歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その3≫

2021-02-13 12:08:10 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その3≫
(2021年2月13日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログは、引き続き、王羲之の「蘭亭序」について考えてみる。松本清張もその推理小説で取り上げているので、それについても紹介してみる。
 また、王羲之の草書「十七帖」や王羲之の書の魅力、および息子王献之について触れてみたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「蘭亭序」と松本清張の推理小説について
・王羲之の草書「十七帖」について
・「蘭亭序」に関連して
・王羲之の書の魅力について
・入木道について
・王羲之の書に対する夏目房之介の見方
・王羲之の息子王献之について







「蘭亭序」と松本清張の推理小説について


松本清張の傑作に「書道教授」というのがあり、そこに「蘭亭序」がでてくる(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、73頁~241頁)。
ストーリーを簡単に説明しておく。
呉服屋の主人が亡くなり、未亡人となった50歳すぎの女性、勝村久子が店をたたんで、書道を教えることになる。しかし、裏商売として、盗品の売買をしていたことが後に判明する。
主人公の川上克次は、銀行に勤めているが、古本屋の女房、妙子に好意を寄せるが叶わず、彼女に似たホステスの神谷文子と深い仲になる。しかし金を要求してくるホステス文子に嫌気がさし、その書道教室の家で殺害する。死体処理は弱味につけこんで、その書道教授の久子に任せることになる。
2年が経ち、迷宮入りになりかけたホステス殺害事件も、川上の妻に買ってあげた着物から、意外な方向に展開した。つまり、妻がお気に入りの着物に執着するあまり、探し回り、偶然、自分の着物を着ている女性を町で見かけ、盗品買いの組織を警察が摘発することになる。しかし、このことが結果的に、皮肉にも夫が逮捕されるきっかけになってしまうというストーリーである。
この松本清張の「書道教授」という作品は、『週刊朝日』に連載されたシリーズの一作で、1969年から1970年にかけて発表されたものである。宮部みゆきは、この「書道教授」という作品を次のように要約している。「身近にいる四人の女の、それぞれに腹の据わった生き方に振り回され、勝手に踊りをおどっちゃって自滅する、滑稽で悲しいスケベ男の犯罪譚であります。」と。
四人の女性とは、次の人物である。
①主人公・川上克次の妻、保子。
②主人公の行きつけの古本屋「谷口書店」の女房、妙子。
③呉服店の寡婦で、書道教授をしている勝村久子。
④主人公の愛人で、バー勤めの神谷文子。
宮部みゆきが、主人公の川上に腹が立つのは、文子と切れた彼が、妻の保子に着物を買ってやると言い出し、保子が無邪気に喜ぶくだりであるという。川上は、文子に搾り取られた金を思えば安いものだと思い、「その程度の金で妻がよろこぶのも、平凡な日常生活のありがたさだった」と記されている箇所である。浮気ばかりして、妻をほったらかして、そのうえ女房を舐めるなと宮部は怒っている。
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年12頁~13頁、204頁、241頁)

【宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫はこちらから】

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション 中 (文春文庫)

話は横道にそれたが、「書道教授」の勝村久子が「蘭亭序」を手本として、「永字八法」および字の「病勢」について説く場面は、やはり注目に値する(宮部編、2004年、99頁、124頁、140頁、149頁~150頁)。
銀行の外務係をしている川上克次は、呉服店の木の札に書かれた、気品があって惚れぼれするような文字に感心し、書道を習いたいと思った。川上は学生時代に書道を習ったことがあり、銀行の能書家として知られていた。再び書道を始めたいと思ったのは、落ち着きを与える効果があるからであった。
筆法の練習として、手本としたのは、「蘭亭序」である。
「勝村久子は半紙に書いたものを見せた。それは、手本としてよく使われる「蘭亭序」のはじめのところだった。楷書の字は女性とは思われないくらい雄渾で、久子の細い身体からは想像のできないほどの勢いがあった。どこか王羲之の書風を思わせた」(宮部編、2004年、99頁)。

「永字八法」についても、次のような記述がある。「今日も「永和九年歳在」の練習で、当分はここの稽古にとどまりそうだった。ことに「永」の字は「八法」といって筆法の型が集約されている。点書のテンやハネや棒には、いちいち「勒(ろく)」とか「磔(たく)」とかむずかしい名前がついている。」(宮部編、2004年、123頁)。
また、「永字八法」教育には、禁忌すべき書法として「八病八疾」がある。たとえば、八病の一つに、「鶴膝(かくしつ)」というのがある。これは、縦画(弩)とはね(趯)の病である。起筆と終筆が極端に太り、送筆部が細く、かつ終筆部から細く長くはねられた姿は、鶴の膝(ひざ)を連想させるため、この呼称がある。
また、八疾の一つとして「撒箒(さんそう)」がある。左はらい(掠)と右はらい(磔)の先が三角形に収斂しないと、箒(ほうき)や刷毛で書いたような、ハケ目状の収まりのつかないはらいの形状が生まれることをいう。
(石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年、133頁~139頁)

【石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書はこちらから】

書を学ぶ―技法と実践 (ちくま新書)


松本清張の「書道教授」でも、「永字八法」の病勢について記している。つまり、「永字八法」の字の病弊について、勝村久子が講義する場面が描かれている。
たとえば、次のように出てくる。
勝村久子は川上に話した。
「……では、病気にかからないようにするにはどうすればよいか、と申しますと、それにはまず癖のない、点画の正しいお手本で習うことがいちばんですが、字の病気をよく知っておき、これにかからぬように気をつけることでございます。字の病勢とは、どんなものを云うかと申しますと、昔から書道のうえで、忌まれている病勢を申しましょう」
久子は、そう云って朱筆を揮い、点書の悪い見本を書いて示した。
「……こんなふうに、打った点がごつごつと角立ったのを牛頭(ぎゅうとう)といいまして、避けなければいけません。……これは角に力を入れすぎて急に力を抜くと出てくる形で、稜角(りょうかく)といい、醜いものにされています。……これは筆の入れかたと止めかたが悪い例で、竹節(ちくせつ)と申しております。……これは、おわかりのように、はじめと終わりに、あまり力を入れすぎて、途中がすっかりお留守になったために形が悪くなったもので、上下が関節のように大きく、その間が細い鶴の足に似ているところから鶴膝(かくしつ)という名がついております。……これは磔法のハネ方が悪くて、箒(ほうき)のようになってしまいますから撒箒(さんそう)といって忌まれています……」
「永字八法」についてだけでも、字の「病勢」を勝村久子は講義し、その見本を書いて示した。書の習いはじめには、この病気にかからぬよう十分に気をつけよ、というのであるが、川上は、聞いているうちに、これは処世の上にも通じていると思い、文子のような女からの苦しみが予防できなかったことをここでも後悔するのだった。勝村久子から書道の講釈を聞いて、人生教訓を感じるのは、やはり彼女の残光のような人柄であった。」
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年所収、「書道教授」、124頁~125頁)

書家の石川九楊は、松本清張のこの推理小説について言及している。
「書の評語はごく月並み。書道教授は中年の未亡人。書を習う理由は心を落ち着かせるため。学習材料が王羲之筆「蘭亭叙」。「永字八法」と「八病八弊(はっぺいはっしつ)」を教えられるという設定。いかにもありそうなことが並んでいる。ありそうなことがこうまで完璧に揃うと、逆に現実感を失ってしまう。プロットを夢中で追いかけるタイプの推理小説の設定としては、この方が邪魔がなくて良いのかもしれない。」と記している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、45頁~46頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

かなり手厳しい書評である。
また、石川九楊は松本清張の書についても批評している。松本清張の書風は、平安王朝末期の爛熟の書や絢爛たる桃山、寛永期の和様の命脈を伝えているという。そして、書画「青木繁像」について評している。素人の私などは、その書を達筆でうまいと思うのだが、石川は、<青><清>に俳優のサイン風の通俗的な歪形(ゆがみ)が見通せるといい、内に俗を孕みながら、外側を高貴に飾り立てた書と言えようと、これまた手厳しい評を述べている。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、44頁)。

王羲之の草書「十七帖」について


王羲之の草書「十七帖」の文字群は皆素朴であり、おおらかであり、それでいて雄大であり、いずれの文字の姿も美しい。
王鐸が二王帖と称するものを持っていて、一日はこれを中心として終日臨書をし、翌日は求めに応じて揮毫し、またその翌日は二王帖など習うことを日課としたといわれる。
「十七帖」でどのような筆を使用したかは不明であるが、村上三島は、羊毛のような柔らかい筆ではなく、長鋒でもなく、ある程度、こわい毛の筆であったと想像している。というのは、曲線のたわみが柔らかい毛の筆ででやすい、なまぬるいものではなく、ぐっと張りの強いものを感じるからであるとする。この簡潔さは相当こわい毛でなければ出ないとしている。
(村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年、33頁)


「蘭亭序」に関連して


大溪は、「町書家の悲劇」と題して、王羲之の「蘭亭序」に関連することを述べている。書とは何かが解っていない書家のことを大溪は「町書家」と呼んで、柳田泰雲という作家を批判している(この書家は金澤泰子の師匠にあたる人物のようである)。
柳田泰雲は、
「羣賢畢至少長咸集
 崇山峻嶺茂林脩竹」を対連として作品にした。
しかしこれでは切れ目で字数が揃わないと批評している。柳田は字数で適当に切って揃えているので、まずいという。
どうしても、「蘭亭序」のこの箇所を書くとしたら、次のように対連にすべきであるという。
①「羣賢畢至少長咸集
  此地有崇山峻嶺」
②もしくは、
「羣賢畢至少長咸集
 此地有崇山峻嶺茂林脩竹」
これらのどちらかであれば、文句はないという。これは脱字ではなく、8字で揃うことを意図して、「此地有」を省略したものである。柳田の作品には、「有」の述語が抜けており、正確には文章として成立しない。述語のない、句だけのこともないではないが、この場合は柳田の文ではない。人の文を借りて書するならば、意味の通るように書くべきであり、それが最低の礼儀であると大溪は主張している。
字が「へた」ならやむをえないが、間違いを書いては駄目で、書家は正しい字を書き、正しく文章も理解せねばならないという。書とは何かが解っていない町書家に、芸術的な書など書けない。もっとも書は芸術である前に文化であり、不見識はいけない。文化にはそれぞれよってきたるべき源があるので、それを理解せよという。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、88頁~91頁)

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

王羲之の書の魅力について


書聖王羲之の書の魅力について、魚住和晃は次のように表現している。
「李柏文書はもとより、楼蘭残紙においても、一字一字を見れば共通点を有するものであったとしても、この字と字との流れという視点においては、ほとんど表現し得ていない。他にほとんど参考にすべき実証資料がないのだから、軽率な断定は許されないが、この二者に比べると、王羲之の書はまさしく飛躍的に洗練されたものである。
そして、喪乱帖(そうらんじょう)、孔侍中帖(こうじちゅうじょう)に見られるあざやかな字間の流れを速度豊かな筆さばきこそが当時における王羲之の書法の傑出した表現力であり、この斬新さが人びとを魅了したものではないかと私は考えている。そうした見方からすれば、一字一字を取り出して組み立てた集字聖教序は、王羲之書法の魅力としては、半減したものであるといわざるをえず、風信帖もまた、このあざやかさを有していない。」

つまり、あざやかな字間の流れと、速度豊かな筆さばきに王羲之の書法の傑出した表現力が現れており、その斬新さに魅了されたという。
(魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年、178頁)

【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】

「書」と漢字 (講談社学術文庫)



この魚住の引用にも出てきたように、王羲之にまつわる書に、「集字聖教序」がある。玄奘三蔵は、インドから持ち帰った仏典の訳に、太宗から序文「聖教序」を賜ったが、これを記念して、述聖記と二つの勅答、般若心経を加えて、碑を建立することになった。興福寺の懐仁(えにん)がこれにあたり、宮中に収蔵されていた王羲之の墨跡から序に使われている字を集め(集字)、25年かけて完成したと伝えられる。魚住の評価は低かったが、この「集字聖教序」は、王羲之の書について考える上で、重要である。
たとえば、最澄の「久隔帖(きゅうかくじょう)」の書風は、王羲之の「集字聖教序」の書風によく似ている。このことは王羲之の書を尊重した奈良時代の風潮を、最澄も若い頃から身につけていたことを物語るものとみなされている。
「久隔帖」は最澄自筆の書状としては、現在唯一のものであり、澄みきった韻(ひび)きの高さは格別であるといわれている。
また天平宝字3年(759)、鑑真和尚の唐招提寺創立にあたり、孝謙天皇から勅筆を賜わって、「唐招提寺」と記した木額(もくがく)を作った。その筆法にも、「集字聖教序」のそれに酷似した字が見られることは注目に値する。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、68頁~69頁、78頁~80頁)

【堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版はこちらから】

中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

入木道について


王羲之の書が抜きんでて秀れていたことを語る伝説はたくさん残っている。その一つにこんな話がある。王羲之の書を版木に彫ろうとしたところ、墨が木のなかに三分も深く沁みこんだという。筆力が強いからである。
入木(じゅぼく)という言葉がそこから生まれ、人々はいつしか書のことを入木道と呼ぶようになったという話である。
伝説というものには真実の力がこもっている。入木というこの話からも、王羲之の卓抜した筆力が伝わってくる。王羲之の作品に「喪乱帖」という有名な尺牘がある。それは筆力が強く、しかも線が深い。
「喪乱帖」の線には王羲之の深い思いがびっしり詰めこまれていると鈴木史楼は推測している。その「喪乱帖」の初めの方には、戦乱で再び祖先の墓が荒れていると聞いて、なんとも残念でならず、悲しみのあまり、心が砕けるほど辛い思いをしていることを述べている。例えば、「痛み心肝を貫く」とあるところなどを見れば、悲憤に耐えない思いを、その筆は一字一字余すところなく書いていることが感じられる。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、236頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)




王羲之の書に対する夏目房之介の見方


夏目漱石の孫である夏目房之介は「天才と書聖のちがい」と題するエッセイで、王羲之の書は天才的なひらめきの感じられるものでもなく、見事ではあっても震撼するほどの絶対的価値を感じないと記している。彼にとって、天才的な表現で、絶対的価値のあるものとは、ミロの絵、モーツァルトの音楽、キューブリックの映画、谷岡ヤスジのマンガを指すらしい。
ただ、王羲之の書にも、才気を感じる部分があるという。例えば、「喪乱帖」の「哀」の右のくるりと回る筆の剽軽さとか、「臨」の省略された偏の大胆な太さと旁のやや強気な軽妙さとの対比などを、只者でないと感じるという。しかし、これらの字にビビるほどの天才のひらめきを感じるわけでもないと断りつつも、夏目房之介は次のようにも述べている。
「私の感じる「天才」とはその規範からの逸脱で計られる。だから王羲之について天才のひらめきを考えるのはそもそも天才という存在を可能にする原型そのものに天才を問うようなものじゃないか」と。
(石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年、86頁~87頁)

【石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社はこちらから】

書の宇宙〈6〉書の古法アルカイック・王羲之

王羲之の息子王献之について


王羲之の息子(第七子)である王献之も能書家としてよく知られている。父の王羲之を大王、この王献之を小王、父子のことを二王という。
その書に「洛神賦十三行」がある。これは魏の武帝の子曹植(そうち)の洛神賦の一段で、この帖には十三行しかないので、この名がある。特に波法がうまく、スマートで暢びのびしている。総じて貫禄は思慮深い王羲之にあり、王献之は敏感で利巧で才のひらめきがあるので、精彩があると評される。魚にたとえるなら、「羲之が鯛なら、献之は鱸(すずき)である」といわれる。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、41頁~43頁)

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史




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