歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その1 私のブック・レポート≫

2020-08-07 19:10:26 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年8月7日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 これまで、ルーヴル美術館の作品を取り扱った著作を紹介してきた。
 今回からは、西岡文彦『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)を取り上げて、その内容を要約した上で、【読後の感想とコメント】を述べてみたい。

まず、西岡文彦氏のプロフィールを記しておきたい。
西岡文彦氏(1952年~)は、日本の版画家で、多摩美術大学教授である。
 今回、紹介する本が出版された1994年当時は、多摩美術大学特別講師であったようだ。
 1952年、山口市に生まれ、18歳で、版画家森義利氏に師事し、徒弟制10年の修業を経て、日本古来の伝統的版画技法「合羽刷り(かっぱすり)」の数少ない継承者となった。1977年以降、日本版画協会、国展で受賞し、海外展で注目を集めた。
 1980年、出版界に転進し、以降、画業と並行して、編集者、デザイナー、プロデューサーとして出版から映像までの広いジャンルで活躍する。
 画家の視点と編集者の発想をいかした絵画鑑賞入門のベストセラー『絵画の読み方』(宝島社、1992年)では、美術出版界に新風を巻き起こした。

 さて、今回は、その西岡文彦氏の著作『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の序章から第三章までの要約を記しておきたい。





西岡文彦『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の目次は次のようになっている。
【目次】
序章 カフェにて
第一の回廊 名画『モナ・リザ』の謎
第一章 『モナ・リザ』対面
第二章 パリの奇跡
第三章 盗まれた世紀の名画
第四章 自分の眼で見る
第五章 画家の眼で見る
第六章 謎の貴婦人
第二の回廊 レオナルド流転の生涯
第七章 処女懐胎の子
第八章 少年愛のルネッサンス
第九章 失われた『最後の晩餐』
第十章 万能の悲劇
第三の回廊 絵画史のスペクタクル
 第十一章  フィレンツェに還る
 第十二章  『モナ・リザ』誕生
 第十三章  風景の『受胎告知』
 第十四章  微笑む永遠
 第十五章  ラファエロの涙
 第十六章  レオナルドの水鏡
終章     カフェにて
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


序章 カフェにて
・フィレンツェのウフィッツィ美術館
・『モナ・リザ』の物語を読み解くために
・≪架空美術館としての本書の見取図≫

第一の回廊 名画『モナ・リザ』の謎
第一章 『モナ・リザ』対面
・ルーヴル美術館
・ルーヴル美術館の主な展示品

第二章 パリの奇跡
・ルーヴルの『モナ・リザ』
・芸術作品の受難の歴史

第三章 盗まれた世紀の名画
・『モナ・リザ』の盗難
・『モナ・リザ』盗難事件の内実
・事件解決後の『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』の帰属について
・レオナルドとフランソワ1世

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






序章 カフェにて


フィレンツェのウフィッツィ美術館


フィレンツェで最高のエスプレッソは、ウフィッツィ美術館のカフェで飲んだという体験から、西岡文彦氏は書き始めている。
そして、絵を見ること、美術館を歩くことを心から楽しめたのは、この美術館が初めてであったそうだ。

このウフィッツィが、西岡氏とレオナルドの初体験の地であった。
30歳の時、このウフィッツィで、29歳のレオナルドが描いた、未完の大作『東方三博士の礼拝』と出会い、生身の画家に「神」が宿ることを知ったと記す。
完成作品では決して見ることのできない生々しい筆の跡は、まさに神がかった技量を示していたが、生きた人間の手で描かれたことも、実感したようだ。つまり、まさしく神がかって見える筆致になお、レオナルドの焦りと迷いの跡までを、刻印していた。それは、人間レオナルドの「肉体」の痕跡を間近に見る、衝撃的な体験であったらしい。

ウフィッツィは、比較的小規模の美術館である。
ボッティチェルリのヴィーナスで知られる、このルネッサンスの宝庫は、パリのルーヴルやニューヨークのメトロポリタンのように、うんざりするほど大きくはない。
コの字型の回廊式の部屋の配置も、ひと通りの順路しかとれない。適量の名画を、時代順、地域別に味わうことになる。
回廊奥のカフェのテラスの右手には、ヴェッキオ宮の時計台がそびえる。そして正面には、フィレンツェ一の名所サンタ・マリア・デル・フィオーレ、すなわち花の聖母大聖堂の巨大なドゥオモ(円蓋)の赤煉瓦色と、ジオットの鐘楼の白と緑の大理石色があざやかな対比を見せる。また、廊下の窓からは、アルノ河に架かるヴェッキオ橋の景観が一望できる。

ウフィッツィ UFFIZIは、英語でいえば、オフィス OFFICEである。
フィレンツェ政府の総合庁舎として16世紀に建築された建物である。それだけに、間取りは単純、建築意匠は質実剛健である。展示はシンプルであるが、ボッティチェルリ、レオナルド、ミケランジェロ等々のルネッサンスの名品がある。

加えて、ウフィッツィの楽しさは、絵を眺めて歩くプロセスが、そのまま絵画の歴史をたどる道筋になっている点にあると西岡氏は強調している。つまり、地域別、年代順に作品を並べた順路は、まさに「歩く美術書」というにふさわしいそうだ。

西岡氏は、展示品について、次のように概括している。
まず、コの字型回廊の最初の一翼で、中世からルネッサンスへの絵画の変貌があざやかに示される。古代のヴィーナスの大理石に人間の肌の色がさし、中世の黄金祭壇の背景にルネッサンスのコバルト・ブルーがさす、この回廊の終点近くに、レオナルドの作品群がある。

渡り廊下をはさんだ反対側の一翼では、ルネッサンス期の光を失った、バロック絵画の闇への回廊がある。つまり、輝くようなヴィーナスの裸体が告げたルネッサンスの夜明けは、薄暮を絵画の採光の理想としたレオナルドを経て、バロックの夜を迎えることになる。
かつて絵画の背景がこれほど暗く描かれた時代はなく、昼間の光景を描きながら『夜警』とあだ名されたレンブラントの代表作は、バロック時代の象徴である。
回廊の終点近く、カフェ手前のレンブラントの自画像に至っては、明るい部分のスポットライトのような効果を強調するあまり、背景はほとんど真っ暗である。

この「光を描くための闇」という逆説こそが、ルネッサンス以降のヨーロッパ絵画が行き当たった袋小路の本質といえると西岡氏は理解している。
そして、この袋小路の暗さを実感してはじめて、印象派にはじまる近代絵画が、ヨーロッパ絵画にもたらした解放感の大きさも実感されるという。
したがって、パリでオルセーとルーヴルの両美術館へ出かけるのなら、ルーヴルを先にして、『モナ・リザ』の「薄暮」とレンブラントの「夜」だけでも、実感しておくのが得策であるそうだ。そして、駅を改造したガラス張りの天井に照り映える「光の殿堂」、オルセー美術館である。その名も『印象 日の出』というモネの作品にはじまった印象派の絵画の歓びは、これに先立つヨーロッパ絵画の「闇」を実感して、はじめて理解される。
つまり、ウフィッツィで絵画史の回廊を歩いた後に、ルーヴルの『モナ・リザ』を経て、オルセーに至るのが、理想のコースであるらしい。
(西岡、1994年、12頁~16頁)

『モナ・リザ』の物語を読み解くために


ルーヴルの至宝『モナ・リザ』は絵画史上、最高の名画である。
ヨーロッパ絵画史の縮図ともいわれる。
この小さな画面は、その神秘の微笑のうちに、『モナ・リザ』以前の絵画の足どりを濃縮し、背景の山岳からは、『モナ・リザ』以降の絵画のゆくえを遠望させてくれると西岡氏は捉えている。

西岡氏のこの著作は、そうした壮大な「美の地図」としての『モナ・リザ』を読み解くために、ウフィッツィとルーヴルを結び、ミラノとローマを遠望しつつ展開する「絵物語」であると自称している。
この著作が、『モナ・リザ』の物語を、フィレンツェから始めたのには、理由があるそうだ。というのは、中世からルネッサンスへの絵画史を展望する上で、ウフィッツィは必見の美術館であるとする。そして、フィレンツェ駅前からウフィッツィまでの1キロにも満たない道の途上では、ルネッサンスをひらいた建築、絵画、彫刻のドラマのすべてを展望できるからである。その物語は、ウフィッツィにならって、コの字型に仕立てた架空の美術館を巡るように展開するという。

≪架空美術館としての本書の見取図≫


西岡氏は、架空美術館を想定している。その内容は、章立てに反映されているが、次のようなものである。
最初の一翼は、『モナ・リザ』の波瀾万丈の物語を綴る回廊である。
フィレンツェで描かれた『モナ・リザ』がルーヴルにある理由と、20世紀初頭、一大スキャンダルとなった『モナ・リザ』盗難の顚末、さらには最大の謎、『モナ・リザ』のモデル問題(ただし、出版年1994年までの状況であることに注意――筆者注)を解明していく。

反対側の一翼(第三の回廊 絵歴史のスペクタクル)は、芸術都市フィレンツェのウフィッツィから、祝祭都市パリのルーヴル、オルセーへと至る、全絵画史の回廊である。
中世から脱却し、古代の美学をよみがえらせたヨーロッパ絵画が肖像画と風景画を生み出していくさまを眺め、『モナ・リザ』の画面内を美的かつ知的に遊覧してみたいという。

そして、その両翼をつなぐ渡り廊下(第二の回廊、レオナルド流転の生涯)では、故郷フィレンツェからミラノ、ローマを経て、異国フランス人で没することになる、レオナルドの流転の人生を追っている。この回廊では、万能であるがゆえに不遇に終わり、完全を求めるがゆえに未完に終わった、天才レオナルドの悲劇的な生涯を見出すという。そして、複雑な出生ゆえに、男性としての自己を否定し、少年愛に慰めを見出し、聖なる母のイメージを追い続けた、レオナルドの孤独な魂の流転を見出せるとする。

この架空の回廊の随所には、さまざまな角度からの『モナ・リザ』の見方を西岡氏は紹介している。全回廊を一巡した後、見慣れたはずの『モナ・リザ』に、自分なりの新鮮な感動を見出すことのできる柔軟な鑑賞眼を得るであろう。加えて、完璧に見える『モナ・リザ』の、その未完部分を正確に見出すことができる、画家なみの鑑識眼を得るであろうという。
(西岡、1994年、18頁~20頁)

第一章 『モナ・リザ』対面――ガラスのピラミッドから、名画の回廊グラン・ギャルリーへ


ルーヴル美術館


ルーヴルは巨大で、収蔵作品は30万点を超える。
その面積は、東京上野の国立西洋美術館の20倍に及ぶ。
ウフィッツィは1981年に400周年を迎えたのに対して、ルーヴルは1993年で200周年である。美術館としての歴史は、ウフィッツィのちょうど半分であるが、アメリカ合衆国くらいの歴史は持っている。
この巨大なルーヴルも、発端は、16世紀にフランス国王が蒐集したささやかなコレクションにあった。それはイタリア絵画19点と古代ギリシア・ローマ彫刻の石膏模型像であった。

「カルーゼルの小門」をくぐると、ルーヴルの中庭に出る。左手が中央に凱旋門を置く「カルーゼルの中庭」、右手が、中央にガラスのピラミッドを置く「ナポレオンの中庭」である。合わせて150m×500mほどの空間を、三方からコの字型に宮殿が取り囲む。
宮殿のない西北側には、隣接するチュイルリー庭園の散策路や植え込みが幾何学模様を描く。そしてコンコルド広場で巨大な針のように天を指すオベリスクから、シャンゼリゼの並木道を経て、シャルル・ド・ゴール広場の大凱旋門に至る壮観が、一直線に展開している。
(ミシュランのパリ・ガイドが、最上級三つ星で推薦する眺望である)

この幾何学的な景観を、ルーヴル中庭から凱旋門越しに一望する位置に建てられたのが、ガラスのピラミッドであるとされる。
その完成は、1989年である。200周年を機に、宮殿内にあった大蔵省事務局が退去し、展示面積を一挙に6割増しの5万7千㎡に拡充する新装ルーヴルの象徴として設計された。設計者は、中国系アメリカ人建築家I.M.ペイである。モニュメンタルな建築では、当代一の名手と知られる。
伝統あるルーヴル宮の中庭に出現したステンレス・スティールとガラスの幾何学形体には、賛否両論が渦を巻いたが、このピラミッドを通って美術館に入場する人の数は、1日平均2万人弱になり、パリの新名所として定着した。

美術館へは、ピラミッドを通って地下から入る。
見学者は、中央入口ホールで、シュリー翼、ドゥノン翼、リシュリュー翼の三方向に分かれた展示棟への順路の選択を迫られる。
(三翼ともに、並みの美術館四つか五つ分のスケールである。巨大なデパートの入口が三方向から口を開けたような迫力であると西岡氏は表現している。この巨大さには心身ともに圧倒されてしまう)

ウフィッツィと違い、ルーヴルは同じコの字型でも、回廊と中庭の入り組んだ巨大な道路のような空間を三階分重ねた大美術館である。
そこに、エジプト、オリエント、ギリシア、ローマ等の古代の発掘品、中世から近代までの全ヨーロッパの美術品が、ひしめきあっている。
(短時間に、地域別、年代順の代表作を眺めて歩くことは不可能である。単に『モナ・リザ』だけを目当てに歩き始めても、絵の前にたどり着くまでに、10分や20分はかかってしまう)
(西岡、1994年、22頁~25頁)

ルーヴル美術館の主な展示品


『モナ・リザ』は、セーヌ河沿いのドゥノン翼の二階「グラン・ギャルリー(大回廊)」、第八区画に置かれている。
(順路は、『モナ・リザ』の写真入りの案内板が矢印で教えてくれる)

「ミロのヴィーナス」と並ぶ、名物彫刻「サモトラケのニケ」は、ピラミッド下からドゥノン翼入口へ直行、古代ギリシア彫刻と石棺の並ぶダリュ・ギャルリーを直進して、大階段を登ると、それが置かれた踊り場に出る。
「サモトラケのニケ」は、はるか頭上のドーム天窓から光を受け、古代ローマの勝利の女神が翼をひろげるさまは、まさに美の殿堂ルーヴルのプロローグというにふさわしい。

「サモトラケのニケ」を右にUターンして階段を登ると、19世紀ロマン派の超大作が壁面を埋める部屋「ダリュの間」である。
実際の漂流事件を描く、ジェリコー作『メデューズ号の筏』や、歴史の本でおなじみのドラクロワ作『民衆をひきいる自由の女神』のフランス革命の名場面の、大画面を横目に、部屋を横切り左に折れると「三部会の間」に出る。
晩期ルネサンスの絵画が並ぶこの大広間は、芸術の都パリの総本山ルーヴルの奥の院といわれる。それは、荘重な雰囲気の部屋である。
(1993年の新装オープン以前は、『モナ・リザ』はここに展示されていた。日本のガイドブックには、この以前の展示位置を書いてあるものも多いので要注意とのこと)
(西岡、1994年、25頁~26頁)

第二章 パリの奇跡――『モナ・リザ』は、現存していること自体が奇跡である


ルーヴルの『モナ・リザ』


『モナ・リザ』が掛かっている回廊は意外なほど狭い。基本的に、『モナ・リザ』の前はつねに混んでいる。ただ、混んでいるわりには、この作品の前に10分以上立っている人も団体も滅多にいない。だから、何十分か待つ気になれば、世紀の名画の最高の鑑賞位置に立つことができる。

作品は見るからに頑丈そうな枠つきの防弾ガラスのケースに、額縁ごと入っている。大半の作品が、ガラスなしの額縁で飾られているルーヴルでは、異例の待遇である。ケース内部は厳重な監視下に置かれ、つねに一定の気温と湿度を保っている。絵が木製パネルに描かれており、乾燥すると木が反って、画面にひび割れが生じるためである。
(1960年代の点検で、作業場に移された『モナ・リザ』は、エアコンによる湿度の急変で、2、3時間のうちに反り始め、あやうくひび割れるところであったそうだ。)

『モナ・リザ』が海外展のためにルーヴルを出たのは、J.F.ケネディの熱望による1963年の米国展と、1974年の日本―ソ連巡回展の2回である。
今後、この絵がルーヴルを出ることもないといわれるから、『モナ・リザ』の前に立つことは、自分自身がパリにいることを実感する、最も感動的な方法のひとつである。
(西岡、1994年、27頁~29頁)

芸術作品の受難の歴史


『モナ・リザ』をガラスのケースに入れるとの決定は、20世紀初頭の1910年になされている。当時、歴史的な名画が、その権威を否定する人々に硫酸をかけられたり、ナイフで切りつけられたりする事件が頻発したためであるという。
その後も、作品の保安と公開の両立は、いまなお世界中の美術館の悩みの種である。ウフィッツィは1993年の爆弾テロで、死傷者を出し、収蔵品と建築物に多大な被害を受けた。
1991年、ウフィッツィのアカデミア美術館にあるミケランジェロの『ダヴィデ』像にハンマーで殴りかかって左足を砕いた人物がいた。シチリア出身の挫折した画家であった。
また1972年、ヴァティカンにある同じミケランジェロの傑作『ピエタ』の顔と左手をハンマーで打ち砕いたのは、キリストを自称する人物であった。
事件以降、両作品は防弾ガラスで見学者から隔離されている。

芸術作品の受難には、こうした悪意の他に、忘却や無関心、さらには戦災や天災という不可抗力が加わる。
その代表例が、レオナルドの『最後の晩餐』であるという。
この壁画は、レオナルド自身の技法上の失敗で、完成後まもなく画面が剥落し始めた上に、16世紀と19世紀の2度にわたって洪水に遭う。また17世紀には画面中央下部に扉を開けられ、18世紀末には部屋そのものが、ナポレオン軍の馬屋に使用されている。
そして、第二次世界大戦下の連合軍の爆撃で、壁画のある修道院はほぼ全壊に近い打撃を受けている。瓦礫の山の一角に、『最後の晩餐』を描く壁のみが、破壊を免れて立っていた(1943年)。作品が現存していること自体、奇跡としか言いようがない。

『モナ・リザ』についても、16世紀なかばに、左右を数センチずつ切断されている。額縁のサイズに合わせるための切断であったとみられている。

さらには、美術館そのものにも受難はある。
ルーヴルにしても、その長い歴史は決して平穏なものではない。18世紀の宮廷のヴェルサイユ移転と共に、大道芸人の小屋と居酒屋の群居する浮浪者の巣窟として、なかば廃墟化し、あやうく取り壊されるところであった。
18世紀末のフランス革命時には武器庫とされ、19世紀なかば、自治政府パリ・コミューンの時には、放火されている。中庭から、はるか凱旋門までを望む現在のルーヴルの眺望は、この時の西北側宮殿チュイルリー翼の焼失によって開けたものである。

20世紀の最大の危機は、第二次世界大戦のナチス・ドイツのパリ侵攻であった。ナチス副総統ゲーリングは美術品の略奪魔で、一級品は「H」の印を押してヒットラーに献上し、自分用には「G」の印を押して、特別列車でベルリンに移送していたそうだ。
略奪をおそれたルーヴル側は、『モナ・リザ』等の主要作品を、レジスタンスの協力を得て、フランス各地の極秘の場所に分散疎開させた。収蔵品の引き渡しを要求してきたゲーリングに対しては、交渉の引き延ばし作戦に出る。そして、ドイツ軍の撤退でルーヴルは略奪をまぬがれる。
(もし『モナ・リザ』がヒットラーの手に渡っていれば、ベルリン陥落と共に、どのような運命が待っていたかわからない)

『モナ・リザ』に限らず、歴史的な美術品は、無数の災厄を生き抜いてきた。こうした芸術の受難の歴史を眺めれば、『モナ・リザ』のケース入りも止むを得ない。ただ、この専用ケースを作ったイタリア人大工によって、『モナ・リザ』は、まんまとルーヴルから盗み出されることになる。
(西岡、1994年、29頁~32頁)

第三章 盗まれた世紀の名画――フィレンツェで描かれた『モナ・リザ』が、パリにある理由


『モナ・リザ』の盗難


『モナ・リザ』盗難の第一発見者は、模写画家のルイ・ブルーであった。1911年8月22日のことである。
ブルーは、『モナ・リザ』の掛かる展示風景を描いた絵が好評で、画商に催促されていたようだ。ブルーがその日の仕事にかかろうとセーヌ河を渡った時、ルーヴル対岸のオルセーはまだ美術館でなく駅であり、その壁の大時計は午前9時を指していたという。
当時のルーヴルでは、贋作の制作を防ぐために、オリジナルと同サイズの模写のみが禁じられていた以外は、制限らしい制限もなかった。模写の道具を預かる倉庫までが完備されていたようだ。

犯人のイタリア人大工ペルージアは、この倉庫に潜んで、『モナ・リザ』盗み出しの機をうかがっていた。ペルージアは、『モナ・リザ』のケースの取付け工事を請け負った4人の大工のひとりであり、館内の様子は熟知していた。
まず、日曜日の閉館直前に見学者を装って館内に入る。閉館と同時に、共犯の仕事仲間ランチェロッティ兄弟2人と倉庫に忍び込む。中で一夜を明かし、翌月曜日の休館日を待つ。
明けた月曜日の朝、休館日に館内に入る清掃業者を装って倉庫から出た3人は『モナ・リザ』の部屋に向かう。
周囲に人目のないことを確認し、壁から『モナ・リザ』をケースごと外し、職員用階段の隅にケースと額を隠す。

額縁を外した正味の『モナ・リザ』の寸法は、80cm弱×50cm強である。世紀の名画を作業着でくるんだ犯人一味は、休日のルーヴルから逃走する。この間の所要時間は、ほぼ1時間だったようだ。

そして翌火曜日の朝9時、画商にせかされた画家ブルーが、道具一式を携えて、『モナ・リザ』のあるはずの壁の前に立った時には、すでに盗難から24時間が経過していた。壁に『モナ・リザ』がないのに気づいたブルーは、警備員に「ジョコンダは?」とたずねる。
(「ジョコンダ」は『モナ・リザ』の通称で、欧米ではこちらの方が通りがいい)

行方をくらましたジョコンダに、警備員はさして驚いた様子もなく、写真撮影のためのスタジオ入りだろうと説明した。数時間待って、しびれを切らしたブルーが再度、苦情を申し立て、盗難自体が確認されたそうだ。事件後なんと30時間近く経過してしまう。
(実は、前日の月曜の盗難直後に、警備主任自身がすでに『モナ・リザ』が壁にないことに気づいているが、やはり写真撮影のためのスタジオ入りと思ったらしい)

明けた水曜日の朝、フランスを代表する新聞「ル・マタン」の第一面は、“想像を絶する!”と報じた。「ニューヨーク・タイムズ」のトップも、“ラ・ジョコンダ、パリで盗まる”の大見出しを揚げる。ジョコンダは、この時から2年半の間、完全に行方不明となる。

2週間後、フランス警察が最初の容疑者として拘引したのは、天才の誉れ高き詩人アポリネールと画家ピカソであった。ピカソは、“最初の20世紀絵画”と賞される傑作『アヴィニヨンの娘たち』を描き上げたばかりだった。
ルーヴルの発掘品倉庫からの窃盗の常習犯で、ベルギー人作家ピエレが、この2人に盗品の古代彫刻の小品を売っていたことを自白したことが、拘引のきっかけとなった。
ポーランド人アポリネールと、スペイン人ピカソは、国外追放を何より恐れた。涙ながらに『モナ・リザ』事件との関係を否定した2人は、証拠不充分により釈放された。
(結局、『モナ・リザ』発見までの2年間に、フランス警察が容疑者として正式に拘引したのは、このアポリネールとピカソのみであったそうだ)
(西岡、1994年、33頁~38頁)

『モナ・リザ』盗難事件の内実


この世紀の盗難事件の首謀者は、アルゼンチンの詐欺師ヴァルフィエルノであった。
ペルージアとランチェロッティ兄弟は、わずかな金で雇われたに過ぎない。実は、ヴァルフィエルノのねらいは、実物の『モナ・リザ』にはなかったようだ。
彼の主眼は、『モナ・リザ』の贋作を、ルーヴルよりの盗品と称して秘密裡に売りさばくことにあった。これは実物の売却よりはるかに危険が少ない上に、何点もの「モナ・リザ」を売れるという利点がある。こうした盗品に見せかけた贋作の売却がヴァルフィエルノの専門で、美術館から盗み出したと偽っては、名画の贋作を売りさばいていた。

『モナ・リザ』の盗難の成功を確認すると、ヴァルフィエルノは渡米し、贋作の売却にとりかかる。アメリカは好景気の絶頂で、成金趣味が蔓延しており、6点の贋作が売却され、40億円を彼は手にした。
哀れなペルージアは、自分が利用されたことも知らず、その後2年にわたって、貧乏暮らしのなかでヴァルフィエルノの連絡を待ち続ける。
盗み出した『モナ・リザ』は、ペルージアの安トランクの二重底に隠され、これが幸いして『モナ・リザ』は変色もせず、反りもせず、無傷で保管される。ペルージアの困窮が最小限の暖房しか許さなかったことも、作品の保管上からは幸運であったようだ。

盗難から1年後、ついに作品の帰還を絶望視したルーヴル当局は、事件後空いたままになっていた壁に、レオナルドの後輩にあたる画家ラファエロの晩年の肖像画を掛ける。
(この作品が、『モナ・リザ』の占めていた聖なる場所を侵害するものとして、少なからぬ反感の的となった)

狡猾なヴァルフィエルノは、最初から本名を告げずにペルージアに接触した。連絡のないことにしびれを切らしても、ペルージアの側からは連絡のとりようがなかった。
ついに、ペルージアが『モナ・リザ』の処分を決意したのが、2年後の1913年の12月である。処分先に選ばれたのは、ルネッサンス美術のメッカ、フィレンツェの画商であった。
ペルージアのぼろトランクの底に隠されて、列車で国境を越えた『モナ・リザ』は、実に400年ぶりにイタリアに帰郷することになった。

その前の月、ウフィッツィ美術館館長ポッジは、地元フィレンツェの画廊主ジュリから奇妙な相談を持ちかけられた。パリ在住の「レオナルド」というイタリア人から、ナポレオン時代にイタリアから強奪された財宝を故国に持ち帰りたい、との手紙を受け取ったという。
(その財宝とは『モナ・リザ』のことらしく、差出人は法外な要求をするつもりはないが、現在、生活に困窮している旨が書かれている)
ポッジもジュリも半信半疑であった。しかし、ことが『モナ・リザ』に関するだけに慎重を期し、パリの差出人との手紙と電報のやりとりを繰り返す。

12月9日、ペルージアがフィレンツェに入ったことを告げる電報が、画廊主ジュリに届く。翌々日、ジュリとポッジ館長は、ペルージアの滞在する安宿「トリポリ=イタリア」の一室で、トランクの底からまさかと思った『モナ・リザ』が取り出されるのを目の当たりにする。あまりの衝撃に、二人は、しばし口もきけなかった。ペルージアは、満足げに微笑んだ。

この時、討議された報酬の額は10万ドルといわれる。
しかし、公共の美術館が盗品の買い入れに応じるはずはなく、鑑定のためにと『モナ・リザ』を無事預かった時点で、ポッジ館長が警察に通報する。ペルージアは逮捕され、『モナ・リザ』発見の大ニュースが全世界に打電される。
パリを絶望させた『モナ・リザ』の盗難劇は、フィレンツェを熱狂させる『モナ・リザ』帰還のニュースで、その幕を閉じた。

ペルージアは、逮捕直後から『モナ・リザ』強奪は自分の単独犯行であり、動機はイタリアの国宝を故国に返還することにあったと主張し始める。
これを真に受けた庶民の間で、ペルージアは国民的英雄となり、スター的な存在になる。
詐欺師ヴァルフィエルノは、このペルージアのひとり芝居を複雑な心境で眺めていた。彼は、モロッコ駐在の新聞記者に、秘密厳守を条件に、事件の真相を明かしている。新聞記者は、その後17年にわたり、この約束を守った。
そのおかげで、『モナ・リザ』盗難は愛国心にかられたイタリア人の犯行であるという伝説が定着してしまう。
(ヴァルフィエルノの死後、記者は真相を出版する。しかし事件当時とは一転して世界規模の恐慌下では、名画盗難のミステリアスな顚末も、さしたる反響は呼べずに終わっている)
(西岡、1994年、38頁~42頁)

事件解決後の『モナ・リザ』


ウフィッツィ美術館は、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』の無事を報告し、返還を申し出ると同時に、イタリア国内での公開の許可を求め、快諾を得る。
フィレンツェに「帰還」した『モナ・リザ』は、1913年12月14日、公開される(午前9時から午後1時までの間に、3万人が押し寄せたという)。

続いてローマ、ミラノと巡回展示され、その年の大晦日、ミラノ―パリの特急列車に乗ってルーヴルへ帰還する。
2年半ぶりに『モナ・リザ』は、パリに帰還し、新年のパリは、ラ・ジョコンダ・フィーバー、一色に彩られる。ルーヴルで再公開された最初の2日間で、見学者は10万人を超えたという。

一方、この熱狂に反比例するように、犯人ペルージアの「人気」は衰えていく。
初公判の傍聴人は数えるほどであった。事件翌年の春の判決は有罪で1年と15日の懲役である。同年夏の控訴審の判決が、特赦による減刑7か月であった。既に7か月以上拘留されていたので、裁判終了と同時に釈放される。
ペルージアは、フィレンツェで初めて泊まったトリポリ=イタリア・ホテルへ戻ろうとするが、すでにその名のホテルは存在しなかった。『モナ・リザ』発見にちなんで、ホテル・ラ・ジョコンダと改名していた。
(西岡、1994年、43頁~44頁)

『モナ・リザ』の帰属について


こうして、「愛国者ペルージア」は事件の舞台から姿を消す。
このイタリア人による“『モナ・リザ』奪還”という英雄伝説の筋書に水を差す最大の要因は、『モナ・リザ』が強奪された作品ではなく、フランス王室によって正規に買い取られた作品だという事実である。
しかも、国外への持ち出しはレオナルド自身によって行なわれている。

ところで、ギリシアの文化大臣メリナ・メルクールが、ルーヴルの収蔵品の大半は、フランス帝国主義の収奪の所産にほかならず、文化遺産の当事国に返還すべきであると主張したことがある。
ルーヴル側の担当者の感想に関して、小島英煕氏の著作を引用している。
――もしギリシアの「サモトラケのニケ」を返せ、ということになると、世界中の美術館で同じような問題が起こり、解決不能な状態になるでしょう。もし、すべてを強行すれば、フランスにはフランスだけ、日本には日本だけ、エジプトにはエジプトだけ、ギリシアにはギリシアだけの芸術品しか見られないことになる。これは誰にとっても望ましからざる結果でしょう。『モナ・リザ』をイタリアに返すことが現実的でしょうか――
(小島英煕氏『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリー、1994年、160頁)

【小島英煕『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリーはこちらから】

ルーヴル・美と権力の物語 (丸善ライブラリー)

この担当者は、ルーヴルにありながら、ペルージアと同じ誤解をしていると西岡氏はみている。
『モナ・リザ』は、もともと「返す」必要はない作品だからである。『モナ・リザ』は確かにフィレンツェで描き始められたが、レオナルド自身によってミラノへ持ち去られ、その後、ローマから臨終の地フランス、アンボワーズまで、終生レオナルドの手もとに置かれた作品である。

レオナルドの遺言で、弟子メルツィに託され、このメルツィからフランス宮廷が正式に買い上げ、以降、フランス王宮の秘宝となっている。以上が、その理由である。
(西岡、1994年、44頁~45頁)

レオナルドとフランソワ1世


臨終の地アンボワーズにレオナルドを招いたのは、国王フランソワ1世である。
フランソワ1世は、フランスに、イタリアに匹敵する芸術をもたらそうとして、ミケランジェロ、ラファエロも招聘している。しかし、両者は本国での仕事が忙しく、本国で不遇であった晩年のレオナルドのみが、この招きに応じることになった。
フィレンツェ、ミラノ、ローマと、みずからの才能の理解と庇護を求めて、放浪し続けた失意のレオナルドは、このアンボワーズで、平穏を得る。レオナルドの他界は、その3年後のことであった。

晩年のレオナルドに安息の地を提供したフランソワ1世は、この万能の天才を父のごとく慕い、彼と会話することを好んだという。
ルネッサンス芸術家の伝記集として名高いヴァザーリの「美術家列伝」は、レオナルドはこのフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと書いている。この記述は歴史的には正確ではないが、生涯不遇であったレオナルドが、晩年に初めて得た厚遇を象徴している。
フランソワ1世が、レオナルドの死の知らせに落涙したのは事実らしい。

レオナルドの死後、フランソワ1世は、『モナ・リザ』をはじめとする絵画19点を、古代ギリシア・ローマ彫刻の石膏像と共に、最初のフランス王室コレクションとした。これらの作品は、フランソワ1世の居城フォンテーヌブロー宮に置かれ、王室の賓客をもてなした後、フランソワ1世が修復したセーヌ河畔の古城に移されることになる。
ルーヴル収蔵品目録は、『モナ・リザ』の収蔵年を、1519年としているそうだ。目録中、最古のこの収蔵年はレオナルドの没年である。
(西岡、1994年、44頁~47頁)