≪【囲碁】本因坊算砂について≫
(2024年4月30日投稿)
今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊算砂について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇岩本薫・林裕『日本囲碁大系第一巻 算砂・道碩』筑摩書房、1975年
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・イエズス会『日本通信』に「日本全国この堺の町より安全な所はなく、みな平和に生活し、敵味方の差別なくみな大なる愛情と礼儀をもって応対する」と記された堺は、15世紀後半から百年の間、納屋衆(なやしゅう)または会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが運営した自治都市であった。
・堺は遣明船の発着する貿易商業都市として繁栄し、文化・芸能が著しく発展した。
茶道の千利休や能楽喜多(きた)流の喜多七大夫(しちだゆう)など数多くの芸能者が活躍し、書籍の出版も盛んに行なわれている。
そのような堺で、碁を好んだ富裕な人々が碁の発展を支えた。
・「意雲老人は後土御門帝の世(1464-1500)囲碁の良手なり。庵を泉南に結びて居す。みずから可竹と号し」という伝承が『爛柯堂棋話』に記され、「意雲は碁者にして可竹の称宜(うべ)なり」と『本朝遯史』(ほんちょうとんし)にある。
(林裕「人とその時代」『算砂・道碩』1975年)。
・泉南は堺のすぐ南。実在した名手とすると、意雲は堺で活躍した碁の専門家であろう。
※千利休(宗易)1522-91
・信長・秀吉の茶頭(さどう)。堺の納屋衆の子。
※喜多流
・能楽シテ方の一流。堺の医師の子喜多七大夫が祖。
女流碁界の母、喜多文子(ふみこ)八段(1875-1950)は14代目六平太の妻。
※『本朝遯史』
・林靖(読耕斎)著。1664年刊。隠遁者の伝記。
※会合衆(納屋衆)
・堺や伊勢宇治などで自治を営んだ特権的商人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)
・実在が確実な重阿に続く名手は仙也(せんや)で、堺の人といわれる。
厳島明神の神官の手記に、吉田神社の神主吉田兼右(かねみぎ)が神道伝授のため厳島に向かったとき「碁打専哉」を同道した(1570)とある。
・増川は「旅の途中で山口に立ち寄ったときに、そこの長岡という者と専哉が碁を打っている。長岡は専哉に二目置いて三番共負けている。専哉は仙也のことであろう。この頃には碁の上手として知られていたとみなされる」と述べている。
・山科言継(やましなときつぐ)『言継卿記』は碁の記事が多く、天正4年(1576)7月2日徳大寺公維邸の碁会に「碁打仙也」が呼ばれたと記されている。
「碁打」とあるので碁の専業者といえると、増川は書いている。
・仙也は本因坊算砂の師とされているが、確実な文献に拠るものではない。
算砂の好敵手で6歳年少の利玄(りげん)も堺の生まれである。
・著者は、裕福な文化都市の堺で、打った碁の棋譜を紙に記す名手が現れたのではないかと推測している。
高い技術が次代に継承されるようになり、名手が続いたのではないだろうかという。
※仙也 生没年不詳
・日記類には1576-98年に登場する(増川)。
※利玄(利賢) 生没年不詳
・日蓮宗の僧。鹿塩は別人とされる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)
・初代本因坊算砂は日蓮宗の僧日海(にっかい)。
本因坊は日海が住んだ寂光寺の塔頭(たっちゅう)である。
京都に生まれ、8歳で寂光寺開祖の日淵(にちえん)に入門した。
・以下は、算砂に関する通説である。
日蓮宗には碁を打つ僧が多く、日海は碁を覚えて上達した。
師匠は堺の碁打ち仙也である。
織田信長が上洛したとき碁の名手として聞こえていた若き日海を引見し(1578)、その碁を観て「名人」と嘆称したのが碁の名人の初めという。
本能寺の変(1582)の前夜、信長公が、
本因坊と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。子(ね)の刻過ぐる頃、両僧暇(いとま)給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こる。
※このように『爛柯堂棋話』にある。
・その日の碁という棋譜が載る。
ただし三劫が生じたのはその日の別の碁とみられる。
信長の寵遇を受けていた日海は盛大な法要を営み、喪に服した。
天正16年(1588)に秀吉の御前試合で日海が優勝。
他の名手たちは本因坊に定先(じょうせん)とする、ただし仙也は師匠であるから互先と書いた朱印状を秀吉が与えた。
徳川家康は碁を好み、駿河へ隠居の後は不断に碁を楽しんだ。家康は算砂に五子で打ち、信長、秀吉も算砂に五子で打ったという。
・このような通説が江戸時代から今日まで広く流布している。
それに対して、増川は本因坊家や他の碁家の家伝や伝承を信用せず、信長や秀吉は「碁・将棋にあまり関心がなかったようである」と述べた。
しかし、秀吉が碁を打ったことは間違いないと著者はいう
※算砂と利玄の棋譜
(伝承では)天正10年6月1日 本能寺
信長公御前
中押し勝ち 白 本因坊 算砂
先 利玄
※本局は『御城碁譜・巻之一』(日本棋院、1951年)に128手終の棋譜が収められている。
白の巧手で左下の黒が死に、白の勝勢は明らか。
本邦初の版本棋書である『本因坊定石作物』(本因坊算砂著、1607年)に、本局の左下と同じ筋の詰碁が収められていることから、この棋譜は実譜とみられている。
ただし本能寺で打たれた碁とされてることには疑問がある。
この頃の棋譜は年月日が記されていないが、この棋譜が実局であれば日本最古の棋譜の一つといえる。
また、利玄は鹿塩利玄と記されてきたが、利玄と鹿塩は別人である、というのが近年の定説。
※本因坊算砂(1559-1623)
・日蓮宗の僧日海(にっかい)。初代本因坊。名人。
本因坊は戦前まで「ほんにんぼう」であった。
算砂も当時は「さんしゃ」であったという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、218頁~219頁)
・囲碁史研究家の林裕は『日本囲碁大系(第一巻)算砂・道碩』(1975年)に
「坊主嫌いの信長ではあったが、彼は碁の名手ゆえに、この青年僧(日海)を愛した」
と書いた。
その2年後に出版の第二巻『算悦・算知・道悦』で、林は
「本因坊算砂に関して従来の定説を洗い直さなければならぬ重要な資料が出てきた」と記し、寂光寺の開基日淵は日海の叔父であると『本山寂光寺誌』(1937年)をもとに新発見を述べている。
・さらに林は「信長が碁を打ったこと自体に疑問符をつけ、算砂を寵愛したなどというのは作り話ではないかと疑ってきた」と書いた。
※林が言うように『信長公記』に碁のことはない。
信長は碁を打たなかった、と著者も考えている。
碁を打てば負けることがあり、かといってご機嫌取りは好まない信長だったから。
しかし信長は碁を理解し、観戦した、と著者はいう。
碁が役立つことを知っていたのだろう。
・日淵(1529-1609)は堺の妙国寺で日珖(にっこう)らと講学に努めた日詮(にっせん、?-1579)の高弟で、信長が法華宗(日蓮宗)弾圧のために命じた安土宗論(あづちしゅうろん、1579)では、法華宗の代表として日珖らとともに浄土宗と対決した。
法華宗は一方的に敗北を認めさせられ、布教を制限される。
・熱心な折伏(しゃくぶく)で勢力を拡げた日蓮宗は、叡山僧徒に京都の多くの寺院が破壊される(1536)など他宗に攻撃されたため、寺院の防備を固めていた。
上洛した信長が日蓮宗の本能寺を宿所としたのは、土塁などがある寺だったからである。
算砂と並ぶ名手利玄は本能寺の若い僧であったから、信長は本能寺に算砂を招き、利玄との対局を観戦したことは十分にあり得る、と著者はいう。
※算砂に関する通説には、いくつも疑問があるという。
その一つは、算砂が信長の法要を盛大に営み、喪に服して秀吉の招きにも応じなかったというものである。
このとき日海は24歳の青年僧。
師であり叔父の日淵は安土宗論で信長に弾圧された当人である。
※算砂と信長の関係について、著者は新たな視点に立つ説を提示している。
その視点は碁が遊戯や消閑のためだけでないということである。
信長、秀吉、家康にとって碁はそれぞれの目的達成に役立つものであった。
その第一が、長年にわたって力を振るい権力者を苦しめた仏教勢力の懐柔、支配である。
天下を制するために、権力に妥協しない宗教勢力は容赦なく弾圧した。
京都や堺で折伏により勢力を強めた法華宗の指導者である日淵の弟子ながら碁で権力者に接する日海は、法華宗の懐柔に役立つ存在であったのである。
・弾圧を避けて教団の存続発展を願う法華宗においても、碁打ち日海は貴重な存在だった。
日淵は堺の日詮のもとで学んだ頃、堺の納屋衆が好む碁は堺や京都で布教に役立つことを知ったのだろう。
京都に帰った日淵は碁才がある日海を入門させ(出家は1年後)、堺から名手の仙也を招いて師事させた。
京都の権力者や富裕層に法華宗を広めようとする日淵は、そのために日海を碁打ちとして育てたのではないか、と著者はみている。
日淵が日海に信長の法要を営ませたとすると、信長を継ぐ秀吉や家康の弾圧を避けるためであった、と推測している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、220頁~221頁)
・日本と朝鮮は長い間にわたり対等な善隣関係を築き、室町時代には使節が度々往来した。
しかし国内を制覇した秀吉は明の征服を野望し、朝鮮を経由するため朝鮮国王に臣従と入朝を求める。
それに応じない朝鮮に、秀吉は十数万の大軍を2度にわたり出兵した。
文禄の役(1592)と慶長の役(1597)である。
儒教による文治国家であった李朝は武力が弱く、日本軍は朝鮮全土と民衆を蹂躙した。
明の援軍に敗れ、冬の寒さと飢えに苦しんだ日本軍の死者は5万人を数えたが、日本軍による虐殺、捕虜、略奪、放火など朝鮮の被害は甚大だった。
農村は荒廃し、その後も悲惨な飢饉が続いた。
そのため、朝鮮の人々にとって、「韓国併合の立役者とされる伊藤博文と並んで、秀吉は最も悪い日本人」なのである。(上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書、1989年)
日本の農村も重税と人的負担により疲弊し、豊臣政権の崩壊、関ヶ原の戦につながった。
・秀吉に仕えて茶坊主の筆頭となった千利休が切腹させられた(1591)のは、朝鮮出兵に反対したためとする説がある。
しかし、徳川家康、浅野長政、小西行長、宗義智(そうよしとし)なども反対しており、「処罰された者は一人もいない」ということである。
(桑田忠親『千利休』中公新書、1981年)
・利休が秀吉から拝受した碁盤が現存する。
利休の父は堺の納屋衆。
算砂に五子という秀吉より利休は強かったかもしれない。
利休の「囲碁の文」があり、利玄が対局した碁会に参加したことがわかる。
千家茶道を再興した千宗旦(そうたん、利休の孫)も碁を打ったということである。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、222頁、252頁)
・秀吉や家康にとって僧であり碁の名手である日海は重要だった。
法華宗の側でも、刀狩り(1588)で僧兵や民衆の武器を取り上げ、方広寺の千僧供養会(せんそうくようえ、1596)により仏教勢力全体の支配を目指す秀吉の圧力を避けて勢力を維持する上で、秀吉や家康に近い日海は貴重な存在だった。
大局を見て、すべてを承知していた本因坊(日海)だからこそ、家康は厚遇したのである。
・信頼のおける公家の日記を中心に論じる増川は、「信憑性の高い本因坊の初出」は、茶人の広野了頓宅で「終日碁や将棋に興じた」ときに「江戸亜相(徳川家康)、予(山科言経)……碁打の本胤坊(ほんいんぼう)、そのほか七、八人」(1594.5.11)が集まったと記す『言経卿記』としている。
・朝鮮に一兵も出さなかった家康は、この頃京都で頻繁に碁会に顔を出している。
京都の有力者と親交を深め、情報収集に努めたのであろう。
碁好きの有力者を招くために、本因坊はじめ碁の名手が毎回召し出されている。
朝鮮に再征した慶長2年(1597)家康が訪れた南禅寺の碁会には仙也も招かれ、これが仙也の最後の記録ということである。
・慶長3年朝鮮で悲惨な戦争が続くなかで醍醐寺の花見を楽しんだ秀吉は、8月家康をはじめ五大老に秀頼を託して病没した。
家康はただちに朝鮮撤兵を命ずる。
和議を結ばず退却した日本軍は明軍の追撃を受けながら、多数の捕虜や文物を載せて帰国する。
亀甲船で日本水軍を打ち破った朝鮮の英雄李舜臣(イスンシン)は、このとき小西軍の退路を断とうとして戦死した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、223頁)
・関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。
「日海が本因坊を氏とし、算砂と名乗ったのは慶長8年とする説がある。家康が征夷大将軍となり、江戸帰府に日海を伴った時点」である、と林裕が述べている。
・慶長17年(1612)家康が碁将棋衆に俸禄を支給した。
本因坊、利玄、宗桂(そうけい、将棋)、道碩に各50石をはじめ、8名に合計290石が与えられているが、これは一代限りである。
50石は多いとはいえないが、算砂は裕福だった。
後援者からの収入が多かったのであろう。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)
・家康は朝鮮と国交回復を指示し、対馬藩主宗義智らが懸命の努力を重ねる。
数万人といわれる連行された朝鮮人の帰還を目的に、朝鮮通信使が慶長12年(1607)に来日した。
・「大阪夏の陣」で秀頼と淀殿が自害し(1615.5.8)、豊臣家を滅ぼした幕府は、家康の大坂平定は朝鮮のために報復したものと主張して、大坂平定慶賀の使節派遣を朝鮮に求める。
・元和2年(1616)に家康が75歳で没した。
元和3年第2回朝鮮通信使(総勢428名)が来日する。
このとき李礿史(りやくし)という朝鮮の名手が算砂と対局し、三子置いて敗れた李礿史は帰国後に、扁額と盤石を算砂に贈った。
寂光寺に扁額と碁石・碁笥が保存されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)
〇プロ棋士の岩本薫氏は、先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、「1三劫不吉?」と題して、次のような解説をしている。
・囲碁史によれば、この碁は天正十年(1582)6月1日、本能寺において、信長の御前で打たれた、と記されている。
譜が未完のため、判然としないのはまことに残念だが、この碁には三劫が生じたと伝えられている。
・ところで、この夜は歴史上有名な“本能寺の変”のあった日である。
このことから、“三劫不吉の前兆”といわれるようになった。
が、譜を見る限りどこにも三劫の出来そうな個所はなく、何局か打たれた中の他の局ではないかともいわれている。
・前置きはこれくらいにして、前局はお互いに高目や目外しの打ち合いで、勇壮活潑な碁風だったのに対し、この碁は趣きをがらりと変えて、小目にケイマ掛りの、どちらかといえば腰を落した、秀策流に似た碁といえよう。
このことから想像するに、草創期でもあり、研究しながら打たれていたものと思われる。
それと、こんな総掛りの碁も珍しいのではないか。
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁)
〇先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、128手まで示せば、次のようになる。
≪棋譜≫
(伝)於信長公御前
中押勝 本因坊算砂
先 鹿鹽利玄
≪棋譜の部分図≫(123手~128手目)(百番台省略)
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁~38頁)
〇You Tubeでプロ棋士の桑本晋平氏が、この謎の「三劫の棋譜」について、解説しておられる。興味のある方はご覧になられたらと思う。
〇You Tubeイフウ・チャンネル(囲碁棋士・桑本晋平)
「本能寺の変 三コウの真実に迫る」(約11分)
(2023年7月23日付)
・1582年6月1日の対局したとされる算砂と利玄の、いわゆる「三コウ無勝負の碁」は、平本弥星氏も指摘していたように、128手で終わっている。
その棋譜には三コウが記されていないが、桑本晋平氏は、信長の御前であったかどうかは別にして、三コウの想定図を提示している。
左上の一合マスに注目し、左上には両コウ、左下には一手ヨセコウが生じ、これらの2箇所のコウを組み合わせた三コウが想定できるという。
(2024年4月30日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊算砂について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇岩本薫・林裕『日本囲碁大系第一巻 算砂・道碩』筑摩書房、1975年
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
碁を打つ
プロの碁と囲碁ルール
アマチュア碁界の隆盛
脳の健康スポーツ
第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
碁とは
定石とはなにか
生きることの意味
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展
終章 新しい時代と囲碁
歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
自ら学び、自ら考える力の育成/
生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
囲碁で知る
おわりに
参考文献
重要な囲碁用語の索引
連絡先
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・堺の繁栄、囲碁文化の発展
・初代本因坊算砂の師とされる仙也
・信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂
・算砂と信長に関する新説
・徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄
・朝鮮の名手と対局
〇三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より
≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
堺の繁栄、囲碁文化の発展
・イエズス会『日本通信』に「日本全国この堺の町より安全な所はなく、みな平和に生活し、敵味方の差別なくみな大なる愛情と礼儀をもって応対する」と記された堺は、15世紀後半から百年の間、納屋衆(なやしゅう)または会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが運営した自治都市であった。
・堺は遣明船の発着する貿易商業都市として繁栄し、文化・芸能が著しく発展した。
茶道の千利休や能楽喜多(きた)流の喜多七大夫(しちだゆう)など数多くの芸能者が活躍し、書籍の出版も盛んに行なわれている。
そのような堺で、碁を好んだ富裕な人々が碁の発展を支えた。
・「意雲老人は後土御門帝の世(1464-1500)囲碁の良手なり。庵を泉南に結びて居す。みずから可竹と号し」という伝承が『爛柯堂棋話』に記され、「意雲は碁者にして可竹の称宜(うべ)なり」と『本朝遯史』(ほんちょうとんし)にある。
(林裕「人とその時代」『算砂・道碩』1975年)。
・泉南は堺のすぐ南。実在した名手とすると、意雲は堺で活躍した碁の専門家であろう。
※千利休(宗易)1522-91
・信長・秀吉の茶頭(さどう)。堺の納屋衆の子。
※喜多流
・能楽シテ方の一流。堺の医師の子喜多七大夫が祖。
女流碁界の母、喜多文子(ふみこ)八段(1875-1950)は14代目六平太の妻。
※『本朝遯史』
・林靖(読耕斎)著。1664年刊。隠遁者の伝記。
※会合衆(納屋衆)
・堺や伊勢宇治などで自治を営んだ特権的商人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)
初代本因坊算砂の師とされる仙也
・実在が確実な重阿に続く名手は仙也(せんや)で、堺の人といわれる。
厳島明神の神官の手記に、吉田神社の神主吉田兼右(かねみぎ)が神道伝授のため厳島に向かったとき「碁打専哉」を同道した(1570)とある。
・増川は「旅の途中で山口に立ち寄ったときに、そこの長岡という者と専哉が碁を打っている。長岡は専哉に二目置いて三番共負けている。専哉は仙也のことであろう。この頃には碁の上手として知られていたとみなされる」と述べている。
・山科言継(やましなときつぐ)『言継卿記』は碁の記事が多く、天正4年(1576)7月2日徳大寺公維邸の碁会に「碁打仙也」が呼ばれたと記されている。
「碁打」とあるので碁の専業者といえると、増川は書いている。
・仙也は本因坊算砂の師とされているが、確実な文献に拠るものではない。
算砂の好敵手で6歳年少の利玄(りげん)も堺の生まれである。
・著者は、裕福な文化都市の堺で、打った碁の棋譜を紙に記す名手が現れたのではないかと推測している。
高い技術が次代に継承されるようになり、名手が続いたのではないだろうかという。
※仙也 生没年不詳
・日記類には1576-98年に登場する(増川)。
※利玄(利賢) 生没年不詳
・日蓮宗の僧。鹿塩は別人とされる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)
4近世(安土桃山時代・江戸時代—260年の平和、囲碁文化の発展―
信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂
・初代本因坊算砂は日蓮宗の僧日海(にっかい)。
本因坊は日海が住んだ寂光寺の塔頭(たっちゅう)である。
京都に生まれ、8歳で寂光寺開祖の日淵(にちえん)に入門した。
・以下は、算砂に関する通説である。
日蓮宗には碁を打つ僧が多く、日海は碁を覚えて上達した。
師匠は堺の碁打ち仙也である。
織田信長が上洛したとき碁の名手として聞こえていた若き日海を引見し(1578)、その碁を観て「名人」と嘆称したのが碁の名人の初めという。
本能寺の変(1582)の前夜、信長公が、
本因坊と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。子(ね)の刻過ぐる頃、両僧暇(いとま)給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こる。
※このように『爛柯堂棋話』にある。
・その日の碁という棋譜が載る。
ただし三劫が生じたのはその日の別の碁とみられる。
信長の寵遇を受けていた日海は盛大な法要を営み、喪に服した。
天正16年(1588)に秀吉の御前試合で日海が優勝。
他の名手たちは本因坊に定先(じょうせん)とする、ただし仙也は師匠であるから互先と書いた朱印状を秀吉が与えた。
徳川家康は碁を好み、駿河へ隠居の後は不断に碁を楽しんだ。家康は算砂に五子で打ち、信長、秀吉も算砂に五子で打ったという。
・このような通説が江戸時代から今日まで広く流布している。
それに対して、増川は本因坊家や他の碁家の家伝や伝承を信用せず、信長や秀吉は「碁・将棋にあまり関心がなかったようである」と述べた。
しかし、秀吉が碁を打ったことは間違いないと著者はいう
※算砂と利玄の棋譜
(伝承では)天正10年6月1日 本能寺
信長公御前
中押し勝ち 白 本因坊 算砂
先 利玄
※本局は『御城碁譜・巻之一』(日本棋院、1951年)に128手終の棋譜が収められている。
白の巧手で左下の黒が死に、白の勝勢は明らか。
本邦初の版本棋書である『本因坊定石作物』(本因坊算砂著、1607年)に、本局の左下と同じ筋の詰碁が収められていることから、この棋譜は実譜とみられている。
ただし本能寺で打たれた碁とされてることには疑問がある。
この頃の棋譜は年月日が記されていないが、この棋譜が実局であれば日本最古の棋譜の一つといえる。
また、利玄は鹿塩利玄と記されてきたが、利玄と鹿塩は別人である、というのが近年の定説。
※本因坊算砂(1559-1623)
・日蓮宗の僧日海(にっかい)。初代本因坊。名人。
本因坊は戦前まで「ほんにんぼう」であった。
算砂も当時は「さんしゃ」であったという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、218頁~219頁)
算砂と信長に関する新説
・囲碁史研究家の林裕は『日本囲碁大系(第一巻)算砂・道碩』(1975年)に
「坊主嫌いの信長ではあったが、彼は碁の名手ゆえに、この青年僧(日海)を愛した」
と書いた。
その2年後に出版の第二巻『算悦・算知・道悦』で、林は
「本因坊算砂に関して従来の定説を洗い直さなければならぬ重要な資料が出てきた」と記し、寂光寺の開基日淵は日海の叔父であると『本山寂光寺誌』(1937年)をもとに新発見を述べている。
・さらに林は「信長が碁を打ったこと自体に疑問符をつけ、算砂を寵愛したなどというのは作り話ではないかと疑ってきた」と書いた。
※林が言うように『信長公記』に碁のことはない。
信長は碁を打たなかった、と著者も考えている。
碁を打てば負けることがあり、かといってご機嫌取りは好まない信長だったから。
しかし信長は碁を理解し、観戦した、と著者はいう。
碁が役立つことを知っていたのだろう。
・日淵(1529-1609)は堺の妙国寺で日珖(にっこう)らと講学に努めた日詮(にっせん、?-1579)の高弟で、信長が法華宗(日蓮宗)弾圧のために命じた安土宗論(あづちしゅうろん、1579)では、法華宗の代表として日珖らとともに浄土宗と対決した。
法華宗は一方的に敗北を認めさせられ、布教を制限される。
・熱心な折伏(しゃくぶく)で勢力を拡げた日蓮宗は、叡山僧徒に京都の多くの寺院が破壊される(1536)など他宗に攻撃されたため、寺院の防備を固めていた。
上洛した信長が日蓮宗の本能寺を宿所としたのは、土塁などがある寺だったからである。
算砂と並ぶ名手利玄は本能寺の若い僧であったから、信長は本能寺に算砂を招き、利玄との対局を観戦したことは十分にあり得る、と著者はいう。
※算砂に関する通説には、いくつも疑問があるという。
その一つは、算砂が信長の法要を盛大に営み、喪に服して秀吉の招きにも応じなかったというものである。
このとき日海は24歳の青年僧。
師であり叔父の日淵は安土宗論で信長に弾圧された当人である。
※算砂と信長の関係について、著者は新たな視点に立つ説を提示している。
その視点は碁が遊戯や消閑のためだけでないということである。
信長、秀吉、家康にとって碁はそれぞれの目的達成に役立つものであった。
その第一が、長年にわたって力を振るい権力者を苦しめた仏教勢力の懐柔、支配である。
天下を制するために、権力に妥協しない宗教勢力は容赦なく弾圧した。
京都や堺で折伏により勢力を強めた法華宗の指導者である日淵の弟子ながら碁で権力者に接する日海は、法華宗の懐柔に役立つ存在であったのである。
・弾圧を避けて教団の存続発展を願う法華宗においても、碁打ち日海は貴重な存在だった。
日淵は堺の日詮のもとで学んだ頃、堺の納屋衆が好む碁は堺や京都で布教に役立つことを知ったのだろう。
京都に帰った日淵は碁才がある日海を入門させ(出家は1年後)、堺から名手の仙也を招いて師事させた。
京都の権力者や富裕層に法華宗を広めようとする日淵は、そのために日海を碁打ちとして育てたのではないか、と著者はみている。
日淵が日海に信長の法要を営ませたとすると、信長を継ぐ秀吉や家康の弾圧を避けるためであった、と推測している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、220頁~221頁)
秀吉の朝鮮出兵
・日本と朝鮮は長い間にわたり対等な善隣関係を築き、室町時代には使節が度々往来した。
しかし国内を制覇した秀吉は明の征服を野望し、朝鮮を経由するため朝鮮国王に臣従と入朝を求める。
それに応じない朝鮮に、秀吉は十数万の大軍を2度にわたり出兵した。
文禄の役(1592)と慶長の役(1597)である。
儒教による文治国家であった李朝は武力が弱く、日本軍は朝鮮全土と民衆を蹂躙した。
明の援軍に敗れ、冬の寒さと飢えに苦しんだ日本軍の死者は5万人を数えたが、日本軍による虐殺、捕虜、略奪、放火など朝鮮の被害は甚大だった。
農村は荒廃し、その後も悲惨な飢饉が続いた。
そのため、朝鮮の人々にとって、「韓国併合の立役者とされる伊藤博文と並んで、秀吉は最も悪い日本人」なのである。(上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書、1989年)
日本の農村も重税と人的負担により疲弊し、豊臣政権の崩壊、関ヶ原の戦につながった。
・秀吉に仕えて茶坊主の筆頭となった千利休が切腹させられた(1591)のは、朝鮮出兵に反対したためとする説がある。
しかし、徳川家康、浅野長政、小西行長、宗義智(そうよしとし)なども反対しており、「処罰された者は一人もいない」ということである。
(桑田忠親『千利休』中公新書、1981年)
・利休が秀吉から拝受した碁盤が現存する。
利休の父は堺の納屋衆。
算砂に五子という秀吉より利休は強かったかもしれない。
利休の「囲碁の文」があり、利玄が対局した碁会に参加したことがわかる。
千家茶道を再興した千宗旦(そうたん、利休の孫)も碁を打ったということである。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、222頁、252頁)
家康が朝鮮撤兵
・秀吉や家康にとって僧であり碁の名手である日海は重要だった。
法華宗の側でも、刀狩り(1588)で僧兵や民衆の武器を取り上げ、方広寺の千僧供養会(せんそうくようえ、1596)により仏教勢力全体の支配を目指す秀吉の圧力を避けて勢力を維持する上で、秀吉や家康に近い日海は貴重な存在だった。
大局を見て、すべてを承知していた本因坊(日海)だからこそ、家康は厚遇したのである。
・信頼のおける公家の日記を中心に論じる増川は、「信憑性の高い本因坊の初出」は、茶人の広野了頓宅で「終日碁や将棋に興じた」ときに「江戸亜相(徳川家康)、予(山科言経)……碁打の本胤坊(ほんいんぼう)、そのほか七、八人」(1594.5.11)が集まったと記す『言経卿記』としている。
・朝鮮に一兵も出さなかった家康は、この頃京都で頻繁に碁会に顔を出している。
京都の有力者と親交を深め、情報収集に努めたのであろう。
碁好きの有力者を招くために、本因坊はじめ碁の名手が毎回召し出されている。
朝鮮に再征した慶長2年(1597)家康が訪れた南禅寺の碁会には仙也も招かれ、これが仙也の最後の記録ということである。
・慶長3年朝鮮で悲惨な戦争が続くなかで醍醐寺の花見を楽しんだ秀吉は、8月家康をはじめ五大老に秀頼を託して病没した。
家康はただちに朝鮮撤兵を命ずる。
和議を結ばず退却した日本軍は明軍の追撃を受けながら、多数の捕虜や文物を載せて帰国する。
亀甲船で日本水軍を打ち破った朝鮮の英雄李舜臣(イスンシン)は、このとき小西軍の退路を断とうとして戦死した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、223頁)
徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄
・関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。
「日海が本因坊を氏とし、算砂と名乗ったのは慶長8年とする説がある。家康が征夷大将軍となり、江戸帰府に日海を伴った時点」である、と林裕が述べている。
・慶長17年(1612)家康が碁将棋衆に俸禄を支給した。
本因坊、利玄、宗桂(そうけい、将棋)、道碩に各50石をはじめ、8名に合計290石が与えられているが、これは一代限りである。
50石は多いとはいえないが、算砂は裕福だった。
後援者からの収入が多かったのであろう。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)
朝鮮の名手と対局
・家康は朝鮮と国交回復を指示し、対馬藩主宗義智らが懸命の努力を重ねる。
数万人といわれる連行された朝鮮人の帰還を目的に、朝鮮通信使が慶長12年(1607)に来日した。
・「大阪夏の陣」で秀頼と淀殿が自害し(1615.5.8)、豊臣家を滅ぼした幕府は、家康の大坂平定は朝鮮のために報復したものと主張して、大坂平定慶賀の使節派遣を朝鮮に求める。
・元和2年(1616)に家康が75歳で没した。
元和3年第2回朝鮮通信使(総勢428名)が来日する。
このとき李礿史(りやくし)という朝鮮の名手が算砂と対局し、三子置いて敗れた李礿史は帰国後に、扁額と盤石を算砂に贈った。
寂光寺に扁額と碁石・碁笥が保存されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)
三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より
〇プロ棋士の岩本薫氏は、先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、「1三劫不吉?」と題して、次のような解説をしている。
・囲碁史によれば、この碁は天正十年(1582)6月1日、本能寺において、信長の御前で打たれた、と記されている。
譜が未完のため、判然としないのはまことに残念だが、この碁には三劫が生じたと伝えられている。
・ところで、この夜は歴史上有名な“本能寺の変”のあった日である。
このことから、“三劫不吉の前兆”といわれるようになった。
が、譜を見る限りどこにも三劫の出来そうな個所はなく、何局か打たれた中の他の局ではないかともいわれている。
・前置きはこれくらいにして、前局はお互いに高目や目外しの打ち合いで、勇壮活潑な碁風だったのに対し、この碁は趣きをがらりと変えて、小目にケイマ掛りの、どちらかといえば腰を落した、秀策流に似た碁といえよう。
このことから想像するに、草創期でもあり、研究しながら打たれていたものと思われる。
それと、こんな総掛りの碁も珍しいのではないか。
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁)
〇先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、128手まで示せば、次のようになる。
≪棋譜≫
(伝)於信長公御前
中押勝 本因坊算砂
先 鹿鹽利玄
≪棋譜の部分図≫(123手~128手目)(百番台省略)
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁~38頁)
〇You Tubeでプロ棋士の桑本晋平氏が、この謎の「三劫の棋譜」について、解説しておられる。興味のある方はご覧になられたらと思う。
〇You Tubeイフウ・チャンネル(囲碁棋士・桑本晋平)
「本能寺の変 三コウの真実に迫る」(約11分)
(2023年7月23日付)
・1582年6月1日の対局したとされる算砂と利玄の、いわゆる「三コウ無勝負の碁」は、平本弥星氏も指摘していたように、128手で終わっている。
その棋譜には三コウが記されていないが、桑本晋平氏は、信長の御前であったかどうかは別にして、三コウの想定図を提示している。
左上の一合マスに注目し、左上には両コウ、左下には一手ヨセコウが生じ、これらの2箇所のコウを組み合わせた三コウが想定できるという。