≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年8月29日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章までの内容を紹介してみたい。
「第十一章 フィレンツェに還る」では、『モナ・リザ』が描かれた芸術都市フィレンツェについて解説すると同時に、芸術庇護者メディチ家とレオナルドとの関係などについて説明している。
たとえば、ルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎなかった。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。
レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。
「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説している。
たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。
ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。
この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。
「第十三章 風景の『受胎告知』」では、『モナ・リザ』の背景の風景にまつわる問題を『受胎告知』の絵を素材にして考えている。
『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。
ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。
レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。
フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できる。
全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
フィレンツェは、街中が美術館であるといわれる。
ただ、パリやローマを見慣れた目には、この街の第一印象は、あまりにも無愛想であるそうだ。フィレンツェ中央駅前に降り立っても、壮麗な聖堂もなければ宮殿もない。
しかし、駅前のホテルの最上階などから、窓外に目をやると、フィレンツェ独特の赤煉瓦の屋根が、海のように広がっている。その中で、ひときわ高く、花の聖母大聖堂の巨大な円蓋(ドゥオモ)がそびえている。
ドゥオモの丸屋根は赤煉瓦色、建物は白と緑の大理石である。壮大な大聖堂が、精緻な工芸品のように美しい。
隣には、象牙細工のようなジオットの鐘楼が寄り添う。その右手の遠景に、褐色の石積みのヴェッキオ宮の時計台が見え、背景はトスカナの山々である。
フィレンツェは、街中が美術館であるというより、むしろ、街そのものが、ひとつの美術品なのである。
そして、フィレンツェは書物でいえば、おそろしく地味な装丁の画集であると喩えている。絢爛たる名品の数々を収め過ぎ、かえって表紙にする作品の選びようがないからだという。
(西岡、1994年、142頁~143頁)
駅前に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会があり、そこにはマザッチオの代表作『聖三位一体』(1427年頃)が展示されている。
ルネッサンスを開幕した絵を1点挙げるなら、迷わず選ばれるのが、この作品である。
ルネッサンスは、建築のブルネルスキ、彫刻のドナテルロ、絵画のマザッチオを始点として開幕している。
そのブルネルスキの代表作が、花の聖母大聖堂のドゥオモ(1436年)であり、ドナテルロの代表作が、『ダヴィデ』(1435年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)である。
(駅前5分の圏内で、この三巨匠の代表作のうち、ドゥオモと『聖三位一体』の2点は見たことになる。街中が美術館であるのも事実である)
ところで、西岡氏は、フィレンツェを『モナ・リザ』の故郷として散策するならば、そのルネッサンスという時代を開いた三人の巨匠の作品を眺める必要があるとして、それらを解説している。
市街の中心に、ドゥオモがそびえる。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ、世界第三位の威容である。
このドゥオモ完成から1世紀半の後、ローマ法王がミケランジェロに、これを超える円蓋をサン・ピエトロ大聖堂に作ることを命じた時、ミケランジェロは「いかに法王様のご命令でも、あれより美しいものを造ることは不可能です」と答えたという。
さて、建築のルネッサンスを開いたブルネルスキの作品ドゥオモは、建築よりは、丘を思わせるといわれる。この花の聖母大聖堂は、駅からウフィッツィ美術館へ向かう道の途中にそびえている。街が小ぶりであるだけに、その威容が強調される大聖堂の向かい側に、小別館風に建つ八角形のサン・ジョヴァンニ洗礼堂がある。その扉を黄金色に飾るのが、ギベルティ作の通称『天国の門』(1452年)である。
これは、旧約聖書の名場面を描く浮き彫り彫刻10面で構成されている。ミケランジェロが『天国の門』と絶賛したことから、この名がついた。
1401年に、この浮き彫りの作者を決めるコンクールが行なわれたが、ギベルティと共に最終選考に残ったのが、後にドゥオモの設計者となるブルネルスキであった。
甲乙つけがたい二人の作品に、主催者側は二人の合作という提案をしたが、ブルネルスキは辞退し、作品はギベルティに一任される。
彫刻のコンクールの勝ちを譲ったブルネルスキが、建築家としての雪辱を果たしたのが、この『天国の門』が正面に見上げる、ドゥオモの設計案コンクールであった。
120年前に建築の始まったこの大聖堂は、直径40m、高さ100mを超える天蓋が、実際の工事の段階に至って、建造不可能と判明し、新たに設計案を公募することになった。そのコンクールに、ブルネルスキは、足場の不要な二重構造の設計案で、応募する。これが採用されて、巨大なドゥオモは16年で完成される。
ブルネルスキによって、建築は職人の「技」から、芸術家の「学」へと大きく飛躍した。彫刻家ブルネルスキは、全芸術のルネッサンスを築き上げる、総合芸術家としての一歩を踏み出していた。つまり、職人から作家へという、ルネッサンス期の全芸術が果たすことになる飛躍の序曲となった。
天にそびえるドゥオモの威容は、「学」としての建築の成し得たことの巨大さを象徴しつつ、半世紀と少しの後、同じく「学」としての絵画を大成することになるレオナルドの、知的宇宙の巨大さをも予見していたと西岡氏は理解している。
このブルネルスキのドゥオモ設計案の約10年後、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃)が描かれ、その約10年後に、ドナテルロの『ダヴィデ』像(1435年頃)が作られる。
(西岡、1994年、143頁~148頁)
マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)は、ルネッサンス最初期の透視図法の完成例として知られている。
透視図法は、遠近法と通称されるものである。つまり、画面深奥の一点に向かって集中する線に沿って、近くのものを大きく、遠方のものを小さく描いて、画面に三次元的な広がりを与える図法である。図法の原理は、ブルネルスキが遺跡測量の記録のために確立したものという。
(現代もなお、絵画の空間表現の基本は、このルネッサンス期のイタリアで開発された透視図法によっている)
中世の平板な絵画を見慣れた人々の眼には、この図法で描かれた画面は、立体視の衝撃をもたらしたはずである。
ヴァザーリは、「まるで壁そのものに穴があいているようだ」と記した。
(西岡、1994年、148頁)
ドナテルロの『ダヴィデ』(1453年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)は、人体から直接に型取りしたとしか思えぬと人々を驚かせたそうだ。
ブルネルスキの遺跡調査に同行したドナテルロが、聖書の英雄をギリシア彫刻風の裸体で表現した作品である。官能的な写実性もさることながら、建築物の添え物だった中世彫刻から脱し、独立した作品として作られた点に、古代彫刻の思想を復興していると西岡氏は評している。
この作品は、ドゥオモ裏手からヴェッキオ宮に抜ける道の途中にあるバルジェロ美術館にある。これは、古代ギリシア彫刻で完成された「コントラポスト」と呼ばれるポーズである。つまり、片足に重心をかけ、片足を流し、全身でかすかにSの字形を描くポーズである。それにより、直立不動の彫刻では表現し得ない生気に満ちている。
このコントラポストこそは、ルネッサンス彫刻が動感と安定の均衡の理想形としたものである。4半世紀後に、少年レオナルドをモデルに作られたヴェロッキオの『ダヴィデ』(1475年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)も、見事なコントラポストを見せている。
(同じバルジェロ美術館の3階に飾られているので、若きレオナルドの風貌をしのぶ意味でも鑑賞を勧めている)
そして、コントラポストの完成形を示すのが、ヴェロッキオ作品のさらに4半世紀後に登場することになる、ミケランジェロの『ダヴィデ』(1504年、アカデミア美術館、フィレンツェ)である。
(西岡、1994年、148頁~150頁)
メディチ家は、15世紀初頭、フィレンツェ北郊ムジェロの農家から製薬業で、身を起こした一族である。金融業で莫大な富を築き、フィレンツェを支配する一大財閥となる。
医術・薬剤をいうイタリア語MEDICINA(英語のMEDICINE)から、メディチMEDICI
を名乗り、丸薬を表わす6つの球を家紋とした。丸薬をデザインしたといわれるメディチ家の家紋は、ヴェッキオ宮内の壁画装飾などに見られる。
メディチ家の最盛期には、法王庁から全ヨーロッパ、アジア、アフリカにまで及ぶ領域をその勢力下に収めた。
なかでも、フィレンツェ建国の父といわれるコジモ・デ・メディチと、その孫の、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチは、巨額を投じてフィレンツェの文化振興につとめ、ルネッサンス芸術に経済的基盤を提供することになった。
例えば、ボッティチェルリ『東方三博士の礼拝』(1479年、フィレンツェ美術館)には、メディチ家の人々が描かれている。
この絵は、誕生したキリストを東方の三博士が礼拝する場面であるが、聖母子の前にひざまずく老人がコジモであり、左端に立つのが豪華王ことロレンツォである。なお、右下部分には、ボッティチェルリの自画像が見える。
さて、今日、フィレンツェが芸術都市の代名詞となり、メディチが企業の文化振興の代名詞となっている。
ただ、このルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。
最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎない。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。
レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。この手記の言葉はそのことへの繰り言なのか、その真意は今となっては謎である。
レオナルドは50歳で帰郷したが、再びフィレンツェを去ることになる。その直接の原因は、市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の、フレスコ嫌いによる失敗をめぐる訴訟であったといわれる。
この点に関して、西岡氏は想像をめぐらしている。つまり、もしフィレンツェがこの技術的失敗について、もう少し寛大さを示したり、晩年のヴァティカンにおけるレオナルドの不遇に援助の手を差し伸べたりしていたならば、『モナ・リザ』がレオナルド自身によって国外に持ち去られることはなかったかもしれないという。
非の大半は、レオナルドの性癖にあったのであろうが、フィレンツェは晩年のレオナルドに安息の地を与え得なかった。そのことで、この地で描かれた『モナ・リザ』という世紀の名画を永遠に失ってしまったのは、メディチ家の芸術都市としては手痛い損失であった。
『モナ・リザ』に至る絵画史の回廊としては、世界最高の美術館であるウフィッツィに、当の『モナ・リザ』がないのはそのためであると西岡氏はみている。
(西岡、1994年、151頁~154頁)
ウフィッツィ美術館は、ルネッサンス絵画の至宝が並んでおり、文字通り、“歩く「列伝」”として絵画史を散策できるよう設定されている。
ウフィッツィ美術館は、シニョーリア広場からアルノ河岸に抜ける全長140m、幅18mの中庭を、古代風の柱廊でコの字型に囲んで建っている。中庭の奥、突き当たりのアーチ越しには、アルノ対岸の風景が見える。
(入場券売り場は、田舎の郵便局を思わせ、エレベーターは都心のマンションほどもなく、質素な建物らしい。その3階にルネッサンス絵画が展示されている)
このウフィッツィ美術館で、第一回廊のなかほどにある特別室「トリブーナ」だけは、先に見ておくことを西岡氏は勧めている。この「トリブーナ」は、赤い壁面の八角形の典雅な小空間である。18世紀の英国貴族子弟がこぞって出かけた大陸漫遊「大修学旅行(グランド・ツアー)」では、ヴァティカンと並ぶクライマックスとされたそうだ。
この「トリブーナ」には、その中央に大理石製の「メディチのヴィーナス」が飾られている。これは紀元前1世紀、古代ローマ時代の模刻である(原作は、紀元前4世紀の古代ギリシア彫刻の代表作である)。
17世紀末に発掘され、18世紀初頭に、ウフィッツィに入っている。胸と腰を隠すポーズは、「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれる。隠すしぐさで逆に裸身を強調する、古代来のヌードの演出法である。
(西岡、1994年、155頁~156頁)
「トリブーナ」の「メディチのヴィーナス」を鑑賞してから、回廊に戻り、一方通行の順路をたどり、ボッティチェルリの部屋に入ると、代表作『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)が、すぐ左側の壁に掛かっている。
画面は、古代の「恥じらいのヴィーナス」の大理石の肌を、ルネッサンスの人間色に染め上げて、2000年の時の彼方から復活させている。その強調されたコントラポストは、軽快な躍動感において古代のヴィーナスを凌駕する。甘美にして流麗な描線がボッティチェルリの特徴であるといわれる。画面は綴れ織りのように豪奢で、清楚なヌードが美しい。ルーヴルの「ミロのヴィーナス」と並ぶ、ヴィーナス・イメージの決定版である。ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネッサンスの代名詞的作品である。
海の泡から誕生したヴィーナスに、春の女神プリマヴェーラが、右の浜辺からマーガレット文様のマントを着せかけている。天界のめぐみ、美の化身の降誕によって、愛と豊饒に潤される大地の寓意像といわれる。
一方、画面左の中空から息を吹きかけているのが、春の西風の精ゼフュロスである。その腰に手を回すのは花の女神フローラである。黄金の髪をひるがえし、美神の誕生を告げる愛の風が吹き抜け、祝福のバラが舞っている。
制作された1485年頃といえば、若きミケランジェロの傑作『ダヴィデ』(1504年、大理石、高さ410㎝、アカデミア美術館、フィレンツェ)が、盛期ルネッサンスの官能性に先駆けること20年ほどである。初期ルネッサンスの清冽な乙女の裸身として、この『ヴィーナスの誕生』という作品の右に出るものはないと西岡氏は評している。
『モナ・リザ』の前に立つことが、パリにいることの証(あかし)であるように、このヴィーナスを眼前にすることは、フィレンツェにいることの、何よりの証であるといわれる。
近世の開幕であるルネッサンス期の以前の時代、すなわち中世には、『ヴィーナスの誕生』のように神話を題材にした絵画は、ほとんど見当たらない。
というのは、ヨーロッパに美術における古代と中世を区別するものは、キリスト教美術の成立にほかならないからである。ヨーロッパにおける中世美術とは、近世以前のキリスト教美術の総称である。これに先立つ、ギリシア・ローマの神話を描く美術が古代美術である。
ボッティチェルリのヴィーナスは、古代以来初めて描かれた「異教」の女神の等身大の画像として、まさに「復興」の時代精神を高らかに宣言している。
(西岡、1994年、156頁~159頁)
中世とルネッサンスの違いについて、西岡氏は次のように説明している。
中世は、肉体ではなく精神を重んじ、人間ではなく神を讃えた時代である。中世では、肉体を欲望の器として否定し、人間の存在を神の従僕として卑下した。
そして女性のヌードや個人の肖像画という絵画ジャンルの存在する余地はない。裸像は、イヴなど、聖書に記された女性に限られ、肖像は、神や聖人の図像ないしは王侯貴族の肖像という、礼拝を目的にしたものに限られた。
これに対して、ルネッサンスは、肉体を精神の表出として重んじ、人間を神の芸術作品として讃えた時代である。裸身を讃美し、個人を記念する、古代美術の様式を復興することで、ヌードと肖像画という近世以降の絵画の主軸となるジャンルが確立された。
たとえば、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)はルネッサンスを開いた絵画として知られる。
画面には、この壁画を教会に寄付した夫妻の肖像が描き込まれている。聖母マリアや聖ヨハネより一段低く、ひざまずく姿で描かれたとはいえ、その大きさは、画中の神や聖人とほとんど同じである。こうした処置は、中世絵画では考えられなかったようだ。俗人である寄進者は、画中の神や聖人よりはるかに小さく描かれるのが普通だった。寄進者が同等の比重を占める画面は、絵画が神と教会に独占される時代の終幕と、人間が絵画の主題となる時代の開幕とを象徴していると西岡氏は考えている。
この寄進者の肖像が、一枚の絵として独立した時に、個人肖像画の歴史は開幕するという。
(西岡、1994年、159頁~160頁)
個人肖像画のもうひとつのルーツを示す作品が、ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)である。
この小品は、『ヴィーナスの誕生』と並ぶボッティチェルリの代表作『春』の右側の壁に掛かっている。作者ボッティチェルリの自画像ともいわれる若者が持つのは、フィレンツェ建国の父コジモ・デ・メディチのメダルで、実際に画面上に石膏を盛り上げて作られているそうだ。
メダルもまた、ルネッサンスが古代から復興したもののひとつである。メダルは神像や皇帝の肖像を刻んだ古代のコインを起源とするが、戦勝や遠征の記念品としての性格を確立したのが、古代ローマ時代である。
中世期に、いったん衰微したメダルが、君主、貴族、文人の間で再びブームを呼んだのが、ルネッサンス期であった。
メダルは、個人の容貌を業績と共に刻印する記念品である。個人というものが、神の威光の前に否定された中世にメダルが衰微したのに対して、ルネッサンス期には、個人意識というものが強く自覚され、メダルが再び愛好されるようになった。
(西岡、1994年、160頁~161頁)
肖像画は、いわば「描かれたメダル」として、この時期に急速に発達する。そのことを物語るのは、ピエロ・デラ・フランチェスカの一対の典雅な肖像画『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃、ウフィッツィ美術館)である。これは、ウフィッツィ美術館の第7室の窓際に飾られ、裏表から鑑賞できるように木製の台の上に立てられた作品である。
その画面は、表に向かい合わせの夫婦の肖像を、メダル風の横顔で描き、裏に夫婦それぞれの人徳を表わす擬人像や女神を従えた、古代風の凱旋式を描いているという。
夫婦一対の肖像画が、表裏からの鑑賞用に、豪華な紙芝居の枠を思わせる額縁に入って立っている。同時代、裏に凱旋式を描いたメダルが多いことから見て、この絵は「描かれたメダル」を意図している。
『ヴィーナスの誕生』は描かれた古代彫刻として、『ウルビーノ公夫妻の肖像』は描かれたメダルとして、古代の人間礼讃を復興し、近世美術の地平を開くものであったと西岡氏は理解している。
また、『メダルを持つ若者の肖像』において、誇らしげにメダルを示す若者は、そうした古代美学の復興者としての、ボッティチェルリの自画像であるようだ。そして、この作品は、イタリア肖像画史上、最も早い時期に描かれた斜め向きの顔としても、歴史的に大きな意義を持つと指摘している。
(西岡、1994年、161頁~162頁)
西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。
① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。
また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡、1994年、162頁~164頁)
元来、ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。
「南」の温暖で平穏な地中海気候は、屋外での議論や集会を容易にし、論争的な学問を形成し、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。
これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、ドイツ中世の神学や、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
イタリアにおける、最初期の四分の三正面像である『メダルを持つ若者の肖像』は、ボッティチェルリが、こうした「北」のリアリズムを学んだことを物語っている。
画面は、上部の肖像画における「北」の視点と、下部のメダル(そこには横顔が描かれている)における「南」の視点が出会う、ヨーロッパの人物描写の視点の地図を成している。
(西岡、1994年、164頁~165頁)
ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、「南」風のプロフィルを、「北」風のリアリズムで描いて、人物描写にいきいきとした新境地を開いた作品であると西岡氏はみなしている。
絵画には、印刷では再現不可能の魅力というものがあるが、このポライウォーロの肖像画ほど、その美しさを印刷物にできない作品も珍しいという。
例えば、背景のブルーの解放感、人物の頬にさした赤みの生命感、軽快な色彩と繊細な筆致が、優雅この上なく調和しているのが、この画面の魅力であると説く。人を魅惑する力を持った作品であるが、なにより注目すべきは、その横顔に浮かんだ微笑の生彩である。
ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』の横顔と比べると、数年後の作品であるにもかかわらず、このポライウォーロの肖像画には、人間としての生命感がみなぎっている。モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。このポライウォーロの「側面像」の生彩の前では、先の『ウルビーノ公夫妻の肖像』なども、むしろ「側面図」的な冷たさを感じさせてしまう。
宗教的ないし政治的な目的を持って描かれた中世的な「図像」が、生きた「絵画」へと生まれ変わった時代がルネッサンスであると西岡氏は理解している。画中の人物もまた、確かな存在感と生命感を持って再生した。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。つまり、ポライウォーロのこの肖像画は、生彩に富んだ微笑が『モナ・リザ』を予見する名品であるというのである。
(西岡、1994年、165頁~166頁)
1492年、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチが他界する。ボッティチェルリと共にルネッサンスの春を謳歌した、この豪華王の死後まもなく、フィレンツェの気風は激変する。
激烈な説教で知られる修道僧サヴォナローラが出現する。
「すべての黄金と虚飾もろとも、人間は地獄へ堕ちるのだ」と狂信的な説教をしたが、人々は戦慄して、華美な衣装とともに、絵画、写本の類まで焼き捨てた。
以降、5年余りにわたって、芸術の都フィレンツェは、芸術排撃の地に一変する。しかし、このサヴォナローラの禁欲は「フィレンツェの美徳」とはなり得なかった。この激情の季節は、サヴォナローラ自身の火刑によって幕を閉じる。
芸術の受難の時代は去ったものの、以降、二度とフィレンツェ絵画がボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』のような甘美な画面を生むことはなかった。激情の季節と共に、ルネッサンスの春も終わった。
(西岡、1994年、166頁~168頁)
50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。
師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。
官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。
「青春はうるわし、されど短し、いざ楽しまん、明日は知れじ」とロレンツォ・デ・メディチは有名なカーニヴァル詩で記した。
ロレンツォ自身の死とフィレンツェの変貌をこの詩句は予見している。そして、ルネッサンスの舞台も移っていた。メディチの都フィレンツェから、法王庁のヴァティカン、そして国際貿易都市ヴェネツィアへと。
この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。
レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。
(西岡、1994年、168頁~169頁)
『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。
レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。
ところで、今日でこそ、風景画は、人物画や静物画と並ぶ絵画の代表的なジャンルとなっているが、ヨーロッパ絵画における、その成立は意外なほど遅い。
例えば、中国の山水画がすでに11世紀に全盛期を迎えている。一方、ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。
(西岡、1994年、170頁~171頁)
例えば、マルティーニの『受胎告知』(1333年、ウフィッツィ美術館)が、ウフィッツィ美術館の第三室に展示されている。
この作品では、金地で塗りつぶされた背景は風景も建築も描かれていない。加えて、場面が屋内であるのか屋外であるのかも判然としない。風景のない黄金の背景が中世キリスト教的な自然観を反映している。
この中世後期の『受胎告知』と、レオナルドの『受胎告知』(1475年、ウフィッツィ美術館)を比べてみれば、1世紀と少しの間の、絵画の背景の激変ぶりがわかる(このレオナルドの『受胎告知』は、単独作品としてはレオナルド最初の作品とされる)。
同じ祭壇画でありながら、レオナルドの画面には、マルティーニにはなかった草花にあふれた庭園と、遠方にひろがる自然の風景がある。
マルティーニの『受胎告知』は、礼拝堂のような壮麗な装飾パネルに、右に聖母、左に処女懐胎を告げる天使ガブリエルが描かれている。
画面が背景を描いていないのは、中世が自然というものに価値を見出していなかったからであるといわれる。
当時のキリスト教的な価値観が重んじたものは、不滅の霊性であり、超越的な精神である。うつろい変化する自然や、これに喜びを見出す感覚というものは、ものごとの本性を見誤らせる迷妄の種として、否定されていた。
こうした価値観の中にあっては、絵画は、神や聖人の姿を絵文字のように単純な形と線で「記述」すれば充分であったようだ。人間や自然の姿を主題にする写実的な「描写」は、むしろ迷妄の元凶たる感覚の快楽を供するものとして、避けられてさえいたと西岡氏は説明している。
この「描写」の拒否が中世の絵画に、「上手さ」を見出せない理由であるという。
このことは、レオナルドの作品と比較すれば、わかる。
自然という主題と、描写という手段を得て、画面は、「上手く」なっている。木立の間に見える遠方の風景は、遠くの山を薄く、手前の山を濃く描いている。この手法は、大気の厚みを風景の色彩の濃淡で表しており、「空気遠近法」と呼ばれる。幾何学的な遠近法である透視図法がイタリアで理論的に発明されたのに対して、「空気遠近法」は、フランドル等の北方絵画の写実主義が発展させたものであるらしい。
「北」において現実主義的、「南」において理想主義的という、南北ヨーロッパの気質の違いは、遠近法という空間描写にも反映している。
(ちなみに日本でいう自然主義は、この「北」の精神に近い)
風景や人間のあるがままの姿を描くのが、「北」のフランドル的なリアリズムであり、そこでは、表現は、無作為に見えるほど「自然」の実相に近いものとみなされている。
これに対して、風景や人間を「あるがまま」ではなく、「あるべき」姿に描くのが、「南」のイタリア的な理想主義であると西岡氏は説明している。
「南」のイタリア的絵画では、自然を分析し解体した上で、あるべき理想の姿に再構成することこそが、美の探究者としての画家の責務であり、描写は図鑑的ないしは模型的になる。
ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)や、ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)の背景が、地形や建物の描写において、箱庭のように模型的なのはそのためである。
対照的なのが、フランドル絵画の巨匠ヒューホ・ファン・デル・フース『ポルティナーリ祭壇画』(1440年頃)の背景である。この作品は、フィレンツェの商人ポルティナーリが注文して描かせた。その写実描写の見事さは、フィレンツェ画壇に衝撃を与えている。
祭壇画の左右の開閉式の両翼に描かれた風景は、くっきりとした近景の背景に、遠方の景観を青みがかった薄い色で描き、大気の存在感を描き出し、写実性において、同時代のイタリア絵画を凌駕している。
ちなみにレオナルド作品については、どうか。
レオナルド中期の傑作『最後の晩餐』は、「南」的な透視図法による、迫真の室内空間の表現例である。晩年の傑作『モナ・リザ』は、「北」的な空気遠近法による、北方絵画にも類例のない幽玄なる野外空間の表現例であると西岡氏はみている。
イタリア・ルネッサンスは、その伝統の「南」的な理想主義に、「北」のリアリズムを総合してはじめて、レオナルドにおける絵画的な完成に到達したという。
(西岡、1994年、171頁~176頁)
バルドヴィネッティの『受胎告知』(1450年頃、ウフィッツィ美術館第8室)の背景は、レオナルドのそれと酷似しているそうだ。
シルエットで描いた樹木は、絵画というよりは図鑑に近い。「南」ならではの理知的な描写は、レオナルド『受胎告知』の背後の樹木そのままである。
バルドヴィネッティは、レオナルドの親の世代の、フィレンツェ画壇の指導的な画家である。いち早く北方絵画のリアリズムを取り入れている。そして、長年にわたる絵の具の研究を、細かに記した日記を残して、レオナルドと似た性癖を見せているそうだ。
こうしたことから、両者の『受胎告知』が酷似している点は、暗示的であるという。先輩の画風を摂取し、レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。
(西岡、1994年、176頁)
ボッティチェルリの『受胎告知』(1490年頃、ウフィッツィ美術館)は晩年の作品である。
サヴォナローラの感化で、古代神話の甘美な描写を捨てて、謹厳なキリスト教的な画題ばかりを描き始めた。
画風の衰微は驚くばかりで、風景にも人物にも、ほとんど生気がない。サヴォナローラによる「改宗」の影響もさることながら、この生気の乏しさには、ボッティチェルリが本来持っていた造形的な本質が露呈している。
聖母や天使も大きなポーズを取っていながら、硬直して見えるのは、金銀細工師出身のボッティチェルリの、輪郭線を明確に描き過ぎる癖のためであるようだ。
ところで、輪郭線は、自然界には存在しない。というのは、ものと背景の、色の違いや明暗差、目の焦点距離の違いで、視覚的に形成される線である。あくまで「見える」線であって、ものと背景の境目に実際に「在る」線ではない。
見る向きや、ものの位置が変われば、輪郭線は必ず変わる。したがって、明確に引かれた輪郭線は、視点を固定し、描かれたものを「止める」作用を発揮してしまうと西岡氏は説明している。
たとえば、古代エジプト絵画は、単純化された形体をシャープな輪郭線が囲んでいる。そして、中世のモザイクやステンド・グラスは、単純化された色面を、簡潔な太い輪郭線が囲んでいる。人物は輪郭線によって、アップリケのように画面に縫い付けられ、立体感にも動感にも欠けている。
ボッティチェルリ『受胎告知』の硬直も同様に、明確に過ぎる輪郭線が人物を平面化して切り抜き、画面上に「止めて」しまった結果だという。
(西岡、1994年、176頁~177頁)
輪郭線の実体は「稜線(りょうせん)」であるといわれる。「稜線」とは、ものの外縁部に見える、限りなく線に近い陰影をさす。
この稜線として描かれない限り、輪郭線は、ものの形を切り取って画面に貼りつけるばかりで、画中に空間というものを描き出すことはできない。
レオナルドは誰よりも早く、このことに気づいた画家であると西岡氏はみている。
最初の単独制作とされる『受胎告知』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)ですでにレオナルドは輪郭線を抑制し、限りなく線に近い陰影として描こうとしている。
聖母と天使の身振りは、ボッティチェルリの劇的なポーズに比べれば、きわめておとなしい。にもかかわらず、この聖母と天使には、「止まっている」という印象がない。
人物は、画中の空間に、自然な状態で「じっとしている」ように見える。静かな姿勢は、「静止」ではなく「維持」として描かれ、人物には生気が満ちている。この「維持」ということが、動きを「止める」輪郭線には、決して描き得ないそうだ。稜線というものだけが、描くことができるとする。
この稜線としての輪郭線の表現を支えたのが、レオナルドの好んだ油彩という新技術であった。その微妙な表現力があって、はじめて限りなく線に近い陰影としての稜線は描き得たという。
一方、ボッティチェルリはどうか。
ボッティチェルリの『受胎告知』は対照的である。その硬直した人物像は、テンペラで描かれた明確に過ぎる輪郭線に起因している。
同じボッティチェルリの作品でも、『ヴィーナスの誕生』にはこの硬直感がない。その理由は、人物の輪郭線の周辺で髪や衣がひるがえり、華麗なる草花文様が衣服と背景を覆い、画面全体に色と形のリズムを与えているからであるとされる。しかし、「改宗」後のボッティチェルリはまた異なる。ひるがえる長髪も豪華な衣装も捨てた画面には、生来の明確な輪郭線の、ものを「切り取る」効果を和らげる要素が何もない。
画面は、芝居の書き割りのような風景の前に、切り紙細工のように厚みのない人物を、瞬間写真のように硬直したポーズで並べている。
最盛期のボッティチェルリは、「線の詩人」と賞賛される。しかし、さしものボッティチェルリの流麗なる描線も、絢爛たる装飾のリズムの伴奏なくしては、その甘美なる旋律を奏でることはできなかったようだ。このように、ボッティチェルリの画風や人物像の変化およびその原因について、的確に捉えているのが西岡氏である。
さて、レオナルドは、絵画を描くための理想的な採光は、薄暮にあるとしている。夕刻の光線は、事物の陰影を柔和にするからである。同時に、山の端に夕陽の当たる光景に代表されるように、薄暮の風景には、明るい遠景と暗い近景が共存している。
『受胎告知』の画面でも、遠景は明るく、近景は暗い。そのおかげで人物は、ほとんど輪郭線の助けを借りずに、その姿を描き出している。不自然とも見えるこの採光が、輪郭線を抑制し人物に生気を与えるには、絶好の設定なのであるそうだ。
これが高じてか、晩年の『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)では、いっさい輪郭線が見えないかわりに、背景は闇と化している。画面は、1世紀半後のレンブラント晩年の自画像(1660年、ルーヴル美術館)の、背景の闇を思わせる。劇的な光の効果を期するあまり、影の描写に腐心することになる、バロック絵画の行く末を、レオナルドの画面が予見しているとみている。
(西岡、1994年、178頁~181頁)
陰影とは、事物に差す光の状態のことである。
ただし、絵画は、スライドなどと違い、実際に輝く光というものを表現することはできない。表現し得る最高の明るさは、絵の具の白の色である。この白を、輝きに見せるには、その周囲の暗さとの対比によって表現するしかない。
文字通り、「陰」と「影」からなる陰影によってしか、光というものを描くができないのが、絵画であるといわれる。陰影表現というものに頼る限り、絵画における光の強調は、そのまま周囲や背景の暗さの強調を意味する。
レオナルドの『絵画論』の一節に、「影は光より大きな力を持っている」とある。
ルネッサンスに完成した陰影表現が、光を強調しようとするあまり、次代のバロックに至って、背景を極端に暗くせざるを得なかった理由であると西岡氏は解説している。
ルネッサンスの春を告げたボッティチェルリの画面は、その輪郭線への依存ゆえに、陰影の描写に腐心することはなく、最盛期の、その画面には光輝が満ちていた。
ところが、レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。
『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。
ボッティチェルリに見るルネッサンスの夜明けが、レオナルドの薄暮に至る道程をたどるのが、ウフィッツィ美術館の第一回廊であるそうだ。
これに続く、レンブラントの闇へ至る足どりを見せてくれる「闇の回廊」は、前述の通り、現在封鎖中である。
とはいえ、ウフィッツィはその第一回廊のみで、古代からルネッサンスへの人間像の復権と、中世から近世への風景画の誕生を、明快に見させてくれるそうだ。
そして、フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できるという。
(全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという)
(西岡、1994年、181頁~183頁)
ウフィッツィのレオナルド・コレクションの代表作が『東方三博士の礼拝』(1482年、ウフィッツィ美術館)である。
レオナルド“未完の旅路”の起点となった作品であると、西岡氏は捉えている。レオナルドを育て、レオナルドを滅ぼしたという、メディチ一族の都と、レオナルドとの疎遠に終わった関係は、この未完のまま故郷に放置された作品に象徴されているとみる。
この作品を中途で放棄して出かけたミラノから、レオナルドの流転は始まる。
(西岡氏は、フィレンツェ・ルネッサンスの散策は、この作品で締めくくっている)
『東方三博士の礼拝』の正面は、本番の画面に直接に下絵を描いている点で、当時としては異例である。当時の絵画は、別の画面で下絵を完成した後、本番に着手するのが普通だったからである。
(着手まもない画面で、逡巡も生々しい筆致には、レオナルドの苦悩が刻印されている)
中央に聖母子、周囲に救世主の誕生を祝福する人々を配し、明るい部分、暗い部分、その中間を、おおよそ三段階の陰影で描いている。
右手遠景の岩山などは、下書きの線でしかないが、画面左の中央付近の馬の頭部や、中央右寄りの棕櫚(しゅろ)とオリーヴの樹の葉に、卓抜した描写力を見せていると評している。
この二本の樹は、キリスト教会の平和と正義を象徴し、反対側の背景に描かれた廃墟は、ローマ世界の衰退を表わしているとされる。
ボッティチェルリの『東方三博士の礼拝』(1479年、ウフィッツィ美術館)の背景の左側にも廃墟が描かれ、右側には救世主と教会の不滅を象徴する孔雀が描かれている。
背景の左右の意味づけ、画面右下の自画像と思われる若者などに、先輩ボッティチェルリの同名作品との類似が見られる。
(こうした画面背景の左右での象徴性の違いは、中世来の伝統的なもので、『モナ・リザ』の背景を考えるにあたって、重要な意味を持っているという)
フィレンツェに放置された、このレオナルドの『東方三博士の礼拝』の呻吟の痕跡を眺めた後、その“未完の旅路”の帰結となった『モナ・リザ』の待つ都、パリへと再び還ることにしている。
メディチの芸術都市フィレンツェと、ヴァザーリの“歩く「列伝」”ウフィッツィの散策を経て、パリの『モナ・リザ』に再会すると、その魅惑の深奥をのぞかせてくれると西岡氏はいう。
(西岡、1994年、183頁~184頁)
(2020年8月29日投稿)
【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】
二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む
【はじめに】
今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章までの内容を紹介してみたい。
「第十一章 フィレンツェに還る」では、『モナ・リザ』が描かれた芸術都市フィレンツェについて解説すると同時に、芸術庇護者メディチ家とレオナルドとの関係などについて説明している。
たとえば、ルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎなかった。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。
レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。
「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説している。
たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。
ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。
この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。
「第十三章 風景の『受胎告知』」では、『モナ・リザ』の背景の風景にまつわる問題を『受胎告知』の絵を素材にして考えている。
『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。
ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。
レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。
フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できる。
全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】
第十一章 フィレンツェに還る
・フィレンツェという街
・フィレンツェの三人の巨匠の作品――ブルネルスキ、マザッチオ、ドナテルロ
【ブルネルスキのドゥオモ】/【マザッチオの『聖三位一体』】/【ドナテルロ『ダヴィデ』】
・レオナルドとメディチ家のフィレンツェ
第十二章 『モナ・リザ』誕生
・ウフィッツィ美術館
・ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』
・マザッチオの『聖三位一体』
・ボッティチェルリの 『メダルを持つ若者の肖像』
・ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』
・3種類の人物画
正面像(フロンタル)/側面像(プロフィル)/斜方像(四分の三正面像)
・ヨーロッパの精神風土と肖像画
・ポライウォーロの『婦人の肖像』という名品
・ボッティチェルリとサヴォナローラ
・フィレンツェに帰ったレオナルドと『モナ・リザ』
第十三章 風景の『受胎告知』
・ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』
・マルティーニとレオナルドの『受胎告知』
・バルドヴィネッティとレオナルドの『受胎告知』
・ボッティチェルリの『受胎告知』
・レオナルドの『受胎告知』
・レオナルドの陰影表現
・レンブラントの『東方三博士の礼拝』
※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。
第十一章 フィレンツェに還る
フィレンツェという街
フィレンツェは、街中が美術館であるといわれる。
ただ、パリやローマを見慣れた目には、この街の第一印象は、あまりにも無愛想であるそうだ。フィレンツェ中央駅前に降り立っても、壮麗な聖堂もなければ宮殿もない。
しかし、駅前のホテルの最上階などから、窓外に目をやると、フィレンツェ独特の赤煉瓦の屋根が、海のように広がっている。その中で、ひときわ高く、花の聖母大聖堂の巨大な円蓋(ドゥオモ)がそびえている。
ドゥオモの丸屋根は赤煉瓦色、建物は白と緑の大理石である。壮大な大聖堂が、精緻な工芸品のように美しい。
隣には、象牙細工のようなジオットの鐘楼が寄り添う。その右手の遠景に、褐色の石積みのヴェッキオ宮の時計台が見え、背景はトスカナの山々である。
フィレンツェは、街中が美術館であるというより、むしろ、街そのものが、ひとつの美術品なのである。
そして、フィレンツェは書物でいえば、おそろしく地味な装丁の画集であると喩えている。絢爛たる名品の数々を収め過ぎ、かえって表紙にする作品の選びようがないからだという。
(西岡、1994年、142頁~143頁)
フィレンツェの三人の巨匠の作品――ブルネルスキ、マザッチオ、ドナテルロ
駅前に、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会があり、そこにはマザッチオの代表作『聖三位一体』(1427年頃)が展示されている。
ルネッサンスを開幕した絵を1点挙げるなら、迷わず選ばれるのが、この作品である。
ルネッサンスは、建築のブルネルスキ、彫刻のドナテルロ、絵画のマザッチオを始点として開幕している。
そのブルネルスキの代表作が、花の聖母大聖堂のドゥオモ(1436年)であり、ドナテルロの代表作が、『ダヴィデ』(1435年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)である。
(駅前5分の圏内で、この三巨匠の代表作のうち、ドゥオモと『聖三位一体』の2点は見たことになる。街中が美術館であるのも事実である)
ところで、西岡氏は、フィレンツェを『モナ・リザ』の故郷として散策するならば、そのルネッサンスという時代を開いた三人の巨匠の作品を眺める必要があるとして、それらを解説している。
【ブルネルスキのドゥオモ】
市街の中心に、ドゥオモがそびえる。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ、世界第三位の威容である。
このドゥオモ完成から1世紀半の後、ローマ法王がミケランジェロに、これを超える円蓋をサン・ピエトロ大聖堂に作ることを命じた時、ミケランジェロは「いかに法王様のご命令でも、あれより美しいものを造ることは不可能です」と答えたという。
さて、建築のルネッサンスを開いたブルネルスキの作品ドゥオモは、建築よりは、丘を思わせるといわれる。この花の聖母大聖堂は、駅からウフィッツィ美術館へ向かう道の途中にそびえている。街が小ぶりであるだけに、その威容が強調される大聖堂の向かい側に、小別館風に建つ八角形のサン・ジョヴァンニ洗礼堂がある。その扉を黄金色に飾るのが、ギベルティ作の通称『天国の門』(1452年)である。
これは、旧約聖書の名場面を描く浮き彫り彫刻10面で構成されている。ミケランジェロが『天国の門』と絶賛したことから、この名がついた。
1401年に、この浮き彫りの作者を決めるコンクールが行なわれたが、ギベルティと共に最終選考に残ったのが、後にドゥオモの設計者となるブルネルスキであった。
甲乙つけがたい二人の作品に、主催者側は二人の合作という提案をしたが、ブルネルスキは辞退し、作品はギベルティに一任される。
彫刻のコンクールの勝ちを譲ったブルネルスキが、建築家としての雪辱を果たしたのが、この『天国の門』が正面に見上げる、ドゥオモの設計案コンクールであった。
120年前に建築の始まったこの大聖堂は、直径40m、高さ100mを超える天蓋が、実際の工事の段階に至って、建造不可能と判明し、新たに設計案を公募することになった。そのコンクールに、ブルネルスキは、足場の不要な二重構造の設計案で、応募する。これが採用されて、巨大なドゥオモは16年で完成される。
ブルネルスキによって、建築は職人の「技」から、芸術家の「学」へと大きく飛躍した。彫刻家ブルネルスキは、全芸術のルネッサンスを築き上げる、総合芸術家としての一歩を踏み出していた。つまり、職人から作家へという、ルネッサンス期の全芸術が果たすことになる飛躍の序曲となった。
天にそびえるドゥオモの威容は、「学」としての建築の成し得たことの巨大さを象徴しつつ、半世紀と少しの後、同じく「学」としての絵画を大成することになるレオナルドの、知的宇宙の巨大さをも予見していたと西岡氏は理解している。
このブルネルスキのドゥオモ設計案の約10年後、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃)が描かれ、その約10年後に、ドナテルロの『ダヴィデ』像(1435年頃)が作られる。
(西岡、1994年、143頁~148頁)
【マザッチオの『聖三位一体』】
マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)は、ルネッサンス最初期の透視図法の完成例として知られている。
透視図法は、遠近法と通称されるものである。つまり、画面深奥の一点に向かって集中する線に沿って、近くのものを大きく、遠方のものを小さく描いて、画面に三次元的な広がりを与える図法である。図法の原理は、ブルネルスキが遺跡測量の記録のために確立したものという。
(現代もなお、絵画の空間表現の基本は、このルネッサンス期のイタリアで開発された透視図法によっている)
中世の平板な絵画を見慣れた人々の眼には、この図法で描かれた画面は、立体視の衝撃をもたらしたはずである。
ヴァザーリは、「まるで壁そのものに穴があいているようだ」と記した。
(西岡、1994年、148頁)
【ドナテルロ『ダヴィデ』】
ドナテルロの『ダヴィデ』(1453年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)は、人体から直接に型取りしたとしか思えぬと人々を驚かせたそうだ。
ブルネルスキの遺跡調査に同行したドナテルロが、聖書の英雄をギリシア彫刻風の裸体で表現した作品である。官能的な写実性もさることながら、建築物の添え物だった中世彫刻から脱し、独立した作品として作られた点に、古代彫刻の思想を復興していると西岡氏は評している。
この作品は、ドゥオモ裏手からヴェッキオ宮に抜ける道の途中にあるバルジェロ美術館にある。これは、古代ギリシア彫刻で完成された「コントラポスト」と呼ばれるポーズである。つまり、片足に重心をかけ、片足を流し、全身でかすかにSの字形を描くポーズである。それにより、直立不動の彫刻では表現し得ない生気に満ちている。
このコントラポストこそは、ルネッサンス彫刻が動感と安定の均衡の理想形としたものである。4半世紀後に、少年レオナルドをモデルに作られたヴェロッキオの『ダヴィデ』(1475年頃、バルジェロ美術館、フィレンツェ)も、見事なコントラポストを見せている。
(同じバルジェロ美術館の3階に飾られているので、若きレオナルドの風貌をしのぶ意味でも鑑賞を勧めている)
そして、コントラポストの完成形を示すのが、ヴェロッキオ作品のさらに4半世紀後に登場することになる、ミケランジェロの『ダヴィデ』(1504年、アカデミア美術館、フィレンツェ)である。
(西岡、1994年、148頁~150頁)
レオナルドとメディチ家のフィレンツェ
メディチ家は、15世紀初頭、フィレンツェ北郊ムジェロの農家から製薬業で、身を起こした一族である。金融業で莫大な富を築き、フィレンツェを支配する一大財閥となる。
医術・薬剤をいうイタリア語MEDICINA(英語のMEDICINE)から、メディチMEDICI
を名乗り、丸薬を表わす6つの球を家紋とした。丸薬をデザインしたといわれるメディチ家の家紋は、ヴェッキオ宮内の壁画装飾などに見られる。
メディチ家の最盛期には、法王庁から全ヨーロッパ、アジア、アフリカにまで及ぶ領域をその勢力下に収めた。
なかでも、フィレンツェ建国の父といわれるコジモ・デ・メディチと、その孫の、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチは、巨額を投じてフィレンツェの文化振興につとめ、ルネッサンス芸術に経済的基盤を提供することになった。
例えば、ボッティチェルリ『東方三博士の礼拝』(1479年、フィレンツェ美術館)には、メディチ家の人々が描かれている。
この絵は、誕生したキリストを東方の三博士が礼拝する場面であるが、聖母子の前にひざまずく老人がコジモであり、左端に立つのが豪華王ことロレンツォである。なお、右下部分には、ボッティチェルリの自画像が見える。
さて、今日、フィレンツェが芸術都市の代名詞となり、メディチが企業の文化振興の代名詞となっている。
ただ、このルネッサンスを代表する芸術庇護者メディチ家とレオナルドは、生涯、疎遠であり続けた。
最も近しい関係にあったジュリアーノ・デ・メディチでさえ、晩年のレオナルドに、ヴァティカン内の居室とわずかな給金を与えたに過ぎない。もともとメディチ家の人々には、道で挨拶を交わすのに、ラテン語を使うような、気どったところがあった。一方、レオナルドは、家業の公証人に必須の教養であるラテン語の勉強を少年時に放棄したため、これを苦手としていた。真摯な学究肌の持ち主だけに、そのレオナルドが、通俗的なメディチの「文化人気質」と相性がよくなかったようだ。
レオナルド晩年の手記には、「メディチが私を育て、メディチが私を滅ぼした」とある。
レオナルドは、メディチの都フィレンツェに育ち、メディチの庇護のもとで活躍する芸術家と接しながら、レオナルド自身はその才能にふさわしい舞台を得ぬままに終わった。この手記の言葉はそのことへの繰り言なのか、その真意は今となっては謎である。
レオナルドは50歳で帰郷したが、再びフィレンツェを去ることになる。その直接の原因は、市庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の、フレスコ嫌いによる失敗をめぐる訴訟であったといわれる。
この点に関して、西岡氏は想像をめぐらしている。つまり、もしフィレンツェがこの技術的失敗について、もう少し寛大さを示したり、晩年のヴァティカンにおけるレオナルドの不遇に援助の手を差し伸べたりしていたならば、『モナ・リザ』がレオナルド自身によって国外に持ち去られることはなかったかもしれないという。
非の大半は、レオナルドの性癖にあったのであろうが、フィレンツェは晩年のレオナルドに安息の地を与え得なかった。そのことで、この地で描かれた『モナ・リザ』という世紀の名画を永遠に失ってしまったのは、メディチ家の芸術都市としては手痛い損失であった。
『モナ・リザ』に至る絵画史の回廊としては、世界最高の美術館であるウフィッツィに、当の『モナ・リザ』がないのはそのためであると西岡氏はみている。
(西岡、1994年、151頁~154頁)
第十二章 『モナ・リザ』誕生
ウフィッツィ美術館
ウフィッツィ美術館は、ルネッサンス絵画の至宝が並んでおり、文字通り、“歩く「列伝」”として絵画史を散策できるよう設定されている。
ウフィッツィ美術館は、シニョーリア広場からアルノ河岸に抜ける全長140m、幅18mの中庭を、古代風の柱廊でコの字型に囲んで建っている。中庭の奥、突き当たりのアーチ越しには、アルノ対岸の風景が見える。
(入場券売り場は、田舎の郵便局を思わせ、エレベーターは都心のマンションほどもなく、質素な建物らしい。その3階にルネッサンス絵画が展示されている)
このウフィッツィ美術館で、第一回廊のなかほどにある特別室「トリブーナ」だけは、先に見ておくことを西岡氏は勧めている。この「トリブーナ」は、赤い壁面の八角形の典雅な小空間である。18世紀の英国貴族子弟がこぞって出かけた大陸漫遊「大修学旅行(グランド・ツアー)」では、ヴァティカンと並ぶクライマックスとされたそうだ。
この「トリブーナ」には、その中央に大理石製の「メディチのヴィーナス」が飾られている。これは紀元前1世紀、古代ローマ時代の模刻である(原作は、紀元前4世紀の古代ギリシア彫刻の代表作である)。
17世紀末に発掘され、18世紀初頭に、ウフィッツィに入っている。胸と腰を隠すポーズは、「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれる。隠すしぐさで逆に裸身を強調する、古代来のヌードの演出法である。
(西岡、1994年、155頁~156頁)
ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』
「トリブーナ」の「メディチのヴィーナス」を鑑賞してから、回廊に戻り、一方通行の順路をたどり、ボッティチェルリの部屋に入ると、代表作『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)が、すぐ左側の壁に掛かっている。
画面は、古代の「恥じらいのヴィーナス」の大理石の肌を、ルネッサンスの人間色に染め上げて、2000年の時の彼方から復活させている。その強調されたコントラポストは、軽快な躍動感において古代のヴィーナスを凌駕する。甘美にして流麗な描線がボッティチェルリの特徴であるといわれる。画面は綴れ織りのように豪奢で、清楚なヌードが美しい。ルーヴルの「ミロのヴィーナス」と並ぶ、ヴィーナス・イメージの決定版である。ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネッサンスの代名詞的作品である。
海の泡から誕生したヴィーナスに、春の女神プリマヴェーラが、右の浜辺からマーガレット文様のマントを着せかけている。天界のめぐみ、美の化身の降誕によって、愛と豊饒に潤される大地の寓意像といわれる。
一方、画面左の中空から息を吹きかけているのが、春の西風の精ゼフュロスである。その腰に手を回すのは花の女神フローラである。黄金の髪をひるがえし、美神の誕生を告げる愛の風が吹き抜け、祝福のバラが舞っている。
制作された1485年頃といえば、若きミケランジェロの傑作『ダヴィデ』(1504年、大理石、高さ410㎝、アカデミア美術館、フィレンツェ)が、盛期ルネッサンスの官能性に先駆けること20年ほどである。初期ルネッサンスの清冽な乙女の裸身として、この『ヴィーナスの誕生』という作品の右に出るものはないと西岡氏は評している。
『モナ・リザ』の前に立つことが、パリにいることの証(あかし)であるように、このヴィーナスを眼前にすることは、フィレンツェにいることの、何よりの証であるといわれる。
近世の開幕であるルネッサンス期の以前の時代、すなわち中世には、『ヴィーナスの誕生』のように神話を題材にした絵画は、ほとんど見当たらない。
というのは、ヨーロッパに美術における古代と中世を区別するものは、キリスト教美術の成立にほかならないからである。ヨーロッパにおける中世美術とは、近世以前のキリスト教美術の総称である。これに先立つ、ギリシア・ローマの神話を描く美術が古代美術である。
ボッティチェルリのヴィーナスは、古代以来初めて描かれた「異教」の女神の等身大の画像として、まさに「復興」の時代精神を高らかに宣言している。
(西岡、1994年、156頁~159頁)
マザッチオの『聖三位一体』
中世とルネッサンスの違いについて、西岡氏は次のように説明している。
中世は、肉体ではなく精神を重んじ、人間ではなく神を讃えた時代である。中世では、肉体を欲望の器として否定し、人間の存在を神の従僕として卑下した。
そして女性のヌードや個人の肖像画という絵画ジャンルの存在する余地はない。裸像は、イヴなど、聖書に記された女性に限られ、肖像は、神や聖人の図像ないしは王侯貴族の肖像という、礼拝を目的にしたものに限られた。
これに対して、ルネッサンスは、肉体を精神の表出として重んじ、人間を神の芸術作品として讃えた時代である。裸身を讃美し、個人を記念する、古代美術の様式を復興することで、ヌードと肖像画という近世以降の絵画の主軸となるジャンルが確立された。
たとえば、マザッチオの『聖三位一体』(1427年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ)はルネッサンスを開いた絵画として知られる。
画面には、この壁画を教会に寄付した夫妻の肖像が描き込まれている。聖母マリアや聖ヨハネより一段低く、ひざまずく姿で描かれたとはいえ、その大きさは、画中の神や聖人とほとんど同じである。こうした処置は、中世絵画では考えられなかったようだ。俗人である寄進者は、画中の神や聖人よりはるかに小さく描かれるのが普通だった。寄進者が同等の比重を占める画面は、絵画が神と教会に独占される時代の終幕と、人間が絵画の主題となる時代の開幕とを象徴していると西岡氏は考えている。
この寄進者の肖像が、一枚の絵として独立した時に、個人肖像画の歴史は開幕するという。
(西岡、1994年、159頁~160頁)
ボッティチェルリの 『メダルを持つ若者の肖像』
個人肖像画のもうひとつのルーツを示す作品が、ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)である。
この小品は、『ヴィーナスの誕生』と並ぶボッティチェルリの代表作『春』の右側の壁に掛かっている。作者ボッティチェルリの自画像ともいわれる若者が持つのは、フィレンツェ建国の父コジモ・デ・メディチのメダルで、実際に画面上に石膏を盛り上げて作られているそうだ。
メダルもまた、ルネッサンスが古代から復興したもののひとつである。メダルは神像や皇帝の肖像を刻んだ古代のコインを起源とするが、戦勝や遠征の記念品としての性格を確立したのが、古代ローマ時代である。
中世期に、いったん衰微したメダルが、君主、貴族、文人の間で再びブームを呼んだのが、ルネッサンス期であった。
メダルは、個人の容貌を業績と共に刻印する記念品である。個人というものが、神の威光の前に否定された中世にメダルが衰微したのに対して、ルネッサンス期には、個人意識というものが強く自覚され、メダルが再び愛好されるようになった。
(西岡、1994年、160頁~161頁)
ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』
肖像画は、いわば「描かれたメダル」として、この時期に急速に発達する。そのことを物語るのは、ピエロ・デラ・フランチェスカの一対の典雅な肖像画『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃、ウフィッツィ美術館)である。これは、ウフィッツィ美術館の第7室の窓際に飾られ、裏表から鑑賞できるように木製の台の上に立てられた作品である。
その画面は、表に向かい合わせの夫婦の肖像を、メダル風の横顔で描き、裏に夫婦それぞれの人徳を表わす擬人像や女神を従えた、古代風の凱旋式を描いているという。
夫婦一対の肖像画が、表裏からの鑑賞用に、豪華な紙芝居の枠を思わせる額縁に入って立っている。同時代、裏に凱旋式を描いたメダルが多いことから見て、この絵は「描かれたメダル」を意図している。
『ヴィーナスの誕生』は描かれた古代彫刻として、『ウルビーノ公夫妻の肖像』は描かれたメダルとして、古代の人間礼讃を復興し、近世美術の地平を開くものであったと西岡氏は理解している。
また、『メダルを持つ若者の肖像』において、誇らしげにメダルを示す若者は、そうした古代美学の復興者としての、ボッティチェルリの自画像であるようだ。そして、この作品は、イタリア肖像画史上、最も早い時期に描かれた斜め向きの顔としても、歴史的に大きな意義を持つと指摘している。
(西岡、1994年、161頁~162頁)
3種類の人物画
西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。
① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。
また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡、1994年、162頁~164頁)
ヨーロッパの精神風土と肖像画
元来、ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。
「南」の温暖で平穏な地中海気候は、屋外での議論や集会を容易にし、論争的な学問を形成し、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。
これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、ドイツ中世の神学や、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
イタリアにおける、最初期の四分の三正面像である『メダルを持つ若者の肖像』は、ボッティチェルリが、こうした「北」のリアリズムを学んだことを物語っている。
画面は、上部の肖像画における「北」の視点と、下部のメダル(そこには横顔が描かれている)における「南」の視点が出会う、ヨーロッパの人物描写の視点の地図を成している。
(西岡、1994年、164頁~165頁)
ポライウォーロの『婦人の肖像』という名品
ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、「南」風のプロフィルを、「北」風のリアリズムで描いて、人物描写にいきいきとした新境地を開いた作品であると西岡氏はみなしている。
絵画には、印刷では再現不可能の魅力というものがあるが、このポライウォーロの肖像画ほど、その美しさを印刷物にできない作品も珍しいという。
例えば、背景のブルーの解放感、人物の頬にさした赤みの生命感、軽快な色彩と繊細な筆致が、優雅この上なく調和しているのが、この画面の魅力であると説く。人を魅惑する力を持った作品であるが、なにより注目すべきは、その横顔に浮かんだ微笑の生彩である。
ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』の横顔と比べると、数年後の作品であるにもかかわらず、このポライウォーロの肖像画には、人間としての生命感がみなぎっている。モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。このポライウォーロの「側面像」の生彩の前では、先の『ウルビーノ公夫妻の肖像』なども、むしろ「側面図」的な冷たさを感じさせてしまう。
宗教的ないし政治的な目的を持って描かれた中世的な「図像」が、生きた「絵画」へと生まれ変わった時代がルネッサンスであると西岡氏は理解している。画中の人物もまた、確かな存在感と生命感を持って再生した。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。つまり、ポライウォーロのこの肖像画は、生彩に富んだ微笑が『モナ・リザ』を予見する名品であるというのである。
(西岡、1994年、165頁~166頁)
ボッティチェルリとサヴォナローラ
1492年、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチが他界する。ボッティチェルリと共にルネッサンスの春を謳歌した、この豪華王の死後まもなく、フィレンツェの気風は激変する。
激烈な説教で知られる修道僧サヴォナローラが出現する。
「すべての黄金と虚飾もろとも、人間は地獄へ堕ちるのだ」と狂信的な説教をしたが、人々は戦慄して、華美な衣装とともに、絵画、写本の類まで焼き捨てた。
以降、5年余りにわたって、芸術の都フィレンツェは、芸術排撃の地に一変する。しかし、このサヴォナローラの禁欲は「フィレンツェの美徳」とはなり得なかった。この激情の季節は、サヴォナローラ自身の火刑によって幕を閉じる。
芸術の受難の時代は去ったものの、以降、二度とフィレンツェ絵画がボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』のような甘美な画面を生むことはなかった。激情の季節と共に、ルネッサンスの春も終わった。
(西岡、1994年、166頁~168頁)
フィレンツェに帰ったレオナルドと『モナ・リザ』
50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰ったのが、このサヴォナローラ処刑の2年後のことである。
師ヴェロッキオはすでに他界しており、同じ師のもとで学んだボッティチェルリは、サヴォナローラに心酔、彼の火刑という精神的衝撃から立ち直れずにいた。ほとんど画業を放棄し、貧困の中にいた。
官能的なヴィーナスや人間的な聖母像の、15世紀の甘美な気風は消えた。かわって、青年ミケランジェロが、その勇壮な作風で名声を確立しつつあった。
「青春はうるわし、されど短し、いざ楽しまん、明日は知れじ」とロレンツォ・デ・メディチは有名なカーニヴァル詩で記した。
ロレンツォ自身の死とフィレンツェの変貌をこの詩句は予見している。そして、ルネッサンスの舞台も移っていた。メディチの都フィレンツェから、法王庁のヴァティカン、そして国際貿易都市ヴェネツィアへと。
この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。
レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみている。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。
(西岡、1994年、168頁~169頁)
第十三章 風景の『受胎告知』
ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』
『モナ・リザ』の背後の風景は、神秘的な微笑と共に、その画面に不思議な雰囲気を与えている。
レオナルド以前に、これほど奥行きのある風景を描いた画家はいないとされる。
ところで、今日でこそ、風景画は、人物画や静物画と並ぶ絵画の代表的なジャンルとなっているが、ヨーロッパ絵画における、その成立は意外なほど遅い。
例えば、中国の山水画がすでに11世紀に全盛期を迎えている。一方、ヨーロッパ絵画が背景の風景を積極的に描き始めたのが、やっと15世紀のルネッサンス期に入ってからである。そして風景画がジャンルとして独立したのは17世紀のことである。
レオナルドの風景画が存在しないのは、そのためである。これ以前の、中世絵画はむしろ風景の描写を避けていた。ウフィッツィ美術館収蔵の3点の『受胎告知』を眺めつつ、中世の金地のバックから『モナ・リザ』の背景に至る、絵画における風景の誕生というテーマについて西岡氏は解説している。
(西岡、1994年、170頁~171頁)
マルティーニとレオナルドの『受胎告知』
例えば、マルティーニの『受胎告知』(1333年、ウフィッツィ美術館)が、ウフィッツィ美術館の第三室に展示されている。
この作品では、金地で塗りつぶされた背景は風景も建築も描かれていない。加えて、場面が屋内であるのか屋外であるのかも判然としない。風景のない黄金の背景が中世キリスト教的な自然観を反映している。
この中世後期の『受胎告知』と、レオナルドの『受胎告知』(1475年、ウフィッツィ美術館)を比べてみれば、1世紀と少しの間の、絵画の背景の激変ぶりがわかる(このレオナルドの『受胎告知』は、単独作品としてはレオナルド最初の作品とされる)。
同じ祭壇画でありながら、レオナルドの画面には、マルティーニにはなかった草花にあふれた庭園と、遠方にひろがる自然の風景がある。
マルティーニの『受胎告知』は、礼拝堂のような壮麗な装飾パネルに、右に聖母、左に処女懐胎を告げる天使ガブリエルが描かれている。
画面が背景を描いていないのは、中世が自然というものに価値を見出していなかったからであるといわれる。
当時のキリスト教的な価値観が重んじたものは、不滅の霊性であり、超越的な精神である。うつろい変化する自然や、これに喜びを見出す感覚というものは、ものごとの本性を見誤らせる迷妄の種として、否定されていた。
こうした価値観の中にあっては、絵画は、神や聖人の姿を絵文字のように単純な形と線で「記述」すれば充分であったようだ。人間や自然の姿を主題にする写実的な「描写」は、むしろ迷妄の元凶たる感覚の快楽を供するものとして、避けられてさえいたと西岡氏は説明している。
この「描写」の拒否が中世の絵画に、「上手さ」を見出せない理由であるという。
このことは、レオナルドの作品と比較すれば、わかる。
自然という主題と、描写という手段を得て、画面は、「上手く」なっている。木立の間に見える遠方の風景は、遠くの山を薄く、手前の山を濃く描いている。この手法は、大気の厚みを風景の色彩の濃淡で表しており、「空気遠近法」と呼ばれる。幾何学的な遠近法である透視図法がイタリアで理論的に発明されたのに対して、「空気遠近法」は、フランドル等の北方絵画の写実主義が発展させたものであるらしい。
「北」において現実主義的、「南」において理想主義的という、南北ヨーロッパの気質の違いは、遠近法という空間描写にも反映している。
(ちなみに日本でいう自然主義は、この「北」の精神に近い)
風景や人間のあるがままの姿を描くのが、「北」のフランドル的なリアリズムであり、そこでは、表現は、無作為に見えるほど「自然」の実相に近いものとみなされている。
これに対して、風景や人間を「あるがまま」ではなく、「あるべき」姿に描くのが、「南」のイタリア的な理想主義であると西岡氏は説明している。
「南」のイタリア的絵画では、自然を分析し解体した上で、あるべき理想の姿に再構成することこそが、美の探究者としての画家の責務であり、描写は図鑑的ないしは模型的になる。
ボッティチェルリの『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)や、ピエロ・デラ・フランチェスカの『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)の背景が、地形や建物の描写において、箱庭のように模型的なのはそのためである。
対照的なのが、フランドル絵画の巨匠ヒューホ・ファン・デル・フース『ポルティナーリ祭壇画』(1440年頃)の背景である。この作品は、フィレンツェの商人ポルティナーリが注文して描かせた。その写実描写の見事さは、フィレンツェ画壇に衝撃を与えている。
祭壇画の左右の開閉式の両翼に描かれた風景は、くっきりとした近景の背景に、遠方の景観を青みがかった薄い色で描き、大気の存在感を描き出し、写実性において、同時代のイタリア絵画を凌駕している。
ちなみにレオナルド作品については、どうか。
レオナルド中期の傑作『最後の晩餐』は、「南」的な透視図法による、迫真の室内空間の表現例である。晩年の傑作『モナ・リザ』は、「北」的な空気遠近法による、北方絵画にも類例のない幽玄なる野外空間の表現例であると西岡氏はみている。
イタリア・ルネッサンスは、その伝統の「南」的な理想主義に、「北」のリアリズムを総合してはじめて、レオナルドにおける絵画的な完成に到達したという。
(西岡、1994年、171頁~176頁)
バルドヴィネッティとレオナルドの『受胎告知』
バルドヴィネッティの『受胎告知』(1450年頃、ウフィッツィ美術館第8室)の背景は、レオナルドのそれと酷似しているそうだ。
シルエットで描いた樹木は、絵画というよりは図鑑に近い。「南」ならではの理知的な描写は、レオナルド『受胎告知』の背後の樹木そのままである。
バルドヴィネッティは、レオナルドの親の世代の、フィレンツェ画壇の指導的な画家である。いち早く北方絵画のリアリズムを取り入れている。そして、長年にわたる絵の具の研究を、細かに記した日記を残して、レオナルドと似た性癖を見せているそうだ。
こうしたことから、両者の『受胎告知』が酷似している点は、暗示的であるという。先輩の画風を摂取し、レオナルド『受胎告知』の背景は、遠景に「北」の空気遠近法を、木立に「南」の図鑑感覚を示し、風景描写の新時代を予告していると西岡氏は解釈している。
(西岡、1994年、176頁)
ボッティチェルリの『受胎告知』
ボッティチェルリの『受胎告知』(1490年頃、ウフィッツィ美術館)は晩年の作品である。
サヴォナローラの感化で、古代神話の甘美な描写を捨てて、謹厳なキリスト教的な画題ばかりを描き始めた。
画風の衰微は驚くばかりで、風景にも人物にも、ほとんど生気がない。サヴォナローラによる「改宗」の影響もさることながら、この生気の乏しさには、ボッティチェルリが本来持っていた造形的な本質が露呈している。
聖母や天使も大きなポーズを取っていながら、硬直して見えるのは、金銀細工師出身のボッティチェルリの、輪郭線を明確に描き過ぎる癖のためであるようだ。
ところで、輪郭線は、自然界には存在しない。というのは、ものと背景の、色の違いや明暗差、目の焦点距離の違いで、視覚的に形成される線である。あくまで「見える」線であって、ものと背景の境目に実際に「在る」線ではない。
見る向きや、ものの位置が変われば、輪郭線は必ず変わる。したがって、明確に引かれた輪郭線は、視点を固定し、描かれたものを「止める」作用を発揮してしまうと西岡氏は説明している。
たとえば、古代エジプト絵画は、単純化された形体をシャープな輪郭線が囲んでいる。そして、中世のモザイクやステンド・グラスは、単純化された色面を、簡潔な太い輪郭線が囲んでいる。人物は輪郭線によって、アップリケのように画面に縫い付けられ、立体感にも動感にも欠けている。
ボッティチェルリ『受胎告知』の硬直も同様に、明確に過ぎる輪郭線が人物を平面化して切り抜き、画面上に「止めて」しまった結果だという。
(西岡、1994年、176頁~177頁)
レオナルドの『受胎告知』
輪郭線の実体は「稜線(りょうせん)」であるといわれる。「稜線」とは、ものの外縁部に見える、限りなく線に近い陰影をさす。
この稜線として描かれない限り、輪郭線は、ものの形を切り取って画面に貼りつけるばかりで、画中に空間というものを描き出すことはできない。
レオナルドは誰よりも早く、このことに気づいた画家であると西岡氏はみている。
最初の単独制作とされる『受胎告知』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)ですでにレオナルドは輪郭線を抑制し、限りなく線に近い陰影として描こうとしている。
聖母と天使の身振りは、ボッティチェルリの劇的なポーズに比べれば、きわめておとなしい。にもかかわらず、この聖母と天使には、「止まっている」という印象がない。
人物は、画中の空間に、自然な状態で「じっとしている」ように見える。静かな姿勢は、「静止」ではなく「維持」として描かれ、人物には生気が満ちている。この「維持」ということが、動きを「止める」輪郭線には、決して描き得ないそうだ。稜線というものだけが、描くことができるとする。
この稜線としての輪郭線の表現を支えたのが、レオナルドの好んだ油彩という新技術であった。その微妙な表現力があって、はじめて限りなく線に近い陰影としての稜線は描き得たという。
一方、ボッティチェルリはどうか。
ボッティチェルリの『受胎告知』は対照的である。その硬直した人物像は、テンペラで描かれた明確に過ぎる輪郭線に起因している。
同じボッティチェルリの作品でも、『ヴィーナスの誕生』にはこの硬直感がない。その理由は、人物の輪郭線の周辺で髪や衣がひるがえり、華麗なる草花文様が衣服と背景を覆い、画面全体に色と形のリズムを与えているからであるとされる。しかし、「改宗」後のボッティチェルリはまた異なる。ひるがえる長髪も豪華な衣装も捨てた画面には、生来の明確な輪郭線の、ものを「切り取る」効果を和らげる要素が何もない。
画面は、芝居の書き割りのような風景の前に、切り紙細工のように厚みのない人物を、瞬間写真のように硬直したポーズで並べている。
最盛期のボッティチェルリは、「線の詩人」と賞賛される。しかし、さしものボッティチェルリの流麗なる描線も、絢爛たる装飾のリズムの伴奏なくしては、その甘美なる旋律を奏でることはできなかったようだ。このように、ボッティチェルリの画風や人物像の変化およびその原因について、的確に捉えているのが西岡氏である。
さて、レオナルドは、絵画を描くための理想的な採光は、薄暮にあるとしている。夕刻の光線は、事物の陰影を柔和にするからである。同時に、山の端に夕陽の当たる光景に代表されるように、薄暮の風景には、明るい遠景と暗い近景が共存している。
『受胎告知』の画面でも、遠景は明るく、近景は暗い。そのおかげで人物は、ほとんど輪郭線の助けを借りずに、その姿を描き出している。不自然とも見えるこの採光が、輪郭線を抑制し人物に生気を与えるには、絶好の設定なのであるそうだ。
これが高じてか、晩年の『聖ヨハネ』(1515年、ルーヴル美術館)では、いっさい輪郭線が見えないかわりに、背景は闇と化している。画面は、1世紀半後のレンブラント晩年の自画像(1660年、ルーヴル美術館)の、背景の闇を思わせる。劇的な光の効果を期するあまり、影の描写に腐心することになる、バロック絵画の行く末を、レオナルドの画面が予見しているとみている。
(西岡、1994年、178頁~181頁)
レオナルドの陰影表現
陰影とは、事物に差す光の状態のことである。
ただし、絵画は、スライドなどと違い、実際に輝く光というものを表現することはできない。表現し得る最高の明るさは、絵の具の白の色である。この白を、輝きに見せるには、その周囲の暗さとの対比によって表現するしかない。
文字通り、「陰」と「影」からなる陰影によってしか、光というものを描くができないのが、絵画であるといわれる。陰影表現というものに頼る限り、絵画における光の強調は、そのまま周囲や背景の暗さの強調を意味する。
レオナルドの『絵画論』の一節に、「影は光より大きな力を持っている」とある。
ルネッサンスに完成した陰影表現が、光を強調しようとするあまり、次代のバロックに至って、背景を極端に暗くせざるを得なかった理由であると西岡氏は解説している。
ルネッサンスの春を告げたボッティチェルリの画面は、その輪郭線への依存ゆえに、陰影の描写に腐心することはなく、最盛期の、その画面には光輝が満ちていた。
ところが、レオナルドは、精緻なる陰影描写のために、薄暮の採光を理想とした。レオナルドを境に、ルネッサンス絵画の画面は暗くなり始め、バロックのレンブラントに至って、完全な闇に行き当たることになる。
『聖ヨハネ』に先立つ、処女作『受胎告知』の暗い前景は、このヨーロッパ絵画の道程をすでに予感していると西岡氏は理解している。
ボッティチェルリに見るルネッサンスの夜明けが、レオナルドの薄暮に至る道程をたどるのが、ウフィッツィ美術館の第一回廊であるそうだ。
これに続く、レンブラントの闇へ至る足どりを見せてくれる「闇の回廊」は、前述の通り、現在封鎖中である。
とはいえ、ウフィッツィはその第一回廊のみで、古代からルネッサンスへの人間像の復権と、中世から近世への風景画の誕生を、明快に見させてくれるそうだ。
そして、フィレンツェ中央駅からの1キロにも満たない道筋では、ルネッサンスを開き、『モナ・リザ』を準備することになった建築、絵画、彫刻が一望できるという。
(全ヨーロッパ絵画史の縮図といわれる『モナ・リザ』を眺めるための地図を得るにあたって、このルネッサンス史を濃縮したフィレンツェの街の散策にまさる手段はないと西岡氏はみている。この散策を経て眺めてこそ、『モナ・リザ』の画面は、その幽玄にして神秘的なる、造形の秘密を物語ってくれるという)
(西岡、1994年、181頁~183頁)
レンブラントの『東方三博士の礼拝』
ウフィッツィのレオナルド・コレクションの代表作が『東方三博士の礼拝』(1482年、ウフィッツィ美術館)である。
レオナルド“未完の旅路”の起点となった作品であると、西岡氏は捉えている。レオナルドを育て、レオナルドを滅ぼしたという、メディチ一族の都と、レオナルドとの疎遠に終わった関係は、この未完のまま故郷に放置された作品に象徴されているとみる。
この作品を中途で放棄して出かけたミラノから、レオナルドの流転は始まる。
(西岡氏は、フィレンツェ・ルネッサンスの散策は、この作品で締めくくっている)
『東方三博士の礼拝』の正面は、本番の画面に直接に下絵を描いている点で、当時としては異例である。当時の絵画は、別の画面で下絵を完成した後、本番に着手するのが普通だったからである。
(着手まもない画面で、逡巡も生々しい筆致には、レオナルドの苦悩が刻印されている)
中央に聖母子、周囲に救世主の誕生を祝福する人々を配し、明るい部分、暗い部分、その中間を、おおよそ三段階の陰影で描いている。
右手遠景の岩山などは、下書きの線でしかないが、画面左の中央付近の馬の頭部や、中央右寄りの棕櫚(しゅろ)とオリーヴの樹の葉に、卓抜した描写力を見せていると評している。
この二本の樹は、キリスト教会の平和と正義を象徴し、反対側の背景に描かれた廃墟は、ローマ世界の衰退を表わしているとされる。
ボッティチェルリの『東方三博士の礼拝』(1479年、ウフィッツィ美術館)の背景の左側にも廃墟が描かれ、右側には救世主と教会の不滅を象徴する孔雀が描かれている。
背景の左右の意味づけ、画面右下の自画像と思われる若者などに、先輩ボッティチェルリの同名作品との類似が見られる。
(こうした画面背景の左右での象徴性の違いは、中世来の伝統的なもので、『モナ・リザ』の背景を考えるにあたって、重要な意味を持っているという)
フィレンツェに放置された、このレオナルドの『東方三博士の礼拝』の呻吟の痕跡を眺めた後、その“未完の旅路”の帰結となった『モナ・リザ』の待つ都、パリへと再び還ることにしている。
メディチの芸術都市フィレンツェと、ヴァザーリの“歩く「列伝」”ウフィッツィの散策を経て、パリの『モナ・リザ』に再会すると、その魅惑の深奥をのぞかせてくれると西岡氏はいう。
(西岡、1994年、183頁~184頁)