と西域の経営ということが主題になっている。羅・王が『流沙墜簡』を著した時、漢晋簡を小学術数方技書と屯戍叢残と簡牘遺文の三つに分類したが、その中で最も多くの分量を占めているのが、屯戍叢残であって、軍事基地の性格を反映した文書・記録であった。ついでこれの十数倍に上る居延簡では、その比例をこえて屯戍叢残の数が飛躍的に増加した。そこで居延簡の整理を担当した労榦は改めて文書、簿録、信札、経籍、雑類に分け、さらに文書、簿録を小分類する必要に迫られた。
さて、過去半世紀間に中国の西北辺境で発見された漢晋簡は1万2千点に近いが、そのほとんどすべてが木簡であって、竹簡はその1パーセントにも達しない。その竹簡の中で注目すべきものは、玉門関附近で発見された薬方書十一簡である。おそらく、内地から伝来された貴重書であったと推測されている。この西北地方では竹が植生しないから竹簡を用いることはきわめて稀であったからである。また木簡の材料としては白楊木や紅柳木が多く、そのほかに松柏科の木(雲杉であろう)も用いられているという。
そして木簡の形状や大きさは様々であるが、長さ23センチ、幅十数ミリという細長い形をしたものが普通である。23センチといえば漢尺のほぼ1尺にあたり、当時かきものを尺書、尺籍、尺牘と称したことがうなずける。
この細長い形をした通常の簡には2、30字しか書けないから、書写した簡を編綴する必要がある。穆天子伝は絹糸でつづられていたというし、孔子の愛読した『易経』は革ひもでつづられていたと伝える。
最近発見されたものはほとんどもとのつづられた姿(すなわち冊書の形)で残っていなかったが、居延からは幸いにも冊書が出現した。その一つは、図14、15の64、65に示した76簡よりなる広地南部候の兵物簿である。このわずかに残された冊書によると、簡は上下二条の麻縄でつづられ、まったく「冊」の字そのままの姿を呈している。
さて文書や簿録、封検や簿検といった公文書を書写したのは官庁にいた書記である。これらの公文書の出土した西北辺境地帯は、軍事上の要地であって、都尉府が置かれ、そこに書記がいた。公文書は書記の筆写にかかり、彼らは文書に必ず自署している。
そしてこれらの公文書は、漢代においては原則として隷書でかかれるものであったらしい。彼らは隷書を手習いしたようで、図6の27のような習書の残簡が少なからず見出されている。もちろん公文書の中にはいわゆる章草でかかれているものもあるが、果たして正式の公文書であったかどうか、疑いがないでもないという。
ほとんどが断簡零墨であるために、はっきりしたことはいえないと断りながら、森鹿三は次のように記している。すなわち、書記たちの筆写する公文書は原則として隷書でかくべきものであり、公文書の形式をもつものの中に章草でかかれているもののあるのは、その草稿あるいは控えではなかろうかと森は推測している。
例えば、長冊の兵物簿のごときは章草でしるされているが、これなども広地南部候長から
広地候官長への上行文書がそえてあるが、今みるこの簿録は候官へ送られたものではなく、その控えとして広地南部候に保管されていたものであろうと森はみなしている。
上述の公文書に対して、簡牘遺文、信札は、私的な間柄のもののしたためるものであるから、正しい隷書でかかれることは稀であって、書体も非常に自由になっており、釈読が困難であるという。
この信札と対蹠的なのは字書である。字書といっても発見されているのは「急就章(図1の4、5)」と「蒼頡篇(図1の1)」だけである。いずれも字をおぼえ字を習うのに便したものである。したがってお手本は立派な隷書であるのに対して、手習いをしたのもの方は稚拙であるという対比が見られる。字書のほか、成書としては竹簡の薬方あり、暦あり、また法令も含めうるが、一般的にいって立派な隷書でかかれている。なお、居延地方からは漢代の毛筆が出土していることを森は付言している(森、22頁~30頁)。
碑碣の形式 水野清一
中国では「石鼓」を碣のうちにいれても、ようやく西暦前481年頃のものである。「詛楚文」の三石は前313年に比定されているけれども、その形はわからない。秦の始皇帝の巡狩の刻石は、みなで7石、始皇28年(219B.C.)から37年(210B.C.)にわたっている。みな立石というから、碣の類である。だから碣は戦国、秦にさかのぼるけれども、碑はまだ現れていない。碑の現れるのは後漢以後である。
碣は『説文解字』によると「特立の石なり」とある。したがって、碑形をなさぬ立石は、みな碣ということができる。それでも「石鼓」のように丈の低いものは碣というのにふさわしくないという。始皇瑯琊台の刻石は「石の高さ工部営造尺の丈五尺、下の寛は六尺」というが、現在山東省の済南博物館にみられる瑯琊台刻石は高さ約110センチ、幅約70センチの板状である。
これに対し、江蘇省宜興県国山にある刻石は天璽元年(276)の作であるが、高さ8尺、囲1丈である。浙江省紹興禹王廟にある禹陵窆石はもとより禹陵ではなく、文字も呉の刻にちがいないが、これこそ碣というべきものであろうという。
西方では、新疆省バリコン山中にある永和2年(137)「裴岑紀功碑」(図76)は俗に石人子とよばれ、孤筍のように、上が細くて、下が大きい。東方では、東北遼寧省輯安の甲寅年(414)、「高句麗好太王碑」が高さ18尺、広さ5尺6寸に4尺4寸で方柱状をしている。これらはみな碣である。
さて碑の起源については、いろいろな説があるが、要するに2つの系統がある。その一は、『礼記』の祭義にみえる宗廟の門内にある碑である。これは犠牲をつなぐためのもので、一種の柱である。石でつくったか、木でつくったかわからないが、紐をとおす孔があり、これが碑の穿(せん)になったという。その二は『礼記』の喪服大記にある碑で、墓にたてる柱である。これも石とも、木ともいわないが、二碑あり、それぞれ滑車をつけ、棺を壙底におろすのにつかうという。のちの碑に円首で暈(くん)のあるものがあり、それはこの滑車の名残だという。暈は円形の溝で、それが一方だけ相重なっている。あたかも滑車をななめにみたような表現である。
こういう廟門の碑、墓上の碑が石になり、文章が刻されると石碑になる。それは後漢からで、今日一番古いもので、漢安2年(143)、「北海相景君碑」(図78、79)である。これは山東省済寧にあり、圭首で、穿がある。円首の碑は、滑車の形からでたが、圭首の形式については、雨水の流れるための形式であるという関野貞の見解を支持している。
漢安2年は景君の卒年で、建碑の年はわからない。碑には誄を刻し、末尾に辞と称するが、のちの墓誌銘にあたるものを刻す。碑陰には54人の題名を記し、碑をたて、辞を録するゆえんを述べている。もちろん隷書で、ただ碑額のみが篆書、「漢故益州太守北海相景君銘」という。いわば一種の墓碑である。景君の墓側にたてたことは明らかである。
しかし山東省博物館に陳列された河平3年(26B.C.)「麃孝禹(ひょうこうう)刻石」(図59)をみると、これはすでに円首である。高さ1.45メートル、幅44センチ、穿はない。墓碑ではあるが、墓上の棺をおろす碑からでたものでないと水野は推測している。
ともかく、後漢も、2世紀後半になると、建碑もさかんになり、碑形も一定する。すなわち、圭首か、円首で、穿があり、板状をなす。往々、上部に題額をつくり、これを篆書でかいたから「篆額」の名ができた。圭首の代表として延熹元年(158)「郎中鄭固碑」(挿46)、円首の代表として永興2年(154)「孔謙碑」(挿47)を挙げている。後者は、碣ともよばれているが、小形だからである。形制は完全な暈と穿のある碑である。いずれも、円首であれば、暈のあるのが常例であるが、暈のすじが龍身に擬され、そのはしに龍頭があらわされて、のちの螭(ち)首の原型となるという。建安7年(202)「巴郡太守樊敏碑」はそのはやい一例である。また永興元年(153)「孔廟置守廟百石卒史碑」(図82、83)いらい、碑側にまま流雲文があらわされ、碑台に方趺がみとめられる。光和6年(183)「白石神君碑」(図116、117)には、はじめて亀趺がつくられ、「樊敏碑」には龍虎が璧をふくむ台座がある。このうち「置守廟碑」だけが墓碑でない。曲阜の孔子廟に百石卒史をおき、礼器の出納その他をつかさどらさせるにいたった縁由を記したもので、その記事のあとに讃がついている。
魏晋時代には、まだ漢代の制がそのまま行われている。魏の黄初元年(220)「孔羨修孔廟碑」(挿48)は、もっとも代表的な圭首碑であり、晋の永康元年(300)「沛国相張朗碑」(挿49)は代表的な龍頭の円首碑である。前者には穿あり、後者には暈があるが、穿はない。新出の晋咸寧4年(278)「皇帝三臨辟雍碑」(挿50)も龍頭の円首で、穿はない。ここで注意すべき点は、漢末魏晋における墓碑の禁令で、その結果、墓碑は小さくなり、墓中におさめられるとともに、また墓誌という特殊な形式を生むにいたったし、その他の修理碑、記念碑の類は大きくなり、大碑のおこなわれるもといを築いた。
さて南北朝時代になると、南朝では宋の「寧州刺史爨龍顔碑」のほか、梁の諸王の墓碑のみであるが、みな円首で穿がある。とくに梁碑は「始興忠武王蕭憺碑」のみが年号あり、天監18年(519)の作である。暈はなくなるが、円首に龍をあらわすから、これではもはや螭首というほかはない。碑額と碑側に流麗な禽獣唐草文を彫っているのは注意されるし、碑台としての亀趺が完備している。
北朝でも、円首に龍が左右均斉につくられるから、やはり螭首である。穿は太安3年(456)「中岳嵩高霊碑」にみられるほか、ほとんどみられなくなる。これに反して篆額は発達して明確な形をとるようになる。といっても、神亀2年(519)「兗州賈思伯碑」(6巻図22、23)、正光3年(522)「魯郡太守張猛龍碑」などは、正書の碑額(6巻図24)である。東魏天平3年(536)「侍中黄鉞大師高盛碑」、北周天和2年(567)「西嶽華山神廟碑」などになると、螭首の彫刻がみごとなばかりでなく、りっぱな圭首の碑額のつくられるのが特色である。ことに高盛碑、また高飜碑などは、碑側の唐草雲気文が南朝にまけないくらい流麗である。これらは墓前にたった墓碑であまり大きくないが、中岳廟の碑、西嶽廟の碑は廟前にたち、神徳をたたえた廟碑で、ますます高大になった。
ところが、碑のうちには、景明5年(504)、霍揚碑、武平8年(577)「斉太公望表」のように、仏像をきざむものができ、そのうち仏像を彫るための碑がつくられた。カンサス市美術館の西魏張興碩等の碑、メトロポリタン美術館の北魏永煕2年(290)碑、あるいは東魏武定3年(545)「報徳寺七仏頌碑」など、みな碑形を利用して、これに仏像の龕や浮彫をつくった。しかも仏教の流行とともに、この風は上下を風靡し、大小さまざまのものがつくられた。金石学者の間では、碑像とよばれているが、あまり適切な名称ではない。
隋唐になると、碑はますます盛んにつくられ、今日に残るものもすこぶる多い。隋開皇6年(586)「龍蔵寺碑」は碑額(7巻図1)が正書でかいてあり、大業7年(611)「修孔子廟碑」は珍しく円首である。
唐初の貞観21年(647)「晋祠銘碑」は大きな圭首の額で、飛白の文字がある。龍朔3年(663)「道因法師碑」には圭首の碑額に仏龕がある。これはすでに隋からあることで、さかのぼれば北朝にもある。永徽4年(653)「大唐三蔵聖教序碑」ならびに序記碑では、碑の上部に仏龕があり、下部に天人の奏楽、舞踊像があり、左右に細密な唐草文帯がある。碑側には、盛んに唐草文がつくられ、「道因法師碑」、天宝2載(742)「隆闡法師碑」の唐草文、開元24年(736)「大智禅師碑」の菩薩獅子唐草文は、じつに豊麗で、唐代の特色をよく発揮している。
唐代でできた、新しい形式は、大きな帽子をつけたような碑首で、関野貞は蓋首という名で呼んでいる。その一番古いものは、文明元年(684)「乾陵述聖頌碑」で、次は天宝3載(744)「嵩陽観聖徳感応碑」である。方趺のうえに碑身をおき、その上に額石をおき、さらに蓋石をのせている
その翌年、天宝4載(745)につくられた「玄宗御書孝経碑」は、この蓋首の下に方柱形の碑をつくったので珍しい。三角柱を四方からよせて方柱形にしたもので、その上に大きな蓋首をのせている。珍しい碑形であるが、行われたのはこの時代だけで、その後は廃れてしまった。
碑がそのはじまりから戦功を記したり、政績を頌したり、人一代の事蹟を録したりするほか、神徳、仏徳をたたえ、また経典を刊したりする。漢魏の石経も、碑形をしてならんでいたらしい。仏典も、南北朝末の末法思想の普及からますます石に刻されたが、碑形をなすものは河北房山の垂拱3年(685)、雲居寺金剛経碑二基などである。これは螭首方趺で碑額に仏龕がつくられている。
宋元以後は、もはや碑形も、この形式の範囲をでず、碑といえば、螭首亀趺を普通とし、まま円首なり、方趺がつくられるということになった。文章はもとより神仏や人の徳をたたえるものを主としたが、同時にそれに関連して重修碑の類が多くなってきた(水野、30頁~36頁)。
別刷附録 司隷校尉楊淮表紀
次に「第2巻中国2漢」の図版解説を付記しておきたい。
敦煌出土漢簡について
敦煌出土漢簡とは、スタイン卿が第2回の中央アジア探検(1906-1908)で発掘した木簡の中、敦煌附近で発掘したものと、第3回探検(1913-1915)で発掘した簡のうち、敦煌、酒泉の地帯で発掘したものとを指す。
第2回探検で発掘した木簡の釈文解説を施したものには、シャヴァンヌ著 Les Documents
Chinois Découverts par Aurel Stein dans les Sables du Turkestan Oriental (Oxford, 1913)などがある。図版の1-49は、このシャヴァンヌの著書より採録したものであるという。
第3回探検のそれには、マスペロ著Les Documents Chinois de la Troisième Expédition
de Sir Aurel Stein en Asie Centrale (London, 1953)などがある。図版の40-50はマスペロの著書の写真より適宜採録したものであるという。
ところで、当時は簡の数も少なかったので、主として既存の史料を利用して、簡文の解釈をおこなう段階で、簡自体の性質を究明することは必ずしも十分ではなかった。その後、後述する居延簡1万点の発掘によって、簡そのものの研究もかなり進んだ。
敦煌出土漢簡について、例えば、図10の47-49の簡について、米田賢次郎・大庭脩は次のように説明している。漢代では国境守備隊の食糧確保の一手段として、大規模な屯田策を強行した。その方法は二種ある。
一つは軍卒が、自身で守備し、かつ耕作する場合で、一人当りの耕作面積は約20畝位という(敦煌簡には一人当り40畝と20畝の例がある)。
第二には居延のように専門の耕作者をおく場合である(田卒と呼ばれていた)。この簡の例では一人当り約100畝となり、面積からいって、この弛刑達は専ら耕作に使役されたと推測されている。弛刑とは罪人の刑の執行をとり止められたもので、通常その代りに国境で強制労働に就役されていた。
刀筆は、木簡などに字をかいた時、間違ったり、あるいは前に一度使用した簡に書くときに、簡をけずる小刀をいい、転じて記録文書をいうようになった(米田賢次郎・大庭脩、図版解説、149頁、156頁参照のこと)。
居延出土漢簡
居延出土漢簡とは、有名な探検家スヴェン・ヘディンを団長とする西北科学考査団が、1930年4月から約1年間に、居延沢およびエチナ河流域にかけた発掘した約1万点の木簡を指す。
これらの簡は不幸な戦争中に、主として労榦の手によって釈読された。日本でも木簡研究熱が高まり、「東洋史研究」に居延漢簡の特集号がでた。その諸論文は、多く木簡自身から帰納的な結論を導き出すこと、および木簡を通して居延地区の生活、および官制の組織の解明に努力がはらわれた。これはスタイン探検隊の発見した木簡が第2回には893点、第3回が約200点という少数であるに比較して、居延のそれは1万に及ぶという量の強みによるものである(大庭脩、図版解説、156頁参照のこと)。
図17 封泥(ふうでい)
簡牘に書信をしたためた漢時代の人は、その発送にあたって、やはり今日のように封緘をした。それは簡牘を繩で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺するという仕方で、封緘に用いられた泥だから封泥とよばれ、いわば封筒をとじるシールにあたる。したがって封泥の裏側には繩のあとがくぼんでいるのが普通である。
漢の郵便物は郵亭を順次リレー式に運ばれ、その記録に「一封居延都尉章」などと書いてあるのは封泥に押捺された印によって発信者を記録したもので、「封完」「封破」などとあるのは、受領時の封泥の状態を記したものである。
封泥が歴史的な遺物として中国で注目されるようになったのは清末のことで、呉式芬・陳介祺が『封泥攷略』を著したのが封泥についての専著のはじめである。
封泥の色には様々なものがあったらしく、『漢旧儀』によると、皇帝は紫泥を用いたという。また封泥の文字はほとんどが陽文で、陰文の物は少ない。これは漢印が多く陰刻であったことをしめす。そのことは印を作る技術が未発達であったせいもあろうが、印の目的が、印肉を用いて押捺することよりも、むしろ封泥に鈐するためであったことによる。
封泥が多数出土した場所は、当時の郡県の官庁があったことが推測されている。そして印文の中には『漢書』百官公卿表などの漢の官制の記録にはない官庁名があって、その欠を補うことができ、漢代官制の研究に寄与するところが多いと、大庭脩は解説している。
(大庭脩、図版解説、160頁~162頁参照のこと)。
図19-10 後漢印 漢委奴國王(金印、蛇鈕、印面、24粍平方)
天明4年(1784)2月、福岡から遠からぬ玄界灘の志賀島で、百姓甚兵衛が、島の南側、海岸沿いの田の灌漑溝の修理をする内に、3個の石を組んで箱形の中にこの金印がはいっていたので大騒ぎとなり、結局、翌月16日に郡代に届け出で、藩主から米若干俵(ある所伝では銀5枚)を賜ったという。
それから約25年後の享和3年(1803)に黒田藩士の梶原景煕が、金印の印影、印の前後左右の立面図、出土場所を示す島の地図などを画いた後に、ことの次第を漢文で書き記した。
印文の「委奴國」とは、以前は「イド」と読み、筑前の怡土郡にあてる説、「ヤマト」の音を写したとする説、「委」は倭の略で、倭をいやしめて呼んだとする説などがあったが、「倭ノ奴國」すなわち今の福岡市あたりにあった小国にあてる説(三宅米吉)が今日ではもっとも広く行われている。
当時の日本は百余の小国に分れており、その何十箇国かは、それぞれ大陸と交通していた。後漢第一代の光武帝の中元2年(57)正月(その翌月に光武帝はなくなった)に倭奴国の使が朝貢して印綬を賜わったことが『後漢書』に見え、その印こそ、その時のものであると普通に解されている。
この印の材質は金である。『漢官儀』に印の制を述べて「王公侯は金」とあり、『漢旧儀』に「諸侯王は黄金、槖駝鈕、文には璽という、列侯は黄金、亀鈕、文に印という、丞相大将軍は黄金印、亀鈕、文に章という、云々」とあり、高位の官印は金で作るのが通例のような書き方であるが、今、残る実例で見ると、上に挙げられた高位の官の印でも銅印が多く、時に鎏金のものがあるに過ぎない。蓋し金印は今の場合のように外国の王とか、特別に功労のあった者とかに授けるだけのものであったのであろうと、藤枝晃は推測している。
倭は東夷であるから、この印は蛇鈕である。他の印の蛇鈕と比べると、細工は段違いに入念である。書体もなかなか立派で、王莽時代の印の諸例よりはやや太い感じである。この印の国宝指定がきっかけになって、真偽の論議がやかましかったことがある。
天明4年(1784)当時の日本にこれだけの印文を作れる篆刻家はまだいなかったはずであり、また蛇鈕その他の手本になるような古印はそう幾つも伝わっていなかったはずであると藤枝はみており、真偽についての論議は無用であるという(藤枝晃、図版解説、166頁、参照のこと)。
図84、85「魯相韓勅造孔廟礼器碑(ろしょうかんちょくこうびょうのらいきをつくるひ)」
東京の書道博物館に拓本があり、永寿2年(156)のものとされる。
山東省曲阜の孔子廟には漢碑のすぐれたものが多数あるが、その中でも「百石卒史碑」(図82、83)、「史晨前後碑」(図98-101)そしてこの「礼器碑」の三碑は、後漢において立碑の流行した最盛期にあたるとともに、そのもっとも傑出したものとして古来著名である。しかも、この三碑の中で「礼器碑」はとくに高く評定され、漢隷の第一品とまで称しているほどである。およそ漢隷を学ぶ人々には必要欠くべからざるものであるばかりではなく、諸碑を学んでからのち到達する最後の段階であるとされている。
この碑は後漢の桓帝の永寿2年(156)、魯相の韓勅が造立したものである。この碑は、碑陽と碑陰と左右両側にいずれも文字が刻されているが、碑額はない。だから、碑の名称は昔から一定していないが、「漢魯相韓勅増修孔子廟前碑」とするのがよく立碑の主旨をあらわしている。
碑文の内容は魯相の韓勅が孔子廟を修理し、廟の祭祀にもちいる器物を修造し、あわせて孔子の親戚にあたる顔氏と并官氏の子孫に、邑から取り立てる賦税を免除して、恩典を施した。この事業によって国を挙げてその余恵を受けたので、韓勅の功績をたたえて、その始末を文に記し、石に刻して永くその声名を後世に伝えんとしたものである。
この碑は明の郭宗昌が、鬼神の加護によってできたもので、人工によって書かれたものではないと激称して以来、多くの人によって推称されたといわれる。清朝の前期における帖学派の学者たちも口をそろえて讃美している。中でも、王澍はもっともこの碑に執心した人である。
そこで中田勇次郎は、この王澍の五節八変の説を検討している。この説はこの碑の書を研究するにあたって、まず碑文を5つの段節に分ち、その間に8つの書風の変化を認めようとするものである。例えば、第一節1第一変、序では、「つつしみぶかく熟練した筆で、全力を尽してかいているので、力が字の外にあらわれて、あらゆる美しさが備わっている」という。このように、五節八変について記しているが、これによると、この碑は同一人が時を変えてかいたものである。
これに対し、翁方綱は書風が段節によって変化することはほぼ同じように認めているが、書者については、碑陰の末行に小さくかかれている文字の中に「七人所作」とあるのを七人書するところと解し、合計七人とする。しかし、翁方綱説では、「七人所作」を書を書いたと解してよいかどうかにも、中田は疑問があるという。
そして書風も四面ともに大体において相通ずるものがあり、かりに何人かの別の人がかいたとしても、その書風においてはほぼ同じ種類のものと見てよいので、しいて七人とする必要があるとは思われないという。むしろ王澍の説のままの方がこの碑の鑑賞には統一された理念があらわれて都合がよいと中田は主張している。
ところで漢隷には素樸なものと流麗なものがあるが、この碑はそのいずれにもかたよらず、よく中和をえている。結体はととのい、八分の隷法は誇張に陥ることなく、きわめて温雅であり、痩勁な線を主調として清潔に、筆勢も滞ることなく、一種の高い理智的な精神をたたえている。王澍はさらに序の部分に重点をおいて、そこに自然の神妙さを見出して、その書のすぐれていることを力説している。
しかし、この説は魏晋の書に書論の基礎を置く帖学の立場の考え方から出たのではないかと思うと中田は述べている。漢人の理想とした八分は、むしろ「史晨碑」や蔡邕筆と伝えられているようなものにあったかもしれないという。けれども、八分が魏晋の書を導き出したという点からいえば、やはりこの碑の漢碑におけり位地(ママ)と価値はもっとも高く評定されなければならないと付言している。この意味ではまたこの碑と「曹全碑」(図118、119)を漢碑の双璧と称することもできるという(中田勇次郎、図版解説、186頁~187頁参照のこと)。
図118、119「郃陽令曹全碑(ごうようれいそうぜんひ)」
中平2年(185)拓本 23×11.3糎
漢碑の八分の代表的名品として本来著名なものである。明の隆慶から万暦のはじめのころ、陝西省の郃陽県の旧城から出土してはじめて世に知られるようになった。それまでの著録にはのっていない。
曹全はあざなを景完といい、敦煌效殻(甘粛省)の人である。早く父をうしない、義祖母に養育され、継母につかえたが、孝心の礼に厚かったので、郷人がその善行をたたえて、諺に、「親を重んじ歓を致す曹景完、世を易(つ)ぎ徳を載せその名を隕(おと)さず」といったという。184年、郎中に除せられ、酒泉禄福長を拝した。たまたま匪賊張角すなわち黄巾賊が暴動を起こして各地を荒らしたので、選ばれて郃陽令を拝し、動乱を収拾し、民治に尽瘁した。
そこで、群僚たちがかれの高徳を表彰するために、その功績を記して石に刻したのがこの碑である。文中には曹全の没年を記さず、建碑の年も光和7年すなわち中平元年の翌歳のことであり、おそらく彼の生存中に建てられた頌徳碑であろうという。
ところでこの書は結体もよくととのい、文字の構成にも行きとどいた感覚のはたらきが見られ、波払は長くうつくしく、筆勢はよどみなく清らかに澄んでいる。一種のやさしく、わかわかしい婉麗さがただよい、八分の行き方として完成の域に達している。木簡では敦煌出土漢簡シャヴァンヌ本5、鄭子方の部分を参照することによって、その真蹟の技法を考えることができる。
のちの魏晋の書は漢の八分の書法から発展してきたが、それにはこのような技巧の高度に進んだものに関係づけて観察するのがよく、その点においてこの書は、ほとんど漢末に近いものとして、八分の最後の花であるとともに、書法を護り伝えるのちの伝統的書道へのつながりが予想されるものであると中田勇次郎はみている(中田勇次郎、図版解説、197頁~198頁参照のこと)。
漢代の木簡について
今日知られている漢代の木簡は、辺境守備隊の書記や兵卒の書いたものが多いので、書としては上等ではないものが多いとされる。
その中でも、習字手本としても用いられたと思われる「蒼頡篇」や「急就篇」のような字書を書いたものの中には、上手の書もまじっており、あるいはそれらの中には内地から持って行ったものもあるかもしれないと内藤乾吉は推測している(内藤乾吉、図版解説、182頁参照のこと)。
塼(せん)について
図54として、「竟寧(きょうねい)元年塼」(京都大学文学部蔵、竟寧元年[前33]、拓本、堅31糎)が掲載されている。
中国の塼の起源は殷代の版築に求められるべきであろうが、塼が一般に行われたのは周代の後半からのことのようである。漢代になると、木造の墓室と並んで塼墓の発達に伴って、そのための塼が一般化した。この墓塼はそのようなものの中で古い一例をなすもので、文字は隷書の優れた風格を示す点で、現存の塼文中での白眉というべきものであると梅原末治は評している(梅原末治、図版解説、176頁参照のこと)。
巻末の「書人小伝」に基づいて、張芝について補足しておく。
張芝(ちょうし、?-初平年間[190-193])
もと敦煌酒泉(甘粛省)の人で、父は太常の高官にのぼったという知名の士で、張芝は、名臣の家に生れ、幼い時から学問にはげんだ。しかし終身仕官せず、世を避け、潔白な処士として終った。
平生から書をこのみ、家にあるところの衣帛は、すべて書をかいてから練るという熱心さであった。また池に臨んで書を学び、そのために池の水が真っ黒になったという逸事はもっともよく世に知られている。彼がとりわけよくしたのは章草であった。その師としたのは杜度と崔瑗であるといわれるが生存年代から考えて、直接就いて学んだのではなく、ただその書風を受けついだのであろうという。
しかし、張芝の父には崔瑗および崔寔に与えた書簡の文章が伝えられているところからみると、父は崔氏父子と交遊したと思われるから、張芝も幼少の頃に崔瑗、または長じて崔寔の教えを受けているかもしれないと中田勇次郎は推測している。
張芝は章草のほかに一筆飛白書をよくしたと伝えられている。これは筆を断絶せずに一筆で書き下ろした飛白体の書のことらしく、彼のいた当時にすでにこのような書体があったかどうかはわからないと中田はいう。さらに、張芝が連綿体の今草を創始したという説もあるが、これは信じられないと中田は否定している。
とにかく彼が草書の名手であったことは、『後漢書』にもそのことが見えているほどである。彼の書いた書はほんの小紙片でも人々が珍重し、のちには彼の門下に出た韋誕が、彼のことを草聖と称したという。
そののち東晋の王羲之も彼を魏の鐘繇と相ならぶ最上級の書人として学んでいる。また梁の庾肩吾(ゆけんご)の書品では、彼を鐘繇・王羲之とともに上の上の位において品評し、張芝は鐘・王に比べると天然よりもその工夫にすぐれているといい、その技巧の絶妙であったことを称揚している(類似したことは孫過庭の『書譜』にも記してあるので、後述したい)。
その書風については、梁の武帝の批評に、漢の武帝が道術を愛し、虚(そら)に憑って仙人になろうとするようであるという。唐の李嗣真の書後品にも、春虹が澗に飲み、落霞が浦に浮ぶのに似ているとか、沃霧が沾濡し、繁霜が揺落するのに似ているなどと形容している。
しかし、今日彼の真蹟として伝えられているものは絶無といってよい。のみならず、古くは晋代のときにも貴重なものであり、南朝宋の頃にも彼の章草を稀世の宝として珍重していた。
唐の太宗も探し求めることができず、褚遂良もわずかな断簡しか手に入らなかったといわれる。だから、古来いかに稀であったかがわかる。したがって、その書風もあきらかでない。このほかに行書と隷書をよくしたといわれているが、実例もなく、事実そうであったか疑わしいと中田は解説している(中田勇次郎、書人小伝、202頁参照のこと)。
さて、以下、順次、この目次に従って、『中国書道全集』の内容を要約していく。
1 中国1 殷・周・秦
「第1巻中国1殷・周・秦」には、殷王朝の殷墟遷都(前1400年頃)以後、秦の滅亡(前207年)まで、約1200年間を収めている。この時代の資料は、筆墨で書かれたものは稀で、大部分は甲骨文、金文などのような金石文であるから、図版は拓本が主になっている。
中国書道史1 神田喜一郎
書は中国に発達した一つの特殊な芸術であるといわれるが、書が文学や絵画に伍しつつ、芸術として発達した根本的な理由として、中国の文字、すなわち漢字そのもののもつ特性を神田は挙げている。視覚芸術として審美的対象ともなる可能性が漢字そのものに、最初から内在していたと考えている。
しかし、今日いう意味での書道、すなわち芸術としての書という意識は、必ずしも上古から確立していたわけではない。いまだ漢字形成の途上にあっては、芸術化する余地はなかったが、漢字が一応形成過程を終えて固定化したのち、自覚的な芸術意識の覚醒がはたらくに及んで、はじめて真の書道が成立する。
その時期は今から1800年ほど前、すなわち後漢の末頃を神田は想定している。つまり中国書道史は、後漢を境にして前史と本史に分かれるとする。さらにその前史は秦の始皇を境として、前後2つの時代に分れると考えている。秦の始皇は、各種の字体に一応の終止符を打ち、新しい統一的な字体をつくった。先秦時代の歴史は長いが、これを書道史的に見るならば、それは漢字形成の過程の歴史であって、やがて後代の書芸術の発展を約束する最初の長い準備期であったと神田は考えている。
漢字は中国における書の発達と不可分の関係にあるが、その起源については定説というべきものがなく、不明である。今日確実に知ることのできる中国最古の文字は殷王朝の甲骨文である。
殷王朝は第20代目の盤庚(ばんこう)の時に、都を安陽にうつし、中原に強大な勢力を振うた。その年代はだいたい紀元前14世紀から11世紀に至る頃と推定されている。この時代の殷王朝は、青銅器文明が栄え、その貴族は農耕を主な生業とする庶民の上に立って、豪奢な生活を営んだ。
いわゆる甲骨文(図1-12)はこの時代の殷王朝の遺物である。清朝の末、光緒25年(1899)に、河南省の北端に近い彰徳という街の西北約1里ほどにある小屯という村の土中から、初めて発見された。ここは盤庚がはじめて都をうつした安陽にあたり、殷王朝の遺跡と伝えられる殷墟という地であった。
甲骨文は、こうした土地から発見されたものである。そもそも甲骨文とは亀の甲や牛の骨にきざまれた文字のことで、これは殷人が卜占(うらない)の用に供したものである。古代人が亀の甲を卜占に用いたことは、『尚書』の洪範とか『周礼』の大卜の条などにもその記事が見えている。甲や骨の表面にきざみつけておくもので、つまり卜辞であった。
また甲骨文は、同じ文字でもその字体は必ずしも一定せず、いろんな体に書かれているが、原始的な絵文字からいまだ完全には脱化しきっておらず、いわゆる形声の文字、すなわち表音部と表意部との結合からなる文字などは、その数がはなはだ少ない。
甲骨文の字体や書法を、董作賓は、時代的に5つの類型に分け、それぞれの文字を、雄偉、
謹飭(きんちょく)、頽靡、勁峭(けいしょう)、厳整と評している。これは書道史的には特に注意すべきことであると神田はみている。
甲骨文は、よく切れる小刀のようなもので、甲骨の表面に刻みつけられているが、そこにいくらか筆意が窺われ、原始的な書道の萌芽が認められ、中国最初の書道史料として甲骨文のもつ意味は大きいという。
なお殷王朝の文字には、甲骨文のほかに多少の金文がある。中国では殷王朝以来盛んに精巧な青銅器が製作されたが、それらには多く銘文が刻された。その文字がすなわち金文で、その確実なものは、殷王朝の末期に属する。
殷王朝は紀元前11世紀の後半に、周王朝に滅ぼされた。周王朝は中国史上もっとも長く続いた王朝であったが、その都が鎬京(こうけい、陝西省西安)におかれていた最初の280年ほどを、西周時代(1050?-770B.C.)をいい、都を東の洛邑(河南省洛陽)に遷した時代を、東周時代(770-256B.C.)といった。そして東周時代は春秋時代(722-481B.C.)と戦国時代(480-222B.C.)とに分けられる。春秋時代は斉の桓公など五覇と称せられる諸侯が出て、周王朝に代り天下の諸侯に号令した時代であり、戦国時代は西方に拠った秦と、東方に分立した楚、燕、斉、韓、魏、趙の六国とのみが栄え、互いに抗争を試みた時代である。
さて、両周を通じてその時代の文字を今日に伝えているのは、いわゆる金文である。中国では宋代以来この金文を専門に研究する金文学という一科の学問がおこり、とくに清朝の中葉から今日にまで隆盛を極めている。金文は甲骨文字の系統をうけ、それを一層整えたものということができる。甲骨文字では、同じ一つの文字でも筆画や形態が必ずしも一定せず、ある程度自由に書かれたが、それが固定化し、西周中期の金文になると、だいたい一定してしまった。そして西周末期の銅器の銘文には金文の典型として、よく文字の整った立派なものがある。
ところが東周になって、だいたい春秋時代までは、西周以来の字体がそのまま行われたが、戦国時代になると、東方の六国では、金文とはやや異なった新しい字体が興ってきた。この字体が紀元100年頃にできた『説文解字(せつもんかいじ)』という中国最古の字書に載せている古文という字体によく似ている。
中国の古い伝承では、古文は倉頡(そうけつ、蒼頡とも)の製作したものとなっているが、実は戦国時代に東方の六国で行われた字体ということになると神田は解説している。それから戦国の末期になって、西方の秦が発展したが、ここでも新しい字体がおこってきた。それを今日に伝えているのは石鼓文(図131-134)である。もっとも石鼓文の製作年代には異説は多いが、秦の刻石と定めて大過ないものと神田はみている。
その字体がまた『説文解字』に見える籒文(ちゅうぶん)もしくは大篆という字体によく似ている。古い伝承では、籒文は周の宣王の時に、史籒という史官が製作したといわれているが、これも誤りで、周末に秦の地方で行われた字体に相違ないという。
ともかく周末になって、金文から脱化した古文とか籒文とかの新しい字体がおこり、しかもその古文も各地方によって違っていた。これは群雄割拠した戦国時代としては、もとより免れえなかったが、秦の始皇が出て、天下を統一すると(221B.C.)、字体の統一が重要な政策として取りあげられた。
秦の始皇の掲げた重要政策の一つに「書は文を同じうす」、つまり字体の統一があった。これは丞相李斯によって完成された。李斯は若くして碩学荀子に学び、文に秀で書に巧みで、天稟の政治家であった。李斯の制定した新しい字体は小篆といわれ、籒文すなわち大篆を簡略化したもので、その形がはなはだ端正で、よく均斉のとれた美しい字体である。
今日これを伝えるものとしては、秦の始皇が天下を巡遊した際、自己の頌徳碑とでもいうべき刻石がある(図135-138)。
それから秦の始皇の時に、もう一つ新しい字体隷書がおこった。程邈(ていばく)の発明であると伝えられる。隷とは徒隷の意味で、下賎な従僕のことであるが、そういう徒隷の者の間に用いさせたところから隷書といったともいい、また程邈が徒隷の出身であるからであるともいうが、いずれとも不明という。
むしろ程邈などという特定の人が発明したとみるより、自然発生的におこってきたものとみる方が妥当であろうと神田はみている。現に長沙から発掘された戦国時代末期の楚墓の遺物とは、すでに隷書に近いものが発見されている(「楚簡」図129, 130)。
ともかく、これらの隷書は今の楷書の源をなしたもので、そのいわゆるハネ口に特色がある。社会が複雑になるにしたがい、古文や籒文はもとより、小篆のような字体でも、これを書くのに時間を要し、実用にならない。そこで実用本位に自然に発生したのが隷書で、これから長く一般に使用されることになった。
なお秦の始皇の時代に蒙恬(もうてん)という武将が筆を発明したという伝承がある。筆は殷代から存在した証拠があり、戦国時代の筆も長沙の古墓から発見されており、この伝承はそのまま事実として信拠できない。ただこの時蒙恬が古来の筆に改良を加えて、今日我々の使用する筆に近いものを作ったことは考えられるので、もしそうすると、中国書道史上、これは画期的な事実といわなければならないと神田は付言している。
実際、秦の始皇の刻石の文字などは、もう一種の筆意とか技法というようなものが認められ、ここらあたりから書法の発達があるという。
以上、殷・周・秦の時代は、漢字そのものの形成の途上にある時代であり、したがって明確な芸術意識をもって書かれたと認められるものはないが、原始文字としてそれぞれの特色と面白味とを具えたものである。また実際の技法の上にも参考とすべきものが多く、清朝の末期には、こうした古代文字の技法を参考として、新しい書風を試みた書家・羅振玉の「臨魯白艅父簠銘」も出ている(神田、1頁~6頁)。
中国文字の構造法 小川環樹
先述したように、漢字がはじめて造り出された時代は今日なお正確には知られていない。伝説によれば、中国最初の帝王である黄帝の史官(秘書官)、倉頡(蒼頡とも書く)が創造したというが、これは戦国時代(480-222B.C.)にできた話であって事実ではあるまいといわれる。漢字で書かれた資料のうち、最も古い確実なものは、殷代の都あと(河南省安陽県)から発掘された甲骨文である。
ところで、文字の進化はどの民族においても、一定の順序がある。ほとんど絵画とえらぶところのない形から、簡単な線だけから成る記号へ、そして何らかの表音の価値を有するに至る経路をたどるのが常である。それがさらに進めば、アルファベットのように、純然たる表音の記号となる。今日の漢字はアルファベットほどではないが、表音の性質を幾分かは持っている。その発達の経過は、漢代以来、漢字の構造法についての根本原理となっている六書に基づいて考究してみると、次の4つの段階に分けられる。
①第1の段階~象形・指事
漢字は本来すべて一つの文字が一つの単語を表わすものとして造られた。単語は一つの観念(アイディア)に対応するものと見なせば、一字が一つの観念を表わすこととなる(以下、この観念を文字の意義または字義とよぶ)
最古の文字は、一種の絵文字(または文字画)である。この絵文字には2種あって、ある物体の形を写生的に書きあらわした場合は象形と呼ばれ、これ以外のもっと抽象的な観念を書き表わすには象徴的に表現され、中国の文字学者は指事というカテゴリーを立てる。
この2種はいずれにしても絵文字であり、書かれているのは観念であって、その観念に対応する単語の音はどこにも表われていないから、要するにこれは意義符号(イデオグラフ)である。甲骨文に例をとれば、「馬」や「羊」の漢字は象形に属し、「上」や「下」は指事に属する。
②第2の段階~会意
「馬」や「羊」を表わす記号は単体の文字であるが、「上」や「下」のように、2つの記号を組み合わせてできているものでも、各々の部分は独立の文字ではないから、これもやはり単体の文字である。
しかしまた別に、2つ以上の文字を組み合わせて新しい文字が造られた場合、すなわち合体(ごうたい)のものがある。例えば、「好」という字は右の部分が子、左の部分が女にあたり、子と女という2つの文字を合せて女子、わかい女という意味から、美女、女の美しさ、さらに美しいもの一般、および好ましいものを表わすように、字義が変化していった(『説文解字』の注釈家、段玉裁の説による)。ただし甲骨文ではこの「好」という文字は女の姓を表わす固有名詞に使われている。また例えば、「休」という字は、左は人、右は木を表わす文字で、人と木を合して休息の義を表わすという(ただしこれは甲骨文では地名である)。
この類の字は会意と呼ばれる。先の象形に属する字「馬」や「羊」などは後世になるほど
字形が変わって、楷書になるとその字形から馬や羊の姿を思い起こすことは困難になったが、会意の字では字形は変化しても、文字の構成部分である各々の字の独立性は比較的明白なことが多い。
③第3の段階~仮借(かしゃ)
ある一つの文字がもともと単体であったか、合体であったかに関わりなく、その字の表わす単語の音だけについて、それを同音または類似音の他の単語の記号として用いることがある。これは一つの文字をそれとは全く異なった意義の他の単語の記号として借用することであるから、この類を仮借とよぶ。例えば、後の「隹(すい)」にあたる字は、もともと尾の短い鳥類の総名であった。その字が承諾・同意を表わす類似音の単語、のちの「唯(い)」に借用された。この日本語の応答の「ハイ」に当る語に対して後世、口の字を加えて「唯(い)」が造られたが、その専用字が造られる以前には「隹(すい)」の一字が一方では鳥類の本義を表わすほかに、仮借として「ハイ」の意味の借用義をももっていた。
仮借は借用である以上、新たに文字を造ることなく、既製の文字をそのまま使って別の単語を表記すること、つまり別義をもたせることであるから、変態的な造字法といえないこともない、いわゆる「字を造らざる造字」である。
④第4の段階~形声
仮借の文字が多くなってくると、一字が2つ以上の全然異なる意義に用いられ、どちらの意義で使われているか見分けにくくなる。この不便を除くため、新たな方法が考え出された。それはすでに仮借として用いられている文字に、別の構成部分(おおむね独立の既製文字)を付け加えて、意義を明らかにすることである。
故にこの種の文字は常に合体であって、これを分解すれば一部分は必ず新しい文字全体の表わす語と同音(または類似音)であり、したがってその部分は音声の符号(声符)となるわけである。他の部分は文字全体の表わす単語の意義を限定する役割をもつ符号(義符)となる。この方法で組み合わせた文字を形声とよぶ。仮借のところであげた例、「隹」の借義を区別するために造られた「唯」は形声字である。
以上が構造法からみた漢字の発達のあらましである。象形および指事の段階から会意、仮借の段階を経て、形声の段階まで来ると、もはや純粋の絵文字でなく、表音の機能をも有するようになる。形声字は殷代の甲骨文にもすでに出現するが、その数は少なく、約1500字の甲骨文のうちで、形声字は半分に達しない。次の周代(その資料は金文)に入ってやや多くなり、戦国時代(前5-前3世紀)に急激に増加した。それ以後二千数百年の間に、漢字はたえず数を増したが、二千年間の新造字はほとんど形声の方法で造られたものばかりである(清朝になってできた字書『康煕字典』にはおよそ4万字余り(47000字余り)が収められているが、その90%以上は形声字である)。
次に、小川環樹は中国の字書の歴史について、とりわけ『説文解字』を中心に解説している。中国の字書の始めは「史籒(しちゅう)篇」で戦国時代の作といわれる。秦(前3世紀)に入って李斯の「蒼頡篇」、漢代では司馬相如(しょうじょ)(前2世紀)の「凡将篇」、史游(しゆう)(前1世紀)の「急就(きゅうしゅう)篇」その他が出たが、それらはみな字書といっても字引ではなく、初学者のための暗誦用教科書で、後世の「千字文」、「三字経」、「百家姓(ひゃくかせい)」に似た組織のものであった。
文字をその構造によって分析し、分類排列した字書は、後漢の許慎(きょしん)の『説文解字』15篇(略して説文とよぶ)に始まる。この書は後漢の和帝、永元12年(100)に成った。
説文にはすべて9353字を収めているが、その文字全部に字義を注し、その文字の構造について解説を加えた。すなわちこの字書は主として文字の構造を示すためのものであった。もともと漢字の構造法については、前漢末から古文家の経学者の間で六書(りくしょ)という名で知られていたが、許慎の考えの六書とは次のものを指す。
一、指事。二、象形。三、形声。四、会意。五、転注。六、仮借。
この6種のうち、転注以外の5種については、上述したとおりである。ここにかかげた許慎の六書の順序は、漢字の発達の順序とは必ずしも一致しないことは注意すべきであるという。もちろん形声は最後に発達したにちがいないが、形声字がすでに造られた後でも、象形や会意の字が新たに造られることもありうる。
六書については許慎は説文の後序で定義を下し例字を2字ずつ、象形では「日」「月」、指事では「上」「下」という風に挙げている。この定義および例字の示している意義は第5の転注をのぞくほかは明白であるが、ただ転注の解釈のみは古来まちまちである。
その中で、主要な説は3つに分かれるという。
①戴震(1723-1777)の互訓説
段玉裁(1735-1815)の名著『説文解字注』はこれに従っている
②江聲(1721-1799)と許宗彦(1768-1818)の字原分有説
説文の各部に属する字がその部首の字の意義を分有することであるとする
③朱駿聲(1788-1858)の引申説
ある字の原義が変化して異なった意義に用いられるようになった時、なおもとの字をそのまま用いるのが転注で、引申すなわち派生した意義に用いることであるとする。これに対して本義は全く異なり、単に同音語として借用されるのが仮借であるとする。
清朝から近年までの学界で、最も勢力があったのは、上記の戴・江・朱三家の説であるが、各説には一長一短があり、許慎の考えを完全に解きえたとは小川は認めない。
専門の文字学者ではないが、曽国藩(1811-1872)の見解は小川にとって最もすぐれていると考えており、その要点を紹介している。
曽国藩は「朱太学孔揚に与えて転注を論ずる書」という題の書簡において、転注と形声とを対比しつつ、その異なる点を論じている。形声も転注も、義符と声符から成る合体字であるが、形声字の義符はその原字の形を省略することがない。これに反し転注の字は義符の部分が原字の形を幾分とも省略している点が相違するという。
転注ではもとの字を省略するが形声では省略しないのがこの2つの相異なる点であって、つまり転注は形声の変種だということになる。もっとも曽国藩は会意字の場合にも、その構成部分である一つの字が原字よりは省略された形のものは、やはり転注の内に数えているから、正確にいえば転注は合体字の特殊な変種であると小川は理解している。
この考えによると、転注は純粋に文字の構造法の一種として理解することができ、戴震の互訓説、朱駿聲の引申説のような文字構造論の範囲から逸脱したような説よりはまさっていると小川は考えている。
そこで六書がすべて明らかになれば、説文に収めた9300字の中で最大多数をしめるのは形声字で7600字以上ある(ただしこの数字は朱駿聲によったから、曽国藩の説に従って転注字をその中から除かなければならないという)。
これらの形声字は必ず義符を有するから、義符を同じくするものごとに一群にまとめる。
次に、会意の字はいわば2つまたはそれ以上の義符から成るわけであるから、形声字の義符と同じものがあれば、その群へ入れる。こうしてできた文字の群を部とよび、各部には義符となった原字を立てて部首とする。部首の字は同時に一群すなわち部の名称ともなる。こうして説文に収められた総計9353字は540の部に分かたれる。
部首は単体すなわち象形と指事の字が大半であるが、合体の字である場合も少しはある。例えば、木部の部首は単体で、林部の部首は合体であるなどがそれである。部首すなわち540部の排列の方法においては、この書にはまだ一貫した原理はみられない(字画の少ないものから多いものの順にならべる方法は後の宋代に始まった)。
しかし似た意義のもの、字義に連絡のあるものをなるべく近くにおくようにしている。字数の多い部では具体的な字義のものをはじめに、抽象的な観念を表わす字を後においていることが多い。
次に、個々の文字については、篆書(小篆、秦の李斯が定めたといわれる字体)でまず見出しとし、それに隷書(のちの楷書のもとになる字体)を用いて解説を下し、別体があればそのあとに載せ、古文、籒文(戦国時代の書体、この2つは王国維によれば地方的相違だという)の各字体が篆書と異なるときには、さらに次に載せる。そのほか、文字の構造の説明にも一定の凡例がある。
現在行われている説文のテクストは、宋代に徐鉉(じょげん)が校定し、太宗の雍熙3年(986)に刊行されたものから出ていて、説文は組織的な字書の最古のものである。したがって長い間字書の最高権威の地位をしめ、漢字の字体の正しいか否かを決定する際にも、説文が根拠とされた。但し、清朝以来、古い文字研究が盛んになってからはその手掛りがこれに求められ、20世紀に入って金石文から甲骨文の研究へと進むに至り、説文はそれら最古の遺文よりは幾分新しい字体である小篆を基礎としたため、その解説・分析に多少の誤りがあったことがわかったが、その価値を失ったわけではなく、古文字研究者の参考すべき字書であると小川はみなしている(小川、7頁~12頁)。
甲骨文と金文の書体 貝塚茂樹
甲骨文と金文とは、中国の古代の書道を知る重要な資料である。金文が学問的に研究され始めたのは北宋の真宗時代(998-1022)からであった。これに対して、甲骨文が発見されたのは清朝の末葉、光緒25年(1899)である。宋代に基礎をおかれた金文学は清朝の中期(1800年頃)考証学派の阮元の保護のもとに再興されたが、経書注釈学の補助学として言語学的な研究に力を注いでいた。
ところが清朝末期になって、金文学を独自の学として研究しようとする学風が生まれてきた。つまり金文を経書の本文をよむための資料としてではなく、それ自体において解釈しようとする自由な学風が起こってきた。この傾向を創った呉大澂(ごだいちょう)は、説文に載せられた古文という書体が金文とは差違しているので、むしろ周末の戦国時代の書体と見るべきであろうとの見解に達した。金文こそ、周の盛時に書かれ、孔子によって編纂された経書の文字に近いものと考え、これによって説文を補うとした。また呉大澂は独特の篆文体の名筆を振るって、清末書道界に異彩を放った。
呉大澂とほとんど同時代の孫詒譲(そんいじょう)は精密な金文解釈を示し、呉とともに清朝金文学を大成したが、この孫詒譲の晩年に甲骨文の発見という金文学に大きな影響を与える事件が起こった。
光緒25年(1899)、著名な金石学者だった王懿栄が、北京の薬屋で買った竜骨と称した骨の上に、古代の文字が刻されているのを見つけたのが機縁となって、甲骨文字が初めて学界に紹介された。王氏の死後、その幕下の劉鶚(りゅうがく)がその蒐集を継続し、拓本「鉄雲蔵亀」を公刊した。
ところでこの奇古の文字に注目した孫詒譲は、この中に十干を名とした殷王朝の王名を見つけだし、これを殷王朝が占いに使った亀甲牛骨の上に刻した卜辞であろうと推定した。文字学の造詣を傾け、この新発見の文字と金文とを比較研究して、ある程度まで解読した。
この間、「鉄雲蔵亀」を手にした日本の漢学者林泰輔は、この未知の文字を解読し、論文を発表し、殷代の遺物であろうと論じた(1909年)。この論文を読んで刺戟を受けた羅振玉は、卜辞中に殷帝王の名謚十余を発見するとともに、出土地が殷都の遺跡といわれた河南省安陽県であることをつきとめた。その後、全面的な甲骨文字の解読を試み、甲骨文資料の集成刊行と解読との基礎をおくことに成功した。
羅振玉の助手であった王国維は、さらに甲骨文の中から殷の祖先および帝王の世系について、既存の『史記』などよりは正確な知識をもっていることを明らかにし、殷王朝末期の王室所属の卜師の司った卜辞であることが確証されるようになった。
このように新興の甲骨学は清朝後期の金文学を基礎として出発したが、やがて逆に従来の金文学に刺戟を与えて、その進歩を促した。そして両者が一体となって、殷周の古代文化の解明につとめている。
古文字学の解読という言語学的研究から、殷周時代の政治社会文化の全面にわたった多面的な研究が行われている。甲骨文、金文資料の時代を確定することは、史学的な考証とならんで、書体の鑑別が重要視される。甲骨文、金文にどんな漢字の書体が現われ、どんな経路をたどって変化したか、漢字書体の発展史を貝塚茂樹は略述している。
貝塚は、甲骨文、金文を通じて漢字の書体の変遷を追求する際に、注意すべき点として次の点を指摘している。つまり甲骨文と金文とは残存する漢字の中でもっとも古いものであるが、漢字が初めて創造されたときの原始文字そのものではないことである。
金文の中には10字以上の字数をもち、まとまった文章をなしているものがあるが、一方において、字数の少ない金文も多数存在する。そこには人間を中心として、生活に密接な連関をもっている事物や、たとえば動物、器物、また戦争、経済などの社会的現象を絵画的に表現した、いわゆる図象文字を組合わせた例が多い(図13-19)。
宋代の優れた金文学者呂大臨(りょたいりん)は、このような金文中の図象文字を漢字の原始的な字体とみなすべきだと考えた。この図象文字を要素とした金文には、また父丁、父乙(図13)のような名が現われた例が多い。呂大臨は殷代帝王の祖丁、祖乙などのように、十干を名とした慣習と結びつけ、これらの金文を殷代金文と推定し、これに類した銘文をもつ銅器を商器すなわち殷代の製作にかかるものと見なした(1092年)。
宋代の金文学創始期の学者が図象文字と十干をふくむ人名とを標準として立てた殷代金文の分類法は800年後に至って、殷代の同時代史料である甲骨文字の出現によって実証されるようになった。甲骨文字を初めて研究した羅振玉などは、これが事物の形を絵のように書くことによって意味を表わした象形文字で、後世の漢字のように、筆画が固定していないで、その点では不定形であることを指摘した。
「馬」や「羊」といった動物を表わした文字のように筆画が一定していない特殊の象形的文字のほか、一般にはかなり筆画が固定した文字があるのも事実だが、ただ、甲骨文字の筆画が一定せず、繁簡、方向が自由であることは漢字が殷代においてまだ創造過程中にあったので、この混乱した複雑な様相を示すものと解釈された。
羅振玉が甲骨文字を始源的な漢字とした見解は、前述の宋代金石学者の図象文字を漢字の始源的形態とし、これを要素としてもっている金文を殷代金文と定めた説と一致するように見える。殷墟は殷代末期の武乙、大丁、帝乙の三王の帝都と信じていた羅振玉は、この殷末の短期間の遺物である甲骨文の字形の不定で、複雑な形を示しているのは、当時の漢字がまだ始源的な過程にあったからであると解釈した(このことは当時としては当然な解釈であったのだが)
羅振玉は安陽小屯の殷墟を実地踏査したが、まだ科学的な発掘とはいえなかった。1928年から中国国立中央研究院歴史語言研究所が、科学的な発掘を進め、甲骨文の研究は新しい段階に入った。
甲骨学者董作賓はその発掘を主宰したが、亀甲の大版に刻まれた卜辞を解読するうちに、数十の卜辞が数人の卜人が卜った文を記したものであることを見出した。董作賓はこれらの卜人を天に卜いの疑問を問いかける貞問を司る人という意味で、貞人と呼んだ。卜辞の貞人の組合せと殷の祖先王の称号を手掛りとして、貞人を第1~5期の各期に属するものであり、卜辞はこれを司った貞人の署名をもととして、製作年代をおおよそ決定することができることを論証した。
さらに、殷墟が盤庚の遷都から紂の滅亡までの約270余年といわれる殷王朝後半期の帝都の遺跡であるとして、この期間に文字の書体が変化し、複雑な形を示すことは自然の勢いであって、それだけをとらえて殷代の字形が不定で、原始的象形文字ときめることはできないとする。
第1から5期までの各時代に、それぞれ定まった字形があった。中国の漢字は起源以来殷時代に至るまで相当の長期を経過し、いわゆる図象文字から、一定の字画をもった符号文字となっていたと考えた。
甲骨文字は原始的な図象文字でないと論断するとともに、同時代の殷代金文に、人間、動物、器物、社会、生活を絵画的に表わした原始的な図象文字が多く現われるのは、高度の発展をとげた青銅器の美術的な文様と調和させるため、この上に鋳刻する金文を普通の甲骨文字のような書体ではなく、原始的図象文字の書体でえがこうとした。殷代金文は、このような美的要求から生まれた殷代の「古文」にほかならないと主張した。
董作賓は、殷代の後半期においては甲骨文と並行して、絵画的で筆画の一定しない原始的文字が、銅器の銘文として用いられたことは、殷代における書体の分化という現象を示すものであると解釈する。
また戦国時代の装飾化した鳥書と称する書体(図100-102, 105, 106)もまた殷代に起源すると論じているように、殷代における甲骨文のようないわば実用的な書体と、金文の装飾的書体とが分化していたことを力説している。
ただ殷代金文というものには、このような図象文字だけでできているのではなく、父乙、父丁などという甲骨文字と共通な、字形の安定した実用的文字と組合って、文章をなしているものが少なくない。つまり、殷代金文そのものの中でも、絵画的文字と符号的文字とが並存している。殷代金文に現われる図象文字の多くは、このような殷代の氏族標識であったと考えられる。多子族の析子孫形はこの氏族が殷王朝の祖先の祭祀に、祖神の代りに祭肉をうける尸(し)をつとめることを示している。
馬や羊などの動物を表わした金文は、これらの獣を飼育する職業を示したものであり(図13)、旗、盾(図15)、戈、車(図14)は、軍旅に奉仕するのが氏族の任務であることを意味している。挙氏の挙という字は四手網の象形で、漁業を世襲する部族の標識であった(図17)。いわゆる図象文字はこのような氏族標識という特殊な性質に限られ、一般的な文字ではない。殷氏族が抱いていた呪術的な世界観の中で、各氏族の世襲する職業が決定され、部族はこの職分を神聖なものとして伝承していたので、氏族標識を示す文字だけは、原始的な呪術信仰が生き生きとして保持されていた。素朴、新鮮で生命力に溢れた殷代図象文字の特性はこの呪術力にあるといってもよいと貝塚はみている。
董作賓は、殷代における金文の装飾体と甲骨文の実用体との2種の書体の分化を主張したが、このいわゆる装飾体は、殷代金文の一般的書体ではなくて、特殊の氏族標識にのみ限定して使用された書体である。一般の殷代金文ではなくて、特殊の殷代金文であったとしても、そこに甲骨文とは著しく違った字体が残っていることは注目すべき現象であり、董作賓は少なくともこれによって殷代における書体の分化を認めた。この書体の分化は、金文だけでなく、甲骨文の中においても、もっと普遍的に見られるのである。
董作賓は殷代の卜辞を貞人の群によって5期に時代区分し、甲骨文の字形の変化、書体の変遷を時代的に跡づけようとした。十干十二支のような常用字を例にとって、これらの字形の第1期から5期に至るまでの間に変化して行く過程を明らかにした。
次に各期甲骨文が差違のある書風を示していると称えて、次のように特徴づけた。
①第1期の書風は雄偉と評する
甲骨大版の大字がその代表的作品であって(図2)、これらの大字はしばしば強く、太く彫った筆画を、さらに朱で埋めて飾っている(図5 a b)。そのほかに小字でも工整秀麗な作品も少なくない(図3 a b)。これらはすべて中興の英主武丁の風をうけていて、その気魄の宏放とその技術の熟練は驚くべきものがある。
②第2期の書風は謹飭であった。
第1期武丁をついだ祖庚、祖甲の兄弟は守成の賢主で、当時の卜師も規則を厳守して変らなかったので、厳飭工麗の書風をなした(図6)。
③第3期の書風は一転して頽靡に陥った。
前期の老書家が世を去った当期の書家の筆力は概して幼稚軟弱で、筆画の誤りも少なくないといわれる(図7a)。1期、2期の豪放な書風が地を掃って、もっとも堕落した時期といわれる。
④第4期
この第4期の貞人は卜辞に署名していないが、この武乙文丁時代の新興書家は前期の弊を一洗して、作品は勁峭で生動し、時には放逸不羈の趣を呈することすらある(図8, 9, 10)。
⑤第5期
厳整と評されるのは、各卜辞は段、行、字並びすべて正しく、文字はごく小字で「蝿の頭のような小楷」といった調子で、厳粛で整った書風で書かれている(図11, 12)。ただ、獣頭骨上の大字の刻辞はちょっと例外をなしている。
これが董作賓の甲骨文字の書風論であった。その後、殷代の占いを司る貞人を旧派、新派との2群に分け、第1期を旧派、第2期、第3期を新派とし、第4期に旧派が復活し、第5期に新派が復興するというように、この二派の勢力の消長によって卜辞の卜問の性質が異なり、字体書風も変わってくると考えた。甲骨文の字形、書風などの変遷は、一元的な書体の時代による発展ではなくて、新旧2つの貞人の流派という二元的な要素の角逐として説明しようとした。
一方、殷墟第1期の武丁時代の卜辞としては、董作賓のあげた雄偉な大字を書いた25名の貞人集団の卜辞のほかに、細小な字を繊弱な書風でえがいた卜辞が発見された。この類の卜辞は、一般の第1期卜辞が殷王朝の公的な占卜の機関にぞくする貞人の占ったものであるのに対して、これは多子族という部族の私的な占卜機関で占ったものであるという。
さらに、第1期にはいる一群の卜辞には、その書風によって、一般の貞人集団卜辞と多子族の卜辞の中間に位するものが存在した(図3g, 図5e)。これは多子族と並んで殷王朝の有力な部族だった王族にぞくする私的な占卜機関の占った卜辞であることが貝塚らによって明らかになった。
董作賓によって第1期卜辞の典型とされた25貞人、貝塚らのいう殷王朝公式の卜辞の書風を、多子族と王族との私的な卜辞の書風とを比較してみると、対蹠的であるという。公式卜辞の筆画が主として直線、折線によって成り、曲線を用いることが少ないのに対して、私的卜辞の方の筆画は、主に曲線を用いて、直線、折線を好まない。
公式卜辞は直線、折線の筆画を用いて字を左右対称的に構成してゆくのに対し、私的卜辞は曲線的筆画によって見かけ上は厳密な左右対称を破って、自然な線の流動のリズムのなかに調和を見出している。
第1期公式卜辞は厳密な左右相称の均衡美を求めるばかりでなく、大版の卜辞の配列にもこれを重視している。卜辞には、甲骨大版の左右相称の位置で同一の占いを、肯定形、否定形で2度繰り返して占うことがある。これを対貞という。
第1期公式卜辞はとくに対貞の原則を忠実に用いて、卜辞を左右に配置している例が多い。(図1の大版はこの典型的な厳密な左右相称配置を示すものである)。これに対して私的卜辞でも原則として左右相称的に配置しているけれども、あまり厳格には守られない。この対立は公式卜辞を司る専門の卜人の一定の形式技法を固守するのに対して、私的卜辞の非専門卜人の自由な態度との相違から生まれたと貝塚はみている。
ところで文字を筆墨で竹木などの上に書く習慣があったと想像されていたが、中央研究院によって朱墨で文字を第1期甲骨上に書いたものが発掘された。白色陶器の破片上の墨書や玉器上の朱書も見つけられた。殷墟第1期においてすでに文字が筆写されていたことが実物によって証明された。
第1期の公式卜辞の書体の筆画が直線的であることは筆によって書く文字ではなくて、刀によって彫りこむのに適しているので、この書体を契刻体の書と見なすことができる。これに対して、私的卜辞の曲線を愛用した書体は、筆で写した文字にふさわしいのであるから、筆写体をもととして、これを刀で彫ったと見ることができる。このように、殷墟第1期における公式卜辞と私的卜辞との異なった書体は、契刻体と筆写体の分化として解釈すべきものであろうと貝塚は理解している。
甲骨文字の書風の変化はこの殷墟第1期における契刻体と筆写体の2つの書体が相互に働きかけ合いながら、発展した結果であろうという。この発展は契刻体よりも筆写体への転化の方向をとったので、第5期の小字は甲骨文における筆写体の最後の勝利を意味する。
卜辞以外に、殷代後期の金文には、より筆写体の原物に近い力強い筆致を見せたものがある。殷代後期金文中にもより細い曲線的で流動的で柔媚な趣をもった書風も認められる(図28, 29, 33)。だから殷代後期の書体は筆写体をもととしながら、さらに細かい分化が現われていたとみられる。
周王朝は西辺の陝西省の本拠から東征して、中原の殷墟に都した殷王朝を征服した王朝である。周王朝の歴史は西周時代と東周時代に区分される。つまり周室が宗廟のある陝西西安付近の鎬京を宗周と呼んで、常時はここに居住しながら、河南省の洛陽を成周と呼んで政治的首都として、時々中原の諸侯を来朝させ大会議を開いていた。前1100年頃から前770年までのこの期間が西周時代である。一方、周室が西の戎狄によって宗周の都を失陥して、東方の洛陽の成周に移って以後、秦の統一までの約5世紀、すなわち前770年から前256年までを東周時代と呼んでいる。
西周時代の金文は、宗周、成周の二都名がよく現われるので、容易にこれを分類できる。そして東周時代の金文は周王朝の中央集権が破れ、諸侯が地方に割拠したので、金文もまたこれらの諸侯の国で作られたもので、西周金文とたやすく区別できる。
ここで貝塚は西周金文における史官の書体について解説するにあたり、郭沫若の見解に基づいて論じている。
まず郭沫若は西周の金文について、金文に出てくる銅器の作者や、宰相史官などをもととして群に分類し、それを綜合して西周金文の編年化を試みている。この金文の群分類によると、西周時代では前期、中期、後期の3大群に分れるから、西周金文をさらに3期に分けて、その書体を貝塚は特徴づけている。
西周前期金文は、武王、成王、康王の3代の治世にわたるものである。周王朝は殷墟第1期・武丁時代卜辞に、周侯の名の下に、殷の都に来朝していることが書かれているが、殷の文化に接触して以来征服まで3世紀に近い期間が流れている。中原の進んだ殷王朝の文化は周氏族にかなり摂取されていたと想像されるが、西周金文中最古の武王時代の器である「大豊𣪘(たいほうたい)」(図34)の字形は、殷末期の金文、甲骨文のいわゆる筆写体の字形を踏襲してはいるが、書としては稚拙の感を免れない。
殷王朝を征服した武王についで即位し、成周の王都を建設した成王時代の金文に至って初めて独自の書風を形成しかけた。洛陽から出土した「令𣪘(れいたい)」(図35)、「令彝(れいい)」(図36)はこの地に居住し、名相周公旦に仕えた周の史官が鋳造した器である。「令𣪘」の鋭い筆致は成王東征中の器であるにふさわしく、「令彝」の整った書体は洛陽で開いた周の大朝会に際した器であることを思わすものがあるという。両器ともに周公旦の創設しつつある周の新しい政治社会の制度の表現であったと貝塚はみている。
ところで『礼記』表記には、「殷人は神を尊び、民をひきいて神に事(つか)え、鬼を先にして礼を後にす」るのに対して、「周人は礼を尊び、施しを尚ぶ。鬼に事え神を敬して遠ざく」という。殷代は超人間的な神を信じ、亀卜による神意によって政治を行った。周代でも亀卜は行われはしたが、漸次権威がなくなってきた。鬼神すなわち祖霊の祭祀は大切に行うが、鬼神の意によって政治を決定することはすたれ、礼を尊び祭祀を中心として周民族の各部族の団結を強固にすることに力を注いだ。西周の金文は、このような政治的社会的な意味をもった祭祀に使用される銅器の製作銘文である。
銅器自身と同じように、この金文も周公によって創作せられたという礼を具体的に表現したものである。殷代金文は鬼神という呪術力の生き生きとした表現であったのに対し、西周金文は礼という厳粛な儀礼の重苦しい表現であった。殷代の金文は素朴で新鮮で、ときに流麗な書風を示しているのに対して、西周の金文は厳格で人工的であり、形式化する傾向を内包している。
その間において、東方の山東省地方で製作された「禽𣪘」(図40)や「大保𣪘」(図46)には、殷代の多子族卜辞と金文を特徴づけていた流麗な曲線的な書体がまだ少し残存していた。西周前期の金文の代表作と見るべき「周公𣪘」(図50)では筆画は始と終とは鋭く尖り、中ほどは太く肥え、いわゆる肥筆であった。そこには殷代金文の特徴である生命の躍動した強い筆力がまだ残り、整った字の結構とよく調和して独特の厳粛な気分を出している。
成王につぐ康王の時代に入ると、史官令の子である「作冊大」の器文(図47)は、父令の器よりは字形だけは整っているが、その気魄は失われ、「庚贏卣(こうえいゆう」(図57)になると、その形式化はさらに進んでいった。その中で「大盂鼎」(図54、55)の文字は独自の雄健な筆意を発揮している。
西周中期の昭王、穆王の治世に入ると、「静𣪘」(図64)のように、金文の筆画に肥筆は減って、一般に細く変化が乏しくなり、一層生気が欠けてくる。西周中期の金文は器数も少なく、わずかに前期から後期への過渡期をなしているにすぎないので、書体として重大な意味をもっていない。
西周後期に入ると肥筆は全く消滅してしまう。筆画は一定の幅をもった線となって、肥筆のような変化が失われた。しかし字形もこれに伴って単体字が減少し、扁旁をもって構成する形声字が増加してきた。形声字では義符と声符との要素を組合せるにあたって、会意的な配列がおおく、上下左右自在であった。後期に入って、扁旁として左右に組合せ、緊密な平衡を保つように布置されてきた。西周後期の中では、早い作品である「史頌𣪘」(図65)、頌鼎はこの傾向を代表する優秀な作品で、頌、徳などの諸字について扁旁化を見ることができるという。
殷から西周および東周前期までの金文は、すべて鋳造銘である、いわゆる鋳款であった。
字を原型に刻みこんで、これにかぶせて鋳型を作って、銅を流し込んだ。字を原型に刻み込むことを琢と称したが、墨子が「これを盤盂に琢す」といったのは、これに当る。琢と篆とは音通であるから、このようにして金石に刻まれた文章を篆文と称するようになったといわれる。
字を原型に刻みこむにあたって、方格を作ってそこに一字ずつほりこむ方法が西周後期から行われ出した。方格の中に字をはめることは、繁簡さまざまな字画で構成された字を無理に一定の大きさに統一することであり、あたかも活字で組んだように、字としては不自然な書き方を強制することになる。方格の使用と、扁旁の固定とは、のびのびと書いていた文字の動きを制限する結果となった。現在の漢字の直接の祖先である大篆は、このような西周後期の金文をもととして、このころ発生した。
金文の文字字体はこのようにして形式化し、固定して、一字の書としての妙味を喪失したが、金文の内容は後期に入って長文となってきた。とくにこの期の金文は周の天子が臣下を官職に任命し、車服などの多くの恩賜品を与えた辞令書を記録したものが多くなった。周室と家臣との封建的な関係を永遠に書き残す記録的な意味を荷うようになってきた。「大克鼎(だいこくてい)」(図76, 77)、「毛公鼎」(図82, 83)はこのような封建的策命の金文の代表である。「毛公鼎」は総計497字に上る現存金文中の最長の金文であり、西周後期に慣用された普通の策命文ではなくて、西周前期の「大盂鼎」などの文体を模した擬古的な文章である。
これに対して、「大克鼎」は西周後期の策命文の前段に作器者の克の祖先の功業を述べた文章を付し、西周後期の温雅な文体の典型と見られる。字体はやや長目な方格の中に収められ、書体も整然として一糸乱れず、西周後期の最上の傑作とすべきであると貝塚はみなしている。
記録的な文章としては、奴隷の売買を述べた「忽鼎(こつてい)」(図70, 71)、荘園の譲渡の誓文である「散氏盤」(図80, 81)など、法律文書として異彩を放ち、書体も独特である。
ところで東周時代は歴史的には春秋時代(770-481B.C.)と戦国時代(481-221B.C.)とに分れたが、金文に関する限りでは、この2つの時代の金文を厳密に分類することは困難であるという。例えば、郭沫若は東周時代の金文を列国的に編纂し、西周時代のように年代的に配列しなかったのは、列国が独立して周王の紀年を載せた金文がほとんど見当らなくなったからであった。
さて春秋時代に属するとされる金文について見ると、西周後期金文を継承して、やや地域的特色を示し始めたことだけは指摘できるようだ。西周後期の金文として代表的な「大克鼎」、「毛公鼎」などは史官の記録として固定化した書体が成立したが、これらは関中の西安を中心とした金文であった。だがすでに地方的には西周の統治権の失墜に伴って、西周後期金文の典型の崩壊および堕落と、その地方化が進行していた。
「師袁𣪘」(図85)は南方淮夷の叛乱について記述しているが、その書体は地方化した金文の一型を示している。この意味においても春秋時代の列国金文の地方的分化も西周後期金文の傾向をついで推進したにすぎないといえる。
春秋前期と中期との境目にあたる頃の斉の「国差儋(こくさたん)」(図89)と「秦公𣪘」(図91)とを比較してみると、東方と西方の極端では相当に異なった書体に分化してきた傾向を看取できる。「秦公𣪘」は説文に籒文として登載された書体に類似していて、西周後期の書体を踏襲した斉の諸器との差は、同時代の器と信じがたいほど著しい。
春秋中期から後期にかけての東方列国の金文を見ると、各国の地方色を強く出してきている。陳夢家は列国の器を5系統に分類したが、中でも注目すべきは南土系(呉、越、徐、楚)中の呉越に発生した鳥書と称した、文様化した文字であった。
春秋後期から戦国の初期にかけては、このような金文の地方差が最も顕著に現れた時期である。やがて各国の金文独特の書体が、列国間の交通の頻繁化に伴って、次第に他国にも浸潤し始めた。戦国後期の「曽姫無卹壺(そうきぶじゅつこ)」(図101)の書体は、「秦公
𣪘」(図91)の籒文体を模して、やや時代的に晩期の特色を加えているにすぎない。
戦国後期に入ると、このような列国書体の伝播、相互影響が出てくるので、金文の書体の編年的な研究は一層難しさを加えてくる。春秋戦国時代の金文書体の編年的研究は、このように未発展の状態である(貝塚、13頁~23頁)。
古銅器の形態 梅原末治
中国の古代にさかんに鋳造された青銅の容器はその形態が多様かつ複雑であり、また重要な文字が印されている点で、他の古代文化圏にその例をみない特色をもっている。日常の容器とかなりかけ離れた面の多いその形態は古典に伝えられている礼の器であることが考えられる。またその文字が中国でもっとも古い時代の貴重な史料であることから、これらの器が重視され、その研究が一方では経学の一つの部門となり、他方では金文の学として唐・宋代から特殊な発達を遂げた。
すでに宋代においてそれらの器形を古典にみえる礼楽の器の名称と較べ、その用途を考えてきた。そして20世紀になると、王国維が『古礼記略説』を書いて、伝統的な解釈を再検討した。ただ、古銅器自体に即した形態の観察という面になると、中国ではそれへの関心が欠けていたが、20世紀とりわけ1928年以降、考古学的に遺跡の調査が進められ、多数の古銅器が見出された。従来単に三代の古銅器と汎称されてきたが、器形の上からそれぞれのもつ性格を推定し、また新たな年代観が組み立てられるまでになった。
古銅器の形態はもともとそれが容器であるから、鉢、壺などの類が目立っている。また中国史前の土器を特色づける三足の器の系統をうけた鼎や、豆とよばれる高杯なども見うけられる。しかしそれにもかかわらず、多くの古銅器は世界各地でみられる古代容器と形の上で著しく趣を異にしたものが多い。このことは𣪘(たい、本来は物を盛る鉢)や、三器一具の盉(か、注口器)にみられるような奇態な形の上に端的に表われている。そしてこのような器で容庚がその著『商周彝器通考』に載せているものは食器、酒器、水器に一部の楽器を加えると、50種を超えている。
そのような特徴をもった古銅器の各形態は、基本となる器体にすべて器台なり、脚が作られて安定した形をとっているほか、様々な余分な部分を作り添えて複雑な様相をしている。形態の上での通性からすると、古銅器は一般に常用された容器とは趣を異にしていて、装飾的な面の多いものである。そして日常の器からこのような器形ができあがるまでには長い発達の過程をへてきたことがわかる。器自体が中国の古典に伝えられる礼楽の器であることも知りうる。
このような特色を具えた銅器が殷の後半の時代に盛んに作られていて、銅器としての頂点を示しているものがあることが殷墟の学術発掘により確かめられた。もっとも発達した銅
容器の類が殷代において完成を示し、次の周代ではその伝統がうけつがれたと見るほかなくなった。このことは中国古代の文化を考える上に極めて注目すべき事実といわなければならない。
中国の学者が古典に散見しているものから食器、酒器、水器などに分けてあげている様々な器形のほとんどすべてがこの時代に存在している。すなわち食器では、鼎(てい)、𣪘(たい)、酒器では角(かく)、爵、斝(か)、觶(し)、觚(こ)などが飲酒の器とされ、尊、卣(ゆう)、盉、觥(こう)、罍(らい)、瓿(ほう)、壺、彝(い)などが貯蔵の器、さては水器として盤などがそれである。
まず鼎では、款足の形をおそったもののほかに、両耳の器に棒状の脚が付けられて整った形をなすものが多い。それらと並んで、四脚の方鼎もあり、また脚が禽獣の形をしたものも見受けられる。器台(圜足)を具えた鉢の形をして穀物などを盛った𣪘の方はこの基本形態のほかに左右に大きな獣首飾りの把手をつけているのが特色である。
角と爵は縦長丸底の器体に、もと動物の角から導かれてきた器の名残りをとどめながらも、三つの尖刀状の脚を付して器の安定に備え、側面に把手をつくり容器としてはすこぶる変わった形である。
斝は爵と相似した二柱一把手であるが、背の低い器体の上縁が一文字で注口などなく、かつ形も大きい。またコップに似た断面長楕円形をなす觶に較べると、觚の方は細長い器体の上縁が朝顔形に大きく開いて、それに高い器体を作り添えた目だった形をしている。殷代の器に多い尊はどっしりとした大きな器台(圜足)の上に横張りの器体があり、それの括れた上に外開きの口頸部をつけた形をとる。また罍は同じく上辺の括れた縦長の壺形を基本形とするが、一対の耳と一個の引手をつくり添えたところに特徴がみられる。
瓿もまた大型の背の低い壺形の器である。彝は上げ底の断面矩形の箱に屋根形の蓋を加えた形態によって他と区別される。また、尊と並んで遺品の多い卣は圜足を具えたすわりのよい器体に蓋がつき提梁を架けた形である。そして盉と觥とは液体を貯えて、それを他に移すための器で、今の土瓶とか片口に相当するものである。
以上略述した個々の古銅器は、文様によって特殊な趣を加えているが、その文様のほとんどが奇異な禽獣文である。禽獣文のうちで、もっとも目だつのは饕餮(とうてつ)とよばれるものである。それと並んで虺龍、夔鳳から象、蝉、魚など様々なものに及んでいる。またこれらの器の銘文となると、それを欠いた器があるばかりでなく、その多くは象形の記号ないしは祖先名を組合わせた簡単なものが多い。
銅器は上述したように殷代後半に完成形を示していたが、ひきつづいて周代においても盛んにつくられた。ただ両者の間に俄かに区別しがたいものがあったので、これを殷周期とに総括した年代観もみられたほどである。
しかし器にある銘文を考えてみると、周初の記録的な銘文から、それに文飾を加えながら、次第に整った形をとって中周に続いていることがわかる。また形態の上でも鼎をはじめ𣪘、壺、卣、尊の器形や装飾などが古いそれを継承しているようにみえても、時代の進展にともなって、東周に入ると古銅器と不離の関係にある礼の衰退が現われ始め、変化が生じてきたと解釈されている。
周の中期には銘文におのずから差異があり、器形においても、盨、簠など新しい器形が見られる。注口の器である匜も、基本の形態では兕觥の系統をうけながら怪異な蓋などはなく、実用的な形に近づいたものになっている。壺の類にあっても、古い罍、瓿などに代わって両側の上部に遊環をつけた別個な趣を呈するものを主とするようになったし、殷代の器形に目だって見うけられた角、爵、觚、斝などの諸器や、禽獣形の器などで当代の文字のあるものは存在しないようであるという。
これを装飾文についてみれば、饕餮文を主とした禽獣文が殷代の器とくらべ、かなりの便化が認められるほか、別個な装飾文の要素(例えば羽状とか鱗状とかいわれる帯文など)が目立つ。このような要素を辿ってゆくと、周の初期にまで遡れると梅原は推測している。そうであるならば、この時代の器に周初と同様に、史官の書いた辞令の文章を刻している事実と並んで、周の古銅器が殷周初の伝統をうけながらも、それ自体の特色を示すものといってよいと梅原はみている。
次に戦国時代の古銅器についてであるが、秦銅器とよばれた遺品は、その形態や装飾文の上で殷周の古銅器と趣を異にするところがあり、それまでの古銅器観に新たな展開をもたらすことになった。これを形態についていえば、器の種類では、鼎、豆、𣪘などから盤など、周代中期のものと大差はないが、しかしこれらの器形は従来の古銅器が厚手につくられて、個々の形の上に超現実的な面の多いものであったのに対して、薄く仕上げた軽快な趣を呈し、実用の容器としてふさわしい形をしている。この点で、これまで礼楽の器としての夏・殷・周三代の尊彝と区別されてきた漢代のいわゆる服御之器と近いものがある。
器形にも変化がみられたように、文様にもまた差異を生じて、外観を一層別個なものとしている。装飾文の要素は著しく細緻に平面的になり、表出が地文化し、より古い時代の古銅器のような怪異さがなくなっており、これを一定の単位文を型で繰り返すというメカニカルな表出法によったところにその特色がある。
次に、器の銘文では、概して簡単な刻文で、郭沫若が『周代彝銘進化観』の中で、「簡単に自己の名をしるす方法にかえり、あるいは工人の自由にまかせて、銅器にはつくった工人の名を署するという風を生じた」としている。このように戦国時代の古銅器は古い系統を受けながらも、むしろそこでは新しい多くの面をもっている点で、次の漢代の器に近いという。
以上、古銅器の形態観にあって認められる点は、時代による変遷があるとともに、もっとも古い殷の時代において、形態の上で一つの頂点を示している。もともと古銅器が容器を主としたものなので、その形態の基づくところが普遍的な土器や骨角製容器などにある。しかし現実に古銅器の示す形態から直ちにそういうものとの連繋をたどるとなると、間隙が大きすぎるので、両者の間に中間形式のあったことが想定されてきた。かねてそういう先行の容器が木器であると推測されてきたが、河南省の殷墓の学術発掘で現実に木器類の存在を物語る痕跡が見出されたことは大いに注目されるべきであるという。
古く日常の容器として作られた木製の容器類が、それ自体の材質から、形の上で土器などと差異を示すように進んでいったものが殷代になって青銅が豊富となり、鋳銅の技術が進んだ結果、それに移して作られるようになった。これが古銅器としてもっとも古い殷代の器に一つの完成形が示されているゆえんのものであろうと梅原はみている(梅原、24頁~31頁)。
近時出現の文字資料 梅原末治
中国において漢以前に遡る文字の資料としては、古銅器の款識すなわち金文のほかに、19世紀の末年に殷墟から出た亀版獣骨に刻された貞卜の文字がある。甲骨学として、金文学と並び一部門をなすようになった。これを書道史の立場からみれば、例えば董作賓のいわゆる甲骨文の断代研究によって、この最古の文字の上に発達の段階をたどることができる。
ここでは20世紀、中国における先秦遺跡の考古学上の発掘(殷墟の発掘が中心)の結果によって知られだした甲骨文以外の資料を梅原は紹介している。
1920年代の終わりから着手された殷墟の発掘により、利器においても重要な知見が示されることになった。それら利器は勾兵とよばれ、特色のある形をなしており、常用の利器としての性格から離れた、一種の儀表の器とみられている。
殷墟の発掘で知られた利器に刻された文字は、周になって銅容器に重要な銘文を印することになったことはやや趣を異にするようであるが、しかし儀仗的なその類が引き続いて行われたことは、周の後半の戈などに見られる銘文よりわかる。
ところで、周の後半戦国時代の利器類にあっては、豊飾化が著しくなり、新たに金銀象嵌の文様で飾られた器が少なくなく、文字もまた以前の鋳銘と並んで金象嵌のものがある。そして文字それ自体もこれにともなって装飾化した特殊な書体をなすようになった。つまり鳥書というのがそれで、書道史の上からも注意されている。このいわゆる鳥書の利器
は、1920年代の後半に、安徽省の寿県を中心とした淮河流域出土と伝えるものが世に現われ、さらに湖南省長沙古墓群の採掘によって一層著しくなった。ただこれらは殷墟の場合と違って、学術発掘の資料でないため、まとまった知見を欠くうらみがある。それでも銘文のある利器は狭義の戈をはじめ矛、銅剣の類にわたっていて、主として身の部分に金象嵌で表わされるといった目だったものである。例えば英国博物館に所蔵する戈(挿56)や、細川家に蔵される銅矛(図105)がそれである。この鳥書は銘文の意味と、出土地域(長沙)とから、戦国時代に南方の楚の地方で行われた書体の一つであることが認められている。
次に新しい資料として、前述した利器類とあい前後して出現した戦国時代の容器上の文字がある。金文は主として周の初期、中期の尊彝の類にあるが、それ以後の文字に至ってはある種の器に限られていて割合に乏しかった。
ところが、1920年代の終わりに洛陽郊外金村の古墓から遺品・遺文が発掘された。金村出土の金文のうちで、もっとも著しい存在は「驫氏編鐘」(図110)である。これは後の隷体を思わせるような整った書体の銘文で、その内容から年代を推定することのできるもっとも古い金文例である。もっともその実年代の比定については、出土の当初考えられていた周の霊王の22年(550B.C.)とする見方に対して、郭沫若は安王の22年(380B.C.)であるとし、また唐蘭は烈王の22年(404B.C.)とし、いまだ決していない(全集では、戦国初期とする。図版解説、205頁参照のこと)。
この編鐘以外の金村出土の金文として、「嗣子壺」とよばれる一器がある。また三脚を具えた漆器の奩の台金具に針書したものがある。その年次は周の顕王(332-329B.C.)あるいは赧王(278-275B.C.)のいずれかに当たるという。
これと同じ書体の文字は金渡金の銀盒や銀製の人物像にも刻されていて、その自由な刻字の全文の解読は困難であるが、新たな当代の文字例をなす。
この長沙の古墓から出土した銀象嵌の金具を付した「漆奩」(図126)の底裏に文字が刻されいるのも同じ類である。これは方形の区画内に4行に刻されていて、同じく廿九年の年紀がみられるのは現存する漆器の銘文のうち最古の例をなすという。
また湖南省長沙古墓の検出によって知られることになった布帛文書、竹簡の一群も、新たな文字資料である。20世紀初めから1930年にかけて、スタインやヘディンによる西域探検により、漢代の簡策、木札文書が発見され、画期的な文字資料を提供したが、この長沙の発見品は漢代以前に遡ることと、そのうちに布帛の文書が含まれていることで、一層重要視された。
長沙の古墓群は、1930年代後半、市街の発展に伴う土木工事により遺構が発見された。戦国時代の墓葬は、木室が厚く粘土で被われ、内部が浄化された湿気でみちていたことから、稀にみる完好な保存状態を保っていたようだ。出土した「楚帛書」(図127, 128)の文字は金文に似た篆書であり、しかも細密に墨書されたものである。録された文字は、神を祀る文であり、周辺の図像はその祀られた鬼神を描いたものと考えられている。香港大学の饒宗頤は、この「楚帛書」について、篆籒筆写の運筆法を知るに足る最古の資料として、中国書道史上の至宝と評している(図版解説、214頁参照のこと)。
次に竹簡(図129, 130)の類は布帛文書とちがって、中共の治下になって1951年より長沙遺跡の学術発掘で見出された。時代の違う2つの古墓の構造が明らかになり、上方に位置した漢代の墓室のあるものに木簡の類や、また下方の戦国時代の木造の室内に竹簡や古印が遺存することが認められた。竹簡に墨書された文字は漢代居延の木簡などとは違うが、しかも布帛の書と似ていながら、自由な筆致で書かれているところにまた別な趣があり、当代の文字の貴重な資料をなしている。
この長沙の資料は墓室が地表下深くに営まれて、これらの遺品が清浄な水気のうちにあったために幸いに保存された。この点からすると、乾燥のために保存された西域での織物や木簡類とは全く相反した環境であった。しかもこの相反する二者が、考古学上の調査によって新たにその存在が明らかにされたことは、20世紀における古代中国の文字学の上での大きな事実といえると、梅原は付言している(梅原、32頁~37頁)。
古印について 水野清一
中国の印章は古来もっぱら文字の印がおこなわれた。ただ中国でも周末から秦漢にかけては、かなり画像印がおこなわれ、「肖生印」の名で呼ばれている。画像が禽獣、人物を主にしているからである。
文字印は、陽文(朱文)にしても、陰文(白文)にしても、表面と溝の底との二段になる。中国ではもっぱら青銅印で、まま玉印があり、まれに骨印、陶印、ガラス印があり、湖南省長沙の発掘で、周漢の滑石印、松石(トルコいし)印、金印が知られている。
中国で印章が一般につかわれたのは、もとより東周以後であり、とくに戦国時代以後であるとされる。東周末、戦国のものは河南洛陽金村のいわゆる韓君墓、河北易県の燕の下都、湖南長沙の楚墓から発見されている。
燕の下都出土のものは白銅貨青銅印で、整った文字が深く鋳だされており、普通にみる古鉨の一種である。洛陽金村のそれは青銅印と玉印であるが、これらも古鉨中に普通にみる形式である。これに反し、長沙楚墓の古印は変化にとみ、印材も金、青銅、松石(トルコいし)、滑石の4種を含む。戦国印、秦印もしくは漢印とみられている。このように長沙の楚墓のものは、周鉨から秦印、漢印まで含み、その間における推移の方向がおのずから察せられる。
出土地のわかるものをいえば、上記の数例であるが、この他に陝西と山東と綏遠がある。これらは古印の出土する三大中心であるという。古くは陝西、すなわち関中の漢印が注意にのぼり、阮元、陳介祺になって、ようやく山東の古印が有名になり、さらに陳介祺、羅振玉になって綏遠の古印が注意されるようになった。これらの遺跡出土印によって、殷周から秦漢にいたる大勢がほぼ明らかになったと水野はみている。
文字については、陽文の殷金文から東周ふうの金文(古文)になり、ついにそれが整理されて、詔版文字の秦篆になり、ついで漢のいわゆる模印篆に変化した経路がほぼみとめられる(水野、38頁~43頁)。
古石刻について 神田喜一郎
石碑の国と中国を呼んで過言でないほど、中国には至るところ石碑が多い。碑林といって石碑が林のごとく立ち並んでいる場所さえもある。
その石碑は、何時ごろからどうして起こったか、すなわち石碑の起源という問題については学界に異説がある。中には、夏の岣嶁(くる)の碑という伝説上の石碑もある。これは夏の禹王が自ら治水の功を書きしるしたと伝えられるものである。岣嶁というのは、今の湖南省衡陽県にある名高い衡山のことであり、現に衡山の雲密峰には、その原石と称するものが存在している。しかしこれは全く後世の偽物である。
今日確かに信じ得る古石刻として原石の遺存しているのは、「石鼓文」と秦の刻石だけである。それから、その文字の摹本のみが伝わるものに、秦の「詛楚(そそ)文」というものがある。以下、神田喜一郎はこれらのものについて説明を試みている。
「石鼓文」については、北京の孔子廟の正門である大成門の左右に、大きな鼓状の石が5個ずつ硝子箱に入れて陳列されている。これがいわゆる石鼓で、それに刻されている文章が「石鼓文」(図131-134)である。
石鼓という名称は、その形状が鼓に似ているところからおこった俗称で、元来は碣と呼ぶべきものであるという。そして「石鼓文」の内容が多く狩猟のことに関しているので、これを「猟碣(りょうけつ)」と呼ぶ学者もある。しかし、唐の韓愈や宋の蘇軾のような大詩人が、いずれもこれを詠じた「石鼓歌」という大作を遺していて、一般には石鼓の俗称が広く用いられている。
この石鼓は、その年代について古来異説が多い。古くは周の成王時代のものとみる説があり、新しくは北朝の宇文周の時代のものとみる説がある。しかし普通に信じられているのは、周の宣王の時代のものとみる説である。これは石鼓に刻されている文章が、周の宣王の時代の製作と考えられている『詩経』の中の小雅車攻・吉日の諸篇と似ているということと、その字体が周の宣王の時代に製作されたと伝えられる籒文によく似ていることが大きな理由となっている。しかし、今日ではこれらの理由は全く理由にならず、この通説の支持者は少なくなってきていると神田はいう。
そして新たにその文字の字体や内容から考えて、石鼓を東周時代に秦で作られたものとする説が有力になってきている。秦刻としても、秦の何王の時代のものかという点になると、諸家の間に異説が多くて一致しない。唐蘭は「石鼓文」の字体と内容とを検討して、その年代を秦の霊公の3年、すなわち周の威烈王の4年(422B.C.)と決定している。神田はこの説をほぼ正鵠にちかいものとみなしている。
そして「石鼓文」の字体が小篆に似ながらも繁複なところがあり、また周の金文に較べては多少斉整されている。これらの点から察して、東周時代における秦の刻石であることだけは、ほぼ間違いなかろうと付言している。
さて、「石鼓文」の文章はかなり難解で、韓愈のような学者でも、「辞(ことば)は厳に義は密にして、読めども暁(さと)り難し」と嘆じている。しかし元の潘迪(はんてき)が「石鼓文音訓」を著して以来、解読が進み、狩猟のことを詠じた韻文であると解されている。
この石鼓は、唐初はじめて陳倉の田野から発見されたものといわれている。陳倉は、今の陝西省の宝雞県にあたる。ここは昔、秦の文公が狩猟したと伝えられる土地である。ここから発見されて、その後移されたが、宋の大観年間(1107-1110)に、国都汴京(べんけい、今の河南省開封)の大学に置かれることになり、ついで宮中の保和殿に移された。しかし金が汴京を陥れる(1126)に及んで、石鼓を燕京(今の北京)に運んだが、元代、これを孔子廟に置き、民国22年(1933)まで、同じ場所にあった。
秦の始皇は天下を統一した(221B.C.)後、各地を巡幸して、頌徳碑を建てた。それが秦の刻石と呼ばれているもので、次の7石である。
1.嶧山(えきざん)の刻石
秦の始皇治世の28年(219B.C.)、すなわち天下を統一して後の第3年、今の山東省兗州(えんしゅう)府にある鄒嶧山に建てた頌徳碑で、これが始皇の第1次の刻石である。
2.泰山の刻石(図137)
同じ年、山東の名高い泰山に建てた頌徳碑で、始皇の第2次の刻石
3.瑯邪台(ろうやだい)の刻石(図135, 136)
同じ年、今の山東省にある瑯邪山に建てた第3次の刻石
4.之罘(ちいふ)の刻石
その翌29年(218B.C.)、今の山東省福山県の芝罘に建てた第4次の刻石
5,之罘東観の刻石
之罘の刻石と同時に刻された第5次の刻石。東観とは東遊の意。
6.碣石(けつせき)の刻石
秦の始皇治世の32年(215B.C.)、今の河北省昌黎県の碣石山に建てた頌徳碑。
7.会稽の刻石
秦の始皇治世の37年(210B.C.)、今の浙江省紹興県の会稽山に建てた頌徳碑。
いわゆる秦の刻石は、以上の7石である。その本文は嶧山の刻石を除くほか、すべて『史記』の始皇本紀にみえている。ただ原石は大半亡佚して、現在は泰山および瑯邪台の両刻石の残片が存するにすぎない。刻石を後世模刻したものはいろいろ伝わり、中には真偽疑わしいものもあるが、宋の淳化4年(993)に鄭文宝の摹刻した嶧山の刻石などは信用してよいという。秦の刻石の文字は、すべて李斯が書いたといわれている。小篆の典型として古来尊重されているが、泰山や瑯邪台の刻石のわずかに残っている文字をみても、いかにも斉整した、品格の高い立派な書であると神田は評している。
詛楚文というのは、秦の恵文王が楚の懐王と覇を争った時に懐王を呪詛した文である。原石が現存しないが、その年代からいうと、秦の刻石よりも古く、東周の赧王の2年(313B.C.)すなわち秦の恵文王の12年に、秦で作られたものと考えられている。
原石は1.巫咸文(ふかんぶん)、2.大沈厥湫文(たいちんけっしゅうぶん)、3.亞駝文(あだぶん)の3石があって、これを併せて「詛楚文」と称した(3石ともに宋代にはじめて発見されたが、間もなく亡佚した)。
巫咸は巫神、大沈厥湫は厥湫という大きな淵、亞駝は河の名といい、これらの神に秦の恵文王が祈願した。宋の欧陽脩の著した「集古録」をはじめ、その記録が多く遺っている。その文章は難解だが、古代に行われた一種の宗教的儀礼を知る上にも重要な文献であるとされる。今伝わる「汝帖」所収の文字・字体は摹刻ではあるが、「石鼓文」や秦の始皇の刻石の文字と比較して、当時の字体を知るによい参考資料となるものである(神田、44頁~48頁)。
別刷附録 楚帛書