歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪囲碁の布石~林海峰氏の場合≫

2024-12-30 18:00:05 | 囲碁の話
≪囲碁の布石~林海峰氏の場合≫
(2024年12月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでも引き続き、囲碁の布石について、次の事典を参考にして考えてみたい。
〇林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]
 この布石事典の特徴は、「はしがき」にも述べてあるように、布石の歴史的変遷についても、述べている点にあるだろう。
 例えば、昭和期の布石の変遷について、次のように記す。
 布石でいうなら、大正から昭和かけての旧布石法が昭和8年秋の布石革命によって新しく生まれかわり、やがて新旧布石統合時代を経て、昭和30年の第二の新布石時代を迎える。
 そのあとに実利主義に徹した力戦志向の布石時代が続いたかと思うと、今度は中国流や二連星、三連星による勢力尊重の新しい波がひろがり、第三の新布石期が誕生する。
 そして、その時流の動きを正確にとらえることも、本書の重大な任務であったという。
 また、多くの実戦参考譜を用意し、その局に応じて同種型の変化、応用を示した点も、この事典の特徴である。
(本事典は大部で多岐にわたるため、網羅的に紹介することはせず、私の個人的な興味でテーマを選ばさせていただいたことを、お断りしておく)



【林海峰『基本布石事典(上)』(日本棋院)はこちらから】


〇林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]
【目次】
第1部 二連星・三連星
第2部 タスキ型
第3部 星・小目
第4部 中国流
第5部 特殊戦法




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はしがき
・星打ちと連星
・二連星
・昭和期の布石の変遷について
・三連星
・タスキ星の意義
・中国流
・特殊戦法としての天元






はしがき


・碁の打着点は、きわめて流動的なものである。
 布石は、一局の構成の基本となるものであるが、碁の個性的な本質がそのまま現れて、流動的な内容をもっている。
・中盤の手どころや死活と違って、布石にはいく通りもの行き方があり、それがそれなりにみんな正しい。それを統一し、画一されたメニューにおさめることは、至難なわざに属する。
・本書は、布石のすべてを網羅し、分類したものではないという。
 布石のおおよその類型を整理し、その代表的なタイプと思われる局に解説を附したものである。とくに意を用いたのは、その類型をより明確にするために、多くの実戦参考譜を用意し、その局に応じて同種型の変化、応用を示したことである。
 対局にあたった棋士の創意と苦心、そして歳月をかけた体験と努力がわかるだろうし、これによって布石の事典としての価値が高まるとする。
・本書は星の第一着手を基本として、型を分類した。
 上巻を「星」、下巻を「小目」と大別した。
 これによって、第一着が星である二連星とか中国流は上巻、そして小目を三つ組合わせる秀策流は下巻を見れば、それぞれの章項におさまっているという形にした。
 星、小目以外の第一着手では、天元、辺や隅の高い初手(5ノ十、大高目や5ノ五など)は上巻に、そして目外し、高目、三々などは下巻に、収録した。

・布石にしても定石にしても、序盤の碁の打ち方は、実に流動的である。
 ここ半世紀の歴史を調べただけでも、その変遷の激しさ、移りかわりの早さは驚愕に価する。
 布石でいうなら、大正から昭和かけての旧布石法が昭和8年秋の布石革命によって新しく生まれかわり、やがて新旧布石統合時代を経て、昭和30年の第二の新布石時代を迎える。
 そのあとに実利主義に徹した力戦志向の布石時代が続いたかと思うと、今度は中国流や二連星、三連星による勢力尊重の新しい波がひろがり、第三の新布石期が誕生する。
(その時流の動きを正確にとらえることも、本書の重大な任務であったという。)
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、3頁~4頁)

星打ちと連星


・星打ちの発展の歴史は、白番の創意、工夫に発し、白の布石の発展とともに歩んだといってよい。黒の第一着を星に打つことが一般化したのは、時代が下ってからである。
 星を誰が初めに打ち出したかは定かでない。現存の遺譜によれば、丈和の対局に見られるものが古い例の代表と思われるという。
(【参考譜1】文政4年(1821) 白本因坊丈和(名人、12世) 黒井上安節)
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、16頁)

二連星


〇二連星 第1局
 秋季大手合 昭和14年
  白 七段 木谷実
  黒 六段 林有太郎 中押勝
・昭和十年台、すでに新布石旋風もおさまり、新旧布石の統合時代に打たれた二連星の局である。
 先番の林が星をふたつ打ち、新布石提唱者の木谷が碁風の変化を表して、白2、4の向かい小目に布陣している。
※二連星対策として呉清源が愛用し白の布石法として定着したのが、この向かい小目であった。
・黒5と高ガカリして、白6のツケに黒7、9とナダレていくのは、まさに現代的な手法である。
・白10のツギが木谷流。
・黒11とノビられ、多少利かされの気味はあるが、ナダレの大型定石によって碁が決まりがちになることを避け、堅実を旨とした手である。
・白12、14のハイは、保留して単に16とトブのもあり、黒を厚くしない意味でそう打つケースが多い。
・黒17のケイマは絶好点。
≪棋譜≫1譜(1-18)二連星 林vs木谷、20頁
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、20頁~21頁)

昭和期の布石の変遷について


 著者の林海峰氏は、昭和期の布石の変遷について、次のように述べている。

●新布石革命
①昭和8年秋、新布石革命
 新布石時代の木谷実と呉清源の星打ちに関する考え方の差
②昭和30年前後の第二の新布石時代
③昭和50年前後の第三の新布石全盛期(中国流や二、三連星)
※20年周期で布石の変遷は興味深い。

【①昭和8年秋、新布石革命】
・昭和8年秋、新布石革命は燎原の火のごとく燃え盛り、囲碁界を席捲した。
 主唱者は木谷実と呉清源である。
 その三連星ないし星打ちが中心となって、高目、大高目、5ノ五、三々などの特殊戦法による中原志向が、旧来の布石法の価値観と鋭く対立、これをひっくりかえそうとした。
・旧手法は、第三線が主体の考え方なので、これを否定するためにはどうしても石の位置が高くなり、中央が主戦場となる。
・黒1、3、5の星の三連打は、位を高く保ち、勢力を誇示するのに絶好の拠点となった。
・三連星主唱者の木谷実が、前田陳爾の黒の三連星に対して、白の三連星で向かっていった。

【新布石時代の木谷実と呉清源の星打ちに関する考え方の差】
・新布石時代の木谷と呉の星打ちに関する考え方の差について指摘しておく。
 両棋士は昭和8年夏、信州地獄谷で新法について意見を交換したのは事実であるが、それではそれを三連星とか5ノ五で打ってみようという具体的な問題まで提起したわけではなかったようだ。
・木谷は、石の働きを三連星による勢力拡張で表現しようとしたし、呉の星や三々に対する考え方は一手で隅を打つという経済性にあり、必ずしも三連星にこだわっていなかった。
 前者は位高く中央に勢力を盛り上げようとし、後者は布石の速度に重点をおき、両者の間には微妙な差があった。

【②昭和30年前後の第二の新布石時代】
【③昭和50年前後の第三の新布石全盛期(中国流や二、三連星)】
・昭和ひと桁の新布石法は、やがて新旧布石統合時代を経て、昭和30年前後の第二の新布石時代を生み、またそれが50年前後の中国流や二、三連星を中心とする第三の新布石全盛期につながる。
・20年周期で布石の変遷があったのは興味深い。



・三連星主唱者の木谷実が、前田陳爾の黒の三連星に対して、白の三連星で向かっていった。
【木谷実vs前田陳爾】
昭和11年 春季大手合 
 黒六段 前田陳爾(15目勝)
 白七段 木谷実

・新法の提唱者は、自ら編み出した新法にも苦しまねばならなかった。
・黒7に対して、白8の天元が苦心の一着である。

<二間の消し>
・白10の二間トビが左右同型の消し方で、この時代の面白い手法である。
※独得の研究であり、その研究のバックがなければ打てない手といえる。
 高いところから、黒の三連星を中心とする勢力を、大きく消しているのが特徴である。
・黒11と一間にカカリ、白12の二間に、黒13と二間に応じた。
※このあたりのかけ引きが興深い。

<白あまかった>
・白18のマゲが問題のあるところ。
・黒19の打ち込みが機敏。
・白20とこのほうからオサエたので、黒21以下楽に隅から辺を荒らすことができた。
・下辺に転じ、白32のツケが痛烈であった。
※黒33のノビで34にハネれば、むろん白33に切ってくる。
・その戦いを不利とみて、黒は33にノビた。
※コミのない碁だから、白は相当頑張らねば追いつかない。
 黒37までかなり強引な封鎖の仕方であるが、黒も下辺が大きくまとまり、この結果に不満はないであろう、とする。
 白の難局といっていいと評する。

<黒好調>
・黒39と左下隅にツケたのが、いいタイミングであった。
・白40のオサエに、黒47までハネサガリ、活形を得た。
※木谷実「白48では、「い」(13,四)と打ち込むなどはどうであったか」
 48と中央をかこっても、黒49と受けられて、白は地で対抗できない局面となっている。
 左辺の白模様はかなり大きそうに見えるが、あちこちにキズがあって、よほど能率よくまとめないと、60目にするのは容易でない。
・白50とここへなぐり込んでいったのは、この局面ではやむを得ないであろうという。
・黒は鷹揚に51と封鎖し、白52と隅にかわっていった。

<林海峰氏のコメント>
・本局は序盤の白の左上隅の打ち方に、問題があったようである。
・黒に唯々と隅を侵略されては地が足りそうもなく、下辺のツケ以降目いっぱいに左辺を模様化しようとしたが、これも成功しなかった。
・現状で黒の優勢は動かしがたい。

【変化図】
【変化図(80頁の7図)】
・白52で、1とスベるのは、黒2以下7まで、いじめを食う形がつらい。
・8のケイマで右辺がかなりまとまりそうであり、白堪えられそうもない。
・このあと、黒は中央を荒らすチャンスをつかみ、「ろ」、白「は」、黒「に」、白「ほ」、黒「へ」と白の唯一の宝庫になだれ込んでいった。
※この黒もとても取れるような石ではなく、ここを侵略されては白の苦戦は明らかであるという。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、74頁~81頁、127頁)

タスキ星の意義


・星打ちの発展のおおまかなことは、第1部の冒頭で示したが、タスキ星となると二連星や三連星とはまた違った視点からとらえなければならぬだろう。
・やはり星打ちは白の布石創意から発したという類例に従って、タスキ星も白番によって打たれ出したもののようである。
 勢力というよりも、スピードに重点をおいた布石法とみるほうが当たっていよう。
・タスキ星や二連星に限らず、星打ちは黒の小目を主体とした堅実な布石に対して、これを突きくずそうという白の意欲的な打ち方であるといっていい。
 とくに秀策流の小目一、三、五の布石に対して、効果があったようである。
 白の第二手目の星から右上隅の小目の黒にカカった場合、星の白が小目でないので、勢力発展方向が一方に限定されず、両辺に対して自在なものの考え方のできる点が特色である。そこに白の幅広い活動が約束される。
 布石に策を用いねばならぬ白としては、そこに妙味を見出さねばならぬのである。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、124頁~125頁)

【タスキ星】第1局
 第10期本因坊戦挑戦手合第4局 昭和30年
  中押勝 白 本因坊 高川秀格
      黒 九段  島村利博

・黒1、3のタスキ星は、足早な布石法である。
 二連星、三連星が勢力を重んじた打ち方であるのに対して、タスキ星は位を失わず、スピードを旨とした打ち方であり、これを愛用する棋士は少なくない。
・白は2、4の小目によって、黒のタスキに対応している。
・黒5のカカリに、白は6とシマった。
 この手はこの隅を打つか、あるいは5の一子をハサむか、ふた通りあるところ。
 大ゲイマのシマリは趣向である。
・ここで黒は7と、下辺を三間にヒラいた。
・白8の二間が、実に渋いヒラキだった。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、128頁~129頁)

第4部 中国流


・本書では、黒が第五手目を辺の第三線に打つ形を中国流、そして第四線の高い位置に打つものを新中国流という表現に統一したという。
(五手目の高い中国流は中国流を発展是正した意味をこめて、修正中国流ともいわれているが、ここでは新中国流で通したそうだ)

・中国流の布石法は、本来、日本で生れたものである。
 それが中国に渡り、中国から逆輸入されて、この名がある。
 ここでは中国流を生むに至った背景と、それに共通する布石法が従来から日本にあったことを述べて、この部の導入としたいという。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、308頁)

・中国流布石は、昭和30年台(表記ママ)に安永一を中心とするアマチュア強豪の間で研究され、打たれていた。
 そして、安永が中国に渡り、中国選手にこの打ち方を紹介、当地でその技法が検討され、黒の5の手が第三線の低い中国流として日本に逆にもどってきた。
 また、昭和41年に訪中した島村俊広がこの布石法の感化を受け、ひと頃、島村流の名でプロ碁界を悩ませたのは、衆知のところである。
・日本の囲碁界で中国流が流行し、これを実戦に用いる棋士が多くなったのは、昭和40年台の後半から50年台にかけてである。
 武宮正樹にみられる大模様作戦が二、三連星の星打ちを基調としたのに対応し、中国流と新中国流が爆発的な人気を呼び、これら勢力重視と中央志向の風潮は、第三期の新布石時代再現の様相さえ呈するに至った。
・ある時期の加藤正夫は黒番のすべてを新中国流に徹し、抜群の成績とともにこの技法の発展に寄与した。
・中国流がこれだけ囲碁界に人気を得た原因として、一時期実利主義に走った全体的な傾向に対する批判と従来の布石を立体的な視点でとらえ、これに流動性を与えようとする時代的な要求があったことを、あげねばならぬだろう。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、310頁~311頁)

【参考譜6】梶原武雄vs陳祖徳
【日中交流対局】昭和40年
 白 八段 梶原武雄
 黒    陳祖徳

※中国選手が日本との交流の中でもち来った最初の頃の中国流。
 受けて立つ梶原は、かねてよりこの手法の研究家であり、この技を得意とした陳との顔合せが興深い。
・白28は、黒が次に39と受け、白37、黒a、白bのノビを期待したが、黒29の反撃がきびしかった。以下、白38までは勢い。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、310頁)

中国流 第1局


林海峰vs梶原武雄
【第10期名人戦リーグ】昭和45年
 中押勝 白 本因坊 林海峰
     黒 九段  梶原武雄
≪棋譜≫(1-54)1譜~7譜

【1譜】(1-13)下辺の大場
※梶原は、中国流出発当初から、この布石の研究家であり、その実戦体験は少なくない。
・黒1、3と星と小目の組合せから、5と左上の小目にカカっていった。
・いきなり五手目の中国流でなく、白6、8とツケ引いたところで、黒9と、このかまえについたものである。
・白は10と、下辺の大場を急いだ。
※黒が左上隅を手抜きしたのだから、当然、白(4, 六)と切ることが考えられる。
・黒11とここへ手がもどって、白12、黒13の定石ができあがる。
※白10、12と右方に石が向いたので、黒の中国流は後年にみられるような大模様化は望めなくなった。

【2譜】(14-18)軽くカカる
・白14のツメは、次に白(3, 八)の打ち込みをみて、まずこの一手であろう。
※黒からここをカカられるとの差は、きわめて大きい。
・ここで、黒は、15と一間にかまえた。
※14までの布石は、これより先、関山利夫との対局でも全く同型を経験したことがあるが、その碁では、15は(14, 四)とこのほうに一間に打たれた。
※黒15は、1時間近い長考の手だった。

・黒が上を守ったので、白は右下にカカるのは当然である。
※16と二間に、逃げ足早くカカった。
・そして、17のケイマに、白18と単純に一間にトビ、策をろうさなかった。

【3譜】(19-22)切りちがえた
・白の一間トビに、黒19のトビも、この一手である。
※敵の急所は味方の急所で、双方ともこの点は譲れない。
※さて、白からは常に三々のツケがねらいであるが、19のトビをまってそれを実行した。
 放置して、黒から21とコスんで攻められては、白が浮きあがってしまう。
・白20とツケた。
※この際、白の一間トビが隅の戦いにどの程度参加し、それがどの程度の利をもたらすか問題のところであり、またバックにある19の黒の一間トビの存在も注目せねばならない。
※中国流は、布石構造が立体的であるだけに、こういう戦いがむずかしくなる傾向がある。

・黒21のハネダシは、まず当然である。
・黒21とハネダし、白22と切って、以下のっぴきならぬ戦いに発展する。

【4譜】(23-24)ふた通りのアテ
・ここで、黒は、単純に切った白一子をカカエることはしなかった。
 23とアテ、白24のサガリとかわった。
※このあたりが、この部分戦のポイントである。
※ただし、局後の検討で、23では24のほうからアテる手のあることがわかった。
 この隅のアテにはふた通りの打ち方があり、黒も変化図にかなり食指が動いたようだ。
・なお、黒23のアテに、白24のサガリはやむを得ない。

【5譜】(24-34)カケツいでふんばる
・白24とこちらへサガらせた以上、黒25のアテから29のツギまでは一本道。
・白も30とここを切って、抵抗するよりない。
・29は、ここをツグ一手。
・白は30と切り、ラッパにカケツぐよりない。
※格好は悪いが、これが唯一のシノギ筋である。
・黒はここで33にアテ、白34のツギとかわってから、行動を起こしたが、変化のひとつとして、こうアテない打ち方も考えられた。

【6譜】(35-45)せり合い
・アテとツギの交換をしてしまったので、黒35、37の出切りには、白38、40とここを出ていきやすい形となった。
・ここで、黒41と下をハネるのが手筋で、次に43のツギをみている。
※41で(18, 十八)とオサエ、白43に抜かせて、隅の活きを考えるようでは、落第。
・白42の出は余儀ない。
・隅の二子を取られ、白44とハダカで逃げ出したのはつらいが、このくらいのことはやむを得ない。
※元来、ここは黒が二手先着して、その勢力圏であり、そこへあとから入っていったのだから、多少の苦しさは覚悟しなければならない。
 それが中国流布石に手をつける場合の心得である。
 あまりひどい目に合わずに逃げ出すことができれば、それでよしとしなければならない。
※白は44までのハダカの石が下辺の星下の一子と握手したのが、この場合の救いである。

・さて、ここで黒は45と中央をコスんだ。
※右下隅の攻合がどうなるか心配のところであるが、それには次譜の絶妙手を用意しており、これは梶原武雄らしい読みであった。
 が、外に利きの残るのがいやである。
※著者なら、手堅く黒(18, 十八)とカカエているという。

【7譜】(45-54)せり合いの碁
・黒が右下隅を放置して、45と打ったのは、白46のマガリに対して、黒47とサガる巧筋をみていたからである。
 これをほかの打ち方では手になってしまう。
・このあと、白48、50に黒51と強打を打ち、白54についで、黒(10, 十三)、白(9, 十四)と反撥して、大戦争になった。
※せり合いに終始した碁であり、中国流の戦闘的性格が表面に出た一局ともいえよう。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、312頁~325頁)

第5部 特殊戦法 天元


・特殊戦法といえば、天元をはじめ第一着手を辺に打ったり、隅の大高目や5ノ五等に配したりと、そういう種類の打ち方の総称である。その多様性はいうまでもない。
・昭和ひと桁の新布石革命前後の久保松勝喜代の天元打ちは、その熱心な研究と共に有名である。大手合の黒番で天元を打ち続け、同じ関西の棋士陣営に大きな影響を与えた。
・すでに、天元は、寛文10年(1670)の道策・算哲の御城碁で打たれているなど、歴史は古いが、地のあまさとその勢力活用法に問題があって、技術的な発達をみていなかった。
 中原を志向する新しい試みとして、脚光を浴びるようになったのは、昭和に入ってからであり、今も有力な序盤の技法として、研究の対象になり得るものである。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、458頁)

天元 第1局


・昭和初年の新布石は、中央重視の傾向を極端に示し、当然の成り行きとして天元を志向するものも多く出て、その代表的な打ち手は関西出身の雄、久保松勝喜代だった。
 
【小野田千代太郎vs久保松勝喜代】
【秋季大手合】昭和9年
    白 六段 小野田千代太郎
七目勝 黒 六段 久保松勝喜代
≪棋譜≫1-58

【1譜】(1-19)中央志向
・黒1の天元から、3、5とこのふたつの星を占めたのは、正しい布石設計であり、白ももうひとつ黒に右辺の星を占められると、模様が深くなるので、6と割っていくところ。
・ただし、この6の位置は当時の三連星対策としてよく用いられた手であり、星下より一路ずらしているところがミソである。
・黒7、9と上下の星を占めたとき、白10とカカる。
※10で15とトブことも考えたという対局者の感想があるが、これは天元の一子を意識した発言であろう。
・黒11とツケて、さっそく一戦に及んだのは、力戦を好む久保松勝喜代らしい。

【2譜】(20-35)抜くのが主旨
・黒にアテられて、白もおめおめとツイではおられない。
・20とツケ以下27としたのが、巧みなコウ材つくりだった。
※小野田は、“鬼田”とも称された剛腕の持ち主。
・右上隅のコウダテを利して、28とさっそくコウを仕掛けたあたり、その力強い芸風がよく表れている。

【3譜】(36-58)黒攻勢
・白が左下隅を一本利いてくれたので、黒は楽になった。
・むろん白36のコウダテは受けず、黒37から39とハネてふりかわった。
・黒43のハネがきつく、49にノゾいて、いじめられた。
・白54以下、ここに小世帯をもとうとするが、まだ完全ではなく、寄りがもどそうな局勢である。
※序盤から激しい戦闘となった一局である。
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、458頁~465頁)

・鈴木越雄は、中原志向の人。
 梶原の外まわり、武宮の大模様、白江のアポロ流とはひと味違った、中央の厚みで打つ碁だったという(474頁)
(林海峰『基本布石事典―上(星の部)―』日本棋院、1978年[1983年版]、474頁)


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