歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫

2020-07-18 08:42:59 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫
(2020年7月18日投稿)



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



【はじめに】


 小暮満寿雄氏の著作『堪能ルーヴル』を読んで、その章立ておよび記述内容から、刺激を受けて、次の2つのテーマが浮かんだ。
〇ルーヴル美術館からオルセー美術館への美術史、とりわけ新古典主義から印象派への歴史(ただし、字数制限で、今回の記事は、象徴主義までで、印象派は次回に記す)
〇18世紀、19世紀のヨーロッパにおける美術(絵画)と音楽との関係および流れ

上記の2つのテーマ、問題意識を念頭において、今回および次回のブログ記事を執筆してみた。
いずれも、大きなテーマで大風呂敷を広げすぎた嫌いがある。そこで、格好の入門書があったので、次の著作を参照につつ、述べてみたい。
〇中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』(青春出版社、2008年)
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】

教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)

新古典主義が登場するまでの前史は、おおよそ次のような流れである。
西洋美術史と音楽史を略述しておく。

「バロック時代」は、美術においては17世紀全般となる。音楽も、だいたい重なるが、17世紀と18世紀後半までが、バロック音楽の時代となるようだ。つまり、音楽のバロックのほうが半世紀ほど長い。
「ルネサンス」は当時の人々が自分たちで使っていた言葉だが、「バロック」は18世紀後半の人々が、前の時代を否定的に論じるときに用いていた蔑称だったという。「装飾過多」「気まぐれ」「風変わり」なものという意味で、美術の分野で使われ、そのうち、17世紀という時代そのものを指すようになり、音楽にも転用された。
(だから、「バロックの巨匠」たちは、その死後に自分たちがそう呼ばれているなど、まったく知らない)

17世紀はじめ、つまり1600年代から、「音楽の父」と称されるバッハ(1685~1750年)までの150年間が音楽における「バロック時代」である。
1750年、バッハは65歳でライプツィヒで亡くなる。この年をもって、バロックは終わり、音楽史は古典派の時代に突入する(もちろん、当時はそんなことは誰も知らないのだが。ちなみにモーツァルトが生まれるのは、バッハの死の6年後である)。

18世紀後半、バロックの次は、音楽史では「古典派」の時代になり、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが活躍する、いわゆる「クラシック」が確立される時代となる。

一方、美術では、バロック時代の17世紀に、「古典主義」と呼ばれる画家たちが、フランスに現れる。同じ「古典」という言葉が使われるが、相互に関係はないようだ。
このフランス古典主義(バロック古典主義ともいう)の三大巨匠とされているのが、ラ・トゥール(1593~1652年)、ニコラ・プーサン(1594~1665年)、クロード・ロラン(1600~1682年)である。古典主義様式を完成させたのは、プーサンである。「調和と均衡」、「完璧に計算された形態と色彩」を規範とした。
古典主義が確立された後、フランスはロココ美術の時代に入る。ちょうどルイ15世の治世下(1715~1774年)にあたる。ロココ美術は、豪華絢爛で優美で繊細で儚さを特徴とする、18世紀を代表する美術様式であった。絵画技法においては、バロックが油彩による濃厚な表現を基調としていたのに対し、ロココは明るいパステル調である。
このロココ時代の絵画を代表するのが、ヴァトー(1684~1721年)である。ヴァトーは、1702年にパリのオペラ座で舞台美術や衣裳のデザインを手がけていたことがあった。ここにきて、画家と音楽の結びつきが確認されるようだ。また、ヴァトーは絵画に「雅宴画」(フェート・ギャラント)という新しいジャンルを築いた。1717年の≪シテール島の巡礼≫(ルーヴル美術館)はその代表である。ストーリーはないが、ドラマがあるというのが、ヴァトーの作品であるといわれる。印象派のモネは、ルーヴルで一作選ぶなら、ヴァトーの≪シテール島の巡礼≫であると言っている。
そして、この絵に触発され、20世紀初めにドビュッシーは≪喜びの島≫(L’Isle joyeuse、1904年)というピアノ曲を書き、プーランクも絵と同じ題のピアノ曲を書いている。このように、ヴァトーは音楽と関係の深い画家でもあった。
だが、ヴァトーはこの絵を描いた4年後に、36歳で、結核で亡くなってしまう。その儚さも含めて、ロココを象徴する画家であった。

さて、先述したように、1750年のバッハの死によってバロック時代は終わるとされる。その次の音楽を「古典派音楽」と呼び、モーツァルトとベートーヴェンの時代であり、この時代に「クラシック音楽」が完成する。
古典派の時代が、いつ始まりいつ終わったかは明確ではない。広義にとらえると、古典派時代はバロック時代の末期である1730年代に始まっているようだ。古典派の代表であるハイドンが生まれたのが1732年なので、この頃から始まったことにされる。
そして、終わりは、1820年代までというのが、最も長く続いた場合の捉え方である。ベートーヴェンの第九が初演となるのが1824年で、彼が亡くなるのが1827年なので、それまでを古典派とする。
(ただ、ベートーヴェンはすでにロマン派だったとする説もある。そうすると、古典派の終わりは、1790年頃、フランス革命までとなるようだ。その場合、古典派の全盛期は、1775年から90年までのモーツァルトの時代となる)

「古典派」によって生まれた最大の楽曲が、「交響曲」である。オーケストラによって演奏される曲である。ハイドンが確立し、モーツァルトが改革し、ベートーヴェンが最終形態として完成させた。
こうした流れの中で、ハイドン(1732~1809年)は、激動の時代を生き抜いた「交響曲の父」として知られている。
ハイドンは、1761年、ハンガリーの大貴族であるエステルハージ侯爵家の副楽長になる。5年後に楽長になり、以後約30年にわたり、この侯爵家に仕える。この宮廷楽団のために、交響曲や弦楽四重奏曲などを次々と作曲し、演奏していた。しかし、1790年、エステルハージ家の当主ニコラウスが亡くなると、宮廷楽団を解散してしまう。その後は、事実上、フリーとして興行としてのコンサート活動に従事する。当時、経済大国となっていたイギリスのロンドンでは、コンサートが盛んとなり、1790年代前半はそこで演奏会を開く。
最初のロンドン訪問のときは、モーツァルトが見送ってくれたが、それが永遠の別れになるとは、二人とも知らない。ハイドンがロンドンにいる間に、モーツァルトはなくなってしまう。ロンドンから戻る際に寄ったボンで会ったのが、少年時代のベートーヴェンだった。ベートーヴェンはその後、ウィーンに行って、ハイドンの弟子になる。
1795年、エステルハージ家の当主が交代して、楽団が再結成されて、ハイドンは1804年まで楽長を務め、引退後はウィーンで暮らしていた。そして、1809年、ウィーンがナポレオンに攻撃されている最中に亡くなった。

ハイドンの生涯をみると、音楽家が職人として貴族に雇われていた時代と、芸術家として自立するようになった時代、そしてコンサートという興行が成り立つ時代と、異なる時代を生き抜いたことがわかる。
フランス革命からナポレオンの登場という激動の世界史も背景にはある。すなわち、ハイドンの人生は、割と平和なのだが、生きた時代が激動の時代だった。音楽シーンは、バロックから古典派に変わり、ロマン派にまで到達する。つまり、先輩バッハが宗教的な音楽を作っている頃から、後輩モーツァルトが古典派を“完成”させ、また後輩ベートーヴェンもいて、ロマン派への流れを切り開き、メンデルスゾーンやショパンが生まれる頃まで、ハイドンは生きたことになる。これだけ見ても、クラシック音楽史の“半分”は生きている。
時代的にも、貴族が絶対的な力を持っていた頃から、フランス革命が起き、ナポレオンのウィーン攻めまで知っていたことになる。
(中川右介『クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、64頁~92頁)

今回および次回のブログでは、時代的にはこのハイドンが生きていた時代から、その死後の19世紀後半の美術史の流れを追ってみようと思う。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ルーヴルからオルセーへの西洋美術史
<新古典主義からロマン主義へ >
<新古典主義について>
<新古典主義の画家アングル>
<ロマン主義について>
<ロマン主義絵画の先駆者としてのジェリコー>
<ロマン派の代表ドラクロワ>
<ドラクロワとショパン>
<ロマン主義時代の文学と絵画と音楽>
<写実主義について>
<写実主義の画家クールベ>
<「農民画家」としてのミレー>
<象徴主義について>
<象徴主義の画家モロー>







【読後の感想とコメント】 ルーヴルからオルセーへの西洋美術史


<新古典主義からロマン主義へ >


以前、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])を紹介した際に、【読後の感想とコメント】において、新古典主義の画家ダヴィッドについて解説した。

ここでは、中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』(青春出版社、2008年)を基にして、もう一度、19世紀の西洋美術史の流れを概括しておきたい。この思潮を理解しておくと、ルーヴル美術館からオルセー美術館へと美術鑑賞の場所を移動する際に役立つことになろう。
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】

教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)

まず、ヨーロッパの19世紀とはどういう時代だったのかについて、略述することから始めたい。

フランス革命の余波が続くなか、19世紀は始まった。フランスはナポレオンという新たな指導者にして独裁者を生み、ヨーロッパを支配しようとして挫折する。
ナポレオン失脚後は、ウィーン体制がとりあえず樹立され、旧秩序に戻ったかのように見えたが、各地で市民革命が勃発していく。
産業革命は、イギリスを圧倒的に優位に立たせ、経済大国・軍事大国になっていくが、イギリスが世界の七つの海を支配できた時代はそう長くはなく、ドイツ、フランスも国力をつけ、さらにアメリカも大国になっていく。帝国主義の時代である。

ところで、音楽においては、国や人物によって、さまざまな動きがあるが、大きなくくりとしては、19世紀は「ロマン主義」の時代であるとされる。
美術においても、ロマン主義として、くくれる一連の画家たちがいる。19世紀になって、ようやく音楽と美術は「時代の空気」を共有できるようになったかのように見える。
19世紀の音楽、美術を語る場合の最重要ワードが「ロマン主義」である。「ロマン主義」は、文学や哲学にも関係する言葉で、ドイツで18世紀末に起こった精神運動のベースとなった思想をいう。それは、形式的に自由で、感情を重視し、さらには自然を尊ぶことを特徴とする。

すべての思想がそうであるように、ロマン主義もその前の時代の何かを否定することから始まった。思想は、突然、無から生まれるのではなく、何かの対立概念として生まれる。
19世紀になると、美術においては、様々な「主義」が登場する。新古典主義、ロマン主義、写実主義、象徴主義、なかでも印象主義は大きな流れとなった。
音楽はロマン主義が発展し、そこから派生した「国民楽派」と呼ばれる作曲家が各国に現れ、民族自立、国家統一といったナショナリズム運動と連動していく。そして、世紀末芸術という、退廃的なものに収斂されていく。

<新古典主義について>


さて、新古典主義は、ロココを否定し、再びギリシア・ローマに規範を求めた。
それ以前、バロック時代、17世紀前半の美術における「古典主義」は、「バロック古典主義」と呼ばれる。アカデミーが設立され、そこから生まれたものである。
(もともとルネサンス時代から、ギリシア・ローマ時代に対する関心は高く、それを規範にしようという「古典主義」と呼べる考え方は常にあった)

そして「バロック古典主義」は「ロココ」によって否定された。その「ロココ」を否定するかたちで登場したのが、「新古典主義」である。
「ロココ」がルイ15世時代の享楽的なものの象徴であったとすると、「新古典主義」は、その時代を全面否定し、時代を大転換されたフランス革命の「時代の空気」を象徴しているとされる。

フランス革命の時代精神は「啓蒙思想」であった。人間は理性をもち、合理的思考ができるはずだという思想である。宗教を否定するとまではいかないが、超自然的なものを否定する傾向があった。つまり普遍的なものこそが正しいという考え方である。

美術における「新古典主義」は、「まじめ」でなければならず、ある意味ではつまらないものであった。既成の徒弟制度を否定するものとして始まったアカデミーは、新たな権威となり、道徳的な厳格さを求めたからである。
具体的に「新古典主義」が何を描いたかというと、描く題材としては、古代ローマ史の一場面を崇高に描いたり、ナポレオンの戴冠式を緻密に描いたりした。
実際、見ても感心はするが、面白くないと思った人は多かったのだろう。「新古典主義」は「ロマン主義」によって否定される。

<新古典主義の画家アングル>


アングル(Ingres, 1780~1867年)は、「新古典主義」という伝統を守りながら、自らの美意識に生きた画家である。つまり、ロマン派が主流となりつつある時代に、新古典主義の牙城を守り抜いたのが、アングルである。ロマン派からみれば、「守旧派」である。

アングルは、1780年にフランス南西部に生まれた。父は装飾美術家だった(といっても、芸術家というよりは職人だったようだ)。
1791年、11歳の年にトゥルーズの美術学校に入学し、1797年にパリにでてくる。パリでは、当時、新古典主義の巨匠となっていたダヴィッドに師事した。

ダヴィッドは、1748年に生まれ、ロココの巨匠だったブーシェの親戚であったが、フランス革命前後のロココ的なものが否定される風潮の中で、ロココと訣別する。ルイ16世からの注文で描いた≪ホラティウス兄弟の誓い≫(1784年)は、「新古典主義宣言」とも見なされている。

ナポレオン体制が樹立されると、その第一画家になり、ナポレオンの戴冠式の場面を絵に描いた。しかし、ナポレオン体制崩壊とともに失脚し、1816年に亡命し、1825年にブリュッセルで、77歳で亡くなった。

ダヴィッドが亡命してしまったので、フランスの新古典主義には、次のリーダーとして、アングルが浮上する。アングルは1806年からイタリアで勉強していたが、1824年にパリに戻り、アカデミーの会員となり、新古典主義のリーダー的存在となる。
イタリア留学時代は、ラファエロ、ミケランジェロなどの古典を研究していた。つまり、イタリア・ルネサンスの古典を規範とするアカデミーの風潮に合致していた。
とはいえ、単なる復古趣味ではない、アングルの絵は写実的ではあるが、そうともいえない側面がある。例えば、≪横たわるオダリスク≫(1814年)は、背中を向けた女性が顔は観る者のほうに向けている絵だが、背骨が歪んでいて、曲線が強調されている。当時は、写実的に逸脱していると批判された。

さらに新古典主義は、享楽的なロココを否定し、道徳的に正しい絵を描いたはずだが、アングルはヌードを多く描いた。
その代表作が、オルセー美術館にある次の作品である。
〇アングル≪泉≫(1856年)
それは、全裸の少女が水の入った壷を肩に逆さに載せていて、その水がこぼれているところを描いたものである。
少女の視線は、いわゆるカメラ目線ではなく、何を見ているのか分からず、表情はうつろである。
後にセザンヌが「血の気がない」と評しているように、美しいがあまりエロティックではない。アングルは伝統を守りつつも、自分の美意識に忠実に生きた人とされている。

<ロマン主義について>


新古典主義は厳格で、理性を重視する合理主義に基づいていた。それに対して、ロマン主義はその新古典主義に対抗するものとして、ひとつの思想としてリニューアルされ、自由で、感情を重視した。つまり、個人を尊重し、そこから発展して、「自然」を再認識した。新古典主義が重視した理性という枠組みがはずれ、感情が全面的に開放されるのが、ロマン主義であるとされる。
テーマとしても、「まじめ」一辺倒だった新古典主義とは異なり、ロマン主義は、幻想的・神秘的な作品が生まれたし、あるいは異国(東洋のこと)を描いたり、悩みや不安を描いたものも出てきた。オリエンタリズム、プリミティズム、表現主義はロマン主義から派生していったものである。

<ロマン主義絵画の先駆者としてのジェリコー>


ロマン主義絵画の先駆者という位置づけになるのが、ジェリコー(Géricault, 1791~1824年)である。1791年、モーツァルトが死んだ年に、ジェリコーはフランス北部のルーアンに生まれた。しかし、落馬事故が原因で脊椎結核となり、32歳で亡くなったので、「先駆者」で終わってしまう。

その手法はどうあれ、「美しいもの」を描くものだった絵画において、美しくない現実世界を描いた点で、革命的だったといわれる。当然、世の中からは最初は受け容れられなかった。
(ジェリコーの路線を引き継いだのがドラクロワである)

ジェリコーは、1819年に絵画の歴史を変えた革命的な一枚の絵を描く。
〇ジェリコー≪メデューズ号の筏≫(ルーヴル美術館)
以前に紹介したように、現実に起きた遭難事故を題材として描いたものであった。
その事故は、この絵が描かれた3年前の1816年に起きた。フランスの植民地となったアフリカ西海岸のセネガルに向かうメデューズ号が遭難し、救命ボートに乗り切れず、即席の筏を作って、12日後に助けられた人々を描いている。筏に乗った十数人が、救援に来た船に向かって手を振っているところをジェリコーは描いた。

極限の人間ドラマが描かれた、この作品は、絵画が人間の醜さを直視した最初のものともいわれる。絵画の常識を覆す作品である。ジェリコーは、この問題作≪メデューズ号の筏≫でフランス美術界に衝撃を与えた。

<ロマン派の代表ドラクロワ>


ジェリコーが若くして死んだこともあり、その革命は、彼の親友ドラクロワ(Delacroix,
1798~1863年)に引き継がれる。ドラクロワは、≪メデューズ号の筏≫では、右下に描かれている男のモデルを務めている。

ロマン派の代表とされるのがドラクロワだが、彼自身は「私は古典主義者だ」といっていたようだ。
たしかに、ドラクロワの作品は、絵そのものとしては、とりたてて新しい手法で描かれているものではない。題材も空想的ではなく、現実にあった歴史上の事件の場面を写実的に描いている。
では何が新しかったのかといえば、暴力的で官能的だった点が新古典主義の「まじめ」さの対極にあると思われたようだ。
〇ドラクロワ≪民衆を率いる自由の女神≫(1830年 ルーヴル美術館)
この作品がドラクロワの代表作である。
これは1830年にフランスで起きた七月革命を描いたものである。フランス国旗である三色旗を持った女性が、銃を手にした3人の男性を従えて、屍が横たわる中を進んでいく。攻撃的な絵である。女性は胸がはだけており、官能的である。

今日では名作となっているが、死体がたくさん描かれており、残虐だと批判された。
その批判の先頭に立ったのが、アングルである。そのため、ドラクロワはアカデミーの正会員になかなかなれなかった。アングルが批判したことで、ドラクロワはその本質とは違ったかもしれないが、ロマン主義の代表とされてしまったともいえる。
ジェリコーに始まった、「美しくないもの」路線が、ドラクロワによって確立する。

<ドラクロワとショパン>


ショパン(Chopin, 1810~1849年)は、古典派の形式には縛られなかった「ピアノの詩人」である。その作品はピアノ曲ばかりで、自身もピアニストであり、自作自演のリサイタルでパリの社交界で人気者だった。
ショパンは交響曲をひとつも書いていない。2つのピアノ協奏曲くらいしか、オーケストラのコンサートで演奏されるショパンの曲はない。要するにショパンが本領を発揮したのは、ピアノ独奏の曲である。

ショパンは、1810年にポーランドのワルシャワ近郊に生まれた。当時はオーストリア帝国の支配下にあった。ショパンの父はフランス生まれで、中学でフランス語と文学を教えていた。ショパンは4歳から母や姉からピアノを習い始め、音楽の才能を見出される。8歳でワルシャワの宮殿でコンサートを開く。
1829年、19歳になるとウィーンに向かい、コンサートを開いて成功した。そのとき絶賛したのが、シューマンだった。
その後いったんワルシャワは戻るが、1830年1月に再びウィーンに向かう。それが故郷との永遠の別れとなる。ポーランドの独立を目指すワルシャワ蜂起が失敗に終わり、ウィーンでは冷遇されたので、パリに向かい、そこがその後の人生の拠点となった。

フランスでは、1830年の七月革命で、またも王制が倒れ、共和派の王制という時代を迎えていた。ショパンがパリに来たのは、そんな時代だった。
パリには、ポーランド革命の失敗によって、ポーランドの貴族の多くが亡命していた。ショパンは、そんな亡命貴族の紹介で、パリの社交界にデビューできた。

ショパンのパリ時代は、上流階級の子どもにピアノを教え、自作をサロンで演奏して、収入を得ていた。
ショパンには、多くの恋の物語が残っている。なかでも作家のジョルジュ・サンドとの恋愛劇は有名である。
男装していたことでも知られるサンドは、ショパンよりも6歳年上で、自由奔放に生きた女性だった。二人の同棲生活は1838年から9年続く。そしてこの期間がショパンの絶頂だった。
この二人が並んでいるところを肖像画にしたのが、ドラクロワである。彼らが交流があり、この絵は二人で破局した後は二枚に分割されてしまった。

ショパンは人気もあり、名曲も多く作った。だが、1847年にサンドと別れると、一気に創作意欲を失ったのか、ほとんど作曲しなくなる。そして1849年に39歳で亡くなった。
パリで二月革命が起き、第二共和制が始まるのは、ショパンの死の前年の1848年である。時代はまた大きく変わろうとしていた。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、104頁~118頁、141頁~144頁)

【参考 ドラクロワのショパンの肖像画】


小暮氏の解説していたように、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(1830年、260×325㎝、ルーヴル美術館)は、1830年に起こった市民(ブルジョワ)革命である七月革命に触発された作品である。
ドラクロワは、文学や音楽にも造詣の深かった人で、ショパンとも親友の間柄だった。そして、『フレデリック・ショパンの肖像』(1838年、45.5×38㎝、ルーヴル美術館)をも残している。
(小暮、2003年、218頁~228頁)

ドラクロワのショパンの肖像画については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫

<ロマン主義時代の文学と絵画と音楽>


19世紀フランスは、絶対王政を打倒した大革命の後を受けて、市民(ブルジョワ)社会が成立していく激動の時代である。統領政府、ナポレオンの第1帝政、王政復古、七月革命、七月王政、二月革命、第2共和制、第2帝政、パリ・コミューン、第3共和制と、政治的にはジグザグのコースをたどった。
ただ、社会の実権をにぎるのは、王でも貴族でもなく、大銀行家を頂点とする上層ブルジョワジーである。彼らは大革命を機に一挙にエネルギーを噴出させ、1830年代から完全に支配階級になる。だが同時に、疎外された中・下層ブルジョワジーは政治的に彼らと対立し、産業革命の進展とともに、貧困な労働者が増大し、1840年代からブルジョワジーとプロレタリアートの階級分化と対立が現れ始める。

このような社会状勢を反映して、文学も多彩な展開を示し、幾つもの流派が交替する。主な流れは、前半のロマン主義、後半では小説におけるレアリスム、自然主義(ナチュラリスム)、そして詩の象徴主義(サンボリスム)である。
ユゴーを中心とするロマン主義運動は芸術におけるフランス革命、自我の自由な表現を回復した一種のルネサンスでもある。

ところで、ダヴィッドが『ナポレオンの戴冠式』(1805~1807年、ルーヴル美術館)を描いた後のフランス絵画史といえば、1817年の『イタリア絵画史』で絵画の革新を提唱したスタンダールの声に呼応するかのように、ダヴィッドはナポレオン失脚後ベルギーに追われ、その忠実な弟子グロは、新古典主義と革新に対する誘惑の板ばさみになって、やがてセーヌ河に身を投じてしまう。さらにジェリコーを経て、1824年の官展(サロン)には、ドラクロワの『シオの虐殺』が、新古典主義最大の継承者アングルの『ルイ13世の誓い』と並んだのである。

さて、文学運動と、美術・音楽など他の芸術分野における運動が密接に関連して展開されたことも、この19世紀の大きな特徴である。ロマン主義時代では、音楽家ベルリオーズと近代絵画革命をもたらしたドラクロワは、ユゴーとともに三大ロマン主義者と呼ばれる。
例えば、ドラクロワが『民衆を導く自由の女神』を描いたのは七月革命の1830年だった。そして、文学では、ユゴーの『エルナニ』、スタンダールの『赤と黒』が書かれたのも、この七月革命の年だった。そして、音楽では、ベルリオーズのあの『幻想交響曲』が初演されたのも、1830年だった。フランスのロマン主義においては、芸術革命と政治革命は一体をなしていた。

バルザックとともに、近代小説を創始したスタンダール(1783~1842)は、1800年、ナポレオン軍に加わってミラノに入城している。この時、スタンダールは、「偽善と気取りの国」フランスと対照的な「情熱と自然らしさの国」イタリアに対して、終生変わらぬ愛に目覚めたといわれる。
(この時の感動が、後に『パルムの僧院』の美しい冒頭に結晶することになる)
その後、1812年にはナポレオンのモスクワ遠征に参加したが、帝政瓦解とともに失職し、あこがれの土地であるミラノにスタンダールは移住する。1818年、「永遠の女性」マチルダ・デンボウスキ夫人(メチルド)にかなわぬ恋をいだき、しかもオーストリア官憲から炭焼党員(カルボナロ)の嫌疑をかけられて、1821年、失意のうちにパリに帰った。パリでスタンダールが直面したのは、反動貴族とブルジョワジーがしのぎをけずる政治状況と、ロマン主義論争だった。

スタンダールは、「結晶作用」(cristallisation)という言葉で有名な『恋愛論』(De l’Amour、1822年)についで、『ラシーヌとシェイクスピア』(Racine et Shakspeare、1823~25年)を発表した。これは、古典主義の演劇規則の打破を叫ぶロマン主義最初の宣言であるとされる。『ラシーヌとシェイクスピア』には、「ロマン主義とはいずれの国民の場合にも、それぞれその習慣と信条の現状に即して、彼らに最大限の快楽を与えうるような文芸作品を提示する術である」と述べている。

そして、故郷グルノーブルで起きたアントワーヌ・ベルテ事件にそのまま筋を借りて、七月革命前夜の危機的状況を描いた平民反逆の小説『赤と黒』(Le Rouge et le Noir)を1830年末に刊行した。
ジュラ山麓ヴェリエールの製材商の息子ジュリアン・ソレルは、ナポレオンを崇拝しながらも、王政復古の世で平民に許された唯一の出世の道として僧職を志す。一般に「赤」は軍服、「黒」は僧衣の象徴といわれるこの作品は、才能ある平民の社会上昇欲求を封じる、支配階級としての貴族・成りあがりブルジョワジー、およびイエズス会系の政治秘密組織に対する憎悪・侮蔑が激しく塗りこめられた政治小説である。それと同時に、風俗小説と心理小説をみごとに融合させた最初の近代小説である。
(ただ、ジュリアンの性格の奇怪さも手伝って、発表当時はほとんど評価されなかったようだ。)

また、ロマン主義時代には歴史が文芸の1ジャンルとして成立するまでになり、個性ある歴史家が輩出した。それらの歴史家は、事件の叙述に重点を置く物語派と、歴史法則の究明と説明を主眼とする哲学派に大別され、両派の総合がミシュレ(Michelet、1798~1874)であるとされる。
パリの零細な印刷業者の子ミシュレは、「パンと野菜と水だけ」の貧しさの中で刻苦勉励し、若くして高等師範学校の講師になった。
根っからの民衆っ子だったミシュレは、七月革命によって民衆こそ歴史の主役であるとの確信をさらに固めた。1831年に国立古文書保管所歴史部長に任じられてから、ライフワークの『フランス史』(Histoire de France)に着手した。
(饗庭孝男編『フランス文学史』白水社、1979年[1986年版]、180頁~182頁、190頁~191頁)

【饗庭孝男編『フランス文学史』白水社はこちらから】

フランス文学史

中川右介氏も、「古典派とロマン派の時代区分は曖昧だが、はっきりしているのは、ベルリオーズの≪幻想交響曲≫によって、ロマン派の時代が本格的に始まったことだ」断言している。つまり、音楽史において、ベルリオーズの≪幻想交響曲≫は、ロマン派の本格的な幕開けを告げたのである。
1828年、ベートーヴェンの死の翌年、パリでは、彼の九曲の交響曲が演奏された。それを聴いたベルリオーズは、なかでも第六番≪田園≫に感銘を受けた(「田園」はベートーヴェン自身がつけた標題である)。ベルリオーズはこれを聴いて、音楽で情景が描けることを確信し、自分が書きたいのは、こういうものだと分かった。その前年、パリにイギリスのシェイクスピア劇団が巡業し、それを観に行ったベルリオーズは『ハムレット』でオフィーリアを演じた女優に一目惚れして告白したものの、ふられてしまった。ベルリオーズは、その自分の恋愛感情を音楽にしようと思い立ち、一気に交響曲を書き上げた。それが≪幻想交響曲≫だった。この≪幻想交響曲≫によって、音楽だけで物語を表現する標題音楽が確立され、ロマン派音楽の本格的幕開けとなったのである。
(中川、2008年、132頁~135頁)

<写実主義について>


19世紀後半、芸術家は社会をありのままに描くべきだという「写実主義」が生まれた。
(英語では「リアリズム」、フランス語では「レアリスム」。とくにフランスで盛んになった)
この時代、都市労働者や農民は、大資本家に搾取され、貧困となっていた。マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が出版されるのは、1848年のことである。
そうした時代背景のもとで、画家は、歴史画や想像画といった、現実に見えるものではないものを描くのではなく、社会の現実をありのままに描くべきだと考えられるようになった。

「社会のありのままの現実」という点が重要である。目に見える風景をありのままに描く風景画は、それまでにも存在した。人物をそのまま描く肖像画も昔からある。19世紀後半の写実主義はそうしたものとは異なり、「社会」を描くものだった。ジャーナリズム的な要素もあり、社会の醜さ、不合理さ、不条理を告発する意図が絵画に込められるようになっていく。

「写実主義」を意識的に実践したのが、フランスのクールベである。「レアリスム宣言」という文書を書き、「芸術は社会の客観的記録であるべき」とされている。

<写実主義の画家クールベ >


クールベ(Courbet, 1819~1877年)は、フランスのスイス国境に近いオルナンで生まれた。
家は裕福で法律家にさせたい父の意向で、パリのソルボンヌ大学の法学部に進むが、絵の道に進んだ。

1844年にサロンに入選し、画家として芽が出る。
1855年にパリで開催された万国博覧会のために、クールベは出品審査に応募するが、最も自身のあった次の2点は落選してしまう。
〇クールベの大作≪画家のアトリエ≫(オルセー美術館)
〇クールベの大作≪オルナンの埋葬≫(オルセー美術館)
(クールベの他の作品は合格したのだが、クールベは怒って、全て引き揚げてしまい、博覧会場のすぐそばで、自分の作品だけの展覧会を開催する)

≪オルナンの埋葬≫は、横幅が7メートル近い大作だが、そこに描かれているのは、クールベの故郷の村の普通の庶民の普通の葬式の様子である。
これが写実的に描かれているが、クールベは「歴史画」のジャンルとして応募した。ただ、歴史画とは、過去の有名な戦争などの名場面を英雄的に描いたものをいう。そこに、このような無名の人々を描いたものを出品したのでは落選するのも当然だった。

しかし、クールベとしては、なぜ英雄と王侯貴族と庶民とを差別するのか、無名の庶民を描いてもいいではないかとの意図があったようだ。
このように、ある意味では理屈っぽいのが、クールベの姿勢であるとされる。その技法は、絵の具を徹底的に厚く塗ることで、重厚感を出すことにあった。したがって画面は黒っぽい。
理屈の人でもあるクールベは、社会主義者とも交流があり、1870年のパリ・コミューンに参加し逮捕・投獄される。出所後はスイスに亡命するが、1877年に58歳で亡くなった。

<「農民画家」としてのミレー>


ミレー(Millet, 1814~1875年)は、≪種をまく人≫、≪晩鐘≫で有名である。
ミレーも、写実主義のひとりとされ、現実そのものを描いた「農民画家」とも呼ばれる。
ミレーは、フランスのノルマンディー地方の海辺の村の農家に生まれた。
19歳で絵の修業を始め、1837年、22歳のときにパリに出て、美術アカデミーで学ぶ。1840年、26歳で肖像画がサロンに入選するが、生活のために注文に応じて、肖像画や裸体画を描く。
そうしたパリでの生活に疲れて、1849年に、バルビゾン村に移住した。このバルビゾン村は、パリから南に60キロほどのところにある。ミレーのほか、コロー、テオドール=ルソーなどの画家も移り住み、「バルビゾン派」と呼ばれる。写実的に風景画や農民画を描いたという共通点がある。

ミレーの代表作は次の2点である。
〇ミレー≪種をまく人≫(1850年 ボストン美術館)~サロンに出品された
〇ミレー≪晩鐘≫(1859年 オルセー美術館)
この頃から、経済的にも安定してくる。そして1867年のパリ万博では高い評価を得た。
1875年、安住の地となったバルビゾンで亡くなった。

ところで、写実主義は技法的な意味の「写実」ではない点には注意を要する。
すぐ後が印象派の時代なることで分かるように、絵そのものは、写真のように緻密ではない。例えば、ミレーの絵では、人物の顔はほとんど分からず、この点では写実的ではない。ではなぜ写実主義と呼ばれるかといえば、描いたモノが、絵空事の神話や歴史上の場面ではなく、現実社会そのものだったからである。

<象徴主義について>


写実主義に少し遅れて、その対極ともいうべき象徴主義がフランスで起こる。
象徴主義とは、人間が内面にもつ不安な悩み、あるいは運命や夢、神秘性といった、本来は絵にできないものを、何かに象徴させて描くことをいう。

フランスでは、モロー(Moreau, 1826~1898年)がその代表となる。
モローは「目に見えないもの、ただ感じるものだけを信じる」と語った。これが象徴主義である。現実の社会を描くとした写実主義とは正反対である。
フランスでは象徴主義が始まる以前に、イギリスにラファエル前派が象徴主義の先駆者となる。ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896年)の代表作≪オフェーリア≫(1851~1852年)が有名である。シェイクスピアの『ハムレット』から着想を得たもので、オフェーリアが自殺して池に浮いている場面である。これは死別と発狂という悲劇の象徴として描かれた。

象徴主義は、文学とも連動していた。そもそも、この言葉は、フランスの詩人ジャン・モレアスが1886年に発表した「象徴主義宣言」で生まれたものである。
文学では、象徴主義の先駆者としてボードレールがおり、ランボー、ポール・ヴェルレーヌ、マラルメ、ポール・ヴァレリー、ユイスマンスが有名な象徴主義文学者である。
象徴主義は、19世紀後半から、如実になってきた科学主義、物質主義への疑問を訴えたものでもあった。

<象徴主義の画家モロー>


フランスの象徴主義を代表する画家がモロー(Moreau, 1826~1898年)である。
モローは、建築家の父と音楽家の母の間に、1826年にパリで生まれた。8歳よりデッサンを描きはじめ、早熟な才能を示した。
1846年に国立美術学校に入学する。新古典派のアカデミックな画家ピコに師事したり、ドラクロワのアトリエに出入りするなど、ロマン派の影響も受けた。1857年から59年までイタリアに留学し、ルネサンス時代の絵画の模写をして学んだ。

1864年にサロンに出品した≪オイディプスとスフィンクス≫はスフィンクスを若い女性として描き、衝撃を与えた。
聖書やギリシア神話に題材をとった作品が多い。また日本の浮世絵からも影響を受けている。
1875年前後には、サロメを題材にした作品を何点も描いている。なかでも≪出現≫は、ヨカナーンの首が中空に浮かんでいるので、有名な絵である。
首が切り落とされた瞬間で、だから浮かんでいると、見たままに解釈することもできるがサロメの幻想のなかでの首であるとの解釈も成り立つ。首から光が発しているかのように、その周囲は明るい。これは、亡霊を円光のなかに浮かび上がらせて描く浮世絵の手法からきているという。この時点で、日本の文化がヨーロッパに伝わっていることが分かる。

1888年に美術アカデミー会員になり、国立美術学校教授にもなって、マティス、ルオーを育てた。教育方針は、「個性を尊重し、才能を伸ばす」というものだった。
1898年に72歳で亡くなる。生前に自分の膨大な作品を建物とともにフランス国家に遺贈し、それがモロー美術館となった(後述)。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、145頁~154頁)

【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】

教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)




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