《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その8中国8-b》
中国8の要約の続きを掲載する。
褚遂良の書法 内藤乾吉
唐の太宗がある時、侍中魏徴に向かって、「虞世南の死後は、ともに書を論ずるものがいない」と言ったのに対し、魏徴が「褚遂良は下筆遒勁、甚だ王逸少の体を得ております」と答えたので、太宗は即日褚遂良を召して侍書を命じたというのは有名な話である。
これは褚遂良の出世の機会であったと同時に、彼の書の進展の上でも重要な転機となったにちがいない。
この話は新旧両『唐書』の褚遂良の伝に見えているが、それには年月を記していない。一見、虞世南の死んだ貞観12年(638)以後のことのように思われ、現に阮元などはそのように考えている。
しかし、『法書要録』の「唐朝叙書録」や『唐会要』巻35では、これが貞観10年(636)のこととなっている。またこの話では魏徴の官は侍中と記されているが、彼が侍中をやめたのがちょうど貞観10年である。したがって、一応、この話の時期を虞世南の生前貞観10年とせざるをえないであろう。
一方、褚遂良はこの年には秘書郎から起居郎という天子の側近の官に移っているが、この転任は上記の話と関係があろう。
ところで、魏徴が褚遂良を虞世南の後継者として推薦したのは、彼の人物を見込んだことももちろんであろうが、褚遂良の書法における造詣がすでに相当の域に達していることを認めてのことであったにちがいない。ただ、今日褚遂良の貞観10年以前の書蹟の確かなものが残っていないので、それを実証することができないという。
もっとも彼が貞観4年(630)に燕国公のために書いたという題識のある「枯樹賦」(図22、23)がある。これは確かに魏徴のいうように、王羲之の体を得たといえるものであるが、その題識の燕国公の爵をもっていた人が存在した形跡がない。
だから、「枯樹賦」の書そのものは褚遂良の作であることを否定すべきでないとしても、その貞観4年の書ということは疑いがある。しかし、今日実証はできなくとも、魏徴が王羲之の体を得ていると保証しているのであるから、それをその通りに受けとってよいことであると内藤乾吉はいう。
ただ、阮元のように、褚遂良を二王の系統から出たものではないとし、いわゆる北派の範疇におしこめようとする場合には、この魏徴の言は差支えがある。そこで阮元は、魏徴が褚遂良を推薦したのは、褚遂良が忠直で大事に任ずべきことを知って、その人物を薦めたので、その書を薦めたのではないとする。
しかし、この説に、内藤は批判的である。つまり、この説は、褚遂良が太宗の知遇を得てから後に忠直大事に任じた事実から見た結果論の嫌いがあるばかりでなく、魏徴がいかに太宗に信用があったからとて、王羲之流でないものを逸少の体ありと称して、王羲之一辺倒の太宗を欺くことができたかどうかを考えただけでも、不自然なこじつけであることがわかるという。
魏徴が褚遂良を太宗に推薦した時には、褚遂良はすでに41歳であった。褚遂良がそれまでどのような環境の下にいたかを顧みるのも、彼の書法を考える上には無益ではないと内藤は考え、この点について論じている。
褚遂良の先祖は代々南朝に仕えた名家であった。祖父玠は博学、文章をよくし、陳の中書侍郎、御史中丞をした人であり、父は太宗の秦王時代からの臣下として名高い褚亮である。この亮も博覧強記、詩文にすぐれ、若い時に徐陵に文才を認められ、陳の後主がそれを聞いて召見し、詩を賦した時には、坐にいた詩人たちがみな感服したといわれ、陳では尚書殿中侍郎となった。陳が滅んで隋に仕え、煬帝の時には太常博士となり、隋末喪乱の際には、一時薛挙の黄門侍郎となったが、薛氏が滅びると、秦王に礼をもって迎えられて秦王府の文学となり、秦王が文学館を開くと、杜如晦、房玄齢、虞世南らとともに、その十八学士の一人になった。
秦王が閻立本に「十八学士写真図」を作らせた時には亮がその賛を作った。貞観元年(627)、太宗が弘文館を開いて、賢良文学の士を招いた時には、褚亮は虞世南、欧陽詢らとともにその学士となった。この弘文館には太宗の書道奨励の主旨から、学生をおき、貴族の子弟の書性ある者を募って、書道教育を施し、虞世南と欧陽詢がその師範となった。
褚亮自身の書については伝えるところがないが、『歴代名画記』によると、武徳初の秦王府の跋尾には薛收、虞世南とともに彼の署名のあることを記している。だから書法にも一かどの見識をもっていたことが想像される。
以上のような状況から、内藤は次の点を想像している。
・褚遂良が家学として南朝系の学芸の教養を身につけたであろうということ
・また父の同僚であり、当時の書道の第一人者であった虞世南、欧陽詢の書法の影響を受けたであろうということ
事実、『旧唐書』の褚遂良伝には、父の友欧陽詢が彼の書を甚だ重んじたと見えているし、張懐瓘の『書断』には、彼が若い時には虞世南に服膺し、長じて右軍を祖述したと記されている。また彼の推薦者である魏徴も、虞世南とともに太宗の王羲之蒐集の鑑定役をつとめた人であり、両『唐書』の薛稷伝によると、稷の外祖であった魏徴の家には、豊富な図籍や虞・褚の書蹟を蔵していたので、稷はそれによって書の勉強をしたとあって、魏徴が非常な蒐蔵家であったことが知れるから、褚遂良は彼の家に出入りして、提撕(ていせい)を受けたであろうと内藤は推測している。そしてその結果が太宗への推薦となったという。
ところで、なお李嗣真の『書後品』には、褚遂良がはじめは虞世南を師としたが、後に史陵に学び、史陵に向かって「この法、更に人に教うべからず」といったという。何か史陵に学んだ結果、書法のこつを会得したらしい話を伝えている。この史陵は会稽の人で、太宗やその弟の漢王元昌に書を教えたことがあり、楷書を得意として、その筆法は精妙、欧・虞に減ぜずとか、その書は古直であるが、疏痩なのが欠点であるということが伝えられている。ともかく褚遂良の修業時代は、太宗の保護奨励のもとに書道の黄金時代を築いた時期であり、しかもその中にあって褚遂良は当時第一流の文化人なり書家なりの指導を受けるには絶好の地位にいた。だからその環境は極めて恵まれたものであったといえる。
ところで、太宗は貞観6年(632)正月8日に、御府の古今の工書の整理を命じ、鐘・王らの真蹟1510巻を得た。これは魏徴や虞世南が鑑定した。太宗は貞観13年(639)には、王羲之の書を購求する勅を出し、四方の妙蹟が尽く集まってきた。この時は起居郎褚遂良、校書郎王知敬らに命じて、玄武門の西の長波門外においてその鑑別をさせ、宮中から王羲之の書を出して参校させた。その結果、王羲之の書2290紙を得、装して13帙128巻とし、紙の縫には「貞観」の小印を押した。この時の跋尾の署名者の列名には、起居郎臣褚遂良監とあり、このことから彼がこの蒐集整理事務の主たる責任者であったことがわかる。その後も貞観17年から19年まで責任者の地位にあった。この他、王羲之の草書には褚遂良に真書小字の釈文をつけさせた。これらの事実から見て、褚遂良が貞観12年(638)、虞世南の死後、その後継者として太宗の書道に関する事業の管理者としての責任を果していた。この間に、彼は古書蹟を見る機会をもち、それを研究したはずで、それは彼の書法に大きな影響を与えたと推測している。そして貞観15年(641)には欧陽詢も亡くなるし、彼は押しも押されもせぬ書道の第一人者となった。
褚遂良の書蹟として今日に伝わっているものの中で、もっとも確かなものは神田喜一郎も指摘していたように、次の4碑である。
・「伊闕仏龕碑」(図1-5)
・「孟法師碑」(図6-9)
・「房玄齢碑」(図10-13)
・「雁塔聖教序」(図14-21)
内藤も、これらを主要材料として、褚遂良の書法について考察を試みている。褚遂良の楷書には隷法が雑っているとか、隷意があるといわれている。隷法を雑えるという点では、虞世南はもとより、欧陽詢よりも以上であって、その点だけからいえば彼の書はこれらの先輩よりはいくらか逆行した姿を呈している。
その隷法の一つとして、彼の用筆には折鋒が多いということを内藤は第一に挙げている。欧陽詢などに比べてもそれが目立って多く、その点で彼の筆法は欧・虞などよりも古法を存するものといってよい。
褚遂良の真蹟本というのでやかましい「倪寛賛」(挿26)というものがある。これは元明以来多くの名家が跋を書いて賞讃の辞を費やしているが、もっとも明の張丑などはその臨摸本であることを見抜いている。今日では色々の点から真蹟であることを疑われるようになっている。内藤によれば、この書には折鋒というものが全然見られないので、この一点だけからいってもその真蹟でないことが断定できるという。
次にこのような用筆の根本ではなく、形の上での目立った隷法も色々ある。
・例えば、「冖」の末筆を斜めにはねずして垂直に近く下げる形
・また「孟法師碑」の列仙の列の字の「歹」の終筆のとめかた
・「孟法師碑」の玄廬の廬の字の「广」の終筆のはねかた(図9)
・「孟法師碑」「集王聖教序」の妙、砂の終筆のはねかた
・「集王聖教序」の方、良の点の曲げ方
これらはみな隷法である
また米芾はもっとも長らく褚遂良を学んだと自らいっているのであるが、褚遂良の書を熟視した上で米芾の書蹟を見ると、米芾が上述した褚遂良の用筆、隷法から来た筆法のみならず、結体にいたるまでを、いかによく習いこんでいるかがわかると内藤は述べている。この点、褚遂良の「哀冊文」を米芾の書と疑う者が出てくるのも無理もないともいう
ともあれ、米芾は褚遂良の書の古法ある点をもっともよく理解し、愛した一人であり、そして米芾のその点をもっともよく理解したのは董其昌であろうと内藤は解説している。
次に内藤は褚遂良のこのような隷法が何から来ているのかということを問題としている。褚遂良が独自の考えで隷法を楷書に取り入れたと解すれば、ことは至極簡単で、もちろんそういう点もないとはいえない。しかしまた一方彼が隷法の残った楷書を習ったのであるという解釈もできる。
この場合、阮元のように、隷法のある書はすべて北派ときめる単純な論法から、彼を北派の書を習ったものとする考え方が今日でも絶えないという。なるほど今日多数に存する北朝の碑版、墓誌を見ると、褚遂良のような隷法は至る所に見られるのであるから、この考えは一見もっとものように思える。しかし阮元の知らなかった南朝碑が僅かながらも見られる今日では、このような一方的な考え方は許されないと内藤は批判している。例えば、南朝碑の中の「蕭憺碑」のような隷意を含んだ勁険な書を見れば、智永の「千字文」などの楷書とはまた別な、北碑と何ら変わらないような書が南朝にあったことが知られるという。このような伝統が隋唐まで伝わらないとはいえない以上、褚遂良を北派ときめるのは早計であると内藤はいう。そしてこのことは阮元が北派としている欧陽詢についても同様にいえるとする。
南人である欧・虞を北派とするためには、どうしても阮元のようなこじつけが必要となってくる。因みに阮元は隷法の具体的な例として、したがって北派であることの標識として、欧陽詢に見られるような「乙」の終筆の内円外方のはね方を挙げている(虞世南にもこの法があるのは、南派の彼が北派の法を雑えたものとする)。これに対して二王の法では、「乙」の終筆は鉤転するところが両者の違いであるとする。
しかしこの阮元の説はあまりに簡単に割切った見方であって、今日では通用しないと内藤は否定している。というのは、王法の代表と目すべき智永の「千字文」の「乙」の法は内円外方であるのみならず、二王の小楷を見ても大体はそれに近いはね方をしている。
ところが褚遂良の「乙」のはね方は欧・虞のような派手なはね方ではなく、一種独特のつつましやかなはね方で、それが彼の書の一つの特徴をなしていると内藤はみている。
褚遂良の書は、貞観15年(641)の「伊闕仏龕碑」やその翌年の「孟法師碑」にはまだ従来の碑書の常識に従いつつ、その間に自己の特徴を出そうとする苦心の跡が見え、ことに「孟法師碑」ではそれが一種の不安定感をあらわしている。これから10年余り後の「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」になると、全く自己独特の境地を開いて、それを悠々と自信に満ちて表現している。
中でも「雁塔聖教序」は褚遂良の最上の傑作といってよい。「雁塔聖教序」より「房玄齢碑」を好む人もあるが、それは一種のひねった見方で、傑作といえば、やはり「雁塔聖教序」を推さねばならないと内藤は強調している。
そして10年ばかりの間にどうしてこのような境地に達したか。その過程を知る材料がないのは物足りないという。ともかく、これまでの10数年間に褚遂良は太宗のために無数の南朝の法帖を鑑定したわけであり、その間に彼はそれらのものから、のちに蘇東坡がいうところの、いわゆる「清遠蕭散の気」を体得したのであろうと内藤は推測している。
またこの後期の両碑には、楊守敬のいわゆる帖法を碑に入れた趣があって、碑法の常識を破っているのは、これより先に太宗が行書の碑を書いて碑書に対する観念を一新したことなどとも関係があるであろうとみている。
その他「雁塔聖教序」が隋の「龍蔵寺碑」(7巻図1-5)に似たところがあるので、それからきているとする説や、王澍のように漢の「礼器碑」を習ったのだとする説もある。
しかし内藤はこの二説には疑問を呈し、単なる暗合にすぎないとしている。
ところでこの後期の両碑には帖法が入っているということに関連して、内藤が興味を覚えることを述べている。それは一つの画から次の画に移るときに糸を引くように筆をつづける筆法のあることである。例えば、「房玄齢碑」の第1行の左字(図10)、第12行の於字のごときものである(「雁塔聖教序」は「房玄齢碑」ほど微細には刻していないが、その筆意は認められる)。
この筆法は「枯樹賦」にも「褚臨蘭亭序」にも見られるという(和暢の和字、萬殊の萬字)。これが単なる褚遂良の筆癖にすぎないか、それともそういう筆法の伝統が前からあったのかははっきりしない。今日残っている中国のものでは褚遂良以外にはほとんど見られないが、日本の奈良朝の真蹟にはそれを伝えたものがあるそうである。
その一つは、聖武天皇宸翰の雑集(挿27、9巻図38, 39)である。これにはこの筆法が盛んに用いられている。聖武天皇の雑集は王羲之の筆法をよく学んだものであるとされているが、このような筆法も王羲之に既にあって、それが褚遂良にも天皇にも伝わったものかどうかは、一つの問題であるという。
「雁塔聖教序」や「房玄齢碑」には極めて細い線で、時にはそれが中途でたゆたいながら、またつづいてゆくような筆法があるが、雑集にはそれをさらに誇張した繊細を極めた筆法がある。雑集にはその他にも色々褚遂良に似た筆法が認められるから、聖武天皇が褚遂良を学んだということは十分に考えられると内藤は推察している。
褚遂良の書は、欧・虞などとは違った新生面を開いたものであり、しかもそれがその後の時代の風尚に投ずるところがあったと見え、これに追随するものがむやみに多かったようだ。
ただ、唐人の褚遂良の書に対する批評は毀誉相半ばしているが、しかしそれらは彼の書の鑑賞には参考となるものであるから、その主なものを内藤は記している。例えば、李嗣真(高宗、則天武后時代の人)の『書後品』には、
「褚氏右軍を臨写し、また高足たり、豊艶雕刻、盛んに当今に尚ばる。ただ恨むらくは自然に乏しく、功勤精悉なるのみ。」とある。
褚の碑書の痩勁なるものを見た目には、豊艶という評はちょっと異様に感じられるが、これは今日では真蹟本褚臨蘭亭などを考えれば、豊艶の意味はわかる。雕刻というのはその技巧に富んだ筆法をいうのであろうという。功勤精悉というのは褚遂良の右軍の習い方を評したものと解され、これによって、褚臨蘭亭が王羲之の筆法を忠実に伝えているものであることがわかる。
次に張懐瓘の『書断』には、
「少(わか)きときは虞監(虞世南は秘書監であった)に服膺し、長じては右軍を祖述し、真書は甚だその媚趣を得、瑤台青鎖の春林に窅映し、美人の嬋娟として羅綺に任えざるがごとし。華を増し綽約たるは欧虞も之に謝す。その行草の間は即ち二公の後に居る。」と評している。
張懐瓘の批評は美辞をもって巧妙な比喩をするのが得意であるが、この瑤台青鎖云々はもっとも人口に膾炙している。楊守敬が述べている通り、「雁塔聖教序」を見ていると彷彿としてこの評が浮んでくると内藤はいう。張懐瓘もおそらく「雁塔聖教序」を念頭において評したであろうし、この評は「雁塔聖教序」の価値を十分に認めたものとして意味があると説く。
また竇衆の「述書賦」には、
「河南は専精にして、克く倹に克く勤なり。告誓(王羲之書の告誓文)に伏膺し、猗文(未詳。褚遂良の「晋右軍王羲之書目」の行書の第二に「爰有猗文」とあるが、それのことかもしれないと内藤は注している)に鋭思するも、恐らくは画虎を成すなく、まさに効嚬に類するあらんとす。価は衣冠に重んぜられ、名は内外に高しと雖も、後学を澆漓にして罪なきを得んや。」とある。
この文章は王羲之を一意専心、真正直に習っているけれども、虎を画いて犬に類するもので、真意を得ていない。当時大流行であるけれども、後学者を堕落させた罪は浅くないという意味であるという。
彼は虞世南をひどくほめて、褚遂良をこのように貶するのは、高宗時代あたりから書法が下り坂になってきたのを褚遂良の責に帰して、苦々しく考えていたのであろうと内藤は推測している。
そして徐浩も、書は欧・虞までで、褚・薛は論ずるに足らぬという考えで、欧・虞を色彩は乏しいが、骨勁く気猛な鷹隼にたとえ、褚・薛を色どりは美しく備わっているが、肉豊かで力のない翬翟(五彩のそなわったきじのたとえ)にたとえている。
以上、唐の中葉までの人々の批評はまちまちである。しかしともかくこの時分まで褚遂良の書がよほどの勢いで流行していたことがわかる。
最後に、日本に伝わっている「文館詞林」(和歌山、正智院)には、褚遂良およびその亜流である薛稷、薛曜の筆法までを忠実に習った書が少なからずあって、この時代の書法研究に無類の材料を提供していることを指摘している。
なお、褚遂良の書風がこの時代および後世の書家にどのような影響を与えているかについては、紙幅の都合で割愛したという(内藤、10頁~18頁)。
孫過庭の書譜 中田勇次郎
孫過庭の『書譜』は唐代における草書の代表的な名作として知られている。のみならず、その文章は彼がみずから撰んだもので、漢魏晋以来の書を論じた名著として古来もっとも高く評価されている。
中田はまずはじめに、『書譜』が何を説こうとした著述であるかを考えている。この本は今、巻上一巻が伝わっているが、これに従ってその内容を類別してみると、次のようになる。1.古人の書を品第した部分
2.書体を論じた部分
3.書の技法を解説した部分
4.書を学ぶ方法を究明した部分
以下、それぞれについて中田勇次郎の見解を述べている。
第一の書品については、中国の歴代の書家の中で、どの人がもっともすぐれているかということについて、漢の張芝と魏の鐘繇と晋の王羲之と王献之の父子の4人を挙げて四賢と称し、この4人について優劣上下を品第している。
その品第法は、張と鐘はそれぞれすぐれた長所をもっているが、王羲之はこの2人の長所を兼ね合わせている。その点において王は2人よりすぐれている。そして王献之は父の王羲之には及ばないとしている。結局、4人の中では王羲之がもっともすぐれた書家であり、書の歴史の上においても、この人だけが長く後世にまで模範として仰がれるようになったのであるといっている。
しかしこの説は実は孫過庭にはじまるのではなくて、南朝の宋の虞龢(ぐか)の『論書表』をみると『書譜』の中の四賢の品第と同じ文章があるので、彼の基づいたところがここにあることがわかる。
また庾肩吾(ゆけんご)の『書品』に、古今の書家を上中下九品の等級にわかって、それぞれに品評を加えているが、その中で上の上の等級においたのは張芝と鐘繇と王羲之の3人であり、王献之は崔瑗などとともに上の中の等級においている。
その説によると、張は工夫が第一で天然はこれに次ぐ。鐘は天然が第一で工夫はこれに次ぐ。王羲之は工夫は張に及ばないが天然はそれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はそれ以上であるという。天然は精神のあらわれであり、工夫は技巧によって生ずるものと解される。張は技巧においてすぐれているが精神はこれに次ぎ、鐘は精神においてすぐれているが技巧はこれに次ぎ、王羲之は技巧においては張ほどではないが精神はそれ以上であり、精神においては鐘ほどではないが技巧はそれ以上であるとしている。王羲之は精神と技巧、いずれもかなりの程度まですぐれていて、かたよっていないところに長所があるとする。
孫過庭の言葉を借りていえば、「智巧兼ね備わり、心手ふたつながら暢(の)ぶ」ということになる。いわば成績の平均してすぐれている優等生のようなものである。これらの説から考えると、『書譜』における書品は南朝のものをそのまま受けついでいることがわかると中田は解説している。
唐代においては、孫過庭とあい前後して生存していたと思われる李嗣真が、庾肩吾の『書品』に次いで『書後品』をあらわしている。その中には古今の書家を十の等級すなわち九品の上にさらに逸品という等級を設けて品第している。逸品には李斯(小篆)、張芝(草書)、
鐘繇(正書)、王羲之(三体および飛白)、王献之(草書、行書、半草)をあげて、それぞれの得意とする書体を付記している。この品第法も『書譜』とほぼ一致するものである。
したがってこのような説は唐代においてもひとり孫過庭に限らなかったことが知られる。
書体との関係については『書譜』にも、鐘繇はもっぱら正書をよくし、張芝はもっぱら草書をよくし、王羲之はこの二つをあわせてよくした。ただ、正書では鐘に劣ったが、草書をよくしたことは鐘の及ばぬところであり、草書では張に劣ったが、正書をよくしたことは張の及ばぬところであり、専門とするところはそれぞれ少し劣っているが、兼ねあわせるという点では王は二人よりすぐれていたといっている。だからこの4人を書体に結びつけて論じているところも李嗣真と同様である。
『書後品』において王羲之が三体と飛白をよくしたとしている意味もおそらくここにあるであろうと中田はみている。各体の書をよくするということが、書家にとってすぐれた長所となるのであって、そこには実用性と普遍性があり、その背後には儒教における無偏無党、過不及のない中正の精神が宿っているという。
彼が書を学ぶ目標としたのは、上述した四賢であり、わけても王羲之をもっとも尊んでいる。しかしただ古人の書を盲目的に模倣するのではなくて、その間にはやはり古今の別のあることを認めている。すなわち歴史上におけるそれぞれの時代にはそれぞれの特質がある。質朴を尊ぶ時代もあり、華美を尊ぶ時代もある。書においても同様である。ただ、質朴と華美はそのいずれにもかたよってはならず、『論語』に「文質彬々(ひんぴん)として君子なるかな」とあるように、文と質とが調和するのをよいとする。このように文と質すなわち文華と質実の調和をといているところにも、儒教における中和の精神がうかがわれると中田はみている。
第2の書体については、篆隷楷行草と飛白、雑体書について述べている。主として論じているのははじめの五体である。「篆書は婉にして通ならんことを尚び、隷書は精にして密ならんことを欲し、草書は流にして暢ならんことを貴び、章草は検にして便ならんことを務む」といっている。
このほかに真書と草書については形質と情性の二つの面から論じている。すなわち真書は点画を形質とし、使転(運筆)を情性としている。草書は点画を情性とし、使転を形質としている。草書に点画がなければすがたの面白さがでてこない。真書に使転がなければいきいきとした精神があらわれない。真書は筆勢の進路がきまっているからかきやすいが、草書は字体が漠然としているので書きにくいという。これは真書と草書の特質をまことによく論じた言葉であると中田はみている。実際、清の包世臣は「安呉論書」の中にこの説をすぐれたよい理論であるとして採用している。
第3の書の技法については、執使転用の説がある。執は筆の持ち方の深浅長短をいい、使は縦横牽掣の筆法をいい、転は曲折する筆法、用は点画によって文字を形成するときの左右前後の均衡をいうが、具体的な技法については述べていないという。
用筆の遅速については速くかくことと、遅くかくことと二つながら熟達していなければならない。速くかくことの上手な人が遅くかいたのが本当の遅筆である。遅くかくことの上手な人が速くかいたのが本当の速筆であるとしている。
骨気と遒潤について、書においては骨気があってその上に遒潤さが加わっていなければならない。骨気と遒潤さとが兼ね備わっているのがよいのであって、このどちらかにかたよっているのはよくないとする。
書の個性については、字を書く人の個性によってそれぞれ異なった特質があらわれる。質直な人の書は一本調子で遒美さがない。剛情な人の書はかたくなで潤いがない。謹厳な人の書はきゅうくつである。気楽な人の字は技巧が失われている。温和な人の書はやわらかすぎる。元気な人の書は乱暴すぎる。臆病な人の書は筆がとどこおり、遅鈍な人の書は筆がにぶい。このように書の上に個性があらわれることは偏ったこととして戒められなければならないという。
孫過庭の説くところは、いつも一方にかたよらない中正の道である。しかしこの説は孫過庭ひとりに限らないという。唐代の書法を論ずる人の多くが、これと同様のことを述べている。唐の太宗の指意(以下「墨池編」による)にも、字をかくときには神気の沖和を尊ぶ。緩急、粗細、長短などがよろしきをえて、心の中に書の妙味を悟って自然と和合し、どうしてそうなるかわからないのにそうなるという境地にまで到達することを述べている。
欧陽詢が善奴に伝えた秘訣にも、字をかくときには精神をこらしてよく字勢を考えてから、文字の形がよく整い、筆法もよくゆきとどいて、長短、粗細、疎密、緩急、肥痩などが中和をえてかたよらず、自然のままに体がそなわることが大切であるという。
また虞世南の筆髄の契妙の条にも、沖和の気を尊び、書の妙味は心で悟ってえられるもので、力だけでえられるものではないとし、遅速、虚実を論じ、疾(はや)からず徐(おそ)からず、これを心に体得して、これを手に応ずることを肝要とし、その原理は口では言い表せないといっている。
やや下って徐浩の「書法論」にも、疎密、長短、大小、捷徐、平側などがすべて中正であるべきことを説いている。これらの諸説はすべて『書譜』と同調するものといってよいと中田はみなしている。したがって『書譜』における書法の中和論も唐代における伝統的な書法の中にかなり広く行われていたものと認められるという。
第4の学書の方法については、書のかきかたを学ぶには、老人は少年に及ばないから、若いときに十分よく学んでおくがよい、書を鑑賞したり書の理論を研究したりするのは年をとってからの方がよいとしている。
書を学ぶにはおよそ3つの段階があるという。はじめは分布、すなわち文字の形の構成や位置のとり方を学ぶのに、できるかぎり平正であるようにつとめる。それがすでに平正になってくれば、次にはできるかぎり険絶になるようにつとめる。すでに険絶になってくれば、またもとの平正に立ちかえる。はじめは未熟であり、中ごろにはやりすぎるが、後には何もかもがよくわかってくる。よくわかってくるころになると、人も書も老成するという。
孔子の言葉に、
「五十にして命を知る。七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」とある。年をとると自分がどのようになすべきかということがよくわかってきて、自分の思うとおりに物事をやっても、少しも道にはずれることがないようになる。
文字をかくときにも、平正から険絶をへて、またもとの平正の境地にかえると、時と場合に応じて、善処してゆく方法が体得されて、よく心の中に熟してからかくので、かいたものに不自然なところがない。
また孔子の言葉に、
「夫子は時にして然して後に言う、人その言を厭わず、楽しみて然して後に笑う、人その笑いを厭わず、義にして然して後に取る、人その取るを厭わず」とあり、
また「かの人は言わず、言えばかならず中(あた)るあり」とある。
自然の原理をよくのみこんで、思うがままにかいても誤ることのない境地に到達してから、はじめて手を下すようにするがよいという。
こういうわけで、王羲之の書も、晩年になってから非常によくなった。それは彼の思慮がゆきとどき、志気がおだやかになってきて、特に努力しなくても、字をかくとその中におのずから深遠な風格があらわれたのである。
王献之以下の人々はみな一生懸命にかいて、気取った体をなしているけれども、それは学習の訓練が同じでないばかりではなく、神情がはるかにかけはなれているという。これこそ心と手が合一して、自然の妙有を悟り、いわば「心、悟って手従い、言、忘れて意得る」という境地であろう。
書は心と手によって論じられる。心は性情の発動によって形質となってあらわれる。手は技巧であり、学習によって成熟することを尊ぶ。「未だ学ばずして能くするものはない」という。ここにも孔子の言葉が想起される。彼のもっとも重んじたのは情性である。書を学ぶにはもっとも美しい情性が動いて形にあらわれ、それによく熟した運用が加わってはじめてよい書ができる。「心は精を厭わず、手は熟を忘れず」という。王羲之の筆陣図に、有名な「意は筆前に在り」という言葉がある通りで、これであってはじめて瀟灑流落、翰逸し神飛ぶといったような立派な書ができるのであるという。
斉の王僧虔の「筆意賛」に、
「書の妙道は神彩を上とし、形質はこれに次ぐ、これを兼ねるものは古人に紹(つ)ぐ」といい「心をして手を忘れ、手をして書を忘れしめる」境地をといている。
虞世南の「筆髄」にも、心を君とし、手を臣とし、心手を君臣の関係において説いている。張懐瓘の「書儀」にも、天性を第一とし、習学をそののちにおいて論じている。いずれにも心手の関係に同じ考え方が見られる。『書譜』の説は心手合一説とでもいうべきもので、やはり伝統的書法の一特色をなしているものと、中田は認めている。
以上、『書譜』巻上はその文章の体が六朝から唐の前半期にかけて流行した駢体文でかかれているので、文字面が美しく、とかく言葉のあやに幻惑されがちであるが、その内容は全体からみて書の学び方をといた指針であるといってよい。
その要旨はまず古人の書の上下を品第してどんな書を学ぶべきかを述べ、四賢の中から各体の書をよくした王羲之をとりあげてその目標とし、書の技法と学習の方法とを、伝統的な理論の上に立脚して解明したものである。
その根底とするところは六朝以来の書論にあり、ただそれを総括的にまとめあげて、もっとも本格的なもっとも崇高な体系をつくりあげたところに特色がある。その中心思想となったのは儒教における中和の精神であると中田はみている。
またこの書論は一面から見れば、魏晋以来の伝統的書法を守るためにかかれたものとも考えられるという。李嗣真の『書後品』に
「古の学者にはみな師法があった。今の学者はただ胸懐に任せて、自然の逸気がなく、師心の独往がある」といっている。
その当時ようやく伝統の一角が崩れて、個性を尊ぶ傾向があったかのようである。ここにこの書論がかかれた意義があったと中田は考えている。やがて張旭、懐素や顔真卿の出現によって、書法が一変してゆくとともに、この書論は一時顧みられなくなるが、南宋になると姜夔が出て、これの続編という意味から、『続書譜』を著し、再び魏晋の書法が鼓吹され、それが元代の復古主義へとつながってゆく。その後は伝統的書法の代表的な書論として、また唐代の草書の名蹟として広く認められるようになった。
次に、『書譜』のもとの形がどんなものであったか、また今日伝わっている諸本の中でどれがもっともすぐれているかという問題について中田は所見を述べている。
今伝わっている『書譜』は巻上一巻であるが、本文のおわりに
「今、撰んで六篇となし、分って両巻となし、その工用を第して名づけて書譜という」とある。
これによると、この本はもと六篇二巻から成っていたはずである。これについては今の巻上の部分は序文だけで、本文はすでに失われたのであるとする説が多く行われている。
ただし、「その工用を第す」といっているのは、書家の上下優劣を品第して序列を立てたものと思われるから、あるいは現存の巻上ののちに、このような内容の下巻があったのかもしれないし、また『書譜』という書名もそういう内容があってこそふさわしいと中田は考えている。
巻数については、『宣和書譜』に「書譜序上下二」などとある一方で、日本の平安時代の書目である「日本国見在書目」には「書譜三巻」とあり巻数が異なっており、この問題にははっきりとした解決は得られないとしている。
次に現在の巻上のような形式のものがいつごろから行われたかという問題について論じている。孫過庭の『書譜』のことが文献にあらわれるのは、米芾の『書史』に「草書書譜」の名が見えるのがもっとも古いものとする(それより以前の張彦遠の『法書要録』などにはまだ見えない)。
元祐2年(1087)に薛紹彭が摸刻した本(図62, 63、元祐本、東京書道博物館)が果してその年のものかどうかは疑わしい点ががあるが、米芾の前後にはもう『書譜』の名は知られていたという。
羅振玉の元祐本の跋に、蔡襄の臨本のあったことを記している。南宋の咸淳年間に左圭が刊行した「百川学海」という叢書に収められている『書譜』の本文は、今の巻上とほぼ同じで、のちに「嘉定戊辰(元年、1208)冬改正三十五字」とあって、本文の中の35字の異同について校勘している。したがってこの頃には今の草書本の巻上が行われていたことがわかる。
同じ年の嘉定元年(1208)に刻された姜夔の『続書譜』にも、『書譜』の原文の一部分を引用しているところがあり、彼が草書の原本を見て引用しているところがわかる。
こうしたところから、現在の草書の巻上一巻は、大体南宋の寧宗期までさかのぼることができ、残巻になってからすでに久しいということになる。
ところが一方、日本に古くから伝わっている鈔本が二種ある。一つは伝空海筆の御物本「書譜断簡」(11巻図60)であり、一つは伝空海筆の「断簡三行」(11巻図61)である。これを今本と対校してみると、「使轉爲形質」の下に、「草無點畫、不揚魁岸、眞無使轉、都乏神明、眞勢促而易從、草體賖而難就」の28字が多い。これは空海の鈔写した原本の文章と今本とに字句の多少があることを示している。空海の鈔写した原本は唐代のものにちがいないから、時代の古さからいっても、この方がはるかに原本の実相を伝えているとも考えられる。つまり現行の本は『書譜』の原文のままであるかどうかについて疑いをさしはさむことができるという。
そこで今日知られている『書譜』の諸本の中でどれがもっとも正しいかという問題がおこる。それには真蹟本と刻本があるが、真蹟本では「清内府旧蔵本」(図58-61)が今日広く行われているが、刻本では元祐本が諸本の中で重要であると中田はみている。このいずれにも特色があり、捨てがたいものをもっているので、孫過庭の原蹟の真相はこの二本によって想像するのがもっともよいという(中田、19頁~27頁)。
張旭について 外山軍治
張旭は実にふしぎな書家であると外山は言う。その作品として信頼できるものはほとんど残っていない。『宣和書譜』によると、北宋末、御府に蔵せられている彼の草書は24に上っているが、そのうち今日みることができるものはない。
摸勒されて法帖に入れられているものも少なくないが、いずれも真偽不明である。石に刻されたものとしてはわずかに「郎官石記」(図100-103)があるだけで、それもその原石が早くからなくなっているので、頼りないという。
このように信頼すべき作品がほとんど残っていないばかりでなく、その生卒もはっきりしないし、その経歴も分明でない。諸書の記載によって、次のことくらいが判明するようだ。
・あざなを伯高といい、蘇州呉の人であること
・陸柬之の孫の彦遠の甥にあたり、この人から筆法を授けられたこと
・初め仕えて常熟尉となり、のちに左率府長史(あるいは右率府長史ともいう)となったこと
このようにぼんやりしていながら、書道史上における張旭の名声はきわめて高い。つまり漢の張芝に比して草聖と呼ばれるほどに草書がたくみであったとされ、また筆法伝授の上で重要な役割を果たしたと考えられている。
唐代において張旭が草書の名人であったということを記したものは実に多い。そのうち有名なのは、杜甫の「飲中八仙歌」である。その中に「張旭三杯、草聖伝う、帽を脱し頂を露わす王公の前、毫(ふで)を揮い紙に落せば、雲煙の如し」といっている。杜甫という宣伝力の大きい詩人にうたわれたことは、張旭にとって幸福であったと外山はいう。この詩は、その生没のはっきりしない張旭について、その活躍の時期を推定させる一つの手掛りにもなる。ここに八仙というのは、張旭のほかに汝陽王璡、賀知章、李適之、崔宗之、蘇晋、李白、焦燧をさす。このうち、李白が宝応元年(762)に没したのを除き、汝陽王は天宝9載(750)、李適之は天宝5載(746)、賀知章は天宝3載(744)、蘇晋は開元23年(735)に没した人である。杜甫によって、この人々とともに八仙の中に入れられている張旭も、ほぼ同時代の、開元から天宝にかけて活躍した人であったことは確かであろうという。
さて杜甫の「飲中八仙歌」と同じように、張旭に酒の上での奇行が多いこと、そして酒に酔って変化に富んだ草書を書いたことを伝えているものは少なくない。杜甫と同時代の詩人李頎(き)も、張旭に貽(おく)るの詩において、「張公、性酒を好み、豁達、営(まど)うところなし」といっている。
さらに李肇の「唐国史補」、『唐書』列伝になると、その書き方はもっと気狂じみているように記している。酒に酔うと大声をあげて狂走した上、筆を索めて書いたとか、頭髪を墨に濡らしてそれで書いたとかいい、それで張顚と呼ばれるに至ったと記している。彼が張顚と呼ばれたことは、また杜甫の詩にも見えている。
このように、張旭の書は、行儀正しく、尋常に書いたのではなくて、酒に酔って人に眼をみはらせ、耳をそばだたせるような奇抜な書き方で書いたものである。酒気に乗じて書いたことは、張旭より少しのちの懐素(10巻、中田勇次郎「懐素の書とその影響」参照のこと)についても同じようなことが伝えられ、張顚素狂と並称された。このようにして、狂草といわれる一つの体が張旭によってはじめられ、懐素によってうけつがれたとされる。
酒に酔った上で、いろいろな珍しい書き方をした人は、画の方にも出ている。張旭より少し
遅れて、大暦、貞元時代に活躍した王墨、李霊省、張志和の3人がそれであり、王墨は『歴代名画記』巻1によれば、やはり髻に墨をつけて書いたという。
張旭の書も少し時代は早いけれども、やはり画におけるこの奇抜な画風の出現と相通ずるものをもっている。この奇抜な画風の起こったのは唐代の芸術が大きい転回を始めたことを意味するといわれるが、張旭の草書の出現もまた結局において書道史上の革新のあらわれの一つとみるべきであると外山は理解している。
張旭以前の書は、典雅な王羲之父子の書法を守り、それをきわめて行儀よく、正攻法をもって書いたものであった。とくに唐太宗が王羲之の書を酷愛してから、高宗、則天武后に至るまで、すべて太宗の影響をうけており、民間においても、欧・虞・褚・薛らの書人によって伝えられた書法は、いかにも正道を守り、正常によったものであった。
しかし、開元、天宝時代になると、その豁達な気運の中に、芸術の各方面に、伝統的なもの、正統を守ったものに対して、何か新しいものの生まれてくることを期待する気持が出てきた。張旭の書は、この新しいものの生まれることを期待する気持に合致したのであろうと外山はみている。
韓愈は張旭の書を評して、「変動なお鬼神の如し、端倪すべからず」(「昌黎先生集」巻21)といい、『唐書』巻202、李白伝には、張旭の書を奇妙だといっているが、非常に変化に富み、奇妙であったことが時流に投じた。
一派の開祖には、開祖にふさわしい伝説が付加されるものである。この点、張旭もその例にもれない。張旭が草書のヒントをえた由来に関して、次のような話が伝えられている。
『唐書』巻202、李白伝の付伝に、
「旭みずから言う、始め公主の担夫が道を争うを見、また鼓吹を聞いて筆法の意を得。倡の公孫の剣器を舞うを観して、その神を得たり。」とある。
このうち、公孫の剣器について、外山は説明を加えている。杜甫の「観公孫大娘弟子舞剣器行」の序(「杜工部集」巻25)には、
「むかし、呉の人、張旭は草書をよくしたが、かれは鄴県(河南省)で公孫大娘(こうそんたいじょう)が西河剣器を舞うのをみて、草書が上達したのだ」とある。
ここで問題となるのが、「剣器を舞う」の解釈である。一般に、剣をもって舞う、いわゆる剣舞であると考えられているようであるが、これについては那波利貞の考証が正しいと外山はみる。西河地方(今日の甘粛方面)で行われた巾舞の一種で長さ丈余の彩帛の両端を握りやすいようにおのおの一結びにし、双手でその結目をもって舞うもので、張旭はこの曲線美から暗示を得たとする。つまり張旭が草書のヒントを得た剣器舞は、剣の舞ではなくて、巾舞の一種であると解釈しうるという。こう解釈すれば、杜甫の「飲中八仙歌」に、張旭の書を雲煙の如しといっているのが生きてくるともいう。
さて、唐人はもっぱら張旭の草書の奇抜なことを重視し、もてはやしているが、宋人は必ずしもそうではないようだ。宋人は張旭が自由奔放で、何ものにも拘束せられない、変化に富んだ書き振りをしていることを十分認めながら、それと同時に張旭の草書の根底にしっかりした基礎があることに注意し、これを強調している。
黄庭堅は「張公、姿性顚逸なるも、その書、字字法度の中に入る」(「黄文節公全集」巻28)といい、黄長睿は張旭の「千字文」を評して、その中に
「千状万変、左馳右騖(ぶ)すと雖も、繩矩の内を離れず」といい、また
「旭の書をみてその怪を尚(たっと)ぶも、規矩に入るを知らず」(「東観余論」)といっている。また『宣和書譜』も、
「その名、もと顚草をもってす、而も小楷、行書に至るまで草字の妙に減ぜず。その草字は奇怪百出なりと雖も、その源流をもとむれば一点画の規矩に該(あた)らざるものなし。或いは張顚顚せずというはこれなり」としている。
ここに法度といい、繩矩、規矩というのは、正常な書法、すなわち王羲之流の伝統的な書法という意味であると外山は推測している。
さらに宋代の人々は、「郎官石記」にみられる張旭の楷書を非常に高く評価している。「郎官石記」には開元29年(741)という年記もあり、彼の書を信じてよい唯一の作品である。これについて欧陽脩は、「この字、真楷愛すべし」(「集古録跋尾」巻6)といい、曽鞏は「精勁厳重、自然に出(い)ず。動容周旋礼に中(あた)り、強いて為すものにあらず」(元豊類藁)巻50)といい、蘇軾は「作字簡遠、晋宋の間の人の如し」(「東坡集」巻23)といっている。
このように、「郎官石記」を推賞する心は、この楷書こそは、正常な書法、王羲之流の伝統的な書法をうけついだものであり、これがすなわち張旭の草書の基礎をなすものだとするところからきている。
この「郎官石記」を重要視する傾向は、宋以後にもみられ、明の董其昌は「張長史郎官壁記は乃ち狂草の築基なり」(「容台集別集」巻4)とはっきりいっている。「郎官石記」の楷書は宋以後の人々がいうように、欧陽詢にも虞世南にも似ており、形もよく、おとなしい。張旭という書人には、このような正常な、行儀のよい楷書と、奇抜な草書とが共存した。つまり一方では伝統を守り、他方で伝統に反撥して革新の気を含んでいた。
そしてここで気がつくことは、宋以後の人々がこのように重視している「郎官石記」を、唐人がそれほど注意しなかったことである。なぜ、唐人が注意しなかったのかについて、外山は次のように推察している。
「郎官石記」の楷書はあまりに正攻法でいったものであり、このような行儀のよい、伝統的な書風は、張旭の時代の人々や、それ以後の唐人には、それほど魅力がなかったであろうという。ところが宋代になると、張旭といえば奇抜な狂逸な書き方しかしない人のように考え、猖獗の書をみると、これを張旭の書だとするような傾向が一般にあったので、この考えを正すべく、その根底にしっかりした伝統的な書の基礎があるものこそ張旭の草書であるということを強調するようになったものと外山は考えている。
例えば、蘇軾は次のような言葉を記している。
「今の世、草書を善くすと称するもの、あるいは真、行をよくせず。これ大妄なり。真は行を生み、行は草を生む。真は立つ如く、行は行く如く、草は走る如し。未だ、行、立をよくせずして走をよくするものあらざるなり」(「東坡集」巻23)
つまりしっかりした楷書の基礎なくして、奇怪な草書だけを書くものを戒めている。同一人の書にして、唐人はその狂草を重視し、宋人はむしろその基礎となった行儀のよい楷書を賞讃しているが、それはそれぞれその時代の風尚によったことで、いわれのあることである。ただこのことがまた張旭という書人をわからないものにしたともいえる。
「郎官石記」の楷書をみれば、張旭が陸柬之の孫の彦遠から筆法を授けられたといわれることも納得できるし、したがって正統な書法の伝授者として、これを後出の顔真卿に伝えたという説が生まれたことも、決していわれのないことではない。しかし顔真卿が張旭からどのような影響をうけたかということについては、従来いろいろな説があるけれども、十分明らかにされているとはいえないと外山は今後の課題についても記している。
張旭は、王羲之流の書の正統を伝えた楷書の基礎をもって、一流の奇抜な草書を書いた。そしてその草書が伝統的な書風にあきたらなくなっていた当時の人々に歓迎されて草聖の名をかち得た。その基礎となった行儀のよい楷書が、これは素面で書かれたものであることはいうまでもないが、その草書は酒と関係なしに生まれたものではなかった。
書と酒との関係について蘇軾は面白いことを述べている。つまり蘇軾も、張旭の草書が必ず酔いに乗じて書いたものであることを指摘し、張旭には酔醒の弁(区別の意)があって、いまだ妙ではない。逸少のごときは、かつて酒の力をかりたということはないのだといい、しかし実は自分(蘇軾)もこのようなそしりは免れないというのである(「東坡題跋」巻4)。酔えば随分変化に富んだ草書を書くけれども、醒めると行儀のよい楷書しか書けない、という。このそしりは蘇軾自身も免れないのだという。
外山は、こと張旭にあっては、唐代という時代で、根強い伝統の力を打破するのは、正常な精神状態ではなかなかなし遂げることはできないということを示していると考えている(外山、28頁~32頁)。
集王聖教序の碑について 日比野丈夫
「集王聖教序」の碑は唐の太宗の聖教序を、僧懐仁が王羲之の筆蹟から集字したのを刻したもので、咸亨3年(672)の建立である。
げんに西安の碑林(西北歴史博物館)に存し、確かな王羲之の行書が千数百字もみられるという点で、中国書道史上、珍重されている。「聖教序」とは、貞観22年(648)8月、太宗が玄奘の請いに応じ、その新訳経論に対してたまわった序文である。仏教の教理の深遠なことや、それが印度から漢土に伝わった由来をとき、玄奘が非凡の才をいだいて、その奥義をきわめんがために西土を周遊し、巨帙の三蔵をたずさえて帰国したことをのべ、これを訳出して中国に普及することの功徳を称揚したものである。
「大慈恩寺三蔵法師伝」によれば、貞観22年(648)、「聖教序記」が下賜されたとき、弘福寺の寺主円定と京城の僧らが、二序文を金石に刻して寺宇に蔵せんことを願い、帝の許可を得たが、のち寺僧の懐仁らが晋の右軍将軍王羲之の書をあつめて碑に勒したとみえる。「集王聖教序碑」の成立については、これが唯一の信頼するに足る文献であるといわれる。
普通この碑こそ、今日、西安の碑林に現存する、頭部に七仏龕を刻した、いわゆる七仏頭の碑であると信じられている。しかしこの碑には、咸亨3年(672)12月8日、京城法侶建立とあり、貞観22年から数えると、実に25年を経過しているのである。当時は今日に比べると、いかに王羲之の真蹟が多く残っていたとはいえ、懐仁は字形の縮小、拡大、あるいは偏旁の組み合わせなどに苦心をしたので、このような長年月を要したのであろうと考えている中国の学者は多いようだ。
しかしこの点について、日比野は疑問を呈している。まず史料的に検討している。
韋述の「両京新記」をみると、長安の修徳坊、興福寺の条に、寺内に碑があり、面文は賀蘭敏之の写した金剛経、陰文は寺僧懐仁が王羲之の書をあつめて、太宗の聖教序および高宗の述聖記を写したもので、時の重んずるところとなるとある(興福寺はもと弘福寺で、神龍元年[705]に改名)。
韋述は開元、天宝時代の人であるから、これは「集王聖教序碑」そのものに関する最古の記録ということができるとする。これによると、聖教序記は賀蘭敏之の書になる金剛経碑の碑陰に刻されていたのであって、現存の碑と同じものだとは考えられないと日比野はいう。
また張彦遠の『歴代名画記』巻3には、安定坊の千福寺にも、弘福寺の沙門懐仁の「集王聖教序碑」のあることをしるしている。安定坊は修徳坊の西隣の坊だから、会昌の廃仏後、興福寺からここへ移されたと考えられないこともないが、唐代にはこの種の碑が幾つか作られていたものと解した方がよいのではないだろうかと日比野は考えている。つまり現存の碑もその一つであって、他の確証のない限り、これをもって懐仁の原石と断定することは軽率であろうという。そしてこの碑は元の時代から既に今日の場所にあるのであって、それより前はどこにあったかということが全くわからないのである。
ところで、聖教序記の碑としては、懐仁の集王碑のほかにも、重要なものが残っている。
①第一は褚遂良の楷書になる、いわゆる「雁塔聖教序」(図14-21)である。いうまでもなく、雁塔とは、玄奘が印度将来の経像を安置するために、大慈恩寺の境内に建立した大塔であって、今日なお長安の南郊にそびえている。序記おのおの一碑に刻され、序は永徽4年(653)10月、記は同12月の建立で、塔の第一層南壁の左右に嵌入されている。
②第二はやはり褚遂良の楷書、序記あわせて一碑に刻され、龍朔3年(663)の年記があって、前者を摸したものといわれる。陝西大茘県の金塔寺に現存し、ふつう同州聖教序という。
③いま一つは、王行満の楷書碑(図27)がある。序記ともに一碑に刻され、河南偃師県の県学にあって、もともと招提寺のためにつくられたもので、顕慶2年(657)の建立である。日本の最澄の将来した書法目録のうちに、「大唐聖教序大唐石摺」とみえるのは、褚遂良の「雁塔聖教序」か、懐仁の「集王聖教序」か、はたしていずれであろうかと日比野はいう。ともかく、聖教序は当時、仏徒の間では非常に尊重され、その碑もあちこちに立てられたことがわかる。
「集王聖教序碑」がこれらの碑と違っているのは、太宗、高宗の序記のあとに、玄奘の謝書に対する答書がついており、さらに沙門玄奘奉詔訳とある『般若波羅蜜多心経』とともに、于志寧ほか4人の潤色者の名が列記されていることである。潤色者とは訳文の生硬なところを流麗な漢文になおす役目であり、これに心経に付随したものである。心経の本文は、貞観23年5月24日、玄奘が終南山の翠微宮において訳出し、知仁が筆受したものとされる。一方ここに列記された于志寧らが勅をうけて玄奘訳経の潤色者となったのは、大慈恩三蔵法師伝には、顕慶元年(656)のこととしるされている。
したがって、般若心経がこれらの潤色者によって今日の形に定められたのは、少なくともこの年以後のことでなければならず、この碑の集書がそれ以後おこなわれたことを物語るものであると日比野は考えている。
今一つ問題とすべきは、高宗の答書のあとに、貞観22年8月3日内出とある日付である。これは玄奘法師表啓にあるように、8月5日が正しいものと日比野はみなしている。この点について、はじめから何かの事情で誤っていたのか、あるいはこの碑が原石ではなく摸刻であるとすれば、そのとき誤ったのか、いずれにしても、金石文が必ずしも信ずるに足りない一例とすることができると指摘している。
しかしこのような疑問点があるとはいえ、この碑は今日ではもはや王羲之の行書を研究する上において、かけがえのない貴重な資料である。宋代になると、懐仁の「集王聖教序碑」といえば、この碑しかなかったようである。このことは、趙明誠の「金石録」や「宝刻類編」などをみても、このほかに著録がないことが明らかである。
ところで、唐の太宗が王羲之の書を愛好して、鋭意その遺墨の蒐集につとめ、死にのぞむや遺言して最愛の「蘭亭序」を墓中に殉葬させたのは前述したように有名な話である。
太宗自身も、王羲之風の行書をかき、それが得意であったことは貞観20年正月、行書で「晋祠銘」の碑(7巻図86-89)をかいているのによってわかる。この王羲之の書が一世を風靡したときにおいて、太宗のつくった聖教序を、王羲之の書から集めようというのは、時流に投じた企てであったといえる。
懐仁という人についていえば、その書と伝えられるものが2点、「戯鴻堂帖」に収められているのみで、伝記は明らかでない。
王羲之の書も、今日に比べると、唐の帝室の蒐集をはじめ、摸本なども立派なものが少なからずあったはずであるが、懐仁の苦労も並大抵のものではなかったと想像される。ともかく、王羲之の書がこれほど豊富にみられるのは、この碑においてほかにないのだから、懐仁の功績はやはり中国書道史上、不朽であるといえる。
また集書ということも、これが最初の例であろうといわれ、その後王羲之の書を集めて碑を作ることが盛んに行われた。唐代のものでは、開元9年(721)の「興福寺半截碑」(陝西省西安)(図88, 89)、大暦6年(771)の「観身経」および「永仙観碑」(陝西富平)、宋代では、天聖10年(1032)の「絳州重修夫子廟記」(山西省新絳)、同年の「解州解池新堰 箴」(山西省安邑)などが現存して有名である。
さて王羲之書が上下に普及した結果、唐の中頃からは返ってこれが俗書とみなされるほどになった。とくに徳宗に仕えて翰林学士となった呉通微(10巻図96, 97)・通玄の兄弟がこうした書風を好み、それをまた翰林院の胥吏がまねたので、院体という名が生まれ、役所の間に広く流行した。細くてきれいではあるが、どことなく力のぬけた書体であったようだ。
唐末、五代の中国北部にはおこなわれていたが、やがて宋代になって、江南や蜀に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまった。しかしもちろんこれを弁護するものもあった。例えば、黄伯思の『東観余論』には、当時の士大夫はこれを俗書としてけなしているが、それはこれを習う彼らの技倆が未熟なのであって、聖教序のせいではないという。
そして『宣和書譜』にも、王羲之の書を学ばんとすれば、必ず懐仁の聖教序より始めなければならないといって、これを賞讃している。
また元代にいたり趙孟頫が出て、王羲之の書の復興を唱えるに及んで、再びこの碑が光彩を発揮することとなった。あるいはこれをもって王羲之の筆法を伝えること、「定武本蘭亭序」の上にあるとなした。明代以後になると、古拓を求めんとする風は益々著しきを加えた。というのは、今日この碑は中央やや上において右上より左下ななめに断裂があり、その断裂の年代については数説がおこなわれている。明の天順年間(1457-1464)あるいは嘉靖34年(1555)、万暦43年(1615)など一定しないが、古きは南宋初にまで遡る説もあって、一応未断本は宋拓といわれる。しかし今日いわゆる宋拓と称するものが百種以上もあるといわれることは、単に断と未断とをもって宋以前と以後とを分けようとする標準に疑問を抱かせるものであると付言している(日比野、33頁~40頁)。
別刷附録 集王聖教序
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その7中国7、8-a》
7中国7 隋・唐Ⅰ
この篇には、隋初より唐太宗の末年に至るまで69年間(581-649)の書蹟を収めている。
中国書道史7 神田喜一郎
隋・唐の二代、ことに隋から唐初にかけての時代は、書道の名人大家といわれる多くのすぐれた人物が輩出していて、中国書道史上の黄金時代といってさしつかえない。
隋王朝が南北両王朝を政治的に統一したが、文化の統一が完成されたのは唐の太宗の時代(626-649)と見られる。隋から唐初にかけての書道も、そうした歴史の大勢から逸脱するものではなかった。そこに一貫しているのは著しい貴族性であって、これも当時もっとも栄えた貴族政治制を反映していたものと神田は理解している。
隋代の書法を伝える遺品には、石碑、墓誌、造像造塔記のような石刻文と、写経がある。隋の書法についていうと、例えば北朝の周に仕えて書学博士となった趙文深や、隋に仕えて四門助教となった趙孝逸はいずれも王羲之、王献之父子の書法を慕い、これを善くしたと伝えられている。つまり書法においては、全く王羲之に傾倒しているし、北朝の書蹟を
鄙陋であるとも自嘲している。そういう風であったから、北朝で行われてきた渾樸な書風は、次第に洗練されて遒麗におもむき、勁悍な筆法は、雕琢されて秀潤を加え、新しい様式を生むにいたった。「龍蔵寺碑」(図1-5)、「美人董氏墓誌」(図10, 11)などは、こうした新しい様式を代表する名品である。ただ、隋代はまだ一つの過渡期にあったので、そうした新しい新様式の書風のものの生れ出ている一方において、旧来の風習を脱しきれない書風のものも存在していた。例えば、「曹植廟碑」(図8)などがそれで、それらは山東、広東、四川といった、中原から離れた土地のものであった点に注意すべきであるという。中原の書法は新しく発達したもので、僻遠の地の書法は旧習を伝えているものであるとみられる。
そしてこの中原の書法が唐に入って、更に発展を遂げ、一応完成の域に達したのが、すなわち初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の三大家の書であると神田は捉えている。
初唐の三大家は年代的にみると、欧陽詢と虞世南とがあい伯仲し、褚遂良がもっとも後輩になる。欧陽詢と虞世南とは、いずれも六朝の陳代に生れ、隋に仕え、それから唐に帰した人物である。その唐に帰した時には、すでに60歳に達していた。普通に初唐の三大家と呼んではいるが、むしろ隋から初唐にかけて一つの時代を画した書法の大家といってよい。
欧陽詢の書としては、
1.「皇甫誕碑」(図38-41) 貞観年間(627-649) 陝西西安
2.「房彦謙碑」(図42, 43) 貞観5年(631) 山東章邱
3.「化度寺邕禅師碑」(図44-53) 貞観5年(631) (原石佚亡)
4.「九成宮醴泉銘」(図54-61) 貞観6年(632) 陝西霊遊
5.「温彦博碑」(図62-65) 貞観11年(637) 陝西醴泉
上記の5碑が特に有名である。そのうち「房彦謙碑」が隷書でかかれているのを除くと、ほかはすべて正楷である。わけても、「化度寺邕禅師碑」と「九成宮醴泉銘」とは、その優劣について古来専門家の間に議論があるが、ともかく楷書を学ぶ最高の模範とされているもので、中国書道史上の名品である。
そのほか欧陽詢の書蹟と伝えられる石刻は相当に多く、また各種の集帖の中には「卜商帖」(図66)など、行草書のものも見えている。しかし欧陽詢の特技はやはり楷書にあったので、行草書や隷書はそれに劣るものとみなされている。
次に虞世南の書としては
「孔子廟堂碑」(図69-76) 貞観初(627)頃 (原石佚亡)
これがもっとも有名である。しかし原石が亡佚して、今は三井氏聴氷閣に秘蔵する唯一の唐拓本によるほか、その真面目を窺うことはできないが、重刻本によっても欧陽詢の「化度寺邕禅師塔銘」、「九成宮醴泉銘」と鼎立する正楷の名品であることは、古今定論のあるところである。
以上、欧陽詢、虞世南の書を見ると、それぞれ個性を発揮していて、決して一様ではない。欧陽詢はもっとも峻抜をもってまさり、虞世南は遒媚なる点に特色を有している。そこで欧陽詢を北派、虞世南を南派とする説があるが、神田はこの説はおかしいとして検討している。
欧陽詢は今の湖南長沙の人で、もともと南朝人である。この時代の南朝人がわざわざ北朝人の書を学ぶということは、南朝人の自己の文化に対する自尊心からいって、考えられないという。欧陽詢の本伝には明らかに王羲之の法を学んだとある。ただ、欧陽詢の峻抜なところは、いかにも北魏の碑版文字に一脈あい通じた点がないとはいえないが、その峻抜なところは南朝の書法にも見出されないのではないと神田はみている。
例えば、梁王朝の蕭景の墓道に建てられた石柱の題額の書(挿17)のごとき、欧陽詢の書法の源流を探られないこともないという。いずれにしても、欧陽詢が北朝の書を学んだというのは、全く想像説にすぎないとして否定し、その虞世南と相違するのは、両者の個性によるものと考えている。
さて、虞世南は今の浙江餘姚の人で、書法を智永について学んだという。智永は、王羲之の7世の孫にあたり、天性書を善くし、特に草書に秀で、当時から名声の高かった人物である。虞世南の書に、特に王羲之の書法の著しい影響の認められるのは当然である。欧陽詢も虞世南も、それぞれ独自の個性はあるにしても、その根底をなしているのは、いずれも王羲之であって、上品というか典雅というか、よく均斉美を保った、極めて貴族的な匂いの感じられる書である。そしてそれが当時の上層階級の趣味に適合したものであった。
唐の太宗李世民は、天性書を好み、またその達人でもあった。そして徹頭徹尾、崇拝していたのは王羲之の書にほかならなかった。そのことは多くの事実が証明している。中でも、太宗が崩ずるに際して、遺命して、極愛している王羲之の「蘭亭序」の巻物を、その陵内に殉葬させたことは名高い話である。
またかつて史臣に命じて、『晋書』を撰せしめた際、文豪陸機(りくき)と書聖王羲之との2人の伝には、太宗みずから筆をとって、その論賛の文を草した。そして王羲之に対しては、「古今ただひとり篆隷を研精し、善をつくし美をつくしたもの」といって、最大級の讃辞を惜しまなかった。
こうした太宗の王羲之に対する崇拝は、太宗の文化政策とあい関連させて考える必要があると神田は考えている。太宗が唐王朝の基礎をかためると、その文化政策として取り上げたのは、南北文化の統一という大きな問題であった。この問題について、太宗はもともと北朝の出身であったが、特に学問や芸術の分野では、南朝のそれを採用して、それによって統一をはかる方針を立てた。太宗が王羲之を崇拝したことは、もちろん太宗の個人的な趣味から発しているにしても、やはり南朝の文化を尚び、これによって南北の文化を統一しようと企てた政策の一環として考えられないことはないという。
太宗は、その手許に王羲之の真蹟を多く蒐集した。その数は数百巻の多きに上ったという。それらの真偽の鑑定には、魏徴、虞世南、褚遂良があたったが、わけても褚遂良の功が多かった。真蹟と決まったものには、毎巻貞観の印を押したとある。太宗の蒐集意欲は強く、かの王羲之の傑作といわれる「蘭亭序」の1巻を、監察御史の蕭翼に命じて、僧弁才の手から強奪させた話はよく知られている。
蒐集した王羲之の真蹟は、太宗は馮承素などという搨書人(とうしょじん)に命じて、副本を製作させ、これを皇太子・諸王・功名などに賜うた。
搨書というのは、いわゆる雙鉤塡墨(そうこうてんぼく)の技術である。当時の搨書は精巧を極めたもので、原本と少しも違わないものができたらしく、現に日本の帝室に伝わる名高い王羲之の「喪乱帖」のごとき、そうした搨書のわずかに今日に残存する遺品である。ともかく太宗は、王羲之の書蹟を蒐集するとともに、その流通をもはかったのであって、これは中国書道史上、太宗ののこした大きな功績である。
さて、以上の事実から推測できることであるが、太宗の書は、全く王羲之の風である。その書としては、
・「晋祠銘」(図86-89)
・「温泉銘」(図90-95)との2つの石刻がある。
特に「温泉銘」は、現在その原碑は失われているけれども、敦煌石室から発見された唐拓本があって、ほとんど磨滅のない拓本によって委しく書法を窺うことができる。一方、「晋祠銘」は原碑が山西太原に現存しているが、石質が悪劣なために、文字の鋒芒が失われて、物足りない。この「温泉銘」も「晋祠銘」も、ともに行書であるが、流麗の中に遒勁の気のそなわっていることは、欧陽詢、虞世南と風格を同じくしている。その他、集帖の中には、いろいろな行草書のものがあるが、別に「屏風帖」(図96, 97)という美しい草書もある。
伝えられるところによると、太宗は虞世南を師としたという。その戈法が巧くできないところから、「戩」の字を書くに際し、わざわざ虞世南に代筆させたという名高い逸話があるが、太宗の書法に極めて熱心であったことが窺われる。
以上、要するに、隋から唐初にかけての時代は、欧陽詢と虞世南とによって代表される。隋はその先駆をなした時期であり、貞観はその完成に達した時期である。したがって当時の書法には、いずれも欧・虞の風がある。隋の「龍蔵寺碑」、「美人董氏墓誌」など、皆そうである。欧・虞のような書風がすでに隋代から新様式として生れ出ていたので、必ずしも欧陽詢その人の手に出たものでなくとも、一般にそうした書風が行われたのである。その風に見えないのは、辺陲の地に行われた書だけである。
『唐六典』巻8、弘文館学士の条に、「貞観元年(627)、現任の京官のうち文武職事五品以上の者で、書法を学ぶことを好み、また手筋のすぐれたものには、弘文館内で書法の稽古をすることを聴(ゆる)した」とある。その文のすぐ後に、欧陽詢、虞世南に勅して楷法を教示せしめたとある。それが当時の風潮を一層昻めたであろうと神田は想像している(神田、1頁~8頁)。
欧陽詢化度寺邕禅師塔銘について 中田勇次郎
前述したように、欧陽詢の楷書としては、
1.「化度寺邕禅師塔銘」(図44-53)
2.「九成宮醴泉銘」(図54-61)
3.「温彦博碑」(図62-65)
4.「皇甫誕碑」(図38-41)
の4碑が伝えられている。この中でも、「化度寺邕禅師塔銘」と「九成宮醴泉銘」の2碑が、古来もっともすぐれたものであるといわれ、唐楷はいうまでもなく、古今の楷法の典型とされている。さらに、この2碑においては、その書品の優劣について、南宋において書の鑑識に秀でた姜夔が、「化度寺邕禅師塔銘」は「九成宮醴泉銘」よりすぐれており、いずれにもまして神品に入るべきものであると品第してからのち、「化度寺邕禅師塔銘」を「九成宮醴泉銘」の上において論ずる人も少なくない。これから考えても、「化度寺邕禅師塔銘
」は欧陽詢の楷書の中では、もっとも大切なものということができるとされる。
ところが、この碑は原石が早くに亡び、伝世の拓本もその種類がいろいろに分かれている。そのために、次のような問題が提起できるという。
・実際においてはどの拓本を規準にしてこういう説が立てられているか、よく見分ける必要がある。
・この碑の原石はいずれの拓本であるかということについても、今日なお異説を立てる人があるので、この点についても明らかにしておく必要がある。
この碑についてもっとも広く拓本を探索し、またもっとも深くこれを研究した人は、清代の乾隆嘉慶年間の金石学者の翁方綱(1733-1818)である。
ここではこの翁方綱の研究を基礎とし、その上に、その後に発見された資料、例えば敦煌出土の拓本(図44, 45)などをも加えて、まずこの碑の種類と系統を調べた上、その書の品第がいかに行われたかについて、その碑帖の学問の理論のあるところを、中田は論じている。
翁方綱は、乾隆45年(1780)、蒋宗元の旧蔵した1本、すなわち「翁氏蘇斎本(図48-51)」を手に入れた頃から、たえず諸本を探訪し、佳拓に逢うごとに、臨摹して、対校し、嘉慶23年、86歳で没するまでの半生をこれに傾倒し、精密な研究をした。
翁方綱によると、この碑は3つの種類に分けられるという。
・第1は王孟揚本、陳彦廉本、呉門繆氏本の3本
・第2は、顧氏玉泓館本、翁氏蘇斎本、蒋春皋本、陸謹庭本、鮑氏本の5本
・第3は後世の摹刻本で、墨池堂帖本、横石本、直石本、薛銜本である。
第1の王孟揚本は、元末明初の人、王偁(あざなは孟揚)の所蔵していたもので、清の陳崇本に帰していたのを、乾隆54年(1789)、翁方綱が借りて、響搨本「翁覃渓手摸化度寺碑底本」を作っている。
陳彦廉本は、元末明初の人、陳宝生(あざなは彦廉)の所蔵していたもので、古くから唐搨の名品として珍玩されているものである。翁方綱はこれを王孟揚本と同石とし、王本の響搨本に朱字でこの本との異同を校合している。
呉門繆氏本は元の朱益之の所蔵していたものである。翁方綱は嘉慶4年(1799)、この本を知り、王本、陳本と同石とした。
以上の3本は翁方綱が鑑定して同石としたもので、これを宋初翻本と称し、「化度寺邕禅師碑」のもっとも早い拓本で、次の玉泓館本およびその系統のものよりは古いが、翻刻本であるとした。
ところで、この3本と、翁方綱が見ることのできなかった敦煌出土本(図44, 45)との関係について、中田は次のように補足している。翁方綱はかねて「化度寺邕禅師碑」の覆元図を作ることをこころざし、嘉慶5年(1800)、「范氏書楼三段残石之図」を完成したが、この図は今見ることはできない。中田もかつて王本の響搨本すなわち「翁覃渓手摸化度寺碑底本」にもとづいて、この碑の覆元図を作製したところ、碑石が上中下三段に断裂した痕跡がありありとあらわれたという。
宋の慶暦(1041-1048)の初年、范雍が南山の仏寺で化度寺碑を発見した時に、僧侶が誤って三断したという伝説が必ずしも虚構でないことが、これによって実証されたとみる。さらに不思議なことは、この覆元図に敦煌本をあてはめて見ると、その字の配置が一致し、敦煌本はこの3本と同石であることが確かめられたという。
ところで、翁方綱が何故にこの3本を宋初翻本と鑑定したかについては、この碑について数十年の研鑽を積んでいるだけあって、そこには然るべき理由があるが、その理由を考えるにあたって、翁方綱の碑帖の学問の本質的なものに言及する必要があると中田はいう。
とにかくこの3本が敦煌本と同石であるとすれば、敦煌本を唐原石拓本とする限りにおいては、この3本もやはり翁方綱の宋初翻本の説を改めて、唐原石拓本であるということを認めざるをえなくなるであろうと中田はみている。また羅振玉が潘祖陰旧蔵の1本を紹介し、その碑文を全唐文および敦煌本と校勘した校字記を付け加えているが、それによって見ると、これもこの3本と同石の拓本と認められている。羅振玉は、「必ずしも一々敦煌本と校量せずとも、すでに確定して唐石宋拓となすべし」といっており、この系統のものに敦煌本よりすぐれた精拓本があることが知られる。
これらの点から考えると、この3本およびその系統のものを唐原石拓本とするに大誤はないと中田は推定している。
第2の顧氏玉泓館本およびその系統のものは、前の3本とは別石であり、概して文字の磨滅がはなはだしく、その残存状況も異なる。第1の3本がいずれも字数が1000字近いのに比べて、これは字数が一定せず、2~300字ほどのものもある。またその拓本にも新旧の別があり、もっとも古いものは顧氏玉泓館本(図46, 47)で、翁氏蘇斎本(図48-51)は古い点では玉泓館本に劣らぬが、やや入墨の痕跡がある。
蒋春皋本は明の王世貞が所蔵していた3本のうちの第1本である。陸謹庭本は王世貞の所蔵の第2本で、鮑氏本は清の鮑東方が所蔵していたものである。
以上の5本を翁方綱は唐原石拓本とし、北宋の慶暦初年、范雍が南山の仏寺で発見して西京の里第の賜書閣の楼壁においた唐の原石とされているものに因んで范氏書楼本と称した。
この系統の本は、北宋における范氏書楼の摹刻本で、南渡の際、その断裂欠壊した残石から取られた多くの拓本が流散したのではなかろうかと中田は推測している。この間の事情については、今後の研究に俟つものとする。
宋代の翻刻本は、この他にもあったらしく、現存するものでは清内府本(図52, 53)もその一つである。またこれと別石で、古く日本に舶載され、建仁寺の「清住禅院文庫」、嵯峨の「二尊院」および「岸本家蔵」の印記のある一本がある。字数は1055字、諸本の中でもっとも多く、文字はすべて完好な初拓本であることから見て、宋翻本としては佳拓とされる。
第3の摹刻本は翁方綱が比較的年代の新しいものを一括して考えたもので、同石ではないが、多少の関連性をもって摹刻されていった一類のものである。この中で、墨池堂帖本は後に翁方綱の所有に帰した翁氏蘇斎本によって摹刻したものであるから、第2の玉泓館本の系統に所属させてもよいとする。横石本以下は、文字を改めたり、書体も崩れたりしているので、とりあげる価値はないと中田はみなしている。
化度寺塔銘の書を理解するためには、上述した拓本の種類と系統を明らかにするとともに、この場合も翁方綱がこの書をどのように見たかという書論の本質を把握しておく必要がある。
そこで翁方綱の所説について中田はまとめている。本来、書法は篆法が正統である。篆書が変じて隷書となり、隷書が変じて楷書となった。楷書が晋に始まり、南北朝のときには楷書の見るべきものは一つもないが、唐になって形質ともに整ってきた。その源流は晋から出ている。
ところが、晋の楷書の真本の伝わるものは一つもない。「楽毅論」にしても、「黄庭経」にしても、みな後世の摹刻を経ている。時には神理のあるものもあるが、唐の真石の伝わるには及ばない。したがって晋の書法の神髄はむしろ唐の楷書の真石の碑に求めるべきである。
唐楷においてもっともすぐれたものは、
第一に、「化度寺塔銘」
第二に、「孔子廟堂碑」
第三に、「九成宮醴泉銘」である。
この三碑はいずれも王羲之の血脈を受けついでいるもので、晋の書法をよく伝えている点において唐の諸碑に傑出している。
ただ、この三碑をその書者からいえば、また虞世南と欧陽詢とでは、おのずと相異がある。虞世南は王羲之の正統の血脈を受けついだもので、いわば唐の王羲之とでも称すべき人物であり、王の古逸淡泊の風神をえている点では誰も及ぶものはないが、彼はただ晋の書法を守るだけで、これをよく変化しなかった。
ところで、欧陽詢は晋の書法を守るとともに、よくこれを変化し、独創的な唐の時代精神を発揮した。欧陽詢は必ずしも虞世南より勝るとは限らないが、この意味からいえば、欧陽詢は唐楷第一と推称すべきである。
そこで、欧書では「化度寺塔銘」と「九成宮醴泉銘」とがもっともすぐれているとすれば、今度はこの2碑のうち、どちらがすぐれているのか。これについては、既に宋の姜夔をはじめとして、「化度寺塔銘」を「九成宮醴泉銘」の上に置く人は少なくない。清の王澍が出でて、姜夔の説を篤論ではないといったのに対し、翁方綱は「化度勝醴泉論」二篇をしたためて、これに反駁した。翁の説は、化度は遒逸で、醴泉は朗暢であるという。遒逸は本来朗暢に勝るものであるから、化度は醴泉よりすぐれているというのである。翁方綱が蒋宗元旧蔵の本を手に入れた夏、その帖内に書き入れた一跋に次のようにいっている。
「予は今年春、率更化度寺碑原石残本を得、始めて化度は筆々蘭亭から出で、醴泉銘もそうであることを悟った。化度は蘭亭の神髄を得、醴泉はその気韻を得ている。これは率更が蘭亭を臨してからのち、精思してこれを書いたからこそ、はるかに欧書の他碑の上に出ているのに相違ない」と。
化度は晋法の神髄をえてよく遒逸となり、醴泉は晋法の気韻をえてよく朗暢となったと見たのであろうという。
同じく蘇斎本のもっとも晩年の一跋に次のようにいう。
「風神はすなはち深厚においてこれを得、未だ山陰棐几の正書は更に当にいかなるべきかを知らず。ここにおいて精思し、千古に直徹す」と。
王羲之の棐几に書いたという正書は今は見ることはできず、千古の秘密であるけれども、研鑽精思、ついにその天然の風神を悟得したことを述べている。このようにして化度は欧書第一であるばかりでなく、唐楷第一として推称され、またさらに唐楷第一であるばかりではなく、古今楷法第一神品とされ、ついに淳古無上の楷法の権化として、一種の神格化された最高無上の絶対的なものとして崇尚されるに至っている。
上述したように、翁方綱は拓本の鑑定においては、第一類を宋翻本とし、第二類を唐原石拓本としたのも、全くこのような書学の理論にもとづくものであって、この理論の動かない限りは、万一彼の時代に敦煌本が出土したとしてもその所説をどこまで変更したかは疑わしいであろうと中田はみている。つまり、翁方綱の信ずるところの書の根本精神は晋法にあり、晋法とは自然の原理の上に立った中和の美しさを根底とする儒教的な理念にもとづくものと見てよいとする。そして翁方綱が晋法を崇尚する精神は、彼の他の法帖、「蘭亭序」や、「楽毅論」の研究によくあらわれているが、それがもっとも強く主張されたのは化度寺碑においてであったと中田は解説している。その意味において化度寺碑によって翁方綱の書学の一端をうかがうのも無意義ではないという(中田、9頁~15頁)。
虞世南について 内藤乾吉
虞世南の書の解説をかき、小伝を作るために、史料を読み進めるうちに、気づいたことを書きとどめて、将来の研究のためにメモしたものが、本稿のもとになっていると内藤乾吉は最初に断っている。
まず、『唐会要』巻64弘文館の条、および『唐六典』巻7の弘文館の学生の条により、唐の太宗期に、虞世南と欧陽詢が弘文館の学生に楷法を教示したことを確認している。当時この二人が朝廷の書道の師範となった事実はこの二人の書が当時の書法を左右するのみならず、後世の書道にまでも絶大の影響を与えるに至った一つのポイントとして重要な意味があると内藤はみている。
さて、その虞世南の書として「孔子廟堂碑」が有名である。これは太宗が即位の初めにあたって、文教興隆、学校復興の第一歩として国子監の孔子廟を重修した趣旨を記したものである。これを中央の最高学府である国子監に立て、その撰文と書丹を、当時太宗が人格、学芸、書法の上で最も信頼した虞世南に命じた。今日、虞世南の楷書として信ずべきものはこれ一つしか残っていないけれども、その出来ばえはこの一碑でもって古今の万碑に当るに足るものといっても過言ではないと内藤は評している。
ところで、虞世南がこの碑の拓本を進呈して、太宗から王羲之の印を賜わったのに対する謝表というもののことが諸史料に見えている。例えば、明の都穆や清の王澍は謝表の年を貞観7年(633)10月で、虞世南の官が太子中舎人著作郎であるかのように記すが、『新旧両唐書』虞世南伝および『唐会要』巻65秘書省の条を参照すると、虞世南が著作郎から秘書少監に遷ったのは、貞観4年(630)であり、貞観7年に著作郎であるということはありえないという。
ところが、清の孫承沢の「庚子銷夏記」巻6の唐刻虞世南孔子廟堂碑の条には、「貞観四年碑成り」とあり、この年代なら、「孔子廟堂碑」に記されている虞世南の官が太子中舎人行著作郎であることとも矛盾しないという。
内藤は「孔子廟堂碑」の建立年月を考えようとした際に、この謝表に関する諸家の記述の矛盾が混乱を生じさせるおそれがあると知り、諸史料を検討してみたという。
ところで虞世南の書は唐代から今日に至るまで、欧陽詢と対比して批評されている場合が多い。唐の張懐瓘の『書断』に、
「虞は内に剛柔を含み、欧は外に筋骨を露はす。君子は器を蔵す。虞をもって優れりと為す」といったのは、一言で両者の特徴を表わし優劣を定めた千古の名言であると内藤はみている。
また張懐瓘は次のような巧みな比喩を述べている。
「欧の虞と智均しく力敵すといふべし。またなお韓盧(よく走る黒犬)の東郭夋兎(はしこい兎の名)を追うが如し。その衆体を論ずれば、虞は逮(およ)ばざるところ。欧は猛将の深入してあるひは利あらざるがごとし、虞は行人の妙選されて、罕(まれ)に失辞あるがごとし(虞は外交官に適任者を得て、めったに失言がないようなものだ)」と。
衆体を論ずれば、虞は及ばざるところというのは、虞世南の得意は大体、楷、行、草であったので、欧陽詢のあらゆる書体を書いたのには及ばないというのである。
張懐瓘は古今の書家の各体の書を、神品、妙品、能品に分けて等級をつけているのであるが、虞世南は隷(楷書)、行、草の三体が妙品に入っているだけであるのに対し、欧陽詢は飛白、隷、行、草の四体が妙品に、大篆、小篆、章草の三体が能品に入っている。これで見ると、欧陽詢の方が虞世南より専門書家的であったことがわかるが、それだけにかえって書の品格は虞世南に及ばなかったのであろうと内藤はみる。
同時に虞世南の書は含蓄が深くて容易に学びがたいのに反し、欧陽詢の書は技巧によってもある程度に学ぶことができるので、虞世南よりは習い易く、昔から今日まで初学の学習に用いられるという。
さて、今日虞世南の楷書として信ずべきものは「孔子廟堂碑」があるだけであることは既述した。「孔子廟堂碑」には貞観の原石の拓本と、原石の拓本から覆刻した陝西本と城武本とが今日見られる。原石本は、翁方綱のいうところでは、北宋の時からすでに稀で、黄庭堅が3本を見たことを記しているだけである。その外では、臨川の李氏の本(図69-76、今日、三井家に蔵す)があるだけであるという。翁方綱は75歳の時にはじめてこの李氏の本を見て、大いに感激し、精細な研究をした上で、跋を作って、この本が原石本であることを立証し、またこの本と陝西本と城武本とを比較研究して、「廟堂碑唐本存字」および「孔子廟堂碑考」を著わした。「孔子廟堂碑」について、これほど精しい研究をした人はあとにもさきにもなく、翁方綱はまさに虞世南の忠臣と称してよいと内藤はいう。
しかし今日、この碑を鑑賞、研究する上において翁方綱以上の便宜を我々はもっていると内藤はいう。というのは、翁方綱の時代には見ることのできなかった種々の資料、例えば、日本に伝存している写経や敦煌出土の写経、智永の真草千字文の真蹟本を見ることができるからである。
これらの資料によって、虞世南の時代の書風や筆法に対する概念を翁方綱以上に正確につかむことができ、「孔子廟堂碑」をその中に置いて比較研究することができる。
虞世南は智永から書法を習ったと伝えられているので、日本に伝わった智永の真草千字文の真蹟本を見ることができるのは、虞世南の研究者には最も幸である。
ところが、翁方綱はこの比較研究を断念しなければならなかった。彼の啓法寺碑の跋の中に次のようにいっている。
「唐人の正書は虞、欧、褚三家が第一である。虞の発原は智永にあり、欧の発原は劉珉にあり、褚の発原は史陵にある。劉と史の書は世間に伝わって居らぬ。智永の千字文はいま伝わる石刻は宋人の偽作である。とすると三家の発原はみな渺として見ることができぬ」と。
翁方綱のいう智永の千字文の石刻とは、北宋末の大観3年(1109)に薛嗣昌の刻した、いわゆる関中本のことである。翁方綱は玄(宋の始祖の諱は玄朗)、匡(宋の太祖の諱は匡胤)、敬(太祖の祖父の諱)の末筆を欠いているので、この関中本は宋初の人の書いたものと断じ、また恒(真宗の諱)は欠筆していないから、前記の欠筆は、刻石の時に欠いたものでないことがわかるとした。
しかし内藤はこの翁方綱の説に疑問をはさみ、再考を促している。つまり翁方綱の欠筆の調査はなお疎漏があって、その他に貞(仁宗の諱は禎)、譲(英宗の父濮王の諱は允讓)にも欠筆があり、一方、殷(太祖の父の諱は弘殷)は欠筆していない。
したがって内藤は欠筆だけでは宋初人の書と定めることができず、刻石の時の欠筆ということについても再考してみる必要があると主張している。
また偽作というのは翁方綱の武断にすぎ、この関中本と真蹟本とを比べてみると、行数は全く同じであり、字形なども大体似ているから、全く偽作ということはできないとする。ただし、この関中本には真蹟本に見られるような、六朝末の書の特徴と思われる鋒鋩、筆意はほとんど失われているという。それのみならず、結体においても、真蹟本には全く見られぬ破綻を生じて拙劣なものが少なくなく、全体がなんとなくいじけていると評している。
そこでこの関中本は真蹟を宋人あたりの臨摹したものを刻したか、あるいは上石の時の鉤勒が非常に拙劣であったものとしか考えられないものであると内藤はみている。
そして次のことを付言している。この関中本の、原本からゆがめられた一種拙なる点を古雅と錯覚して、これを智永の真を得たものと考え、真蹟本の真価を知らぬ人が、今日でもなかなか多いが、それは正に本来を顚倒した謬見であって、ともに書を語るに足らないという。
最後に、内藤は虞世南の発原といわれる智永の書と、虞世南の書とを比較する際の留意点を指摘している。すなわち智永の千字文は、紙に書いたものであり、手本を後世に残すつもりで書いたものと思われるから、用筆の能事を尽したものであるに反し、廟堂碑は刻石に適する用意のもとに、また碑の内容に相応するように厳粛な心持をもって書いたと思われるから、両者は最初から用意の異なることを考えながら比較することを要するという(内藤、16頁~20頁)。
唐太宗と昭陵の碑 外山軍治
唐太宗は中国歴代帝王中第一の名天子とされている。太宗が名天子たるゆえんは、中国において名天子たるに絶対不可欠の条件である文化の擁護者としてすぐれた事業をなしとげたことである。
文化の擁護者としての太宗の功績は一言にしていえば、統一王朝である隋の後継者として南北朝文化を集大成したことになる。そのねらいは北朝系のすぐれた政治的文化と、南朝系のかがやいた芸術的文化とを結合することにあった。太宗は王羲之の書を酷愛したが、これも南朝文化に対する心酔のほどを示す例であろう。
太宗は貞観年間(627-649)を通じて王羲之の書を蒐集する努力を怠らず、二王をはじめ張芝、鐘繇、張昶(ちょうちょう)ら漢魏以来の名家の作品をあつめることができた。王羲之の真蹟だけでも、大よそ2290紙に及び、これを13帙128巻にしたてたという。
王羲之の真蹟のうち太宗がもっとも愛したのは「蘭亭序」で、貞観23年(649)崩御に際し、その執着をたちきることができず、皇太子に遺言してその陵内に殉葬させた。これは太宗が王羲之を酷愛した事実を物語るものとして有名であり、この話は太宗がこの「蘭亭序」を手に入れた苦心談とくらべあわせると一段といきてくる。
その苦心談を略述しておく。
太宗は王羲之の作品を蒐集中、「蘭亭序」だけはなかなか手に入れることができなかった。その「蘭亭序」は王羲之7代の孫で陳より隋にかけて書名の高かった智永禅師が会稽(浙江)の永欣寺に所蔵していた。
智永の没後はその弟子弁才禅師がこれを大切に守っているらしいと察した太宗は、3度にわたって弁才を召し出して所望したが、その所在はわからなくなったと答えるばかりであった。そこで尚書右僕射房玄齢の進言によって、監察御史の蕭翼という機略縦横の人物を会稽に遣わし、策略をもって奪い取ることを企てた。蕭翼は身分を隠して永欣寺に至り、弁才禅師に会って、次第に親しくなり、ともに詩をつくり、碁を囲み琴を撫し、無二の遊び友達となった。若い心友をえて喜んだ弁才禅師は、ある日樑檻の上に隠してあった「蘭亭序」をおろして蕭翼に見せた。蕭翼はわざとそれは響搨(きょうとう)の書であり蘭亭の真蹟がこの世に現存するはずはないとばかにしたふりをした。がっかりした弁才はすっかり警戒心をなくして、それを机の上に置いたまま、檀家からの迎えに寺から出ていった。蕭翼は弁才の不在に乗じて、これを盗み取り、長安にもって帰って太宗に献上したという。
(外山は事実かどうわからないが、話としてはなかなか面白いという。)
そして貞観13年(639)、太宗が「蘭亭序」を供奉搨書人趙模、馮承素らに命じて、数本を搨(うつ)させて皇太子や諸王近臣に賜った。
さて太宗がこの「蘭亭序」を殉葬させたことは、一般には唯一無二の貴重な文化財を自己の所有欲の犠牲にしたことは非難をうけても仕方のない行為である。ただ外山はこの話から、中国歴代帝王中第一の名天子といわれた大人物が人生行路の最後に見せた人間らしいわがまま、あくの強さを身近かに感じると述べている。
名君といわれる太宗が歴史家から非難されていることがある。それは兄の皇太子建成と弟の斉王元吉とを手を下して殺したことによって、皇太子の位をかちえ、さらに帝位についたということと、また自分が殺した弟斉王元吉の夫人を妃として、宮中に迎え、文徳皇后の崩後にはこれを皇后に立てようとさえしたことである。しかしこれもまた大英雄にして、何ともできない人間としての欲望の所為だと外山はみている。
さて太宗自身、王羲之の書に心からほれこみ、その書をよく学んで、兵馬倥傯の間を馳駆して大唐帝国の基礎を築いた英雄としてのきびきびした性格の上に、大皇帝らしい気宇の大きさをその書の上にあらわした。このような天子を上にいただいたことが貞観年間の書風に大きな影響を与えた。貞観時代の書家として欧陽詢、虞世南、それに後出の褚遂良をかぞえるが、太宗は智永禅師にならって王羲之の書法をよく伝え、遒媚だと評せられた虞世南の書や、王羲之をよく学んで険勁これに過ぐといわれた欧陽詢の書を高く評価した。
即位の頃にこの二人は既に70歳に近かったが、この二人の老大家に弘文館学士を兼ねさせて、これを優遇した。楷法の指導者として欧・虞二人を挙用したことによって、この両大家の書風が一世を風靡するに至ったこともまた自然の勢いであった。この両大家よりは、後輩の褚遂良は、虞世南の没後、宮中に集められた王羲之その他の真蹟の鑑別にあたる実力をもった人として、また王羲之の書法をよくならった書家として推挙され、この両大家なきあとの書壇を指導する地位に立った。
昭陵は唐の都長安城の西北方、醴泉県の東北50キロの九嵕山(きゅうそうざん)にある。
太宗が「蘭亭序」とともに葬られた昭陵の陪冢(ばいちょう)諸碑がある。昭陵諸碑のうち、欧・虞・褚の三大家によって書かれたものは極めて少ない。「温彦博碑」が欧陽詢の書であることははっきりしているが、その他には、「房玄齢碑」が褚遂良の書と考えられるだけである。ただ虞世南の手になるものはない。陪葬がはじめられたのが貞観11年(637)であるから、その翌12年に没した虞世南の書が昭陵の碑の中に見あたらないのは致し方がない。また高宗の顕慶3年(658)まで生存した褚遂良の書はもっと多くあってもよさそうであるが、一例しかない。
ところで陪葬をゆるされたのはほとんど例外なく権貴の人である。その家人が皇帝の恩遇を感謝しつつ陪冢の碑の撰書人をえらぶのに、きそって当時第一流の人々に委嘱したであろうことは想像に難くない。現存の昭陵碑の書人も、欧・虞・褚につぐ第一流として認められていた人々であると考えてよいが、それらの人々はどのような書風をもっていたのか。外山はこの点について解説している。
28碑のうち正書の碑が多く、隷書、行書のものは少ない。正書の碑のうち、先にあげた「温彦博碑」、「房玄齢碑」のほかに特徴のあるのは「孔穎達碑」である。虞世南の書だという俗説があるくらいよく似ているが、虞世南の方が孔穎達よりも先に没しているので、この説が誤りであることは明らかである。よほど虞世南をよくならった人の書であるようだが、虞に比べると弱いと外山は評している。
書人の明らかなものの一つに「高士廉塋兆記」がある。その書者趙模は太宗の搨書人として有名な人である。勅を奉じて「蘭亭序」の搨本をつくった。あの典雅遒勁な王羲之の書法を完全にうつしえた人だけあって、彼自身の書もなかなかりっぱである。字形も細長く虞世南に近い書風を示している。「實」の字など、「孔子廟堂碑」の同字と形も筆法も全くよく似ているという。
「蘭陵公主碑」の書者については、竇懐哲だという説もあるが(「平碑記」「集古録目」)、あるいはこれを趙模の書とし(「庚子銷夏記」)、あるいはその書法が趙模に似ているという(「集古求真」)。外山は同形の文字から考えて、やはり趙模の書とみてよいとする。
また「李靖碑」は王知敬の書である。貞観年間から活躍した人で、褚遂良とともに全国からあつめた王羲之の書を鑑定したという。また高宗時代には殷仲容とならび称せられ、字形は趙模に比して、やや扁平であるが、やはり趙模と同じ系統の書だと見てよいとする。『書断』には王知敬の書を評して、膚骨兼有といっているが、清朗爽快で、昭陵碑中の逸品の一つであろうと外山はみなしている。
その他、「豆盧寛碑」「尉遅(うっち)敬徳碑」などは欧・虞・褚のいずれかに似た書風を示し、それぞれの持ち味を発揮している。
また行書碑には「李勣碑」(高宗書)があり、高宗皇帝みずから当時の名家に伍してその技をきそっている。
以上、現存する昭陵の碑にあらわれた、太宗期より玄宗期にかけて第一流の書家と考えられている人々の書風について外山は概観している。中には隋代の書法をそのままうけついだものも見うけられるけれども、その書と主流をなしたものは欧・虞・褚の三大家の書風であった。これは太宗の好尚そのものを反映しているので、昭陵をかざるにふさわしいものであったという(外山、21頁~26頁)。
隋唐の碑碣 長廣敏雄
石碑は中国では後漢時代からおこったのであるが、六朝時代を経て、隋唐時代にもっとも発達した。その石材は黒味をおびた石灰石や大理石であった。質が緻密なので、彫刻した文字や装飾が鮮明にみえる。このような石材を豊富に産出することが、中国の石碑の発達した一つの重要な原因と考えられている。
さて、隋の石碑は隋が北方から起こったため、北朝の石碑様式を踏襲した。南朝と北朝とを比べると、南朝の碑が華麗であり繊細であるのに対して、北朝のそれは古拙かつ質実で、手堅い感じである。漢以来の石碑の伝統を北朝が継承し発展させ、隋の石碑がこれをついだ。隋の石碑の遺物は少なく、河北省正定龍興寺の「龍蔵寺碑」(図1-5、開皇6年[586])
、山東省曲阜文廟の「修孔子廟碑」(大業7年[611])が知られている。「龍蔵寺碑」は螭首
(ちしゅ、円首の頂に一対の龍が龍頭を下にむけて浮彫されること)であるが、その龍頭は鋭利繊細な浮彫で、踏んばった脚もなかなか鋭く技巧的でさえある。「修孔子廟碑」はむしろ簡単で、龍の彫刻はなく碑首が半円形で、四角な額をつくっている。前者は額に楷書
5字3行を陰刻し、後者は篆書3字2行を陽刻している。
唐になると、石碑は非常に発達した。螭首の意匠は絶妙であったし、方趺(下方の長方形の台座)には薄浮彫が描かれ、亀趺(亀をかたどった台座)は雄大であった。これらの装飾意匠の豪華さにとりかこまれて、碑身には唐代一流の名筆が讃嘆すべき彫刻となって芳を万世に伝えている。太宗、高宗、玄宗など皇帝の書のみならず、虞世南、欧陽詢、褚遂良の初唐にはじまり、顔真卿、柳公権の晩唐にいたるまで、陸離たる光彩をはなっている。
碑の形式は大体、伝統的な形式を踏んでいる。台石には方趺と亀趺とがともに行われ、方趺にしばしば瑞獣や華麗な唐草文様が彫ってある。河南省登封にある「少林寺太宗御書碑」(開元16年[728])は代表的な例である。この碑は唐碑中の白眉と目されているものである。碑側には華やかな唐草をあらわし、唐草の中に翼をひろげた鳥とかあるいは麒麟にのった神王像とかが彫ってある。闊達、豪快しかも繊細鋭利な図様である。
ところで螭首すなわち碑首に龍を彫ることは前代のとおりであるが、その表現は精巧になった。また額は普通上方の尖った圭額であるが、時には額中に仏像を彫刻したものもある。額中の題字は篆書が普通であり、稀には飛白書が書いてある。例えば、山西太原の「晋祠銘」(貞観21年[647])がこれである。碑文は正書が最も多いが、八分書、行書あるいは篆書もある。
以上は伝統的形式の唐碑であるが、唐になってはじめて工夫された新しい碑形式がある。これは玄宗時代にはじめて現われたもので、例えば河南登封の「嵩陽観聖徳感応碑」(天宝3載[744])である。下に方趺があり、周囲には華麗な彫刻がある。このようにして唐碑は盛唐になって極盛となった。ただその後は別に新形式は現われず、これらの既製の形式を踏襲したにすぎなかった。盛唐までの唐碑はそれ以後の中国石碑の標準となった(長廣、27頁~30頁)。
造像記について 水野清一
およそ像をつくり名を録することは、ギリシア、インドにもあり、世界いたるところにみられる一般的な風習である。けれども中国人ほど詳細にかいたもの、中国人ほど文をねったもの、中国人ほどたくさんつくったものはほかにない。中国にとっては文字はかいて公になり、文字にかいて永遠になる。
それにしても、仏像の造像記は、道教像の造像記をふくめてみても、周銅や漢鏡とはニュアンスが違ってくる。現存する仏教の造像記で、一番古いものは後趙石虎4年(338)のそれであり、金銅像の台座の裏に彫ってある。金銅像や石像では、台座や光背の裏に彫られるのを常としたが、そのうち別に碑形をつくったものも現われた。それは北魏の後半で、西暦500年頃からである。有名な龍門二十品の中には碑形におさめた造像記がある。北魏時代には、見事な造寺造像碑もつくられて、今に残る遺品も少なくない。例えば、報徳寺七仏頌碑はその一例である。
しかし隋唐時代になると、碑形の造像は少なくなり、純粋に文字の碑になってしまう。小さいものは司馬粲の金銅碑(開皇12年[592])、大きいものは龍門の「伊闕仏龕碑」(貞観15年[641])がある。後者は褚遂良の書であり、文字方正で、蒼古の気をたたえ、正書のうちに隷意を含んでいる。なお、顔師古のかいた貞観3年(629)の、汜水(しすい)等慈寺の碑(図82, 83)も有名である。
しかし普通に造像記の名でよぶものは、こうした独立の碑でなく、造像わきの小さい碑形に彫られたり、台座や光背の裏に刻まれたりする、片々たる石刻をさす。したがって文字も粗末、文章もあり合わせで、誤字、俗字も多いという。
龍門賓陽南洞の北壁には、貞観22年(648)、「洛州河南県思順坊老幼等造弥勒像記」を刻した碑形がある。これはこの下の東の弥勒像龕のためにつくったものであるが、なお総高1.5メートルをこえ、文も堂々とし、字も秀整である。文の内容はまず邦家の永固をいのり、ついで自分たちの冥福を願っている。
隋の一例としてあげられるのは、大業12年(616)、「梁佩仁造釈迦像記」である。内容は亡くなった長男と生存の次男のために釈迦三尊像をつくったという。そしてかみは皇帝陛下から、しもは一切衆生の登覚をいのっている。
唐でも造像の内容を詳記するものがある。例えば、顕慶5年(660)の「劉☐(ママ)造阿弥陀像記」はその一例である。阿弥陀の五尊像をつくり、皇家の永固をいのり、一切衆生の登覚をねがっている。文字は方格をつくって彫り、方正であるとともに遒勁である。
しかし皇家、皇帝をはぶいて、もっぱら一家の先亡と一切衆生の冥福をいのったものもあり、概して北魏の造像記にくらべると、七代の先亡、師僧に言及するものは少ないという。このことから、隋唐では造像供養者と教化の師僧とのむすびつきが、はるかに弱くなっているのであろうと水野は推測している。
ところで、『語石』の著者、葉昌熾(ようしょうし)は、「世のひとはきそって魏の造像をたたえ、唐刻の精にして不思議なのを知らない、みな棋子方格があって、小真書は欧に似たものがあり、褚に似たものがあり、永徽以後、長安以前(650-702)は多く薛稷に似ている」といっている。
先述した「思順坊造像記」、「劉☐(ママ)造像記」は褚遂良に似ており、永徽4年(653)、「周智沖造阿弥陀像記」は欧陽詢に似ているものと水野はみなしている。
最後に水野は唐代の造像記の盛衰について述べている。例えば、龍門の造像記で統計をとってみると、西暦660年代を最盛期として前後に減少し、650年代、720年代の80年間を盛期とし、780年代にいたると皆無になるという。これは全国の風潮を反映したもので、銅像もこれに一致する。しかしこれで造像記や造像がなくなってしまったと考えるのは早
計であり、ただ金石像が急になくなったことを意味するという(水野、31頁~34頁)。
中国の古写経 石田幹之助
ここにいう古写経というのは、魏晋南北朝より隋唐の間に中国において紙に書写された漢訳仏典を指すという。ただ、後漢の漢訳仏典の遺品はまだ発見されていないが、書風筆意より考えて後漢のものとみられるものもないではないから、後漢以後としてもよいかもしれないともいう。
『書道全集』において、古写経の題目で寄稿するからには、書勢筆法の変遷沿革や、古拙、清雋、森厳、整斉などの美を鑑賞する態度などを語るのがよかろうが、著者の専門外であることを断っている。そこで書法の変遷と書品の品騭以外の点において、古写経の持つ価値について石田は次のようにいう。
(1)古佚未伝の経籍を存すること
(2)その奥書識語のうちに通行の史籍に収められなかった史実を発見すること
(3)奥書識語の一種とも認められるが訳場列位というものが付いていて、そのうちに外国の沙門の名籍が見え、文化交流史上のある種の事実を教えること
(4)なお習見の経文といえども、古写の異本が数多く存するにおいては、本文の校勘の上に益あること
(1)のうち、古佚とは経録その他にその名のみ留めて、しかもその本文のいつの世にか失い去られて今日まで永くその姿に接することが出来なかったものをいう。未伝とは従来嘗てその存在を聞かざりしものの偶然出現し来って、われらの知見に上ることとなったものを指す。これらの古佚未伝の経典については、スタイン、ペリオ諸氏の蒐集せる敦煌出土のものにこの種のものが少なくない。(2)奥書識語のうちには経文書写の機縁を語り、隠れたる史実を検出した例も少なくない。
ところで、中国で古く書写された仏典で早く日本に伝わったものの中には、古佚未伝の部類に属するものも少なしとしない。奈良の正倉院内の聖語蔵などにその幾分かが散在しているが、古佚未伝の経論が多量に世に現われるに至ったのは、1907年および1908年に中国の西陲敦煌の石室において、英のスタイン、仏のペリオによって古書が発見され、ロンドンの英国博物館、パリの国立図書館に分蔵されるようになってからのことである。スタイン本を中心として、矢吹慶輝は詳細に如何なる古佚未伝の経典があるかを調査した。こうした古佚未伝の経典が再び世に出で、仏教史特にその教理史の研究に好個の資料を供することになった。
識語から比較的些細なことながらある種の隠れたる史実が知られたり、わずかながら知られていた史実が一層確かめられるようなことがある。例えば、中村不折の旧蔵(中村不折創立の書道博物館にある)「譬諭経」の残簡に、甘露元年(256)の春に漢人および雑胡の誅殺された者が多数あり、その供養のために写経の挙のあった史実を取り上げ、このことは正史その他の記載と対比して更に考究すべきであるという。
同じく中村不折の旧蔵中(書道博物館)に、経名未詳の写経跋字33字がある。これは承平4年(449)、南朝人である江南の人士が遥かに西域の地に客となり、匈奴出身の且渠に仕えていたことを記したものである。その跋字の筆蹟は、温雅精整で、南朝当代の書風を窺うことができるとし、他に類を絶するという。
宋人の肉筆真蹟としても珍重に値すると石田はみている。この残簡により、449年に写経供養の挙があったことがわかり、その書風がもっぱら石刻を通じて知り得た当時北方のそれと大いに異なるものがあったことを知ることができるとする。また書風の点においては、いわゆる習見の北碑の筆法と頗る趣を異にし、すでに唐代通行の書風の萌芽が顕われているのを看取できると石田はいう。
訳場列位は元来各巻毎にその巻尾に書かれていたものであるが、展転鈔写を重ねてゆくうちに後人がその煩を厭うて省いてしまったために、どの写経にも具わっているとは限らないという。現存するものは必ずしも多くなく、むしろ珍重されるようだ。
列位を見れば、それぞれの経文の飜訳関係者の名を知ることができるばかりでなく、また訳場の組織を知る資となり、一巻の経文といえども如何に周到なる用意をもって訳出されたかを見る証徴となすに足り、その上その飜訳竣工の年月日や飜訳の場所などの詳細を知る根拠をも求めることができると石田は説く。
例として、法隆寺に蔵する「大般若経」巻348および増上寺に蔵する「諭伽師地論」巻100を挙げている。そこには筆受(梵語を漢語に訳出)、証文(訳主の右に在ってその宣する梵文の誤を験す)、証義(訳主の左に在って梵文を評量する)、綴人(各語を綴りて句となす)など、分担の職掌が見え、訳場に参した大徳(高徳の僧)は多く訳主(正面に坐して梵文を宣読)の高足(高弟)たる中国人であることはもちろんであるが、時にインド、西域より渡来の沙門も交じっていた。それらインド、中亜の諸国からいかに多くの大徳や客臣たちが長安の都に来て、唐帝の勅を奉じ唐朝の名僧を助けて翻経に尽くしていたかがわかる。このことは当代における中国と西方世界との文化交流の跡を徴する一資となるに足りると石田は解説している(石田、35頁~40頁)。
別刷附録 美人董氏墓誌
8中国8 唐Ⅱ
この篇には唐高宗の即位の年より玄宗の開元末年に至る93年間(649-741)の書蹟を収めている。
中国書道史8 神田喜一郎
唐の太宗が没した貞観23年(649)から、高宗、中宗、睿宗の三代を経て、次の玄宗の開元29年(741)に至る90年余りの間は、唐王朝そのものにとっては、必ずしも平穏無事の時代ではなかった。むしろ波瀾乗疊の時代であったともいいうる。
高宗の寵姫武氏が宮廷の内部に跋扈しはじめたのは、まだ高宗の即位して5、6年になるかならない頃からであった。やがて皇后となり、病弱な高宗の実権を奪い、高宗が没すると専横を極め、ついには唐王朝を廃して国号を周と称し、皇帝の位につく(690年)。
この中国史上、未曾有の事件がほとんど前後50年に亘って展開された。いわゆる則天武后の治世である。この則天武后が没すると(705年)、天下の政権は再び唐王朝にもどり、中宗と睿宗とが帝位についたが、中宗の治世下で皇后の韋氏が権力を握り、中宗を殺して、あわや則天武后の二の舞を演じようとする事件が起こった。ただ、睿宗の子の隆基、のちの玄宗によって粛清され、大事には至らなかった。
このように、高宗の末年から玄宗の即位までは、いかにも唐王朝は衰滅に瀕していたかのようであるが、しかしそれは唐王朝の宮廷内部の混乱であった側面が強い。唐王朝という大きな国家としては、それほどまでに激しく動揺したのではなかった。則天武后はその内行はともかくとして、一代の女傑であったことは疑いなく、才略縦横を極め、巧みに人を用いた。例えば、婁師徳、狄仁傑、姚崇、宋璟のような名相賢臣が朝廷に集まり、施政よろしきをえ、文化もまた栄えた。
この姚崇、宋璟の二人は、その後玄宗の初年に、いわゆる開元の治を現出させた人物である。開元の時代は玄宗が政治に励精し、天下の太平を謳歌し、国勢が揚がった。ただ、その末には、やがて惹起する安史の大乱の微かな胎動が感じられてくる形勢でもあった。六朝以来の旧い貴族文化に、まさしくカタストローフが迫りつつあったと、神田は唐高宗の即位の年から玄宗の開元末年に至る93年間(649-741)を概観している。
さて、唐朝の書法をいう者は、欧陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷の四大家を挙げるのと例とする。しかし、この4人の出た年代には多少の差がある。褚遂良は欧・虞に較べると、約40年の後輩であり、薛稷はまた褚遂良に較べて50年余の後輩にあたる。
したがって、この4人の書を年代的にならべてみると、そこには歴史的な変化の跡が窺われる。それを端的にいうと、二王の典型の動揺という現象にほかならないと神田は理解している。
褚遂良の書としては、次の4碑が代表的な作品として名高い。
1.「伊闕仏龕碑」(図1-5) 貞観15年(641) 河南洛陽
2.「孟法師碑」(図6-9) 貞観16年(642) 原石佚亡
3.「房玄齢碑」(図10-13) 永徽元年(650)頃 陝西醴泉
4.「雁塔聖教序」(図14-21) 永徽4年(653) 陝西西安
このうち、「孟法師碑」は原石が今日亡んでしまっているが、唯一の宋拓本が伝えられており、また「房玄齢碑」は磨滅が甚だしいけれども、それでも旧拓本によれば、1000余字を見ることができ、ともかく褚遂良の書の大体を窺うには、重要な資料となっている。このほか、各種の集帖の中には、「枯樹賦」(図22, 23)、「文皇哀冊」(図24, 25)などが伝えられている。「伊闕仏龕碑」以下の4碑について、神田は次のように考察している。その書は明らかに欧虞の2人の長を兼取して、褚一家の風を創造している。欧の長というと、楷書の中に隷法を交え、悠揚迫らず、古穆の趣を存することである。虞の長というと、内に剛柔を含んで、筆墨おのずから遒媚の妙に富むことである。褚遂良の4碑のうち、その欧虞の長を兼取することにつとめた痕跡のよく窺われるのは、「伊闕仏龕碑」と「孟法師碑」といった初期の書であると神田はみている。
一方、「房玄齢碑」と「雁塔聖教序」とになると、もはや渾然とした褚遂良一家の書を完成しているという。古人はこの完成された褚遂良の書を評して、王羲之の媚趣を得たものといっている。それはむろん適評には相違ないが、しかし智永や虞世南の書に較べると、よほど変化しているし、その変化している点は、褚遂良の書には著しく隷法の加わっていることを意味すると神田は解説している。
だいたい王羲之は、古くから伝えられた篆隷の法を拒否して、新しく芸術的な書を創造することに成功したのであったが、褚遂良の書は、その王羲之の拒否した隷法が多分に取り入れられているのであると神田はみる。もっとも、この隷法を取り入れることは、すでに欧陽詢の試みたところで、褚遂良はそれを学んだに過ぎないとするが、その意味においては、実は欧陽詢は王羲之の厳格な正統ではなく、王羲之の七世の孫である隋の智永に学んだ虞世南こそ、王羲之の適伝であったといいうるという。
褚遂良の書の完成は、いわば二王の典型の動揺であった。彼が出て後、その新しい書風を宗とするエピゴーネン(追随者・模倣者)が陸続と現われ、一時天下を風靡した。そのエピゴーネンの首位を占めるのがすなわち薛稷である。
しかし褚遂良と薛稷との中間に出た書家として、欧陽詢の子の欧陽通がいる。父と併せて大小欧陽の名があるほど、斯道の名人であった。
もっともその書としては、わずかに次の2種が存するばかりである。
1.「道因法師碑」(図40-45) 龍朔3年(663) 陝西西安
2.「泉男生墓誌」(図46-47) 調露元年(679) 河南洛陽
しかもこのうち「泉男生墓誌」は20世紀前半の発見であるので、古来有名なのは「道因法師碑」の1種にすぎない。父の書風を学んだものであるが、その稜々たる筋骨を露して、いかにも孤峰峭壁のそびえ立つかのごとき概のあるのは、むしろ父に過ぎていると神田は評している。そしてこれは主として篆隷の筆勢を多分に加味したところから来ているものとみている。こうなると、王羲之の書に見る蘊藉の気はもちろん、父の欧陽詢の「化度寺邕禅師碑」(7巻図44-53)や「温彦博碑」(7巻図62-65)の風格さえも失われて、やがて顔真卿の現われる予告版となっているともみている。欧虞の正統を奉ずるものから、善く父を学ぶものではないとの批評の出るのも、首肯できないことではないという。いずれにしても、この欧陽通の書を見ていると、この時代の書法の大きな変化がひしひしと感じられてくると神田は述べている。
次に薛稷の書も、今日に伝わる確かなものは少なく、ただ一つ次の宋拓本が残存するばかりである。
「信行禅師(しんぎょうぜんじ)碑」(図70-73) 神龍2年(706) 原石佚亡
また一般には、則天武后の書いた「昇仙太子碑」の碑陰の題名の文字が薛稷の書として知られているが、これも疑問があって、通説のままには信じ難いようだ。
したがって、「信行禅師碑」によってみると、薛稷の書は全く褚法であるという。その頃「褚を買って薛を得るも、その節を失わず」という言葉が行われたと伝えられるが、いかにも納得できる。しかもその褚法は、かの「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」に見られる、褚遂良が全く一家を成して後の書法である。嬋娟たる美人の羅綺に勝えざる婉美華麗な姿態をもって、古人は褚遂良の書に譬えたが、また薛稷はそれに更に妍を加え、一層新奇の書風をつくったとも批評している。
この点において、薛稷の書は欧陽通とは全く対蹠的な関係に立つが、しかし二王の典型から自己を解放させ、おのおの新奇の書風の創造に向って進んだことにおいては、両者は全く同一であるといえるとする。ただ欧陽通の書には、それほど多くの追随者が出なかった。この点について、それを受容するには、当時の貴族社会になおある程度の抵抗が感じられたのであろうと推測している。それに反して褚遂良から薛稷へとつながる書風は、次第に天下を風靡し、欧虞の正統を変移させていった。
二王の典型の次第に動揺してゆく様子は、初唐諸帝の書によっても窺われる。唐王朝では、太宗が王羲之の書に傾倒したが、その後の天子にも受け継がれ、太宗の後を嗣いだ高宗をはじめ、中宗、睿宗、玄宗の諸帝から、則天武后にいたるまで、多く二王の書法を善くした。もっとも二王の書法といっても、主として直接に範としたのは、太宗の書であったが、
諸帝も太宗の書に逼肖している。
高宗の書には、次の行書の諸碑がある。
1.「万年宮銘」 永徽5年(654) 陝西麟遊
2.「紀功頌」(図36, 37) 顕慶4年(659) 河南汜水
3.「孝敬皇帝叡徳碑」 上元2年(675) 河南偃師
4.「李勣碑」(図38, 39) 儀鳳2年(677) 陝西醴泉
その風格は全く太宗の「温泉銘」を見るようである。
また則天武后の書としては、次のものが有名である。
「昇仙太子碑」(図66, 67) 聖暦2年(699) 河南偃師
いかにも暢び暢びと自由に行草体をもって書かれている。則天武后が書学に意を用いたことは、二王の書の収められている「万歳通天帖」を得て、これを喜んで摹搨把玩したと伝えられる一事をもってしても察せられるが、この「昇仙太子碑」の筆力は実に驚くばかりであると神田は賞賛している。
次に中宗の書には、
1.「乾陵述聖記」 文明元年(684) 陝西乾州
2.「賜盧正道勅」 景龍元年(707) 河南滎陽
があり、睿宗の書には、
1.「順陵楊氏碑」 長安2年(702) 陝西咸陽
2.「景龍観鐘銘」(図76) 景雲2年(711) 陝西西安
がある。
神田は、睿宗の「景龍観鐘銘」を、注意すべき書とみている。この楷書は、二王の典型を遵守するよりも、古い篆隷の筆勢を加味して、古奥渾厚の致を出すにつとめているからである。ここらにも移りゆく時代の風気が窺われるという。
しかし、唐王朝の宮廷には古い伝統があり、次の玄宗の書は全く二王の典型であった。
「賜張敬忠勅書」(図90) 開元12年(724) 四川青州
ただ玄宗も、こうした行書を書くときは、古くからの伝統を守っているが、その趣味としては隷書を好んだ。
1.「紀太山銘」 開元14年(727) 山東泰安
2.「石台孝経」(図91) 天宝4載(745) 陝西西安
これらは実に驚くべき隷書の巨碑である。この頃から篆隷に対する関心が一般に俄然勃興してきたらしく、史惟則(図110, 111)などという隷書の名家が現われ、これがやがて篆書の代表的な大家である李陽冰の出現をうながす結果になる。
このように見てくると、二王の典型はその本山ともいうべき唐王朝の宮廷においても、次第に崩れつつあったことがわかる。しかし数百年来続いてきた強靭な貴族社会を基盤として栄えた二王の典型が、そう簡単に滅びゆくことはなかった。このことは、高宗の咸亨3年(672)に建てられた名高い「集王聖教序」(図50-57)の碑を見ればわかる。この碑は、当時伝わっていた王羲之の筆蹟の中から、唐の太宗の作った聖教序という文章、およびそれに関連した文書に使用されている文字を一つ一つ拾い集め、それをあたかも最初から王羲之が書いたもののごとくに配列し、これを石碑に刻したものである。この石碑が建てられると、当時の人はみな先を争って、これを搨し、習字の手本としたという。王書の流行が想像でき、またその王書を理論的に支持した著作も現われた。則天武后の垂拱年間に孫過庭の著した名高い『書譜』(図58-63)と題する書論がそれで、王羲之を古今第一の大家と推称している。
しかし玄宗の開元時代になると、これまでの伝統に真正面から反抗して、全く新しく何ものかを創造しようとする革新派が台頭してきた。それに対して二王を唯一の典型と仰ぎ、これまでの伝統を守ってゆこうとする、いわば保守派もあって、その両派が互いに入り乱れて、複雑な様相を呈した。
その保守派を代表するのは李邕である。かつて北海郡の太守をしたことがあるので、李北海と呼ばれる。この人は特に行書を善くし、その得意の行書で、一代の間に碑を書くこと800の多きにのぼっている。
詩聖杜甫もこの人と親しく、杜甫はこの李邕について、「碑版、四裔を照す」と謳っている。その800も書いたという碑のうち、今日現存しているのは、わずかに10種くらいで、次の書がすぐれている。
1.「麓山寺碑」(図82-85) 開元18年(730) 湖南長沙
2.「法華寺碑」(図86, 87) 開元23年(735) 浙江紹興
3.「李思訓碑」(図78-81) 開元27年(739)以後 陝西蒲城
李邕の書の癖は、昔から偏側といわれているが、肩を聳えさせたような姿態をしているのが欠点である。しかしその書はよく王羲之を学んだもので、今日王羲之の書を学ぶにはこの李邕の書から入るのがよいとさえいわれている。なお、李邕についで、いわゆる保守派に属する書家としては蘇霊芝(図112)が知られている。
一方、いわゆる革新派は張旭を先駆としておこってきた。彼は杜甫の名高い「飲中八仙歌」
のうちに出てくる人物で、それにも草書を善くしたことが詠まれている。その草書は、公孫大娘という女の舞師が剣器をもって舞うのを見て、はじめて筆法を悟ったものだ、と伝えられている。これは張旭の伝記にも見えているし、それよりも張旭と親しかった杜甫の「公孫大娘舞剣器行」と題する詩に見えるから、張旭みずからそう言っていたと推測されている。これまでの書家であれば、王羲之の書を研究して、そこから筆法を得た、というのが普通であるが、張旭はそういう権威を認めなかった。彼はみずからの力を頼りに新しい書をかいた。
張旭の書として、今日絶対的な信用のおけるものは伝わらない。いろんな法帖に彼の草書として載せられているものは多いが、いずれも真偽不明である。しかし古人が張旭の草書を狂草といい、奇怪百出とさえ批評しているのを見ると、その書風の大体を想察される。二王の典型を仰ぐものから見れば、全く鼻持ちのならないものであったろう。だから張旭の書は当時ある一部の新しい人の間には喜ばれたが、まだ一般には真面目なものとしては受けいれられなかった。この点でも張旭の書の支持者であった杜甫は、当時の文壇の新人であったことを注意すべきである。
中国の書道史は二王の典型と、それに反抗する書と、その両派の消長起伏によって形成されてゆくといわれる。この事情を知るのに、この唐代の書は一つの大きな関鍵を提供してくれる。その意味において、この時代の書は中国書道史上重要な意義をもっていると神田は考えている。しかもそれは、当時の貴族を基盤とする社会体制が次第に崩壊に瀕してゆき、そこに書道ばかりでなく、文学や芸術のあらゆる方面に、ようやく革新の風が吹き始めてきたことにも留意すべきであるという(神田、1頁~9頁)。
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その6中国6-b》
中国6の要約の続きを掲載する。
摩崖について 外山軍治
摩崖とは天然の巌壁を利用してこれに文字や画を刻したものをいう。今日では多く摩崖と書くが、宋代では磨崖と書いたようだ。欧陽脩の「集古録跋尾」巻7に、顔真卿の「大唐中興頌」(5巻図44-47)を著録して、「碑は永州に在り、崖石を磨いてこれを刻す」と
説明している。また趙明誠はその「金石録」巻21に北魏の「鄭羲碑」を著録しているが、この下碑(図6-9)については「碑は乃ち今の萊州南山上に在り。厓を磨いてこれを刻す」といい、その上碑についても、鄭道昭が「その父のために厓石を磨いて二碑を刻した」ことを述べている。
ここで磨崖(厓)という言葉は、文字を刻する準備工作として「崖(厓)を磨く」という意味に使われている。宋代にはもっぱら磨崖という文字が使われていたが、宋代以前の例は見当らないという。この点について、おそらく金石学が勃興した宋代に、金石学者の間で使われ出した術語であろうと外山は推測している。
摩崖と書くようになったのは、清朝になってからだという。北碑の存在を天下に紹介した阮元以下、清朝の金石学者の多くは摩崖という文字を使っている(磨崖と書く人はきわめて少なく、今日では摩崖の文字が通行している)。
ところで摩崖は天然の崖石に刻するものであって、そのはじめはその地に即して石に刻し事を記した。漢代に入ると
「開通褒斜道石刻」 永平6年(63) 陝西褒城
「楊孟文石門頌」 建和2年(148) 陝西褒城
などがあり、これらは道路を開通し、あるいは城郭をつくったことを記念して、その場所に刻したものである。
はじめ摩崖は簡単にできるからというので行われ、主として地に即して率意につくられたようだが、北朝に入ってからは少し様子が変ってきて、その種類も多くなり、しかも盛行した。もちろん、「石門銘」(図4, 5)のように、地に即して率意につくられたものもある。これは漢の「開通褒斜道石刻」、「楊孟文石門頌」につづくもので、北魏の永平2年(509)関中から漢中へ出る天下の険路、褒斜道の南口に刻されたものである。
ところが北朝に盛行した摩崖は、必ずしも地に即し率意につくられたものとばかりはいえないようになった。北朝の摩崖は「石門銘」を除き、二類に分けることができると外山はみている。
①第一類は、北魏孝文帝時代の漢人貴族である鄭道昭と、その第三子で北斉に仕えた述祖とによって残されたものである。
② 二類は、仏経摩崖である。
①まず第一類は道昭、述祖父子が刺史として在任した光州(山東省掖県)、青州(同益都県)管下の寒同山とその西峯の雲峯山および太基山、天柱山、百峯山などの諸山の崖壁に刻されている。
そのうち最も著名なのは、鄭道昭が父の事蹟を伝えるために刻した「鄭羲碑」である。永平4年(511)、また光州の南方40里の天柱山の崖石に刻した。その後、寒同山の西峯である雲峯山に好い石をみつけたので、同じ年のうちに改めてこれを刻した。前者を上碑、後者を下碑と呼ぶ。
「山左金石志」巻9によると、阮元がかつて親しく崖間に至り、その崖を摩挲一過したが、黄石堅緻で筆画深勁であったと記している。さすがに鄭道昭が石質を選んだだけあって、上碑に比べて磨泐が少なく、道昭の代表作品とされている。
この「鄭羲両碑」のほか、雲峯山には「諭経書詩」(図10-13)、「観海童詩」(図14, 15)、
「雲峯山右闕題字」(図20, 21)をはじめ数十種、太基山にも「太基山仙壇詩」(図16, 17)ほか十数種、天柱山には「東堪石室銘」(図18, 19)などがあり、百峯山にも「白駒谷題字」がある。
とにかく鄭道昭が光州、青州に在任したのは永平3年(510)から数年間にすぎない。「鄭羲碑」が刻されたのは永平4年(511)というから、これとほぼ近い時期に数多い摩崖が続々として刻された。また「鄭羲碑」についていえば、鄭羲は光州に関係のある人ではなかった。ただ鄭道昭が光州刺史であったので、その管内の山に刻したものである。「石門銘」とは趣きを異にするゆえんである。その他の鄭道昭の作品にしても、是非その場所に作られねばならぬという必然性の稀薄なものばかりで、いわば、彼がその書と文とを後世に残すために、これらの諸山の奇峯峭巌にその場所を求めただけのことで、彼の往くところ、随所に摩崖が刻された。
ところでこれらの摩崖の中には、拓本をとるだけにも、足場をつくるなど随分面倒な準備の必要なものが多い。ましてこれを刻した時の労力は非常なものであったことは想像に難くない。しかし鄭道昭の家は当時漢人貴族中でも屈指の名門でもあり、また実力者でもあった。このような工事を遂行するに十分な財力と権力とに恵まれていたと推測される。このような好条件がその旺盛な芸術的意欲を十分に発揮させ、摩崖を数々残させたという。さて鄭道昭の書は、北魏の書に多い方筆とちがって円みをおびた書で、しかも遒勁奇偉、その作品に多くみられる道家的思想とともに、ものにとらわれない、何かすがすがしい感じを発散していると外山は捉えている。鄭道昭の摩崖は円筆であるといわれるが、この書と南朝の梁の「瘞鶴銘」(5巻「瘞鶴銘について」参照のこと)の書との間に相通ずるものがあると考えられることは、注意すべき問題であると外山はいう。
「瘞鶴銘」は梁の天監13年(514)、陶弘景の書と推定されるが、ほとんど同じ時代に、北では鄭道昭の摩崖、南では「瘞鶴銘」が書かれている。しかも両者の書がよく似ているとなると、南北によって書風が相異するものと割切って考えてよいものかどうか、疑わざるをえないと外山は問題を提起している。
なお鄭道昭の子の述祖の作品には、天柱山には「天柱山銘」(図90, 91)がある。述祖の方は八分書であるが、父に比して潤いが足りないと外山は評している。
②次に第二類の仏経摩崖はやはり山東に多く、泰安県下の泰山と徂徠山、鄒県近郊の崗山、尖山、葛山、小鉄山にかたまっている(鄒県下のものは四山刻経と呼ぶ)。
泰山の仏経摩崖は有名な経石峪(きょうせきよく)の「金剛経」(図92, 93)である。泰山の中腹にあるゆるい勾配をもった渓床に「金剛般若経」を1尺以上もある大字で刻している。年記、題名はないが、書体雄渾で、仏経の摩崖の代表的なものである。
徂徠山は泰山の南に聳える山である。この山の映仏巌と呼ばれる巨石の南面に「文殊般若経」(図94)の残字があり、その上辺右方に北斉の武平元年(570)、冠軍将軍梁父県令王子椿の名が刻されているので、その年代がはっきりわかる。
書もなかなか立派で、銭大昕は「金石文跋尾」巻3に、経石峪の書がこれとよく似ているので、経石峪の「金剛経」も王子椿の書であろうとしている。この点について王子椿は経主であって、書者と同一人であるかどうかわからないと外山はみている。
これらの仏経摩崖はかなり大きなものが多く、中には泰山経石峪のようにきわめて大規模なものもあり、これらもまた摩崖本来の、地に即して率意に刻されたとはいえないものである。
その書法には共通した点があり、「広芸舟双楫」巻4によると、
「魏碑には大種三あり。一に曰く龍門造像。一に曰く雲峯諸刻。一に曰く崗山、尖山、鉄山摩崖。皆数十種にして同一体のものなり。龍門は方筆の極軌、雲峯は円筆の極軌。二種、盟を争う。極盛というべし。四山摩崖は隷楷に通じ、方円を備う。高渾簡穆、壁窠の極軌なり」といっている。
そしてまたこれは摩崖全体を通じていいうることであるが、崖石の事情によって刻書が尋常一様にいかないことがある。文字の大小、配列の不ぞろいはいうに及ばず、いろいろな制約をうけているが、それがまたかえって興趣をひく。
さて北朝の摩崖の主なものは以上であり、一見、北朝の摩崖はこのように非常に多いが、よくみると鄭道昭父子のものと、斉魯の間の仏経摩崖がほとんどである。時期的にみて、鄭道昭は北魏の永平4年(511)の頃、述祖のものは北斉の河清・天統(562-569)の間に限られている。また泰山、徂徠山や四山のものも、北斉、北周の間のものである。そして光州、青州の摩崖が鄭道昭父子の手になったと同じように、これらの仏経摩崖も王子椿、韋子深、僧安道壹らのある少数の人々によって刻せられたものとみられる。それで摩崖が北朝で盛行したといっても、一般に広く流行したわけでないともいいうるであろう。それにしてもそれら少数の人々がどうしてこのような大がかりなものをつくることを考えついたのかという問に対して、外山は次のように答えている。
これは雲岡、龍門、響堂山など大規模な石窟開鑿の精神にも通ずるものであり、あるいはこれに刺戟をうけ、ヒントをえたものであると考えている。そして崖石を穿って石窟をつくり、仏像を彫り出そうとする精神を書の方面に移せば摩崖になるという。鄭道昭の場合、その芸術的意欲がその財力、権力に裏づけされていたことを外山は想定しているが、仏経摩崖の場合には経主の深い信仰にも根ざしていたとみている。
摩崖はこのように北朝に多く刻されているので、北朝特有のように考えられているが、果してそうであろうか。南朝に摩崖はなかったであろうかと問題を提起している。
外山はこの点に疑いを抱いている。「瘞鶴銘」は一般には摩崖とはいわないが、最初はこれは焦山(江蘇省丹徒県東方の長江中にある)の西南の崖石に刻されたと伝えられている。その後、落雷によって岩石が裂けて江岸に落下したという。前後の事情よりみて、元来は摩崖刻だったと考えてよいと外山はみている。「瘞鶴銘」を摩崖だと考えることがゆるされるならば、「瘞鶴銘」の書と、鄭道昭の摩崖の書との間に相通ずるものがあるということとともに、再考の余地があるという。
さらに面白いことに、「瘞鶴銘」は左行たて書きで、湖南祁陽県の浯渓にある顔真卿の「大唐中興頌」と同じである。摩崖がその現地の実情に適合するように刻され、しかもそれだけの効果をあらわした実例があると外山は捉えている(外山、23頁~30頁)。
墓誌について 水野清一
墳墓に何に書きつけて、その名をとどめようという考えは、どんなに古くてもあるように思われるが、事実はそうではなく、その文字が残っているのは、わずかに前漢末以後のことである。これは墳墓に対する考え方が変わったのであると水野はみている。つまり専ら先の世について考え、あるいは先の世を経て生まれ変わることのみを考えていた時代には、墓誌などは用がなかった。
けれども、そういう観念が稀薄になり、形骸であるべき墳墓そのものに、営みの重点が移っていった時に、墓誌のようなものが作られ出した。だから、どんなに高価なものが埋葬されても、古い墓では直接にあの世のためであり、この世に生れてるためのものでしかない。新しい墓では、ただこの世における栄耀栄華の営みであると水野は考えている。
さてまず最初のものは、王莽の居摂2年(2.A.D.)になる祝其卿と上谷府卿の墳壇刻石とよばれるものである。その形は石櫃のようで、その中に文字を刻したという。「墳壇」というから、地上の施設に使ったものとみられている。
また後漢を通じて墓闕、墓碑といわれるものがあり、魏晋以後にもひきつづいて墓碑はおこなわれた。闕は門闕の闕で、今日残るものは石闕であるが、その好例は山東省嘉祥県の建和元年(147)武氏石闕である。碑は棺柩をおろす豊碑からでたといわれる。建和元年(147)の武斑碑は圭首、延熹7年(164)の孔宙碑は円首の碑の例である。
これらはみな地上の施設であるが、墓中におさめたものには墓記、封記、またただの葬塼がある。墓記は延平元年(106)、賈武仲妻馬姜の墓記11件がある。体例はのちの墓誌とちがい、河南洛陽の出土である。封記は延熹6年(163)父通本封記1件である。山東繹県西郊、曹馬社の出土である。はじめに葬事の日付、つぎに事蹟をのべ、後世の墓誌に近くなっている。
葬塼は河南孟津より多く出土し、概して30センチ以下で年月日、籍貫、刑罰、姓名を記し、終わりに「葬」、「葬在此下」あるいは「物故葬此」という。服役中に死んだ罪人の、簡便な葬法がこういう墓誌を案出させたと水野は推測している。刻された文字はすべて生気にあふれ、勁逸絶倫の評があるのはもっともであると水野は評している。永元2年(90)東門当の葬塼はそのよい例であるという。永平より熹平(58-177)に及ぶ百数十年間のものをみるが、その後ももっとも簡便な墓誌として、ままおこなわれたと水野は推察している。
このようにみると、この墓記も、封記も、葬塼もみな明らかに墓誌であるが、ただみずから題して墓誌といわないのみである。封記は葬後日をへて行なっているし、葬塼は「葬在此下」とあるから、どちらも地上にあったのかと思わせるが、明らかでない。水野はやはり地中にうめられたと考えている。
したがって『金石萃編』(1805年刊)の著者、王昶が前漢の杜子夏に臨終の刻石あり、前漢の王史威長に葬銘あり、後漢永寿元年(155)の「孔君之墓」とあったというから、これも墓誌と考えられ、要するに墓誌は前漢から始まっているといえる。しかしそれでも、決して盛んにならなかったのは後漢における地上の墓碑、墓闕が流行したからであろうという。
ところが魏(220-265)、晋(265-316)になると、少し事情が違ってくる。それは建安10年(205)、天下の疲弊を理由に曹操が石室、石獣、碑銘を禁じ、咸寧4年(278)晋の武帝も石獣碑表を一切禁断したからである。その後、ほぼ南朝の終わりまで、この禁令は有効であったようだ。したがって地上の立碑が減じただけ、それだけ地下の墓誌が盛んになったのは当然であろうとする。
さて第一は地上の墓碑が小さくなって、墓中におさまった例である。
①永平元年(291) 徐夫人管洛墓碑
②元康元年(291) 成晃墓碑
③元康八年(298) 魏君墓碑、塼
④永康元年(300) 張朗墓碑
⑤無紀年 晋 劉韜墓碑
みずから題して墓碑といい、碑あるいは墓といい、まちまちであるが、形式はみな碑である。小形であることを特色とし、最大が76センチ高で、①②④は螭首、③は円首、⑤は圭首の碑である。みな柩前にたてられたものであろうとみられる。
また石槨題字はすでに後漢の郭仲理石槨題字、郭季妃石槨題字があり、必ずしも碑禁の結果ばかりでないが、とにかく墓中に誌するということからいえば、そのおこりはやはりこういうところにあるといわなければならぬという。
例えば馮恭の題字には「晋故太康三年二月三日己酉、趙国高邑導官令、大中大夫馮恭、字元恪」および「有子、曰☐、次曰徽、次曰貴」となっている。墓誌としての意識が十分くみとれるという。こういうものにたちならんで、晋ではもっと墓誌らしいものがうまれてきた。その第一は元康3年(293)「楽生墓記」である。これは河南洛陽から出土したもので、ただ「元康三年八月十七日、陽平楽生、年七十、物故」と4行にわけて書いてあるだけで、後漢の葬塼と余り変わりはない。書体はやや円満な隷書である。
これに次ぐものは次の4例で、その文はもはや全くの墓誌である。ただ、どれも、みずから墓誌と題するものはないし、銘辞を付したものもない。
①元康5年(295)、永安元年(304) 荀岳および妻劉簡訓墓誌
②永嘉2年(308) 石尠墓誌
③永嘉2年(308) 石定墓誌
④年月缺 鄭舒妻劉氏墓誌
荀岳墓誌は板石で、元康5年(295)に表裏側面と三面に文字があるから、碑碣のように立っていたものとされる。石尠墓誌も板石で、四面に刻があるからやはり立っていたものであろう。石定は石尠の子で、同時に戦没し、同時に祖父の墓に付葬したのであるから、前者と同じく立っていたとみられる。
すると墓記というものはもちろん古くからあるが、魏晋になって次第に形をなしてくる墓誌では、墓中の碑の矮小化したものにほかならないと水野はみなしている。
要するに、西晋末、つまり300年前後にはほぼ墓誌と呼んでよいものができかかっていた。しかしまだ墓誌の名は生まれず、銘辞をつけるものはなく、みな墓中に立つものであった。しかもそれは帝の側近、貴族たちに限られ、一般士庶の間では「楽生墓誌」のような、貧弱なものしか作られなかった。
さて西晋が滅ぶと、華北はいわゆる五胡の騒乱期に入った。江南はわずかに東晋の余勢が保たれたけれども、墓誌に関しては何らの資料もないという。
ついで南北朝対立の時代になると、文献(『斉書』巻10)の上では宋の元嘉中(424-453)に顔延之が王俅(393-441)のために石誌をつくったといい、実例では王俅の没後24年にあたる大明8年(464)に「劉懐民墓誌」(5巻図14-17)がある。
「劉懐民墓誌」は山東歴城の出土で、49×52.5センチ、16行、行14字の正書である。まず銘を刻し、次に姓名、郷貫、喪事、葬事、夫人のことを記す。趙万里は次のように評している。
「書体は凝重円潤にして爨龍顔碑(5巻図4-13)、北魏中嶽(図1)、西嶽両霊廟碑と相似たり、爨龍顔碑は大明二年(458)に建ち、両霊廟碑は太安二年(456)に建つ、この誌と前後十年をいでず、しこうして南北の書体一手にいずるがごとし、また異とすべし」(「漢魏南北朝墓誌集釈」第一冊)という。
さらに今は佚するが、大明6年(462)、宗愨母劉夫人墓誌などがあったといわれるから、『斉書』巻10礼志にも大明2年(458)に亡くなった太子妃の墓中におさめたことをいい、王俅の石誌以来、王公以下みなこれにならったと伝えている。
北朝でもこれに応ずる動きはある。北魏の皇興2年(468)、魚玄明の墓誌である。これは正書の刻であるが、銘辞はなく、ただ年月と題名を記すのみである。これに次ぐものは延興2年(472)、申洪之の墓誌である。山西大同桑乾河南岸の出土で、珍しく砂岩である。
姓名、出自、事蹟、葬事をのべ、銘なく、異例にも買地20頃のことを記す。文は淳樸にして、書は魚玄明に似る。まだ「龍門造像記」(図38-49)の遒勁な体にいたっていない。
北魏の墓誌は洛陽遷都(494)以後、急激に増加する。まず太和20年(496)南安王元楨の墓誌である。これは正書で、全く「龍門造像記」の書体である。前者とともに、まだ墓誌といわないが、りっぱに墓誌の体をなし、長い銘辞もそえている。
こうして太和22年(498)「元偃墓誌」、太和23年(499)「元簡、元弼、元彬、韓顕宗の墓誌」とますます急激にふえて、ついに5、6、700年代の盛況を呈する。これらは形式、文体ともに、もはや完備した墓誌である。
北朝の墓誌は南朝に比べると、やや遅れて始まったが、500年代における流行は完全に南朝を圧倒してしまった。南朝ではただ斉の永明11年(493)「呂超墓誌」(5巻図21)、梁の太清3年(549)「程虔墓誌」(5巻図56, 57)があるばかりで少ない。
墓誌は南北朝の初め、400年代に完備したが、まだ蓋石のあるものをきかないという。蓋石があれば水平に安置したことは間違いない。初めての蓋石は正始3年(506)「寇臻墓誌」にみる。ついで延昌元年(512)「鄯乾墓誌」、延昌2年(513)「元珽墓誌」、神亀元年(518)「高宗嬪耿寿姫墓誌」、神亀2年(519)「元珽妻穆玉容墓誌」、正光年間(520-525)になるとますます多い。みな誌石と同形、同大、題名はあるが、刻線の区画などはない。
ただ延昌2年(513)「元顕儁墓誌」(図53)だけは蓋石と誌石が合して亀形をなし、唯一の珍しい例である。これにはなお「龍門造像記」の書体を残している。
正光年間で特筆すべきは、正光3年(522)「馮邕妻元氏墓誌」である。26行、26字づめの見事な正書は最も筆法の整ったものであり、その四方面とりの蓋石にみる細緻な刻文は瑰麗をきわめている。
「馮邕妻元氏墓誌」の系統をひくものは、魏の宗室貴顕にわたって、次のようである。
①正光5年(524) 「元昭墓誌と蓋」
②正光5年(524) 「元謐墓誌と蓋」
③正光5年(524) 「王悦および妻郭氏墓誌と蓋」
④孝昌2年(526) 「元乂墓誌と蓋」
⑤孝昌2年(526) 「侯剛墓誌と蓋」
⑥孝昌3年(527) 「肅宗昭儀胡明相墓誌と蓋」(図69-71)
⑦永安元年(528) 「笱景墓誌と蓋」
⑧永安2年(529) 「元恩墓誌と蓋」
⑨永安3年(530) 「元天穆墓誌と蓋」
⑩普泰元年(531) 「元晦墓誌と蓋」
このうち元乂、胡明相、元天穆、元晦墓誌は蓋石の中央に大きく題名をとっている。これに亀形の「元顕儁墓誌」をくわえた装飾派のグループはさすがは宗室の盛衰に影響され、普泰以後にはあらわれない。
遠く隔たって、この伝統をひくものとして大業6年(610)范高および妻蘇氏の墓誌、大業12年(616)張濬の墓誌などがあるが、豪華瑰麗という点でははるかに及ばない。
正光5年(524)「比丘尼統慈慶墓誌」は末行に「中書舎人常景文、李寧民書」という。書者をかいた唯一の例である。整斉のうちに遒勁なところがあり、北魏の代表的な正書であるといえる。常景は『魏書』巻82に伝あり、「景は才思あり、もとより文章をよくす」という。東魏の興和3年(541)「元鷙墓誌」も常景の撰である。「洛陽伽藍記」巻1、3によると、永寧寺の碑文を撰し、洛水永橋の銘を勒したという。
なお撰者を記したものは、太和23年(499)「元弼墓誌」の趙郡李珍、延昌3年(514)「元颺墓誌」の「弟度支尚書大宗正卿元欽」、孝昌2年(526)「侯剛墓誌」の侍御史戴智深などがあげられる。建義元年(528)王誦の墓誌は弟王衍が序をつくり、撫軍将軍頓丘の李奨が銘を勒したという。このうち「慈慶墓誌」の常景、「侯剛墓誌」の戴智深は前後の別行にかかれ、後世にみるようなものであるが、その他はみな末尾の文中にくみこまれている。
例えば、「元弼墓誌」では、「太和廿三年九月廿九日をもって洛陽に薨ず、夫人張氏と西陵に合窆す、趙郡の李珍春秋の始なきを悲しみ、金石に託してもって文をのこす」という。
あたかも晋の徐君夫人管洛の墓碑に、「永平元年二月十九日をもって洛の西南に附葬す、大女聟崇は感慕罔極の哀にたえず、よって墓碑をたて遺烈を略紀す」というごとくである。
墓誌の形制は北魏に完成したとみてよい。これから北朝の後半、東西魏、北斉、北周をへて隋唐に及んでも、あるいは遼宋にいたっても、大した変化はない。ただ使用の範囲は次第に天下にあまねく、だんだん深く及んでいった(水野、31頁~38頁)。
龍門石窟 長廣敏雄
北中国の数多い石窟寺遺蹟のうちで特に大規模のものが3つある。
①甘粛省敦煌の千仏洞
②山西省大同の雲岡石窟
③河南省洛陽の龍門石窟
この3つはその地理的環境、創立の時代および石窟の性格からみてそれぞれ独特の歴史的意義をもつとともに、中国仏教の上昇期、隆盛期である西暦4世紀から11、12世紀頃までの仏教文化、仏教美術に貴重な寄与をなしたのであった。
そのうち龍門石窟は洛陽の南郊に造営されたが、洛陽は古くから帝都であり、中国古典文化の中心地であった。これに比べると、敦煌石窟や雲岡石窟の立地条件は貧弱である。敦煌はタクラマカン大沙漠の入口にある僻遠の地、大同雲岡は朔北の北方民族の故里である。したがって龍門石窟は同じ石窟寺という造営物でも、中国の由緒正しい古典文化の浸透してできた石窟寺であって、北族の素朴をあらわした雲岡石窟や、西域文化との関係が浅くない敦煌石窟とは大いに異なっていた。
さて、龍門石窟は洛陽の南10キロ、伊水の両岸にある。石灰岩の岩山が両岸に対峙し、この岩山が洛陽平野に突出してみえ、ちょうど門闕のような景観をなしているため、龍門とか伊闕(伊水の門闕の意)とかよばれた。この岩山は東山と西山とからなるが、石窟がはじめて掘られたのはこの西山に限られる。5世紀末、北魏の孝文帝の太和年間(477-499)で、西山の古陽洞を最古とする。それから6世紀、7世紀と唐代の中頃にいたるまで、ひきつづき盛んに造営され、西山の山腹が余地のないほどになって東山に移った。盛唐以後は急に衰え、ほとんど造営をみない。以下、北魏にかぎって述べている。
北魏窟は西山に限られている。北からかぞえて、賓陽北洞(第二洞)、賓陽洞(第三洞)、
賓陽南洞(第四洞)。以上が主たる石窟である。
造窟の年代は決定できないが、造像記の年紀によって大体を推定することができる。最古の石窟は古陽洞である。その造像記は北魏太和19年(495)にはじまり、数が多い。太和19年は孝文帝が朔北の平城から河南洛陽に国都を遷した翌々年にあたることは注目される。もっともこの造像紀年は長楽王丘穆陵亮夫人造弥勒像記にしるされているもので、三尊交脚菩薩龕の供養に関連するものである。この時代には古陽洞そのものの構造は少なくとも現在みる形としては、まだ出来あがっていなかったと長廣は推測している。古陽洞の造営は太和末年か景明初年(500頃)に始まったとみている。
三尊仏を本尊として奥壁に彫り出し左右壁三層の整然たる構造をもつ古陽洞は、龍門北魏窟中、もっとも繊細な彫刻を示すと共に、造像記の書体の雄勁な点において最も著名である。いわゆる龍門北碑体の書はこの石窟を宝庫としている。
長廣は昭和11年(1936)現地を調査した時、古陽洞内には5、6人の拓工が壁の縦横に架けた足場にのって、タンポの音がやかましいほどの響きにつつまれながら拓本製作のために働いていたという。
書道史の立場からすれば、龍門北魏窟の随一は何といってもこの古陽洞であると長廣はみなしている。
また賓陽洞はその壮麗さと統一があり、威厳にみちている点は、仏像彫刻の豪華な点からして北魏の代表石窟である。古陽洞より開始はやや遅れて正始2年(505)から起工され、正光4年(523)に完成している。
この結論には次の「魏書釈老志」の記事が前提になっている。「景明のはじめ、世宗は大長秋卿白整に詔して、大同の霊巌寺石窟にならい、洛陽の南伊闕山において、高祖孝文帝およびその皇后のために石窟二箇所をつくれと仰せられた。最初の造建では窟頂は地を去ること三百十尺であったが、正始二年(505)に至ってようやく山を斬ること二百三十尺に達した。(中略)永平中(508-512)に至って、中尹の劉騰が世宗のためにまた石窟一箇所を造ることを奏請した。すべてで三箇所である。景明元年(500)から正光四年(523)六月までに工八十万二千三百六十六人をつかった。」
この記事から知られるように、世宗宣武帝の勅願により高祖孝文帝とその皇后のために石窟二箇所がほりだされ、さらに世宗治世中の永平年間(508-511)に今上皇帝のために石窟一箇所がつくられた。総計三箇所となった。この三窟の開鑿はなかなかの大工事であって、起工以来23年間の歳月と80万2366人の労働力を要した。
世宗の勅願によって造営された石窟は、壮麗な構造と仏像の偉大さなどからみて、賓陽洞およびそれに隣接する賓陽南洞であろうと長廣はみている。
賓陽洞はりっぱに完成した北魏窟であるが、賓陽南洞の方は窟内各所に北魏のおもかげを存しながら、本尊阿弥陀仏および脇侍は隋様式である(おそらく北魏では未完成におわり、隋代に第二次の工事が進められたのであろう)。
一対窟の造営が予定されながらただ一窟しか完成しなかった事情は政治経済情勢の変化にあるだろうとされる。なお第3番目の石窟すなわち世宗のための窟は賓陽北洞(第二洞)かもしれないとみる。この窟は賓陽洞と同大ではあるが、仏像がすっかり初唐風に変化してしまっている。これもまた北魏時代に未完成のままに放置されてしまい、初唐の頃完成したのだろうと考えられる。
さて龍門石窟の造営の背景をなした洛陽時代の北魏仏教文化について、長廣は略述している。孝文帝が洛陽に遷都したのは太和17年(493)であったが、皇帝は太和23年(499)に死亡、彼の第二子である世宗宣武帝が17歳で即位し、延昌4年(515)に33歳で死亡するまで帝位についていた。
世宗は高い知性の持ち主で、特に仏教教理に深い傾倒を示した。その宮廷では名僧を集めて講論を演じさせ、当時、洛陽のみならず国内の仏教信仰は盛大であって彼の治世の晩年(延昌年間)には全国の寺院数が13727に達していた。洛陽南郊の龍門石窟はこの風潮を反映していた。殊に注意されるのは正始元年(504)世宗みずから伊闕すなわち龍門石窟に行幸していることである(『魏書』巻8)。先述したように勅願の窟は着工最中であった。それどころか第一次計画が310尺の高さという大規模なため、「山を斬ること二百三十尺に達した」にすぎないという工事の行詰まりは皇帝行幸の翌年であった。いずれにせよ世宗が龍門石窟に大きな関心をもっていたことの一つの証拠であろうという。
北魏朝廷は朔北の平城(今の山西省大同)に帝都を営んでいた時代に、雲岡石窟を造営した。洛陽時代になっても世宗のような崇仏の念の篤い皇帝が出現したが、しかし大石窟の完成したものはそれほど多くない。古陽洞、賓陽三洞、蓮華洞ぐらいが大洞にかぞえられるのだが、終始一貫した構造と仏像をもつのは賓陽洞だけである。
大窟造営能力の貧弱化の理由は皇帝の政治的実権が弱まったことに帰因すると長廣はいう。世宗が33歳で死亡したあと、肅宗孝明帝はわずか6歳で即位し、実母の霊太后が政治の実権をにぎり、皇帝は全くロボットであった。霊太后にはその叔母に宣武帝の朝廷に出入りする尼があり、この尼から仏教の大義を学んでいた。霊太后はその父胡国珍ともども崇仏家である。気性のはげしい才女で権力をにぎったことにより、横暴きわまりなく、北魏国政をあやまらせ、亡国の道へ追いこんでしまった。
515年以降は霊太后の独裁時代であり、北魏仏教文化は爛熟期を迎えた。洛陽には永寧寺の大伽藍が新たに造建され、高さ40余丈の巨大な九層塔が建てられた。霊太后もまた龍門石窟に多大の関心をよせていたらしい。『魏書』巻9によれば、熙平2年(517)4月乙卯の日に彼女は、伊闕石窟寺に行幸し、即日洛陽宮城へ還ったという。どの石窟へ行幸したか、むろん一切わからないが、三所の勅願石窟に関係する行幸がおこなわれたことを想像させる。これら石窟造営に深い関係のあった宦官の劉騰は一時、霊太后を幽閉したりして専横をきわめたが正光4年(523)に死亡しているが、彼の死亡は上述の石窟未完成の原因だったかもしれないと長廣はみている。さらに『魏書』によれば、9年後の孝昌2年(526)、当時17歳の肅宗みずからが南石窟寺すなわち龍門石窟に行幸したのであった。
龍門北魏石窟は当時の帝都洛陽の仏教文化、そして仏教信仰の消長、盛衰と密接な関係にあった。石窟も造像も寄進者、供養者をまってはじめて成就した。龍門には北魏から隋・唐・五代・宋にわたり、造像記3680品が残っているといわれる。中国の金石窟遺蹟を通じて龍門ほど造像記の豊富な土地はほかに見当らない。しかも中国における石刻研究が進むにつれ、龍門北碑体の書道史的意義が高く評価され、ついにはすぐれたものを選んで「龍門二十品」の拓本を広く流布されるにいたった。したがって造像記の研究は龍門石窟の成立、造像寄進の由来、また広く仏教史的意義、書道史的価値の上にきわめて重要なものである。
北魏造像記は、当時の支配階級である北魏宗室や官吏の発願したものであり、仏教信仰の指導者であった僧尼のものもあり、信者団体のものもあり、民間男女がその父母や愛兒を失った悲しみを訴えたものもある。その供養した仏では釈迦仏と弥勒仏とが圧倒的に多く、後の隋唐における阿弥陀仏の隆盛と著しい対照をなしている。北魏の紀年をもつ造像記は200種に近く、無紀年ながら北魏の製作と推定されるものを加えると200を遥かに突破する。古陽洞はもっとも多く、約80種に達し、殊にもっとも古いもの、すなわち孝文・宣武二帝時代のものはほとんどこの窟に集まっている。その他は老龍洞、蓮華洞、薬方洞、火焼洞に散在する。
造像記が石窟壁面においてどういうあり方をしているのか。この点について、中国の金石書類に「始平公造像記」として著録せられ、龍門二十品の随一にかぞえられている造像記(図40, 41)を例として長廣は説明している。まず銘記の大意を紹介している。
「比丘慧成は身を仏教界におき、昌運にあえるよろこびから、誠心をつくして国の為に石窟を造り皇恩に答え、来世の善業に資せんと志した。偶々父、始平公の薨去にあい、悲歎追慕にたえず、亡父の為に石像一区を造り、亡父の神の得脱を願い、また過去世の師僧父母一族が兜率天に生れるように願い奉る(下略)」
発願者である比丘慧成は使持節光禄大夫洛州刺史始平公某の子であったことがこの文からわかる。この始平公がいかなる人かは明らかでないが、洛州刺史すなわち洛陽地方の有力な官吏であったことは疑いない。そして比丘慧成は「誠心をつくして国の為に石窟を造り皇恩に答え、来世の善業に資せんとした」とあるから、この古陽洞の開鑿を企てたのは
比丘慧成であることが知られる。
また彼の目的の第二は「たまたま父、始平公の薨去にあい悲歎追慕にたえず、亡父の為に石像一区を造り、亡父の神の得脱を願った」のであり、この発願は孝文帝崩御の前年である太和22年(498)にあたっていた。
この造像記の位置は、古陽洞南北壁に3段に整列している仏龕のうちで北壁つまり奥に向って右の壁上段の入口にもっとも近い仏龕龕側である。きわめて繊麗な龕の装飾をもつ釈迦坐仏を本尊とする龕である。この仏龕にならんで内側につくられた同形式の坐仏仏龕には魏霊蔵・薛法紹造像記(図46, 47)がしめされている。またこれらと向きあった南壁には同形式の坐仏仏龕があり、それの一つに景明3年(502)の新城県功曹の孫秋生らの「二百人造像記」(図42, 43)がある。これは新城県の功曹であった孫秋生と劉起祖との2人が発起人となり200人の同志を勧進して資金を集め造像したものである。
このようにして古陽洞の造像は整然とした壁面構成をしており統一があるので、あたかも一人の有力者が全部を造営したかに想像させるけれども、事実はそうではなく、出資者は別々の時期(それもむろん太和末から景明年間が多いが)に造像資金をだし、思い思いの発願をしていた。しかしそれでも造像様式とか石窟の統一とかが整然としていて、ただ一人の企画者の頭脳から出たとしか思われないように見えるのは、最初の石窟発起者比丘慧成はよほどの資力を投じ、彼の背景をなした亡父の政治家的地盤に物をいわせて、この大規模な石窟の基本的な開鑿事業を相当程度まで達成していたと長廣は推測している(長廣、39頁~46頁)。
六朝の異体文字について 小野勝年
異体文字の意味のとりかたは人々によってかなり違っている。現用の文字と比較し、字形や字画の相違したものを普通に異字といっているが、それがかつて一般に通用していた文字であるとなると、その時代には異字でもなんでもなかったことになる。言葉が変遷するように、象形から発達した中国文字にはその一つ一つに長い歴史が秘められている。
さて秦の始皇による政治的統一は使用文字の統制にも及ぼされた。それは李斯の献策により、春秋戦国時代、列国の治下でそれぞれ使用していた地方的な文字を禁じて、秦が自国で長い間使用した文字(大篆)を主体とし、これに多少の改良を加えた秦篆(小篆)を合せて強制的に文字の統一を遂行しようとしたことを意味する。
始皇が自らも誇った、機械一量、同書文字という言葉は理想としてはよかったが、これを秦の立場において強制するとなると、かえってすぐれた伝統と文化を保持している地方では心服しえないものがあった。だから始皇在世中すら八体もの文字が、依然併用されざるをえなかったという。そして秦が滅亡するや、斉魯地方でかつて通用していた孔子壁中の書体、いわゆる古文などが時をえて、復活し、継承されるに至った。しかし文字の統一は国家の文教策上必要欠くべからざるものであったから、たとえ秦の文字政策が不成功に終ったとしても、漢もまたその精神を継承しなければならなかった。
武帝は儒学を国教と定め、五経博士を置いたが、このことは文字の整理の上にも絶大な影響を与えた。というのは、経書の文字を正すことはこれを学ばなければ立身出世ができないので、士大夫にとっては必修事項だからである。後漢の熹平年間に大規模な経典の石刻が行われたのも、また国定教科書制度と同様の意味をもつもので、やがて魏の正始の石経、唐の開成の石経、蜀および宋の石経、降っては清の乾隆の石経などの先例となった。
『漢書』の芸文志によると、漢興りて閭里の書師が蒼頡(そうきつ)、爰歴、博学の三篇を合せ、新たに蒼頡篇を編したとある。これは前代の暗誦用書物をさらに整理し、文字の記憶に便したものであった。その他にも当時、司馬相如の凡将篇、史游の急就篇、蔡邕の勧学篇、服虔の通俗文などが用いられた。それらは文字の初等教科書として梁の周興嗣の「千字文」の普及する前に一般に行われたものである。
宣帝・平帝時代になると文字の学問も一層盛んになり、このような要求に応じて生れた楊雄の訓纂(くんさん)篇に収められた字数は5340字に及び、これで当時群書に用いてある文字は一応網羅されたという。
さらに王莽のとき甄豊(しんぽう)が文字を六体に分類し、後漢も張倉、賈逵(かき)が整備にあたった。賈逵は許慎の師で、ここに中国の文字学の始祖の生れでる基盤ができ上った。「説文」は秦篆と古文と籒文とを折衷して、文字の構造を説明した辞書で、9353字を収めている。許慎は六書と名付ける有名な原則を設けて文字の構造は説明した。すなわち指事、象形、形声、会意、転注、仮借であって、武内義雄の見解によると、指事、象形、形声、会意は文字構造の原則、転注と仮借とはその適用に関する規則であるという。
もっとも許慎の対象としたものはこのような篆字であったが、漢代はすでに隷書常用の時代となっていた。この隷書は俗説では秦の時、程邈(ていばく)が囚人として獄中にあったとき作るところというが、実は篆字が自然に省略されてでき上ったもので、その成立も一、二の人の創作に帰するわけにはいかないと小野は断っている。
北魏の江式も蔡邕が李斯・曹喜の法を採って古今の雑形をつくり、詔によりて太学に石碑を立て、五経を刊載し、題書の楷法は多くこれ邕の書なりといっている。その後、さらに隷書をつぎ、これを母体として発展した楷書の生れるべき段階となった。
楷書はまた正書とも真書ともいう。晋の衛恒によると漢の王次仲がはじめて作るところという(「四体書勢」)。王次仲の創作説はもちろん疑わしいが、魏の鐘繇や晋の二王の書であるとして現在伝えている法帖の類をひもとくと既に明らかに楷法によっているのである。もっとも今日伝存している法帖(例えば正倉院蔵の「楽毅論」[9巻図42, 43])などが果してどの程度まで当時の姿を存しているか問題であると小野はみている。
一面では確実な遺品と見なすべき魏晋時代の石刻数はほとんど隷書体といった有様である。しかし降って南北朝となるとすでに楷書の法が確立し、今日その遺例を指摘することはすこぶる容易であることは『書道全集』に集録されている諸例についてみても明らかであると小野はいう。
もっとも楷書と隷書の関係はすこぶる密接であり(「唐の六典」「書断」)、その推移も今後考究を俟つ必要がある。要するにこれを概観するならば、漢代が隷書盛行期、魏晋が隷楷過渡期、さらに南北朝をもって楷書流行期と考えられるとみている。
六朝時代に各種の書体が並用されたことは劉宋時代に36種がおこなわれた(王愔の「文字志」)と伝える。斉の蕭子雲の「古今篆隷雑体」は52体を採録したともいう(「玉海芸文」)。さらに梁の庾元威の「論書」によると、斉末には王融が古今の雑体64種を書き、これを韋仲が91種とし、謝善勛は合成して百体としたと述べている。そして元威は自らも百体書の屏風をかいたという。「論書」をみると、その名称が一々列挙してあるのみならず、その後さらにこれに20種の書体を付加して都合120体となしえたことを誇っている。
それには例えば小篆とか隷書などもあるが、鳳篆、魚書、亀書などのような奇妙な名称も含まれている。これらの雑体の書がどのようなものであったかについては明らかにすることができないが、書道上の遊戯であったとみなされている。
ひるがえって思うに、文字学が一度、許慎によって確立されて以来、その亜流は断絶することはなかった。まず魏晋の際の代表者として数えられる人に、張輯、邯鄲淳、李登、呂忱がある。邯鄲淳は「三体石経」の筆者として知られているが、張輯は「古今字詁」3巻、李登は「声類」10巻、呂忱は「字林」7巻の著者であった。
今日いずれも伝存していないが、「声類」には11520字を収めた。降って北魏時代には楊承慶が「字統」を著し、梁の顧野王は「玉篇」を編纂した。「字統」には13734字、さらに「玉篇」には16917字を収めたという。これらの字数は唐の封演の「聞見記」に記すところであるが、「説文」の9353字に比べると「玉篇」は約7500余字増加している。したがって「説文」所収の字を基準とすると六朝時代には7500に及ぶ別個の文字が存在し、そのあるものが一般に使用されていたといっても差支えはないと小野は考えている。
清の陳鱣(せん)が李登の「声類」の逸文を集めた際、以下のようなことを述べている。「声類」が「説文」に比較して増加しているのは、当時仏書が盛んにおこなわれて、偽体字が雑見したためであるという。こうなってくると、上述したような書道上での雑体文字とは別個に異体同義字そのものの増加が当時漸く増加しつつあったことを看過できないという。
梁の武帝は五経博士を置き、国子学や五館を設けたり、北魏もまた学制をしき、中央には太学、地方には郷学を設けるなどの文教策を行なった。
さらに北斉のとき碩儒の李鉉が経書の注疏に用いた文字を正すため「字弁」を著し、北周では趙文淵に命じて隷書の誤りを正させるために「六伝休成」を撰させた。しかし不安定な六朝時代の政情にあっては、こうした文字の肅正の運動も効果を挙げえなかったようである。当時いかに文字が混乱していたかについて、小野は庾元威の言葉を借用している。
「省くことをむさぼり、異ることを愛し、頭を濃にし、尾を繊にし、腰を断ち、足を頓(かか)げ、一と八と相似、十と小とは分ちがたい」と。
やや遅れて有名な顔之推も
「晋宋以来、能書のもの多し。ゆえにその時俗はたがいに相染尚して、あらゆる部帙の楷正なること観るべきものあり。俗字なきにあらざるも大損をなすに非らず。梁の天監の間、この風いまだ変ぜざりしも、大同の末には訛替滋く生じ、蕭子雲が字体を改易し、邵陵王はすこぶる偽字を行う。朝野翕然としてもって楷式となし、虎をば画いてならず[猫に類し]
傷敗するところ多し。」と述べている。
さて六朝時代の異体文字の実際をうかがうべき資料は幸いにも今日比較的多く残っている。それは敦煌から発見された当代の写経類をはじめとし、各地の摩崖に刻された経典、さらに仏菩薩の彫刻に添えた造像記、その他碑文や墓誌のようなものを指す。
これに関する影印や拓本も今日では容易に見ることができるようになり、異体文字に関する注意も盛んとなった。また清代末期の著書である「金石萃編」、「八瓊室金石補正」のような全般的な書をはじめ、六朝時代の金石を記した諸文献には異字別字を注記し載録している有様であって、この異字や別字のみを集録した書物も一二にとどまらない。例えば、趙之謙の「六朝別字記」1巻、邢澍の「金石文字弁異」12巻、その他、羅振玉の「碑別字」などがある。また水野清一・長廣敏雄著『龍門石窟の研究』同響堂山石窟などに付せられた異字表も日本における六朝異字研究の貴重な文献である(小野もかつてその作成に関与したという)。
この他、写経において、法華経のように広く念誦されたものはとにかくとして、たとえ書写年代が唐あるいは日本の奈良朝のものであっても、流布に乏しい経典にあっては、それ以前の飜訳当時の字画を意外にも伝存しているという。小野が調査した正倉院の聖語蔵の経巻を通じても、しばしば気付いたところであるという。
さて六朝時代の文字の中から異体についての若干の例を小野は採集し、分類している。
①意味が同じで字形が相違しているもの(亦など)
②多少の共通はあっても相違点の多いもの(東など)
③部首があるいは増し、あるいは減じているもの(泥など)
④字形の一部分が共通しているが相異のあるもの
(イ)「旁(つくり)」の共通している場合(化など)
(ロ)部首の共通しているもの(閉など)
⑤字配りや字画の相違しているもの
(イ)字配りの異なるもの(仙など)
(ロ)字画の多いもの(不など)
(ハ)字画の少ないもの(泉など)
このように異体文字の例を分類し、具体例を挙げることができる。この中にはただ隷体と楷体との相違と見るべきであって、前者が依然として後者の間に残存しているような場合も少なくはない。すなわち一見異字と思われるもので、実は隷書がなおそのまま楷書として使用されているものも少なくない。例えば北響堂山における北斉時代の隷書体の石刻類を通じて見れば、直ちに窺われる。
また六朝時代には発音が共通しているため、扁旁が異なっていても、かなり任意に用いている場合もある。さらに楷書にあっても、俗字あるいは偽字であり、同音字の転用もあり、通用はしたけれども、実際は訛誤にもとづいていると解釈されるものもないではない。碑別字などをひもとくと明らかなように、龍や亀などの数多い字形のうちには書家が筆画を任意に加減していると思われる例も少なくないものがあり、造像記に見える仏像一軀と記す場合においても、塸あるいは傴、あるいはただ區とのみ書き、任意的であることに気づく。さらに字配り、筆順、字画などにおける小さな相違点となると枚挙にいとまがない。したがって、これらのことを念頭におきつつ、常識的に見た異字の少数例について小野は分類を試みた。
南朝と北朝とを比較してみると、北朝で用いられている異体字によりこの点の著しいものがあるように思われ、これは顔之推がすでに指摘していることとも一致する。とりわけ北魏の場合には、石刻類の遺品も豊富であるだけにこうしたことが顕著に見受けられる。しかし同じ北魏のものでも、異字の多いものとそうでない類とがあり、注意すると、それらには書法の相違点すら認められ、前者には筆力健勁ではあるが、あのゴシック文字を見るような奇古な感じがある。したがって異字問題には同じ北魏のものにあっても、そこに書風の相違といった問題にいたるまで詳細に追究する必要があると小野はいう。
見なれない異体文字を多くふくむ奇古な書流に対していると、後世における契丹文字や西夏文字を発明した北方民族の文化的基盤と共通した傾向といったようなことが想起されるという。そしてそこには五胡十六国以来北方系部族の北中国支配と何らかの関連があるかもしれないと小野はみている。
六朝時代の文字の動揺と混乱とは隋の出現によって、当然、統一されなければならない要請であった。そしてもし隋朝が長く続いたならば、その文字統一という使命はおそらく南朝系の楷書による制圧をもって終止符がうたれたであろうと小野は想像している。
しかしこの事業は楊隋の短い統治期間ではなしとげられず、李唐の出現をまたなければならなかった。唐の太宗ははなはだ書道を愛好した人であった。上の好むところ下これに応じ、虞世南、欧陽詢、褚遂良らが輩出し、彼らが初唐の時代の書道界を風靡し、楷書体の完成に大きな寄与をすることになった。
このような書風の流行とともに文字統一に大きく影響したのはまず経書の制定であると小野はみている。孔穎達の編した「五経正義」が科挙には必須の典拠となり、その編纂事業に関与した顔師古はこれに使用する文字の基準を示すために「顔氏字様」を著した。
これはやがて「干禄字書」のような標準文字の普及書ともいえる書物の母体となったものである。「干禄字書」とは顔玄孫の著すところで、彼は顔師古四世の孫といわれる人である。そしてこの書は楷書を四声の順によって排列し、正体、通体、俗体の三種に区別して文字を標示したものである。それが中唐時代の書道界を支配した顔真卿の書と相俟って、初等書学に大きな影響を及ぼした。さらにこの頃になるとこの種の著作として、張参の「五経文字」、唐元度の「九経字様」などがある。
もちろんこの時代になると唐の威勢も沈退しつつあり、この頃の仏典の注疏類を通じてみると、依然、相当異体字の使用が認められるが、公式な場所においては漸次こうしたものが影をひそめる趨勢にあった。
あの隋代に発明されたと伝える活版技術が漸次普及してくる結果、これが字形や字画の混乱を防止することに大きな助けとなったと小野は考えている。
なお当時、一般書のみならず、浩瀚な辞書類までも印刷されたことは入唐僧の宗叡が成都で刻された「玉篇」や「唐韻」をすでに日本に将来していることによってもわかる。こう考えてくると、六朝時代のあの異体文字は、唐朝の長い努力や木版技術の発達により、はじめて一応の整理を見るに至ったものと小野は理解している(小野、47頁~52頁)。
別刷附録 馬鳴寺根法師碑
《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その5中国5、6-a》
5 中国5 南北朝Ⅱ
この篇には南朝の宋の初年から陳の滅亡に至るまで(420-589)、170年間の書蹟を収めている。この期間にあたる新羅の書蹟もあわせてここに収載している。
中国書道史5 神田喜一郎
南朝は、いわば門閥貴族の黄金時代であった。南京にあたる建康を都とした4つの王朝である。文化は奢侈的、装飾的であった。都鄙の間に生じた文化の大きな懸隔は、当時の書法を考える上にも重要なことである。二王の典型は、後世永く中国書法の規範として一般に遵奉せられる。二王をもって、「終古の獨絶にして、百代の楷式なり」(宗の虞龢[ぐか]
の論書表)。個性に基づく相違があり、王羲之の書が荘重味を帯びていたのに対し、王献之の書が軽妙の趣に特色を持っていた。南朝では、王献之の書が一般に喜ばれた。王羲之の書法が一般に行われるのは、劉休に始まるという。
武帝は、「子敬(王献之のあざな)の迹は逸少(王羲之のあざな)に及ばず」(『南史』巻42、蕭子雲伝)と論定している。そして、陳王朝の智永(図60-89)は、当時の書法の巨擘と推されるが、その僧智永により、王羲之の書法はいよいよ書法の規範として尊重せられる。智永は王羲之の七世の孫で、みずから「真草千字文」を八百余本も書き、浙東の諸寺に施入したと伝えられる。
一方、二王の書法にことさら反抗した者として、斉の張融がいる。張融は王羲之の書法に反抗して、旧い時代の古法を墨守することを主張したようだ。そうした古法は、当時の文化の中心地建康を遠く離れた辺陲の地には、まだ遺っていた。今日も雲南に現存する「爨龍顔碑(さんりゅうがんのひ)」(図4-13)は古代の隷法の遺意を伝えている。
南朝に至って、書に対する批評精神が勃興した。後世まで、中国の芸術批評に品等型と比喩型とを生むことになった。
また、今日一般に中国の書法を論ずる者は、南北朝時代の書が南北互いにその風を異にしていたと説く。神田は、清の阮元の南北書風の相違説に疑問を呈している(神田、1頁~7頁)。
千字文について 小川環樹
まず、書物としての千字文の由来と普及について述べている。千字文の著者は、梁の周興嗣(しゅうこうし)である。生まれた年は明らかでないが、470年前後に生まれたと推定され、521年に卒している。
唐の李綽(りしゃく、9世紀後半)の尚書故事によると、梁の武帝は王子たちに書を習わせるため、王羲之の墨蹟の中から重複しない文字一千字の模本を作らせたが、周興嗣を呼び出して、これを韻文になるように順序だてるように命じた。周はたった一日でつくったので、一夜でひげも髪の毛も真っ白になったという。
一晩のうちに白髪になったとは誇張された伝説であろうが、千字文が最初から習字の手本として作られたことを示す点で注意すべきである。手本となるべき文字は、王羲之の筆蹟であったはずであるというのは異説があり、魏の鐘繇(しょうよう、151-230)の筆蹟をこわれた石碑からとったともいう(『宋史』李至伝)。
鐘繇の千字文と称するものも伝本が存し、「魏の大尉鐘繇の千字文、右軍将軍王羲之勅を奉じて書す」と題するものが、宋代の『宣和書譜』巻15の王羲之の条に著録されている。題を信ずると、いかにも鐘繇が編次した千字文がまず有り、この文を王羲之が書いたことになり、周興嗣はさらにその文字の排列をかえただけであるように思われる。しかしもともと『宣和書譜』自身が疑わしい書物で、王羲之の筆蹟なるのも極めて疑わしいという。小川は鐘繇の作(あるいは書)という説を否定している。
一方では、北宋の欧陽脩(1007―1062)は、千字文の中の百字までは漢の章帝(在位76-88)の文をそのまま用いたのだという。『淳化閣帖』には、漢の章帝の書と称する断片があり、「辰宿列張」と今の千字文と同じ句が見出され、章帝は鐘繇よりいっそう古い。この書は
いわゆる章草体で書かれている。
しかし『淳化閣帖』にのせられた章草体の千字文が章帝の筆蹟だとする根拠にはならない。宋代の学者も章帝の書だと信じない人が多い。黄庭堅(1045-1105)らを始め、明・清以後になれば、ほとんど定論となった。
要するに、梁以前から千字文が作られていたと考えるための確実な根拠はないと小川はいう。周興嗣あるいは王羲之の以前に千字文が存在していたという想像は、「周興嗣次韻」の題の誤解から生じたものという。つまり次韻という以上は、それに対する原作がなければならないという推論からうまれたものではないかという。
しかし、他人の詩の押韻の字だけを残して新しい詩を作る「次韻」のやり方は、唐代の元稹、白居易に始まり、8世紀以前にはほとんど例がない。「周興嗣次韻」とは、ペリオが言うように「文字を韻文になるように排列した」の意味に解釈すべきである。
周興嗣の千字文は、一字も重複がなく、これを四字ずつ一句とし、すべて250句、最後の二句をのぞけば、一句おきに脚韻をふむ。重複なしに美文につづった手腕は非凡で、一夜で白髪になったとの伝説もいかにもと思わせると小川は感想をもらしている。
初学の読本として今日まで伝わっているものには、前漢の史游の急就篇があるが、千字文がひろまるにつれて、次第に使われなくなってしまった。その原因の一つとして、急就篇はただ事物の名を列挙したところが多く、千字文のように美文としての体をそなえていないことを挙げている。
唐代に入って、千字文の普及は加速度的になり、日本にも及び、東大寺献物帳(756年に施入された物品目録)にも、王羲之筆の模本千字文一巻の名が見える。
古事記、日本書紀によれば、百済の和邇(王仁)が献上したのは応神天皇の16年(西暦285年)だが、周興嗣の死より260年以上もまえで、日本の古史の紀年が故意にひきのばされた結果である。王仁来朝の年が521年以後であった事実を明示するものだといえる。
20世紀はじめ、敦煌の千仏洞から発見された文書の中には千字文の写本が存在する。
宋代以後、大観3年(1190[ママ、正しくは1109])に智永の千字文が石碑になった。清朝末の劉鶚(りゅうがく)の小説、「老残遊記」の中にも、いなかの本屋の主人が一番よく売れる本は「三百千千」だと語るくだりがある。三は三字経、百は百家姓、千は千字文と千家詩である。
いろいろな物の番号をつけるのに千字文の字をつかうことがある。宋版以来の大蔵経ではこれを利用し、天地玄黄の天は1、地は2、玄は3、黄は4の代用になる。清朝では文官任用試験の試験場で座席の順序を示すのに、これを用いた。日本でイの一番というところを、中国人は「天字第一号」という(小川、8頁~18頁)。
瘞鶴銘(えいかくのめい)について 外山軍治
本篇の目的は、瘞鶴銘に関する研究の概略を紹介することにある。まず、何故このような盛況をみたのかについて考察している。瘞鶴銘が「蘭亭序」と比肩するほどの声価をかちえたのは、北宋に欧陽脩、黄庭堅がこれを推称したからであるという説がある。
しかし外山はこれだけで、その研究の続出を説明するには無理があるといい、研究熱の根源を問い直している。
瘞鶴銘は、はじめ焦山(江蘇省丹徒県の東)の西南の崖石に刻されたが、その搨摹が困難であることが人々の好奇心をひいた。どう判読するか、刻された時期、撰書人も不明であるから、ますます人々の興味をひいたのも無理はない。いわば、ボナンザグラム的興味がその研究を盛んにしたと外山はいう。
北宋において瘞鶴銘が脚光を浴びたのは、金石学勃興の気運を物語る。金石学に学問的な基礎を与えたといわれる欧陽脩は、瘞鶴銘に心をひかれた。彼は、この銘の筆者について、王羲之の書とする説もあるが、王羲之の筆法には似ていないで、顔真卿に似ているものの、何人の書であるかわからないといった。ところが黄庭堅は、王羲之の書だときめてしまい、この銘に傾倒した。この頃から、瘞鶴銘が珍重されるに至った。
そして実地踏査によって、邵亢と張與(よ)がその全文を紹介した。黄伯思は、邵亢の攷
次したところを紹介し、瘞鶴銘の書者を梁の道士陶弘景と定めた。さらに、黄庭堅の王羲之説、劉燾(とう)の唐の王瓚説の成り立たないことを主張した。この黄伯思の陶弘景説
は強い影響を後世に及ぼした。これに対して、董逌(ゆう)は、黄伯思の説に反対し、撰人は陶弘景としても、書人は上皇山樵であるとした。黄伯思説には、南宋の馬子厳、元の陶宗儀、明末清初の顧炎武、清の呉東發、董逌説には、清の汪士鋐、王澍、翁方綱が賛成している。
宋代についで瘞鶴銘の研究に華々しい展開のみられたのは清初になってからで、これも金石学再興の風潮に応じたものであった(外山、19頁~23頁)。
なお、外山は図版解説において次のように述べている。
瘞鶴銘はもと江蘇省丹徒県東方の長江中に孤峙する焦山の西南、観音庵下の崖石に刻されたが、そのうち落雷のために轟裂して江岸に崩れ落ち、春夏の候には江水に没し、秋冬になって水が涸れたとき、苦心の末やっと近寄って、これを搨することができた。
南宋の淳煕年間、一旦ひきあげられたが、そのうち再び江に没した。そののち、清の康熙51年(1712)、陳鵬年がこれを山上にひきあげ、5個に割れていたのを合わせて一つとし、亭を建てて保護を加えるにいたり、搨摹しやすくなった。
書は正書、ときに隷体をまじえ、大字で左行に刻せられている。書者については、宋の黄庭堅のように、王羲之ときめてかかった人もあったが、黄伯思が『東観余論』で梁の陶弘景に擬してからのちには、この陶弘景説をとるものが多くなった。これに対して董逌は、撰者は陶弘景かもしれないが、書者は上皇山樵であるとして、黄伯思の説を斥けた。
外山軍治は撰者を梁の道士として高名な陶弘景に擬する説を妥当な考えとしている。その理由として、①この銘の撰者である華陽真逸が、華陽隠居として知られる陶弘景の別号と考えられること、②文の内容が仙鶴の死を悼んだものであり、その句法がやはり陶弘景撰とするところの許長史旧館壇銘と同じである点を挙げている。
この瘞鶴銘の書は、いかにも俗界をはなれた人の書らしくおうような気分をたたえているといわれる。古拙奇峭、雄偉飛逸、蕭疎淡遠、字体寛綽とか評せられていて、とにかく一種の趣きをもっている。もっともこの書に傾倒したのは黄庭堅で、彼はこれを王羲之の書と信じ、深くこの書の影響をうけた。その他、曹士冕も筆法之妙、書家の冠冕たり、と激賞している。反対に、この書をそれほど高く評価しない人も少なくない。しかし、王羲之の書風を伝えたものに、このような大字が残っていないだけに、大いに珍重されるべきであろうと、外山軍治は述べている(外山、図22-33、図版解説、141頁~142頁)
南朝の法帖 中田勇次郎
中国の法帖で、もっとも高い位地を占めている時代は東晋である。南朝は東晋と隋から初唐にかけての書の第二の峯の中間にあって、重要な意義をもつ時代である。しかし南朝の現存する法帖は乏しく、ほとんど集帖に刻された墨拓ばかりである。
ただ、幸いに多少の文献が存在している。その大部分は書論に関するものである。その一つは書の優劣上下を品第したもので、梁の廋肩吾(ゆけんご)の書品のごときものである。もう一つは、書を自然現象に比況して批評を加えたもので、たとえば、羊欣の「古来能書人名」、斉の王僧虔の「論書」である。
ところで、現存する南朝の法帖は、3つに分けられるという。
一、宝章集、万歳通天進帖とよばれるものの中に収められているもの
二、『淳化閣帖』に刻されているもの
三、明清の集帖に載せられているもの
一、宝章集の中に収められている南朝の法帖は、697年に鳳閣侍郎の王方慶に命じて王羲之の遺蹟を求められたが、638年太宗が購求されたときに進上してしまって、ただ一巻残っているだけで、これを進上した。進上の諸蹟を群臣に示し、中書舎人の崔融に諸蹟を集めて宝章集を編纂させ序文に事の始末を述べさせた。
宝章集に収められている南朝の法帖は、王僧虔の太子舎人帖以下、次の五帖である。
1. 王僧虔 太子舎人帖 楷書四行三十三字
2. 王慈 栢酒帖 草書四行二十五字
3. 書者不詳 汝比可也帖 草書六行二十九字
4. 書者不詳 尊体安和帖 草書十二行七十二字
5. 王志 一日無申帖 草書六行三十七字
1.王僧虔 太子舎人帖 楷書四行三十三字
王僧虔の逸事として、宋の文帝が王僧虔の筆蹟は子敬(王献之)よりすぐれているばかりでなく、人物もそれ以上であるといって称賛したことを伝えている。唐の張懐瓘の「書断」に、王僧虔の書を批評して、かれは小王(王献之)を祖述し、とりわけ古直をたっとんだという。その書は質実で、才気の溢れたものであったと中田は推測している。
2.王慈 栢酒帖 楷書四行二十五字
尺牘で、のちに唐懐充と范武騎の署名がある。范武騎は梁の武帝のときの范胤祖という人であると推測でき、この帖は梁の内府にあったと中田はみている。
晋の王羲之は儒雅な書風をつくりだしたが、その子の王献之は、逸気のすぐれた書風を打ち立てた。宋斉の士大夫は王献之の新しい書風を争って学んだ。羊欣(ようきん)、孔琳之、薄紹之などがそれである。南朝の法帖の根底となっているのは、ほとんど王献之の縦逸さであるという。
宋の黄山谷のことばによると、宋斉の間の士大夫の翰墨はすこぶるたくみである。そのすぐれたものは右軍父子に逼っている。南朝の士大夫たちは、なお二王の超逸絶塵、一点の俗気のない書風を相承していることをみとめている。
また右軍父子の草書を論じて、右軍の草書は能品に入り、大令の草書は神品に入る。二王の草書を文章に比べるならば、右軍を左氏に、大令は荘周に似ている。晋代よりこのかた、風塵の気をすっかり脱落したもので、二王のような人物は得がたい。ただ顔魯公(真卿)と楊少師(凝式)だけがいくらか大令に似ているだけであるという。
二王はいずれも超逸絶塵の気象をそなえているが、どちらかといえば、王献之の方がその気象をより強く発揚している。唐の顔真卿は王献之の縦逸さを受けつぎ、宋代では蘇東坡が、顔に心服してまた脱俗の書をつくったと中田はみている。
この帖(王慈の「栢酒帖」)は黄山谷の言葉どおり、高い精神のあらわれを尊び、天然の逸気をそなえていて、筆意の豪健さにおいてとくに傑出している。顔真卿、蘇東坡、黄山谷へのつながりを考える上においても、興味ある暗示を与えてくれる。
3.汝比可也帖について
草書6行29字の尺牘で、書者はよくわからないが、王慈の「栢酒帖」に似ているので、王慈としているものもある。しかし筆意は「栢酒帖」と比べると、もっと放縦であるから、同筆ではないであろうと中田はみている。超脱の気が横溢していて、荘子の意を得て、言を忘るといったような天然の趣がある。
4. 尊体安和帖について
尊体安和帖は、草書12行72字の尺牘である。この帖も筆者を王慈とするものもあるが、筆意にはやはり異なるところがあるので、別人としておいた方がよいであろうと中田はみている。
そして書の品第においては天然と工夫とを論ずる。この帖は工夫よりも天然においてすぐれているように見えるという。高い神仙のような精神を構えて、南朝士大夫の洗練された風流気骨をもって書かれている。「栢酒帖」の豪快と「汝比可也帖」の放縦の中間を行くもので、意趣の豊かさにおいては二帖よりさらにまさっている。
唐の李嗣真の「書後品」に、王献之の草書を批評して、子敬の草書は逸気は父にまさっている。そのさまは丹穴に鳳が舞い、清泉に龍が躍るかのごとくで、倐忽(しゅくこつ)として変化し、成るところを知らない。あるいは、海を蹴り山を移し、あるいは濤を翻えし、嶽を篏(ふる)う、と形容している。
このように南朝の人は、自然現象や動植物に喩えて書を批評する。尊体安和帖が宝章集の南朝の法帖の中ではもっともすぐれているようである。
5.王志の「一日無申帖」
草書6行37字の尺牘である。王志は僧虔の子で、徐希秀という人から書聖と称されたという。54歳で513年に没している。この帖は工夫においてすぐれ、天然において劣っているように見る。後半には王羲之の「喪乱帖」の筆法がある。深字と来字の趯法には智永の千字文に見られるのと同じ書法があり、これは南朝の法帖の一つの技法であると中田は解説している。書風はやはり王献之をよく学んだものであろうという。宋の米芾によく似ているのは米芾が王献之を学んだからである。
二、『淳化閣帖』に収められている南朝の法帖
『淳化閣帖』は宋の太宗の淳化3年(992)翰林侍書の王著に命じて内府所蔵の名蹟を出して模勒上石せしめたもので、10巻である。この中に南朝の法帖として採録されているものがおよそ22帖である。ただし、閣帖は正確には編纂されておらず、宋代の翻刻本の大観帖にも訂正されているが、後に清代の乾隆帝のときに重刻された、いわゆる欽定重刻本にはもっともよく整理されている。真本と偽本の弁別については、宋の米芾、黄伯思、南宋の姜夔(きょうき)、清の王澍が著している。
閣帖に収められている南朝の法帖が代表的なものかどうかについて中田は考えている。それには書人の優劣上下を品第した3つの文献を参照にしている。
1.梁の庾肩吾のあらわした書品
上中下をさらに上中下に分ったいわゆる九品の方法によって品第したもので、たとえば漢の張芝、魏の鐘繇と晋の王羲之の3人を「上の上」としている。
2.唐の李嗣真の書後品
これは九品の上に別格の逸品を設けて、十の等級に分ったものである。たとえば、逸品としては、秦の李斯、漢の張芝、魏の鐘繇、晋の王羲之、王献之の5人を挙げている。
3.唐の張懐瓘の書断
これは神、妙、能の三品に分ち、各品の中をさらに書体によって区別している。たとえば、神品は大篆、籒文、小篆、八分、隷書、行書、章草、飛白、草書の九体に分って、その各々に書人を配している。
中田はこの3つの文献を対照して、次のように述べている。
比較的上位に置かれているのが阮研と羊欣であり、他はすべてそれ以下である。書体では楷行草いずれも妙品に入るものは羊欣、薄紹之、孔琳之、王僧虔の4人であり、阮研、智永はこれに次ぎ、諸体に通じたものには蕭子雲があるという。また3つの文献に共通にでてくるものに宋の文帝と宋の謝霊運と梁の陶弘景があり、宋の文帝は書品に「中の下」、書後品も「中の下」、書断に「楷妙品、行草能品」。謝霊運は書品に「下の上」、書後品にも「中の下」、書断に「楷妙品、草妙品」。陶弘景は書品に「中の下」、書後品に「中の中」、書断に「楷能品、行能品」。いずれも代表的な書人に入るべき人々である。
このほかに宋の范曄(はんよう)、斉の張融、謝朓(しゃちょう)、梁の廋肩吾なども書名の高かった人々である。范曄はことに羊欣の真書、孔琳之の草書、蕭思話の行書とならんで、篆書で有名であった。
三、明清の集帖に刻された南朝の法帖には、5種ある。
1.宋 謝荘 「詩帖」 瑞雪詠楷書十九行 「戯鴻堂帖」「玉煙堂帖」
2.梁 武帝 「異趣帖」 草書二行十四字 「戯鴻堂帖」「三希堂法帖」
3.梁 陶弘景 「茅山紀事」 楷書十九行 「停雲館帖」「秀餐軒帖」
4.梁 羊諮 「期聚帖」 草書三行二十一字 「筠清館法帖」
5.陳 智永 「帰田賦」 行書六行五十五字 「餘清斎帖」
1.宋 謝荘 「詩帖」
明のときに真蹟本があって、董其昌がはじめて「戯鴻堂帖」に刻したもので、結体もととのい、筆力も勁健であるが、刻本がよくないので、やや物足りないと中田は評している。
2.梁 武帝 「異趣帖」
明の韓存良が所蔵していたのを、董其昌が戯鴻堂に刻し、のち清の内府に入って、三希堂帖に刻された。この帖は南朝貴族の風流媚好さをもっともよく示す例の一つである。
3.梁 陶弘景 「茅山紀事」
陶弘景は唐の欧陽詢や虞世南も及ばぬほどの楷書をかいたと伝えられているが、これはそれほど精絶なものではないという。
4.梁 羊諮 「期聚帖」
羊諮は伝記のよくわからない人である。閣帖には収められず、「絳帖」を刻するときに増入された帖の一つであるという。
5.陳 智永 「帰田賦」
「宝真斎法書賛」に著録されているのと内容が甚しく異なっており、文章に脱落が多く、帖内の文字に「蘭亭序」と同じものがあるのは不自然で、しばらく疑を存しておくと中田は記している。
以上、南朝の法帖で、もっとも鑑賞に堪えられるものは、まず第一には「宝章集」、次には『淳化閣帖』である。ただし、閣帖には偽作が多く、模勒と鐫刻がよくないが、何といっても、これは法帖の宝庫であり、これなくしては唐以前の法帖を理解することはできない。明清の集帖は真偽まちまちであって、できるならば、真蹟についての鑑識をするのが最も良い(中田、24頁~33頁)。
六朝の陵墓 森鹿三
南京に建都した呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六朝の時代の陵墓は合計28が確認されている。そしてこれらは、南京市の郊外と、南京市の東70キロの丹陽県城付近に分布する。一般的にいって、これらの陵墓は平坦地に位置しているために、その墳土はすきくずされてしまっているが、その前に立てられていた碑や石柱や石獣が残存することによって、その遺蹟が知られているという。
これらの残存する墓前の遺物について森は説明している。まず墓の一番手前に向かい合って置かれている一対の高さ3メートルばかりの石獣は、ペルシアあたりの影響を受けたもののようで、その雄偉な姿はライオンを想像させる。しかし、翼をもち、また角のあるものもあって、実在の動物とは受け取れないという。帝陵の石獣は有角で、墓に向かって右が二角、左が一角、それに対して諸王の墓のそれが無角であることは一定している。
次にこの石獣の後には、ギリシア風のフリューティング(たて溝ぼり)のある一対の石柱が立つ。高さ5メートルで、柱頂は傘状に開いてその上に小石獣を置き、柱礎は二段になっていて、上層には怪獣がとりまき、下層には方形の台石で周囲には浅い浮彫が施される。アショカ王の柱を連想させるが、六朝のものは直接、柱に文字を刻さずに、方形の額を加え、それに文字を刻しているところが違う。
古く中国では、墓前に円い木柱を立て、それにおくつきの主の名を記した方版を加えて標示をしたのであるが、六朝陵墓の石柱は、エキゾチックなものでありながらも、その方石版にこの中国固有文化の遺意をとどめている。
さて、蕭景(梁朝世系表)の墓の墳に向かって左側の石柱に方版(幅約1メートル、高さ約70センチ)がある。それは反文であることに異様な感をいだかせる。六朝陵墓のうち石柱が左右ともに存するのは、丹陽県城の東8キロ、三城巷にある梁の文帝の建陵、それから南京の近郊にある蕭宏、蕭績、蕭正立(梁朝世系表)の墓の4箇所である。いま建陵のものについて見ると、右側は正文左行、左側は反文右行になっている。それで蕭景墓の左側石柱の反文も了解されるが、ただこの場合、左行であることが異なっている。先にあげた左右柱両存の4例は、いずれも右側は右から左へ、左側は左から右へ読むのに対して、蕭景墓の場合は左柱であるのにもかかわらず、左読みであるのは異例である。
ではこのような変化はどうして起こったのであろうか。その変化が起こった理由について、建陵の例では、方版が向かい合っていたので、右側の正文左行に対して、左側を右行とするとともに、逆読の注意を喚起するために反文にしたと森は推測している。
その後、方版が左右ともに前向きになってからも、先の形式を踏襲して右を正文左行、左を反文右行のままにするものもあった。しかし左右とも前向きであれば、どちらも右から左へ順読する方が便利なわけで、ただ文字の正反によって左右を区別することだけは従来通りにして、左右とも順読する形式が生まれてもよいはずである。蕭景、蕭秀墓にみる左側石柱方版の反文左行はこの新形式を採用したものと森は考えている。
さらに石柱の後方には碑が一対、向かい合って立っているのが普通である。ただ蕭秀墓の場合が4つあるので、石柱の前後に碑が立てられた。もっとも現在では前の2碑がなくなり、亀趺のみを残している。その碑額(京都大学人文科学研究所蔵)は、「梁故散騎常侍司空安成康王之碑」と読まれる。なお左後の碑の裏側には、大半は剥落しているが、1300名に上る人の名が列記されているが、これらは蕭秀に仕えていた人達である。
蕭秀は、文帝の第7子で武帝の弟にあたる。天監17年(518)薨ずるに及んで(時に44歳)、当時文名高く蕭秀と交わりのあった人達が碑文を作ったという(『梁書』蕭秀伝)。六朝時代には原則として碑を立てることを禁じており、勅許を得てはじめて一対の碑を立てたのであるから、蕭秀墓の場合のように4碑を立てることは異例であって、『梁書』にも「古より未だ之あらざるなり」といっている。
蕭秀墓の2碑のほかに、蕭秀の兄の宏と弟の憺の墓にそれぞれ1碑が残存しているが、この4碑が南京、丹陽地方で調査された六朝陵墓碑の全部なのである。それは亀趺上に碑身をのせるなど、後漢時代の碑の形式を忠実に受け継いでいる。普通3年(522)、時に年45歳で薨じた蕭憺の碑について、上は鐘繇・王羲之を承け、下は欧陽詢、薛稷を開くと朱希祖は評している。普通7年(526)に年54歳で薨じた兄の蕭宏の碑について、朱希祖はその字画精美で、「瘞鶴銘」によく似ているといっている。
以上のように、六朝陵墓について、その墓前の遺物を石獣、石柱、碑に分けて、森は概述
している。
最後に、森は六朝陵墓の研究史を回顧して、次のように記している。この方面に早く手を着けたのは、張璜(Mathias Tchang)で、その研究成果、Tombeau des Liangが、1912年に出版された。梁代陵墓の総説と、蕭順之すなわち梁太祖文皇帝の陵にとどまり、その後は続刊されていない。この書の結語によれば、さらに蕭宏・秀・憺・景・暎・績の墓について研究を続ける旨が記されているが、張璜他界のために断絶した。なおこの書は中国文に反訳され、1930年に『梁代陵墓考』と題して出版された。張璜の書には写真、拓本を相当に収めているので、清末の状況を知るのに好都合である。たとえば、蕭憺の碑なども当時
はまだ碑亭を設けられていないこと、また汚損もより少ないことがわかる。
次にこれもその写真によって著名なスガラン(V. Segalen)らの Mission Archéologique en
Chineが1923年にでたが、スガランの調査は1914年に行われ、陝西、四川省から江蘇省に及ぶものである。その後、六朝陵墓の調査に熱情を傾けたのは、中国史学会のベテランである朱希祖である。その長子朱偰とともに、南京より丹陽にわたる地域を中心に、陵墓をたずね求めた。その後、中央古物保管委員会がこの調査に乗り出してきて、それと合流することになり、丹念な調査が行われ、厖大な六朝陵墓調査報告となり、1935年、『中央古物保管委員会調査報告』第1輯として公刊された。この調査によって確認された28箇所の陵墓のそれぞれについて、その葬地所在、営葬年月、陵墓前遺物、陵墓前状況、陵墓遺文などを記述した報告を主体としたものである。その翌年、朱偰の著わした『建康蘭陵六朝墓図考』は本報告書とは違ったユニークな見解も看取できる。これらによって六朝陵墓の全容が了得されると森はいう(森、35頁~40頁)。
別刷附録 梁呉平忠侯蕭景神道石柱題字
6中国6 南北朝Ⅱ
この篇には北魏が北涼を滅ぼし華北を統一した時から北周の滅亡に至るまで(439-581)143年間の書蹟を収めている。
中国書道史6 神田喜一郎
モンゴル系の鮮卑族の一部である拓抜部から出た拓抜珪が魏王朝を建てて(398)、いまの山西省の大同にあたる平城に都を定めるに及んで、統一の気運が萌してきた。その孫の世祖太武帝に至って、はじめて華北の統一をなしとげ(439)、江南の宋王朝と対峙することになり、これからいわゆる南北朝時代となる。
北魏(北朝の魏の意味)とよばれる魏王朝は、第6代の高祖孝文帝の世に、都を平城から洛陽に遷して(494)、国勢の隆盛その極に達した。
しかしやがて東西の両魏に分裂し、それが北斉と北周とに引きつがれた。その後、北周は北斉を併せ(577)、やがて外戚の楊堅、すなわち隋の文帝に滅ぼされた(581)。
北朝の文化史は、ある意味からは北方民族の漢化してゆく歴史であるともいいうる。ただ北方民族の漢化といっても、おのずから北方民族の民族性が作用していることは看過しえず、北朝の文化を考察する上に第一に注意すべきことであると神田はみている。
ところでその北方民族の支配した漢民族はもともと中原の地に栄えた漢民族の中でも、いくらか文化の程度の低いものであったという。というのはかつて西晋が滅んだ(316)時、中原の有力な豪族は難を避けて揚子江の南に移住したからである。魏王朝が最初に受容したのは、そうした衰えきったところの漢民族が把持していた文化であって、それは古い西晋の文化の残骸にほかならなかった。この古い西晋の文化を継承している点に、北朝の文化の一つの特色があると神田は理解している。
一方において北朝は当時江南の南朝に発達していた新鮮味のある優麗典雅な貴族的文化を憧憬するようになった。この南朝の文化は西晋が滅んだ時、中原から江南に逃れてきた有力な豪族が、豊饒な土地の生産力を活用して築きあげた富を基礎として、次第に洗練されてきた文化である。それに較べると、北朝の文化は鄙野で、質樸なものであった。北朝人が南朝の文化を次第に渇仰しはじめたのも当然である。
北朝の書道は一千数百年を隔てた今日において、割合豊富な資料に恵まれている。もっともその多くは、清王朝の中期以後、すなわち18世紀後半あたりから新しく発見されたもので、したがって北朝の書道はそれ以後になって、はじめて研究の歩武が進められるに至った。その豊富な資料は次の5種類に分けて神田は解説している。
①碑 ②摩崖 ③造像記 ④墓誌 ⑤写経
①~④の4種類は石刻文字であるが、⑤は肉筆のものである。写経は日本に古く伝来するものを除いては、20世紀の初め頃から名高い敦煌石窟など中国辺陲の土地から発見されたものばかりである。
まず①碑としては、その代表的なものを列挙している。
北魏
・中岳嵩高霊廟碑(図1) 大安2年(456)
・暉福寺碑(図2) 太和12年(488)
・高慶碑 (図3) 正始5年(508)以後
・賈思伯碑(図22, 23) 神亀2年(519)
・張猛龍碑(図24-29) 正光3年(522)
・馬鳴寺根法師碑(図30-33) 正光4年(523)
・高貞碑 (図34-37) 正光4年(523)
東魏
・程哲碑(図76) 天平元年(534)
・高盛碑(図77) 天平3年(536)
・凝禅寺三級浮図碑(図78) 元象2年(539)
・敬史君顕儁碑(図79-81) 興和2年(540)
・李仲璇修孔子廟碑(図82) 興和3年(541)
北斉
・趙郡王高叡修定国寺頌記(図88) 天保8年(557)
・唐邕写経碑(図95) 武平3年(572)
北周
・西嶽華山神廟碑(図99) 天和2年(567)
・曹恪碑(挿21) 天和5年(570)
以上に挙げたものの他に、魏の太和18年(494)に建てられた「魏孝文帝弔比干墓文」の碑がある。この碑は清の康有為が「広芸舟双楫」の中に、必ず魏の崔浩の書に相違ないと称讃したほどの名碑である。ただ現存のものは遥かに後の宋の元祐5年(1090)の重刻であるので、故意に除いたという。だから北朝の碑は実はまだまだ多いという。
②摩崖について
摩崖とは山や岸の険しくそばだった岩石が自然に露出したところに文字なり絵なりを刻したもののことである。
その古い時代のものとしては後漢の永平6年(63)に刻された「開通褒斜道石刻」のような名高いものがあるが、北朝には特に多い。北朝において、最も古いのはその漢代の褒斜道の石門にあたる陝西省褒城県の石壁に刻された「石門銘」(図4, 5)といわれるもので、魏の永平2年(509)の刻である。しかし北朝には幾つかの摩崖文字の群があって、それが特色をなしている。その第一は山東省の掖県から、その南の平度県にかけて連なる寒同・雲峯(図10-15, 20, 21)・太基(図16, 17)・天柱(図18, 19, 90, 91)の諸峯、および同じ山東省の益都県の南の百峯山の摩崖で、すべて40数種ある。北魏の鄭道昭およびその子の述祖の書と伝えられていて、中でも雲峯山にある鄭羲の碑(図6-9)は特に有名である。鄭氏は北魏の名族で、道昭は学問文才ともにすぐれたというが、書もまた気品極めて高く、おそらく北朝有数の名筆であろうと神田はみなしている。
この鄭氏一家の摩崖についで名高いのは同じく山東省にある仏経の摩崖である。その一つは泰山の半腹にある経石峪(きょうせきよく)の「金剛経」(図92, 93)で、金剛経全部2000余字のうち、約900字を存するに過ぎないが、一字の大きさは1尺以上もあり、もっとも代表的な仏経の摩崖である。
その二は泰山の南に聳える徂徠山の映仏巌にある「大品般若経」で、これは現在300余字を存し、斉の武平元年(570)に王子椿が刻したものである。そのほか鄒県(すうけん)の近郊には、「四山刻経」と称して、崗山・尖山・葛山・鉄山(図100, 101)の摩崖がある。
このうち尖山のものは「大品般若経」で、250余字を存し、斉の武平5年(575)に韋子深の刻したもの、崗山・葛山のものは、いずれも金剛経で、300字内外を存し、周の大象2年(580)に刻すとある。鉄山のものは「大品般若経」で、800余字を存するが、これには年号がなく、大体同時代の刻と推定されるだけである。
以上は山東省にあるものばかりである。その他にも山西省の太原の東南遼州の屋騋嶝(おくらいとう)にも「華厳経成就品」を刻した摩崖があって、これまた同時代のものといわれている。
ところで仏経の摩崖は、今列挙したところを見てもわかる通り、多くは斉周両王朝の時代に刻されたもので、その頃特に流行したのであろう。仏教の摩崖として第一に挙げた泰山の経石峪の金剛経は、実は年代も書者も不明であるが、おそらく斉のものと定めてよいと神田はみている。清の考証学の大家銭大昕も、その筆法が徂徠山の「大品般若経」に似ているという理由で、同じく王子椿の書であろうといっている。なお摩崖とは異なるが、魏王朝以来、山岳を掘鑿して洞窟をつくり、そこに仏像を安置する、いわゆる石窟寺の構築が流行し、それとともに石窟の壁に仏経を刻することが始まった。
その代表的なものに、河北省の北響堂山にある刻経洞の維摩経、勝鬘経、孛経、文殊般若経などがある。これは斉の天統4年(568)から武平3年(572)に至る間に、開国公の唐邕が発願して刻したものであるという。また山西省の太原の西にある風峪には、斉の天保年間(550-558)に華厳経を刻した120余の碑が、地下の洞窟に埋められているとのことである。
④は造像記である。
中国においていつから仏像を製作することがおこったか。その起源を明らかにすることはできないが、諸般の事情から察して、ほぼ西晋の末、すなわち4世紀あたりからようやく盛んになったと考えられる。そうして造像記も次第に現れてくるのであるが、しかし造像記としてその数も多く、もっとも有名なのは龍門石窟のものである。
龍門石窟は魏王朝の孝文帝が洛陽に遷都(493)するとともに、その漢化政策の一端として、洛陽郊外の伊闕龍門に堀鑿しつづけられたもので、大小の石窟や仏龕から成っている。
そしてそれらの石窟や仏龕には、その造顕発願の由来を記した刻記題名が少なくなく、現在その文字の識別しうべきものが、3000種以上もあるといわれている。もっともその中には隋・唐・五代・宋の時代のものも含まれているので、これをすべて北朝のものとすることはできないが、それでも非常な数である。したがって、この龍門石窟の造像記は北朝の書をうかがう一つの大きな宝庫であるともいいうる。古来その中の書法のすぐれたものを選んで、龍門五百品とか、百品、あるいは二十品、十品などと称し、特に貴重する習慣がある。
中でも次のものは龍門四品と称して、最上の絶品とされている。
・「始平公造像記」(図40, 41) 太和22年(498)
・「孫秋生造像記」(図42, 43) 景明3年(502)
・「魏霊蔵造像記」(図46, 47) 無年紀
・「楊大眼造像記」(図48, 49) 無年紀
この龍門のほか、北朝の造像記は多く存在するが、また造像記は必ずしも仏像に限らず、南北朝時代、道教の隆盛にともなって、道像がつくられ、その造像記も少なくない。斉の天統元年(565)の「姜纂造像記」(図96)のような、その文章は仏教の語を用いているが、実は老子の像に題したものであるという。
④次は墓誌である。墓誌とは死者を埋葬するにあたって、多くの場合方形の石に死者の履歴を刻し、その上に蓋(がい)といって同じ大きさの石を重ね、それに死者の姓氏を刻し、墓穴の中に埋めたものである。この墓誌も大体西晋の頃からおこったと考えられるが、もっとも盛んにつくられたのは北朝、殊に魏王朝である。近く150年来、河南省の洛陽をはじめ各地から発見された墓誌は極めて多く、新たに発見されるものも少なくない。そしてそれらの墓誌は久しく土中に埋められ、しかもその表面には蓋がおかれている関係上、文字の摩滅が少なく、大体字画の明瞭なのが特色であって、書法研究の上に大きな価値をもっている。ただ墓誌は一旦出土すると、その石が比較的小さいために、書法のすぐれたものほど摹刻されることが多く、その点は注意を要するという。
例えば、代表的な墓誌として次のものがある。
北魏
「崖敬邕墓誌」(図62) 熙平2年(517)
「刁遵墓誌」(図59) 熙平2年(517)
「張玄(黒女)墓誌」(図72, 73) 普泰元年(531)
東魏
「高湛墓誌」(図86) 元象2年(539)
北斉
「崔頠墓誌」(図97) 天保4年(553)
「朱岱林墓誌」(図98) 武平2年(571)
これらは古来名高いものであるが、いずれも摹刻本があって、その甄別(けんべつ)を必要とする。もっとも墓誌の新たに出土したものには、これらの古来名高い墓誌よりもかえって書法のすぐれたものが少なくなく、それらの新出土のものを絶えず注意することが一層必要であろう。
⑤最後に写経である。
確かな北朝の写経として敦煌その他中央アジアの探検が行われるまでには、京都知恩院に蔵する西魏の大統16年(550)の「菩薩処胎経」(図108, 109)をもって、ほとんど天壤間唯一の遺品としたが今ではそれほど稀らしくなくなった。ロンドンの英国博物館に蔵するスタイン将来の敦煌写経だけについてみても、北朝の写経として、魏の太安元年(455)の「弁意長者子所問経」を最古とし、周の天和4年(569)の「大比丘尼羯磨」に至るまで、すべて27点を算する。またパリのフランス国立図書館にも、ペリオ将来の敦煌古書の中、魏の永平5年(512)の「大般涅槃経」以下、周の保定5年(565)の「十地義疏」に至るまですべて5巻存在する。日本の書道博物館の中村不折の蒐集(図102-105, 112)、京都国立博物館の守屋コレクション、その他中国にも相当の数量を蔵している。
今日世界各国に散在する北朝の写経を算するならば、確かな紀年を有するものが、おそらく百数十巻に上るという。書法研究の資料として石刻の文字とは違う貴重な価値をもっている。
以上、北朝の書道資料は実に豊富である。しかしその多くは新発見のものである上に、古くから知られていたもの、例えば鄭道昭の「鄭羲碑」のようなもの、すでに宋の趙明誠の「金石録」に著録されているのであるが、ほとんど世に忘れられて、近世の新発見といっても差支えないほどである。
したがって北朝の書そのものは、資料の豊富なわりに古来これに注意したものが少なく、いまなお深く真相の究明されていない憾みがあるという。
さて一概に北朝の書といっても、これを歴史的に考察すると、幾たびか大きな変化を遂げている。その変化の境目をなすのは、第一は魏の孝文帝が洛陽に遷都して漢化政策を強行するときであり、第二は東西両魏がそれぞれ斉と周との王朝に替るときである。したがって北朝の書にはおのずから3つの様式があるという。
①魏の孝文帝の出る以前の書は、その系統からいえば、古い西晋の旧様を受け継いだもので、現存する遺品は少ないが、太安2年(456)の「中岳嵩高霊廟碑」をもって代表させることができ、いかにも鄙びた書で、隷書とも楷書ともつかない一種の体をなしている。
この碑の書風が、東晋の義熙元年(405)に、今の雲南省の南寧に建てられた「爨宝子碑」の書風と酷似していることはすでに指摘した。
この点、河南省の登封県にある碑が雲南のような遠く離れた荒遠僻陬(へきすう)の地の碑と、その書風が酷似しているという事実は、興味あることである。つまり南方といわず北方といわず、文化の中枢を距ること遠い地方には、鄙野ないし険陋という一種の田舎臭い書が行われていたことがわかると神田はいう。その時代の文化の中枢はむろん南朝の都建康であった。「中岳嵩高霊廟碑」の建てられた太安2年(456)というと、南朝では宋の孝武帝の孝建3年にあたり、すでに東晋の王羲之・王献之によって新しく優麗典雅な芸術的書風がつくられてその新様式の書が流行していた。その新様式の書が北朝の地に浸潤して、その書風に影響を及ぼすまでには、まだ多くの歳月を要した。ともかく北朝の書は魏王朝に孝文帝が出現するまでは、いわば西晋の旧様の自然発達的な段階に止まっていた。
②しかしそうした情勢は、孝文帝の出現によって一変した。孝文帝は熱烈な漢文化の讃美者であり渇仰者で、性急に漢化政策を実行した。ところで、彼が新たに遷都した洛陽は後漢から西晋にかけて長く中国の首都であった土地で、そこには古い漢文化の伝統が遺っていた。彼はそれをうけ容れるとともに、新しく南朝の首都建康に発達した漢文化をも輸入しようとした。しかしそこに一つの混乱が生じ、結局その二つの漢文化を十分に消化しきれないままに、拓抜族の精神を基調として、彼らなりにそれをまとめて一つの文化をつくりあげた。
それを書の上に示しているのが、龍門の数多い造像記であった。あの造像記に見る勁健な書法は、従来北朝特有のもののようにいわれてきたが、南朝の梁の蕭景の墓前に建つ石柱の題額の文字などと比較すると、親近性があると神田はいう。つまり龍門の造像記は、三国の曹魏の「公卿上尊号奏」や「受禅表」の系統をうけながら、一方では南朝の新様式の楷書を学ぼうとして、そのいずれとも異なって、彼ら流にまとめたものである。
また龍門の造像記より少し時代の降る鄭道昭の書を、南朝の「瘞鶴銘」に較べてみるのもよいとする。その筆法はもとより意態風度も酷似している。龍門の造像記よりも、もっとよく南朝の新様式を学んで成功している。これは鄭道昭が当時第一流の文化人で、南朝の新様式を学ぶという点では龍門の造像記の書者よりも、もっと洗練された手腕と感覚をもっていたからであろうと神田は推測している。もっともこの「瘞鶴銘」は南朝の新様式といっても、多く篆隷の古意を存していて、その点北朝人の伝統に近かったことにもよる。
洛陽から多く発見された墓誌の書を見ると、特に孝文帝時代のものがすぐれており、また貴顕のものほど立派であるが、これはそれらの書者の文化の程度が高かったためと、神田は推察している。しかし魏王朝の末期になると、南朝の新様式と古来の旧様式とを巧みに調和して、かなりすぐれた書をかくものが出てきた。「張猛龍碑」とか「馬鳴寺根法師碑」はその代表的なものであろう。
③孝文帝の死後、その漢化政策は著しく後退したが、魏王朝が東西両魏に分れる頃から斉王朝にかけてまた南朝の文化に憧憬する傾向が強くなった。梁の名高い文士何遜(かそん)の詩集を、洛陽の顕貴が先を争って読んだことは、斉王朝に仕えた顔之推がその家訓に伝えるところの逸話である。このことから当時の文化の趨勢を想像することができると神田はいう。
この時代を境目として、書においても南朝の新様式が急激に普及することになった。そして南朝の新様式の典型である二王の書がおいおい北朝にもたらされてきた。これは西魏が梁の元帝の承聖3年(554)に梁の荊州を襲うて、はじめて二王の書を長安に持ちかえったことが契機となって、北朝でも斉の劉珉とか、周の趙文淵とか、二王の書を宗とするものが出現した結果である。東魏の武定元年(543)の「高帰彦造像記」(図83-85)などは南朝の智永より時代的には早いが、あたかもその書を見るかのようで、二王に胚胎していることは明らかである。斉の天保4年(553)の「崔頠墓誌」(図97)、周の保定元年(561)の「大般涅槃経」(図110, 111)など、もう唐の欧・褚の先蹤をなしている。
ただそうした一方において、一種怪奇な書風の遺品として、周の天和5年(570)の「曹恪碑」のようなものが、多少存在するのが注意されるが、おそらく南朝の新様式を学ぶことができず、旧様の書を堕落させたものが一部の間に歓迎されたのであろうと神田は推測している。
北朝の書法を窺うべき豊富な新資料が発見されるに及んで、北朝と南朝とでは全く書風を異にしたという説が一時盛んに行われた。これを首唱したのは清の阮元である。名高い「南北書派論」を書いて、天下を驚かせた。その後、楊守敬や康有為という学者が出て、阮元
の説に修正を加えたが、それでも「南北書派論」に説くところは、今日なお一般の常識となっているかのようである。ただこの説が果して是か否か、今後の解明を要すべき中国書道史上の一大問題である。
南北両朝の書を比較すると、大局から見てそこに著しい相違の認められることは否定できない。しかしそれは相対立した2つの書派と称してよいものであろうかと神田は問題提起をしている。いったい晋王朝が華北中原を放棄して江南の地に移って以来、中国は南と北とに分れた。この時まで中国の書はもちろん一つの流れとして発達してきた。ところがこの時代はあたかも漢の隷書から楷・行・草の三体が脱化してくるときで、北方ではそれが自然発達的に進んだが、南方では王羲之・王献之の天才書家が出て、これを芸術的に完成した。
ここに中国の書に二つの流れを生じたのであって、これを阮元は南北二つの書派が相対立したと解釈したのであった。したがって阮元の「南北書派論」を全く誤謬と見ることはできないのであるが、しかし南方でも文化の中枢を遠く離れた雲南には「爨宝子碑」のような北方の自然発達的な書と全く同じ書風のものができていることを神田が指摘している。
これらの事実によって考えると、結局南北二つの書派があったのではなくて、文化の中枢で発達した芸術的な書と、それから遠くはなれた辺陲の地の自然発達的な書とがあったということになると神田はみている。換言すれば、南北の別ではなくて都鄙の別ということになる。南北朝時代はその都の書風がおいおい四方に伝播して、鄙の書風を化してゆく過渡期であり、それは初唐に至ってついに統一完成を見たと神田は理解している(神田、1頁~15頁)。
北碑の書法 中田勇次郎
清朝の中ごろ、阮元(1764-1849)が「南北書派論」および「北碑南帖論」をあらわして、北碑と南帖の是非を論じ、南帖をしりぞけて北碑を採った。また包世臣(1775-1855)が北碑の美を称揚してから、北碑の名が次第に世に親しまれるようになった。清末には康有為(1858-1927)が出て、さらに一層北碑の価値を高めた。このようにしていわゆる碑学派の書風が流行して帖学派を圧倒し、ついにその勢力は一世を風靡し、その余波が日本にまでも及んで、今日に到っている。
本来北碑というのは南帖すなわち南朝の法帖に対して北朝の石碑を指していった言葉であるが、上記の人々が北碑といっている場合には単に碑の形式を備えた石刻を意味するだけでなく、広く北朝における各種の石刻を含めていっているのが通例である。すなわち碑のほかに墓誌、摩崖、造像記などもその中に入れて考えている。したがって北碑の書法を論ずるには、これらの各種にわたって観察するのがよいと中田は考えている。中でも摩崖には有名な鄭道昭の数々の題字があり、造像記には龍門の諸品が奇を争っているなど、これらが常に北碑の書の代表作としてとりあげられているところからみても、北碑の書法を論ずるには必ずしも碑に限定しなくてもよい。
しかし北碑の書法は碑・墓誌・摩崖・造像記のいずれにもっともよく窺われるかということも考えてみる必要があると中田は主張している。以下、中田の見解を紹介しておく。
碑には人の墓前に建てられたもの、寺廟祠堂などに建てられたものなど、その建立の目的によって色々異なっているが、碑の形式を備えている点は共通している。ただし、時には摩崖に刻されたものや、造像記のものなども、実際碑の形式に倣ってつくられたものもあり、それを碑の名称で呼ぶこともある。例えば、「鄭羲碑」(図6-9)などは碑文の中に明らかに碑といっているし、龍門の造像にも碑の形式をとっているものがある。けれども素材の上からいえば碑を一類とし、墓誌、摩崖、造像記とは区別した方がよいと中田はいう。
また書風の上からいっても、その4種には多少共通するものもないではないが、やはりそれぞれに特色があるから、本来別々のものとして取扱う方がよいとする。もしその間に相互関係を求めるならば碑と墓誌は緻密な石材に精刻し、紙帛に書いたものとほぼ近い書体をあらわしており、その内容もしかるべき人のつくった立派な文章であるところは同じであるし、書風もほぼ近似している。
これに比べると、摩崖は露出した自然の岩石の表面に彫刻された字であるから、書風も豪放雄大であり、遠望に適するようにできている。また造像記も自然の岩石を利用したものが多く、仏像の彫刻に付随したもので、概して荒けずりの素樸な書風をなしている。だから摩崖と造像記の二種は、素材の生かし方からくる文字の面白さがあり、その内容にも環境にも制限があるので、北碑としても特殊な形においてあらわれたものであると考えてよいと中田はいう。
そして康有為が南碑と魏碑の十美をあげた。魄力雄強、気象渾穆、筆法跳越、点画峻厚、意態奇逸、精神飛動、興趣酣足、骨法調達、結構天成、血肉豊美などは摩崖や造像記に重点がある。
しかし北碑の書法の根本的なものはどちらかといえば碑と墓誌によって捉えられなければならないと中田はみている。北碑は石に刻まれた文字であるが、この時代には別に毛筆で書写されたおびただしい仏典の写経がある。それによって石刻の書法の足らぬところを補うことができる。巻尾の題跋に北朝の年号が書かれている写経を各時代の順次に排列してみると、その書風の変移がみとめられるという。北魏の太和年間までのもの、正始(図102, 103)、永平(図104, 105)、延昌(図106, 107)ごろのもの、正光、孝昌から普泰、永熙ごろまでのもの、西魏では大統(図108, 109)のもの、北斉の天保、天統のもの、北周の武成、保定(図110, 111)、天和(図112)、建徳のもの、それぞれ書風に特色があることがわかるという。
ただ、写経は多くは経生の手になったもので、士大夫の間におこなわれた伝統的で本格的な書法が見られないので、資料としては特殊なものに属するけれども、書風の変遷は時の流れに添うものと見えて、やはり石刻と並行している点があり、書法においてもすぐれたものには石刻の裏づけとなるものがあって、真蹟としての強味を発揮している。
北朝の碑の数は南朝に比べるとはるかに多い。その碑文の書体は隷書(のちの楷書)のものと、八分のものと、篆隷を混用したものとがあるが、その大多数は楷書である。漢代の隷書に対してこの時代には楷書が、ある一つの極点に到達した時代といえると中田はみなしている。だから北碑の書法は楷書を主として述べるのが妥当であるという(この他に碑額の文字があるが、これは楷書でかかれた例もあるが、多くは篆書または雑体の書で特殊な書体として取扱うべきであるとし、ここでは取り上げていない)。
この時代の書法のことを考えるに役立つものとしては、三国魏の鐘繇の関係のものと、晋の王羲之の関係のものとがある。鐘繇の関係のものは、唐の張彦遠の「法書要録」巻2に、「梁武帝観鐘繇書法十二意」という文章がある。梁の武帝が鐘繇の書法の十二の筆意をのべた記録であって、梁武帝の作としてはほぼ疑いのないものであるようだ。
その十二の筆意を次のものである。
1 平(横を謂うなり) 2 直(縦を謂うなり) 3 均(間を謂うなり) 4 密(際を謂うなり) 5 鋒(端を謂うなり) 6 力(体を謂うなり) 7 軽(屈を謂うなり) 8 決(牽掣を謂うなり) 9 補(足らざるを謂うなり) 10 損(余あるを謂うなり) 11 巧(布置を謂うなり) 12称(小大を謂うなり)
1, 2, 3, 4は文字の縦横の筆画の書き方、筆画相互の間隔、文字の構成の緊密さをといたもので、いわゆる間架結構に相当するようだ。5, 6, 7, 8は基礎点画の用筆の法と、筆力と転折、牽掣(ひくとおさえる法)の筆勢をのべたもので、筆法に関することを述べたものであるようだ。9, 10, 11, 12は字画の損益増減、文字の布置と大小の調和をといたもので、いわゆる章法に類することと中田はみている。これによって書法に関しておよそ3つの面が考えられていたことがわかる。これは書をみるための基礎的な方法であり、これによって北碑をみることもできるという。
次に王羲之の関係のものには衛夫人の「筆陣図」の後に題した跋(「法書要録」、「墨池編」、「書苑菁華」)があるが、「筆陣図」については唐以前にも記録がなく、王の跋とともにその内容も唐代に流行した書道の伝授のたぐいで、もちろん跋も王羲之のみずから撰んだものではないであろうという。ただその中に示された7つの基礎点画とその自然現象にたとえられた書法とか、有名な「意は筆前に在り、字は心後に居る」の説などは南北朝の書法を考えるに役立つものがある。
もう一つ、王羲之の撰述として伝えられているものに「筆勢論」(「墨池編」、「書苑菁華」)がある。これは「筆陣図」の書法をさらに詳細にとき、筆勢の妙味を解明にしたもので、最後には王羲之の「楽毅論」を模範としてあげている。これもまた唐代に流行した伝授のたぐいで、王羲之の原撰ではないようだが、六朝以来伝統的な書法を転々相伝する中に生まれでたものらしく、その中には六朝の書法につながるものをもっていると中田はみており、多少の参考に資することができるとする。
以上は古い時代に書法の文献を求めたものである。北碑は清朝になってから注目されるようになったものであり、その書法についても原碑にあたり、その中から新しく見出されてきたのである。清末の康有為の「広芸舟双楫」にはもっとも詳細にそれが述べられている。彼の説によると、書法の妙は運筆にあり、南北朝碑においては方筆と円筆と方円両筆を併用したものとがある。
北碑の方筆の例としては、「龍門造像記」(図40, 41, 46-49)、「張猛龍碑」(図24-29)、「高貞碑」(図34-37)などをあげ、円筆としては「石門銘」(図4, 5)、「鄭羲碑」(図6-9)、「刁遵墓誌」(図59)、「敬史君顕儁碑」(図79-81)、「高湛墓誌」(図86)などをあげ、方円両筆併用としては、「李超墓誌」(図68)、「李仲璇修孔子廟碑」(図82)などをあげている。この説は北碑を学ぶ人々の今日なお多く参考するところである。
北朝の書風は北魏、東西魏、北斉、北周によってそれぞれ分けることができる。その中で北魏はもっとも期間が長く、北魏だけの中でも5世紀と6世紀とではかなり差がある。5世紀に属するものは作品の数もきわめて少なく、碑では「中岳嵩高霊廟碑」(図1)と「暉福寺碑」(図2)が代表的なものである。「霊廟碑」は隷意を帯びた稚拙な書であり、「暉福寺碑」もよく見ると同様の稚拙さがあると中田はみている。この書風は5世紀の末葉から6世紀初にかけての太和、景明年間に造られた「龍門造像記」(図38-49)につながるものである。写経では太和3年(479)書写の「雑阿毘曇心経」巻第6(英国博物館蔵S996)がこの種の書風の真蹟としての実際をもっともよく示している。
6世紀に入ってからは書法は加速度的に発達していった。碑では、神亀2年(519)の「賈思伯碑」(図22, 23)、正光3年(522)の「張猛龍碑」(図24-29)、正光4年(523)の「馬鳴寺根法師伝」(図30-33)、同じく正光4年(523)の「高貞碑」(図34-37)と西紀520年前後に集中して名品が伝えられている。写経や墓誌の実例に照らしてみると、6世紀の初めの頃から既にこのような書風があった。この点を詳細に考えるために中田は北朝の書の中からもっとも代表的な書風のものを3種とりだして、その書法のことを論じている。
以下順次紹介しておく。
①「張猛龍碑」によって代表される書風のものである。梁の庾肩吾の「書品」に、書人の優劣上下を品第し、漢の張芝と魏の鐘繇と晋の王羲之の3人を上の上の位において、張は工夫は第一で天然はこれに次ぎ、鐘は天然は第一で工夫はこれに次ぎ、王は工夫は張に及ばないが天然はこれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はこれ以上であるという。
この見方によって考えてみると、この第一の書風のものは天然と工夫、すなわち精神と技巧において精神の方がすぐれているものに属する。言い換えれば、この意味においては鐘繇の筆法をえているということもいえないこともないと中田は付言している。
この書風のものの特色について中田は次のように述べている。
・字形は正方形のもの、竪に長いもの、横に平たいものなど文字に応じて様々であり、時には傾斜したものもある。
・結体は必ずしも方正でなく、自然のままに変化している。
・中には下部に力を張って一種の安定感を与えるものがある。例えば、州、周の字がそれである。横画をとくに長くかいたものがある。例えば、「張猛龍碑額」(図24)の守、魯の字がそれである。
・左に払う撇、右にひく捺の法はこれも特に長いものがある。例えば、大夫、春秋の字がそれである。
「筆陣図後」に「書は平正安穏であることを貴ばない。先ず用筆には偃があり、仰があり、欹があり、斜があり、あるいは小さく、あるいは大きく、あるいは長く、あるいは短くなければならない」という。
魏晋の書が自然の風神をえていることは唐宋以後において書を論ずる人々の多く一致する見方であるが、第一の書風のものはこの意味から考えても、魏晋の書法につながるものと中田は考えている。
筆法についてみると、線の性質はきわめて力強く、一見して鋼鉄のように緊張した感じを与える。
・起筆も収筆も深く健実(ママ)である。
・点画の動きに応じて随所に筆勢があらわれる。
・鉤法と戈法は簡直で、いわゆる方筆の妙味をよく示している。
・字をかくときには点画によって遅くかくところと急にかくところとがあり、これによ
って形勢が備わることは「筆陣図後」に述べるところであるが、この書においてもこのことが適用されるという。
・文字の布置はかなりの間隔を置いて、士大夫の書らしい品位を示している。
・大小の調和は、「張猛龍碑額」(図24)の「之」の字は筆画が少ない字であるからか特に大きくかいているのがよい例であるとする。この書風に属するものには、ほかに「賈思伯碑」「馬鳴寺根法師碑」がある。
・多少書風は異なるところもあるが、その書法の特色や風神の高妙なところはやはり一類のものと見なしてよいと中田はみている。
・また比較的古いものでは、太和23年(499)の「元景造石窟記」があり、墓誌では「元勰墓誌」(図52)、「元新成李氏墓誌」(図60, 61)、「世宗夫人司馬顕姿墓誌」(図64, 65)、「元倪墓誌」がこれに属する。
・「元勰墓誌」は永平元年(508)の作で、この頃にこの書風のものがあったことがわかる。これらの墓誌は北魏の貴族たちのもので、その書も当時第一流の名手になったものらしく、その書法の精絶なこと、および出土が新しくて保存の良好なことは「張猛龍碑」をはるかに凌駕するものがある。中でも「世宗夫人司馬顕姿墓誌」は上記の特色に最もよくかなうもので、書もとくにすぐれている。
・写経では正始2年(505)の「大般涅槃経巻第四十」(図102, 103)には「根法師碑」を裏づける書法が見られ、永平3年(510)の「大智度経巻第三十」(図104, 105)には「張猛龍碑」の秀美な暢達した筆致に通ずるものがあり、延昌2年(513)の「華厳経巻第
四十七」(図106, 107)には遅筆の中に自然の風神を備えている。
・それぞれ当時の書風の一面をよく真蹟によって明示してくれる。
②第二は「高貞碑」によって代表される書風のものである。これは天然と工夫について見るならば、天然よりも工夫、精神よりも技巧においてすぐれているものということができる。
・字形は方正できわめてよくととのっている。第一の書風のものが自然の風神をえて左右欹斜しているのとは異なっている。
・文字の構成にも一定の規矩を備えていて、いささかのくるいもなく、扁旁の組合せの緊密さにおいても、少しの隙間もない。
・間架結構の整正さにおいて、ある一つの極点に達した感がある。この意味では上は漢代の隷書の碑につらなるものであり、下は東西魏、北斉、北周から隋に及ぶ方正な書風と同一の系統に属するものということができるという。
・この書風のものは規矩を貴ぶがゆえに、北碑の書の技法はこれによって最もよく知ることができる。
・横画と縦画の起筆と収筆は常に一定の角度と法則によって書かれている。
・左に払う撇法、右にひく捺法、あるいは鉤法や戈法などあらゆる筆法は統制された技法にもとづいて確実に運用されている。
・線は肥痩の中庸をえて、筆力は健勁であり、筆勢の鋭さにおいては第一の書風にも劣らず、時にその妙を発揮する。例えば陳字の扁の収筆を右上にはねたり、外字の縦画の収筆を左にはねる(図34-37)がそれである。
・文字は格の中に比較的大きくかかれ、布置大小は整斉である。
・この書風に属するものとしては、「高貞碑」と同筆とみとめられている「高慶碑」(図3)
がある。摩崖の「鄭羲下碑」(図6-9)なども康有為は円筆として取扱っているが、書法の上から見るとやはりこの系統に属させてよい面もあると中田はみている。
・墓誌では永平4年(511)の「司馬紹墓誌」、「元顕儁墓誌」(図53)、「肅宗昭儀胡明相墓誌」(図69)がある。
・永平5年(512)書写の「大般涅槃経巻第三十二」(フランス国立図書館、P2907、敦煌秘籍留真)は書風は自然なところもあるが、技法から見るとこの系統に属するものとしている。
③第三は東魏の「敬史君顕儁碑」(図79-81)によって代表される書風のものである。
・これは第一、二が方筆で書かれているのに対して、円筆で書かれているのが著しい特色となっている。
・字形は横に平たく、結体はさほど緊密ではない。
・方筆のものに見るような風骨のきびしさがなく、温雅でやわらかく、かの智永の「千字文」(5巻図60-83)に似通っている。
・この書風は北魏の普泰元年(531)の「張玄墓誌」(図72, 73)に更に明らかに表されている。この墓誌の書はまた更によく智永の「千字文」に似ている。
・この書風のものは北朝にもとからあったものではなく、南朝に同化されてできたものと解してもよいと中田はみている。
筆法は康有為の説を借りて、方筆が頓筆で書かれているのに対して、円筆は提筆で書かれていると中田は説明している。即ち蔵鋒によっていわゆる錐画沙印印泥の書法を用いている。横画、縦画、撇、捺、鉤、戈などの書法はこれも智永の「千字文」にほとんど変わりはない。
筆力には方筆のような健勁さはないが、内につつまれた力があり、筆勢は簡直ではなく転折の呼吸を入れたうるおいのある王法の美しさを備えている。この意味から考えてみると、この書風のものは庾肩吾の「書品」に、工夫は張に及ばないが天然はそれ以上であり、天然は鐘に及ばないが工夫はそれ以上であるとのべた王の立場にあるものといってよいと中田はみている。すなわち第一と第二の書風に対し、精神と技巧において、特に傑出しているわけではないが、平均した調和を保持していると中田は解釈している。神亀元年(518)の「世宗后高英墓誌」(漢魏南北朝墓、集釈所載)は王羲之の「楽毅論」に似ているし、「司馬昞墓誌」(図63)は鐘繇の「薦季直表」や「宣示表」にそっくりである。その書風も温雅で円筆でかかれている点からいっても、この系統に属するものと中田は考えている。ただ鐘繇や王羲之の書がこのようなものであったかどうかは俄かに断言できないと付言している。むしろ現在伝えられている鐘・王の書がこれらの墓誌と並行する頃に成立したのかもしれないが、南朝に根ざすものであるということは、智永の「千字文」とのつながりにおいて考えられるとする。
また「高帰彦造像記」(図83-85)もこれに属するものであることは、これが智永の「千字文」や唐の虞世南に似ていることによって認められる。写経では孝昌3年(527)書写の「観世音経」が最もこれに近い例であろう。その他6世紀前半に柔軟な円筆でかかれた写経がいくつか存在しており、北魏の末葉にこのような書風の傾向があったものと推察できる。大勢から見れば、写経と石刻には並行する傾向があることが認められるので、少なくとも北魏の末葉、「張玄墓誌」の刻された普泰元年(531)前後のころには、王羲之系統の書風がかなり進んだ形においておこなわれていたことは事実である。
以上、北魏の書法について中田は3つの書風に分類して、その特質を述べてきた。要するに北魏の書法の精神的な面を見るには第一の書風のものがよく、技術的な面を見るには第二の書風のものがよい。いずれも方筆を用いているのが特色となっている。北魏の本領はこの二つのものに備わっていると中田は考えている。第三の書風のものは王羲之の書法に依っており、むしろ南朝の書法に付属させてもよいくらいで、北魏としては第二義的なものであると中田はみなしている。ただ、方筆といい、円筆というのは書の技法の面からいった言葉であり、本質的な言い表し方をすれば、第一のものは自然派、第二のものは技巧派、第三のものは中和派とでも言った方が適当であると付記している(中田、16頁~22頁)。
以上、中国5、6の途中の要約である。