ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その5≫
(2020年7月19日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
今回のブログでは、印象派について解説してみたい。
まず最初に、中川右介氏の著作をもとに、印象派の画家について一通り説明する。
〇中川右介『クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年
具体的には、「印象派の父」マネ、「色彩の詩人」モネ、ルノワール、「近代絵画の父」セザンヌ、後期印象派のゴーギャン、波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホを取り上げる。
更に、次のようなテーマで印象派の理解について深めてみたい。
〇印象派からの挑戦状
〇印象派の登場とフランスの社会背景
〇印象派と日本人
〇マネの<草上の昼食>の三人のモデル
その際に、次の著作を参照にしたことを断っておきたい。
〇木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
〇西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年
〇鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
絵画における最大の革命は抽象画の誕生だが、その前段階にあたるのが、印象派の登場である。「印象派」も最初は蔑称だった。つまり、登場当時は異端であり、反アカデミズムだった。
印象派が始まったのはフランスである。
他の主義や流派の年代特定がしにくいのに対して、印象派については、1874年と特定できる。
この年に、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨーマン、シスレーらによって開催された展示会から始まる。
そのなかのモネの≪印象、日の出≫という作品について、ジャーナリストが否定的に「印象派」と評し、以後、自分たちもそう呼ぶようになった。
(ジャーナリストとしては、印象だけの未完成なものだと批判したつもりだった)
さて、印象派といえば、光と色彩である。
バロックあたりから絵画は暗い色調のものが多くなっていたが、ここにきて一気に明るい色が多くなる。その一方で、「形」ははっきりとは描かれなくなる。「線」が消えてしまっているのも、特徴のひとつである。題材、テーマは人さまざまで、共通項はないが、しいていえば、あたりさわりのない、何でもないような光景を描いたことであろう。それが、その前の写実主義やロマン主義に対する「アンチ」でもあった。
さらに、19世紀半ばには、すでに写真が実用化されており、見えるままに描くのであれば、写真にかなわない。この写真という強敵を前に、写真では不可能なことを描こうと、画家たちは模索した。
そこに、日本の浮世絵の衝撃がヨーロッパの画家たちを襲った。日本の画家たちは、リアリズムという言葉を知らず、形態をデフォルメし、遠近法を無視し、色彩はひたすら明るく描いていた。これらのことがヨーロッパの画家たちには新鮮だったようで、影響を与えた。
こうして、印象派は19世紀後半に一気に広がり、主流となっていく。
マネ(Manet, 1832~1883年)は、「印象派の父」と呼ばれる。
マネの絵には黒が多いし、線も描かれているが、「西洋近代絵画史」はマネから始まったとまでされる。
マネは印象派の画家たちとも交流があり、影響を与えたのは事実であるが、印象派の展覧会への出品を誘われながら、公的なサロンに出すことにこそ意味があるとして、それを拒み、サロンに出品しつづけた体制側の人でもあった。
さて、マネが生まれたのは1832年で、父は司法省の高級官吏であった。
マネは海外航路の船員となったが、18歳のときに画家になると決意する。トマ・クーチュールという当時権威のあった画家の弟子となり、1861年にサロンに入選し、画家としての道が確かなものとなる。
マネの代表作は、次の2点で、どちらも当時としては衝撃的な作品だった。
〇マネ≪草上の昼食≫(オルセー美術館)
〇マネ≪オランピア≫(オルセー美術館)
1863年の≪草上の昼食≫は、どこか郊外の森のなかで、男女二人ずつがピクニックでも行って、ひとやすみしているところを描いたものである。それだけなら、何ということもないが、女性のひとりが全裸である。男性が二人とも正装である。
その絵の舞台となるのが神話の世界であれば、問題はなかったが、男性たちの服装は当時の人々のものである。その男性と一緒にいる女性が全裸なのだから、不道徳と批判されても無理はない。
その2年後の≪オランピア≫は、さらに衝撃的だった。今度はひとりの女性が全裸でベッドに横たわっている。しかも、その女性は当時のフランスの娼婦であると、ひとめで分かるものであった。その脇には、黒人女性のメイドがいて、さらに黒い猫もいる。
サロンに出品されると、大スキャンダルになった。
このように、マネの絵は、社会の現実を描いたものともいえるので、写実主義のひとりと考えることもできるようだ。印象派とするには、「黒」がふんだんに使われており、違和感もあるとされる。しかし、「印象派の父」と呼ばれたように、このマネの影響で印象派が生まれたのだともいう。
マネの絵は平面的だと批判されたのだが、そこに、革命のひとつがあった。陰影がなく、色彩だけで、遠近感、奥行きを表現した。黒が多いのは、他の色を引き立たせるためであもある。
同じように、全裸の女性のそばに、黒い服を着た正装の男性、あるいは黒人のメイドと黒猫を配置したのも、女性の美しさを際立たせるためだったとされる。
写実主義的に見えながらも、絵を何かの思想表現とする見方・描き方に対して、そんなのはおかしいと主張したのが、マネだったとみられている。
印象派の代名詞が、モネ(Monet, 1840~1926年)である。「光の画家」「色彩の詩人」と呼ばれ、光と色彩の人である。
モネは、1840年にパリで、食料品商を営む家に生まれる。幼い頃から絵がうまいと評判になり、画家への道を志すが、なかなか芽が出ない。
5歳のときに一家はノルマンディー地方に引っ越したが、1860年頃には再びパリに出てきた。マネやルノワールという印象派の画家たちと知り合う。1870年にはイギリスに行き、ターナーを研究した。
1874年の最初の印象派展に参加し、≪印象、日の出≫を発表した。周知のように、このタイトルが印象派という名前の由来となる。この絵では、海に小船が浮かんでいて、太陽が昇っていくところが、すべてぼんやりと描かれている。ピントのぼけた写真のようで、まさに絵でなければ表現できないものである。
1876年の印象派展には、≪ラ・ジャポネーズ≫を発表した。これは妻カミーユに日本の真っ赤な着物を着せたものである。金髪の髷で芸者風のポーズで、扇子をもっていて、媚びたつくり笑いをしている。その背景には団扇がたくさん舞っている。モネは日本文化を敬愛していたそうだ。
この妻カミーユは、1879年に32歳で亡くなってしまう。皮肉なことに、その直後からモネの絵は売れ出し、貧困を脱出する。
しかし、モネは1880年代半ばからは人物の出てくる絵を描かなくなる。≪散歩、日傘をさす女性≫など一連の最後の人物画も女性の顔はほとんど描かない。妻への思いがそうさせたとの説もある。
1890年に、パリから西に80キロほどのところのジヴェルニーに土地を購入し、モネはそこにアトリエを建てて、亡くなるまで、その土地で暮らす。
モネといえば、≪睡蓮≫である。1899年からずっと、睡蓮ばかりを描いている。その数、200余りという。
ところで、モネに限らず、印象派の画家は、同じものを何枚も描く傾向がある。たとえほとんど同じに見えてもどこか違うことで、「一瞬たりとも同じ瞬間はない」といいたいからだとされている。
技法の上でのモネの革命は点で描いたことにある。パレットでさまざまな色の絵の具を混ぜて、これだと思う色にするのではなく、一筆ごとに点々と、異なる色を置いていった。
(現在の通常のカラー印刷の場合、赤、青、黄、黒の4色のインクだけで表現されているのと、同じ理屈である)
近づいて見れば、点だが、離れて見れば、隣り合う色が混ざって見える。この方法により、モネは一瞬ごとに移り変わる光の変化を描くことに成功した。
ルノワール(Renoir, 1841~1919年)は、フランス中南部のリモージュで生まれた。3歳のときに一家がパリに引っ越した。
最初は陶磁器の絵付け職人としてスタートする。しかし、その仕事がなくなってしまったので、画家を志す。
(その前には美声でも知られていたので、オペラ歌手にならないかと誘われたこともあったそうだ)
1862年にパリに出て、グレールという画家の塾にも通う。モネやシスレーといった印象派の画家と知り合い、1874年の最初の印象派展から参加する。印象派は、どちらかというと風景画が多いが、ルノワールは人物画、とくに女性を多く描いた。
ルノワールは、「世の中には不愉快なものがあふれているではないか。わざわざ芸術のなかに不愉快なものを描く必要もなかろう」といっている。
この言葉に示されているように、「社会派」的な要素は全くない。明るい色彩で、楽しげな光景を描いたものが多い。例えば、次の絵がそうである。
〇ルノワール≪ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場≫(1876年 131×175㎝ キャンヴァス 油彩 オルセー美術館)
この絵は、広場の群集を描いたものである。人々のざわめきが聞こえてくるかのようである。
当時、モンマルトルの丘はまだ風車やぶどう畑が広がり、ムーラン・ド・ラ・ギャレットは丘の上にあった庶民の娯楽場であった。日曜日はダンスの日だった。
ルノワールはその賑わいを、鮮やかな色彩で描きだしている。色彩を活かしているのは太陽の光である。
輝かしい色彩が謳い上げるのは、生きる歓びである。ルノワールは光が人間に与える効果を考え抜き、明るい歓びの表情をこのように視覚化した。
ちなみに、この≪ムーラン・ド・ラ・ギャレット≫という絵をもっていたのは、画家カイユボットであった。彼の死後、この絵は遺贈されて、今ではオルセーの名品のひとつとなっている。
(この絵に関しては、川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年、12頁~13頁参照)
【『名画に会う旅② オルセー美術館』はこちらから】
オルセー美術館―アートを楽しむ最適ガイド (名画に会う旅)
さて、ルノワールの総作品数は6000点以上という多作である。
長生きもしたので、画家人生は60年なのだが、それでも年に百点のペースである。晩年は車椅子での生活だったが、創作活動をやめなかった。
ルノワールは印象派ではあるが、ものの形がほとんどなくなってしまうことはなく、その分かりやすさが親しまれる原因であるとされる。
ルノワール自身、印象派の画家たちが、形態を見失っていくことに疑問を感じていた。とくにイタリアを旅し、ラファエロらの絵を実際に見てからは、さらにそう思うようになる。
(いまと違って、カラー印刷の画集がない時代なので、画家は現地に行かないと、昔の名画を見ることができなかった。その意味で「旅行」というのは、芸術家のその後の方向性を決め、さらには人生を大きく決定づける要素を持っていた)
ルノワールは、印象派でありながら、印象派を否定した時期もあったが、最終的に到達したのが、豊満な女性像であった。
セザンヌ(Cézanne, 1839~1906年)は、「近代絵画の父」と呼ばれている。さらに、セザンヌとゴーギャン、ゴッホの3人を「後期印象派」ともいう。
(ただ、この3人は作風が全く違うので、ひとつのグループとは思えない。活躍した時期が同じで、同じくらい大きな存在だという意味であろう。「ポスト印象主義」といった方がよいか)
セザンヌは銀行家の息子として、南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれた。作家ゾラとは中学時代からの友人である。先にパリに出たゾラは、セザンヌに早くパリに来いと誘っている。
ようやくセザンヌがパリに出たのは、1862年である。若い頃は、ロマン主義のドラクロワ、写実主義のクールベ、「印象派の父」のマネの影響を受けた。
ところで、セザンヌの父は銀行家として成功し、息子に厳しい人だったらしい。父に逆らいたくても、それができず、脅えながら過ごしていた。そのせいもあって、セザンヌは性格的に内向きになってしまう。パリに出ても、人と打ち解けず、帰郷し、またパリへ、というのを繰り返した。
それでも、印象派グループのひとりピサロとは親しくなった。恋人もでき、同棲し、子どもも生まれた。しかし、父には怖くていえなかった。
1874年の最初の印象派展に、セザンヌも出品している。だから、後期印象派ではなく、ただの印象派としてもいいのだが、本格的に認められて活躍するのがもっと後なので、後期印象派となる。初めてサロンに入選するのは1882年だった。
1886年に父が莫大な遺産を遺して亡くなった。ようやく正式な結婚をしたが、その一方で、ゾラとは絶交してしまう。
父の死後は故郷で制作を続けた。1895年に初の個展を開くと、若い世代の画家たちが支持してくれた。こうして、次の世代の影響を与えたので、「近代絵画の父」となった。
セザンヌは理論家だったといわれる。当時かなり広がっていた写真というライバルを前に、絵画でしかできない表現を模索した。印象派以前の絵画は、神話の世界を描いたものや宗教画、歴史画にしろ、風景画も肖像画も、現実のものように「再現」することを目的としていた。
印象派も、手法は異なっているが、現実の瞬間を切り取るという点で、現実の「再現」であることは同じである。それならば、写真には勝てなくなる。
セザンヌは、自然をそのまま描くのではなく、画家がすべてをデザインしなおすことを試みた。セザンヌは、絵画は「自律的な再構築物」でなければならないと考えた。画家は現実を、「見えるまま」に描くのではなく、自分の頭で再構築しなければならないとする。
その手法として、「自然を円筒、球、円錐として捉える」ことに考えが到達する。つまり、あらゆるものを、いったん、円筒と球と円錐に分解していく。そうして、そのモノの本質的な形態を見つけ出し、それを再現する。
その結果、生まれたのが、現実にはありえない構図だった。
例えば、≪カード遊びをする人々≫(1894~95年 47.5×57㎝ オルセー美術館)では、遠近法は無視されている。真横からのアングルと、斜め上からのアングルが同居しており、視点が定まっていない。1枚の絵が複数の視点を持つことは、ピカソらのキュビスムに直接つながっていく。
セザンヌの革命は静かなものだった。絵画は、信仰心をあおるための道具でも、歴史を伝えるためのものでも、物語のイメージを膨らませるためのものでも、社会の現実を訴えるものでもなく、絵それ自身として、成立しなければならないと考えた。セザンヌがしたことは、絵画の独立宣言であるともいわれる。
ゴーギャン(Gauguin, ゴーガンともいう。1848~1903年)をモデルとした小説がある。サマセット・モームの『月と六ペンス』である。
あくまでフィクションであるし、ゴーギャンの絵についての解説など全くない。ゴーギャンの評伝なら他にあるのだが、いまだにゴーギャンについて語る場合、引き合いに出される。
証券会社のサラリーマンで、趣味として絵を描いていたのに、家族を捨て画家になってしまうという人生は、ドラマチックである。ゴッホとの親交と絶縁、タヒチへの楽園を求めての逃避など、さらにドラマは膨らむ。
さて、ゴーギャンが生まれたのは、フランスで二月革命が起きた1848年である。これにより王制が廃され、第二共和制となる。だが、12月にはナポレオン3世が大統領に就任するたっめ、共和派のジャーナリストだった父は、一家を連れて、南米へ亡命する。ところが、父は急死してしまう。ゴーギャンたちはしばらくペルーで暮らしていたが、1855年にフランスに帰国する。
1865年、17歳で航海士となり、1868年からはフランス海軍に徴発された。そして1871年に徴兵が終わると、証券会社の社員となる。普通のサラリーマンとして、結婚し、働いて、趣味として絵を描いていた。
趣味としては、本格的ではあったようで、印象派展に参加するようになる。こうして認められ、画家になりたいとの思いが本格化し、1883年、35歳にして、勤めをやめて画家を目指す。
しかし、最初から売れるわけではなく、生活は苦しくなる。
モームの小説のタイトルは「月」が夢とか理想を、「六ペンス」が現実を意味しているといわれるが、ゴーギャンは厳しい現実に直面する。こんな人についていけないというわけで、妻とは別れてしまう。同じように売れない画家だったゴッホとの共同生活を始める。その共同生活は、ゴッホの「耳切り」事件によって破綻し、1890年にゴッホは自殺する。
一方、ゴーギャンは1891年楽園を求めてタヒチに向かう。だが、そこもすでに文明に毒されていた。生活に行き詰まり、いったんパリに戻る。しかしパリでもうまくいかず、47歳になる1895年に再びタヒチに行き、貧困のまま生涯を終える。その作品が評価されるのは、死後のことである。
ゴーギャンの絵は個性的である。原色が大胆に使われており、形態は輪郭線でくっきりと描かれている。ゴーギャンは日本の浮世絵の影響を受けている。
ゴーギャンもまた理屈っぽい人であった。自分の絵画のスタイルを「象徴主義的総合主義」と名づけた。これは、自然を写し取るのではなく、自然のなかから抽象を取り出し、線と色によって構成しなおすことをさすようだ。
自殺を決意するゴーギャンは、大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を、1897年から翌年にかけて制作する。結局、自殺は未遂に終わったが、1903年に亡くなった。
この大作には、さまざまなものが描きこまれている。仏像と思われる青い像、寝そべっている人、物思いにふけっている人、祈っている人、林檎のような果実をもぎる人、食べる人などで、何が描かれているかは具体的である。しかし、何を表現しているのかとなると、さまざまに解釈できる。
また、タイトルが画期的である。これまでの絵画のタイトルは、画家本人がつけたものであるにしろ、そうでないにしろ、描かれているものの説明でしかなかった。だが、この絵は、タイトルが文学的である。これを手がかりに見れば、人の一生を描いているとも、人類の歴史を描いているとも解釈できるようだ。
ゴーギャンによって、絵画は一歩、これまでとは違う道に踏み込む。
ゴッホ(Gogh, 1853~1890年)は「炎の人」と呼ばれる。
ゴッホは、1853年にオランダで牧師の家に生まれた。あまり人付き合いが得意ではなく、多くの職業を転々としている。失業だけでなく、失恋も何度もしている。つまり激情型の人、「炎の人」であった。
画家になろうと決意するのは1880年、27歳のときである。かなり遅いが、ゴーギャンより早い。
1886年に、画家になるには、パリに出なければというわけで、芸術の都へとやってくる。ここで作風が変わる。それまでは暗い雰囲気の絵だったのが、一転して明るくなる。これは印象派と日本の浮世絵の影響だといわれる。
しかし、作風が変化しても、「売れない」状態に変化はなかった。生活費は弟が面倒をみてくれていた。
1888年、状況を打破しようとして、南フランスのアルルに、芸術家コロニーを作ろうと、親交のある画家たちに呼びかけ、移住する。しかし、その呼びかけに応じてアルルに来たのは、ゴーギャンだけだった。
ともあれ、二人の共同生活は始まる。だが、ゴッホが描いていた自画像に対して、ゴーギャンが「耳の形がおかしい」と言ったため、自分でその耳たぶを切り取ってしまい、さらに、それをつきあっていた女性に送り付ける。ゴーギャンはもう付き合っていられないと出て行ってしまう。これがゴッホの「耳切り」事件である。
ゴッホは希望を失い、自ら精神病院に入り、その1年後に、猟銃で自殺する。37歳だった。
画家として活動した時期は10年ほどしかないが、800点余りを遺した。生前に売れたのは、≪赤い葡萄酒≫という1枚だけだった。
ゴッホは、後期印象派とされ、たしかに印象派の影響を受けているが、明るくきれいで、幸福感に満ちた印象派のイメージとは正反対である。象徴主義や後の表現主義ともいわれる。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、177頁~193頁)
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】
教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)
印象派は、1874年、パリでモネ、ドガ、ルノワールらが、フランスの芸術アカデミーが主催するサロン(官展)の旧弊な審査制度に対抗して開いたグループ展が発端となって誕生した。
先述したように、印象派という名前は、モネの出品作『印象、日の出』を見た評論家が揶揄を込めて、記事を書いたことが由来となっている。
このグループは、前時代までの“主題を重視して理想化する”という美の基準よりも、感覚を重んじた。画家たちは、色彩と光を主役に押し上げた。特にモネの場合は、自然の光を受けて、刻々と変化する色彩の印象を視覚に忠実に記録した。
ルネサンス以降、西洋美術では3次元の世界をいかに2次元の世界で表現するかということを探求してきた。
けれど、19世紀前半に写真が発明されると、正確に描写するだけなら、写真の方が優れているし速い、ということになった。一方で、チューブ入りの絵具が普及し、バルビゾン派や外光派のように、屋外で絵を描く画家たちが現れる。そして細部を省略して素早い筆さばきで描き上げる制作技術を編み出す。
こうした中で、1867年、2回目のパリ万博に日本の幕府が出展し、浮世絵を紹介した。
その独特な表現法はフランスの画家たちに多大ななカルチャーショックを与え、ジャポニスム(日本趣味・日本心酔)が一大ムーブメントとなる。
浮世絵の特色は、簡潔なフォルムや明確な輪郭、平面的で鮮やかな色使い、そして独特の遠近法である。
これらは、それまでの西洋美術では否定的にとらえられていた表現法ばかりであった。だからこそ画家たちは衝撃を受け、この未知なる表現法から強烈なインスピレーションを与えられた。
印象派の画家たちは、それまで西洋美術がもっとも重視していた遠近法やボリューム感の表現を捨て、大胆な構図や色彩の力を表現していく。
ただし、いわゆる芸術アカデミーやサロン、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の美に対するスタンスは揺るぎなく、従来のままであった。ここに、伝統的な西洋美術に対する印象派の挑戦が始まる。
こうした印象派の動きは、後期印象派を経て、フランスから世界各国に普及し、以後の美術の方向を決定づけた。それは、それまでの古典的美術と現代美術との分岐点となった運動であった。クールベ、マネによってモダンアートの扉がこじ開けられ、印象派が登場することで、その扉が完全に開かれた。
ただし、印象派の運動というのは、1860年代半ばから80年代半ばにかけての、わずか20年ほどの運動にすぎない。
印象派展は全部で8回開かれたが、全8回出品した画家は一人だけであったようだ。印象派の画家たちは、もともと画風は様々であった。グループ内で亀裂が生じ、印象派の中から再びサロンに出品する画家も現れる。つまり、グループ展を重ねた結果、社会に受け入れられていき、前衛運動としての役割を終えたとされる。その印象派展も、1886年を最後に姿を消した。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、260頁~262頁)
印象派がなぜ登場してきたのかを知るためには、フランスの社会背景を理解する必要があると木村泰司氏は主張している。
1789年のフランス革命以降、フランスの社会は目まぐるしく変化してゆくが、その流れを次のように図式的に捉えている。
第一共和政(1792~1804年)→ナポレオン1世の第一帝政(1804~1814年)→ブルボン王朝の王政復古(1814~1830年)→七月革命→オルレアン家の七月王政(1830~1848年)→二月革命→第二共和政(1848~1852年)→ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)の第二帝政(1852~1870年)となる。
1789年から1870年までの間に、フランスは2度の共和政を経験したが、いずれも短命に終わり、残りの年月は相変わらず君主制が幅をきかせていた。
もちろん、この間にはフランスでも産業革命の影響で中産階級が急激に成長し、自由主義的な考え方が台頭していた。一時は労働者による理想社会を目指した社会主義や、国家権力を否定する無政府主義(アナーキズム)の運動が起こったこともある。そのたびに国民は立ち上がり(七月革命、二月革命)、自由で平等な社会の樹立を目指した。社会の中には、自由や個性を重んじる風潮や社会主義思想が充満し、その一方では資本主義社会の到来によって、大資本家やブルジョワジー対労働者階級という、新たな対立も生まれていた。
こうした社会風潮の中、ナポレオン3世がプロイセンの挑発に乗せられ、1870年に普仏戦争が始まるが、フランスは敗北を喫し、皇帝が退位して、第二帝政は崩壊する。同年9月4日、臨時の国防政府が設けられて第三共和政となり、普仏戦争が続行されるが、1871年1月28日、プロイセンに正式に降伏する。
和平交渉のための臨時政府が成立したが、パリ市民はこの降伏を受け入れず、1871年3月18日、選挙により革命政府パリ・コミューンはたった72日間の短命な政権であったが、民衆によって打ち立てられた歴史上初の革命政権であった。フランスの社会は1875年、共和国憲法が成立した頃に安定を取り戻し、その後、市民社会の成熟期を迎える。
印象派のメンバーたち、そしてその先駆的存在だるクールベやマネは、こうした混乱の時代に生きた。実際、彼らは普仏戦争の際には国防政府軍のもとで戦闘に加わっている。
マネは国防参謀本部に入営、ルノワールは騎兵隊に、ドガは鉄砲隊に入隊した。モネとピサロは戦争を避けて渡英したが、バジールは戦死した。
こうした時代に生きていれば、政治や社会の様相に無関心ではいられなかった。
「天使は見たことがないから描かない」という台詞で有名なクールベ(1819~1877年)は、フランスを代表する写実主義の画家といわれる。クールベは、反アカデミズムの旗手であり、モダンアートの扉をこじ開けた画家である。クールベは社会主義者と交流をもち、伝統的な価値観や体制に対して、急進的な言動を繰り返し、パリ・コミューンに連座し、反乱に加担したかどで投獄される。その後、スイスに亡命し、亡命先で58歳の生涯を閉じた。
クールベの近代性を理解し、その写実主義から印象派への道づけをしたのがマネ(1832~1883年)である。
(マネを印象派だと思っている人も多いが、それは違うと木村氏は釘を刺している。マネはサロンこそ画家の戦いの場であると考え、印象派展には一度も出品していないし、マネ自身、印象派と同一視されるのを嫌った。けれども、若い印象派の画家から強い関心を寄せられ、のちに印象派のメンバーと深くつき合うようになっていくために、混同されてしまったとする)
さて、そのマネは、大ブルジョワの息子で、典型的なパリジャンである。都会育ちの高い教養の持ち主であった。マネは、近代社会における都市生活の断片、つまり見たままのパリ、世俗的なパリのワンシーンを描いた。その作品は、1863年の作品『オランピア』のように、クールベ以上にスキャンダラスなものであった。
〇マネ『オランピア』1863年 130.5×190㎝ オルセー美術館
この作品の構図やモデルのポーズは、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を写したものとされる。しかし、オランピアとは当時の娼婦によくある名前である。マネは、巨匠ティツィアーノの絵画を、自分が目で見た当時のパリの現実に置き換えて描いた。
この作品のあまりの大胆さに、サロンや観客は驚愕し、物議をかもした。
伝統的には、ヌードといえば、女神を理想化して描くものであった。
例えば、アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』がそうである。
〇カバネル『ヴィーナスの誕生』1863年 130×225㎝ オルセー美術館
これは同じ1863年のサロンで大絶賛を浴び、ナポレオン3世が購入した作品である。カバネルの作品の方は、完全に古典的伝統にのっとっており、両者の意識は大いなる相違があった。
ところが、よくモネの貧しかった時代がクローズアップされるが、モネはブルジョワの家庭に生まれている。ただ、父親が交際を反対した女性との間に子どもが生まれたために(のちの妻カミーユと息子ジャン)、勘当されてしまい、経済的に窮地に立たされた。そんなモネを助けたのが、バジール(1841~1870年)である。バジールは南フランスのモンペリエの裕福なワイン製造業の家に生まれた。医学の道を目指してパリに来たが、絵の世界に惹かれ、画塾に通い、そこでモネやルノワール、シスレーとで出会う。
パリの光と影を描いた孤高の画家ドガ(1834~1917年)は、パリの銀行家の息子として生まれた。上流階級の子弟らしく最初は法律を学んでいたが、その後、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に籍を置き、アングル派の画家に師事した。
そして、先述したように、セザンヌ(1839~1906年)も、銀行家の息子として、南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれた。
さて、モネやバジールと仲のよかったのがルノワール(1841~1919年)である。
ルノワールは、印象派グループの中で唯一職人階級出身であることを木村氏は強調している。ルノワールはリモージュの仕立て屋の息子として生まれ、3歳のときに一家でパリに移住するが、家が貧しかったので、13歳から陶磁器の絵付け職人として働いている。
(木村氏は、ルノワールのほかのみんなは裕福な家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんであるという)
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、263頁~285頁)
【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】
名画の言い分 (ちくま文庫)
なぜ日本人は、印象派が好きなのであろうか?
この問いに、西岡氏は明治時代の日本人と印象派との関係から、説き起こしている。
1873年は、日本で最初の洋画家といわれる高橋由一が、画塾「天絵楼(てんかいろう)」を開いた年である。
奇しくも、この1873年は、マネがヴィクトリーヌ・ムーランをモデルに『鉄道』を描いた年である。高橋由一は日本初の本格的な洋画家として、『鮭』(1877年頃、芸大資料館)という作品がある。
モネの『印象 日の出』はすでにこの前年に描かれ、翌々年の第一回印象派展での発表を待つばかりになっていた。日本人が洋画の勉強を始めた時期は、そのまま印象派の誕生した時期に重なっているのである。
日本では、印象派の作品は絵画そのものの代名詞とさえなっている。日本で「絵」といえば、暗黙のうちに印象派風の作品を指すといっても過言ではないが、これは日本の洋画の歩みからすれば、当然ともいえる結果であったとも西岡氏はいう。
明治維新が起きた1868年は、マネが『ゾラの肖像』(1868年、オルセー美術館)を描いた年である。『草上の昼食』のスキャンダルから5年、『オランピア』から2年後のことであった。マネの『ゾラの肖像』は、マネを擁護したゾラへの感謝をこめた作品で、壁に浮世絵とベラスケスと『オランピア』の複製が掛かっている。
そして、芸大こと東京芸術大学の前身、東京美術学校に西洋画科が開設されたのが、1889年である。第一回の印象派展から15年を経たこの頃、すでにアメリカでは印象派人気に火がつき、本国フランスでさえ、翌年に『オランピア』が美術省の買い上げとなり、リュクサンブール美術館に展示されているそうだ。
このように、歴史を振り返ってみると、日本の洋画壇は、印象派が市民権を得た後に確立していることがわかる。
そして、その最初の指導者となった黒田清輝の画風もまた、多分に印象派風のものであった。例えば、黒田清輝の『読書』(1891年、東京国立博物館)は滞仏時代の作品であり、『舞妓』(1893年、東京国立博物館)は、印象派の描いた日本風俗を思わせる作品であるとされる。
もともと黒田清輝がフランスに渡ったのは、薩摩藩士で元老院議官の伯父清綱の養子として、法律を学ぶためであった。しかし、通訳を頼まれたことから知り合った画家に才能を見出され、帰国後は東京美術学校の洋画科の創設時の教授となっている。
黒田のフランスでの絵画の師となったのは、ラファエル・コランである。
その画風は、『草上の昼食』と同年のサロン受賞作『ヴィーナスの誕生』(1863年、オルセー美術館)の作者カバネルに学び、あわせて印象派の画風を取り入れた折衷的なもので、「外光派」と呼ばれていた。そのラファエル・コランの作品には、『フロレアル』(1886年、アラス美術館)があり、裸婦にサロン絵画風、背景に印象派風のタッチが見える作品である。
黒田による日本の洋画アカデミズムは、このコラン流外光派を中心に出発する。
この画風は後に、印象派や後期印象派の影響を受けた若い画家たちの反発を買うが、すでにコランの画風がサロン絵画と印象派を折衷している以上、日本洋画壇の新旧の対立が、ヨーロッパほど深刻にはならなかった。
このように、日本人の大半はもともと洋画といえば印象派風の作品以外、ほとんど見たことがなかったようだ。
日本の美術展の代名詞になっている「日展(日本美術展覧会)」の前身も、黒田清輝らが創設したものである。明治期のサロンとして画壇に君臨した「文展(文部省美術展覧会)」がそれである。日本のサロンは創設時からコラン風の折衷様式を中軸にしていたことになる。
また、パリのジャポニスム・ブームを背景に大活躍した画商林忠正は、ラファエル・コランに浮世絵を売っている。そしてモネにも多くの浮世絵を売り、セーヌ河畔のジヴェルニーに日本風の庭園を作る際に日本から植物を売っている。こうした縁から、林忠正は日本洋画壇の父黒田清輝をコランに紹介している。
そして、日本洋画界の印象派一辺倒を決定的にしたのが、上野の国立西洋美術館であった。
この美術館の収蔵品の大半は、大正期に造船業家松方幸次郎が、私財を費やしてヨーロッパで購入したものである。晩年のモネを訪れた松方が、画家秘蔵の作品18点の購入を申し出てモネを仰天させたことからもわかる通り、その蒐集の中心は印象派の作品にあった。
日本唯一の国立西洋美術館は、この松方コレクションが第二次世界大戦後にフランスから返還されて開設されたものなのである。
日本人にとって、西洋美術がそのまま印象派を意味してしまうのも無理はない。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、113頁、137頁~142頁、164頁)
【西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社はこちらから】
二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方
マネの<草上の昼食>は、1863年のサロンで落選させられた。この時のサロンは審査がとくに厳しかったというので、落選した画家たちの間から、強い不満の声が起こった。この不満が、皇帝ナポレオン3世の耳にはいり、それなら公平を期すために、落選した作品を一堂に集めて展覧して見せよということになった。ナポレオン3世の気まぐれとも見えるこの思いつきが、一躍マネの名をパリ中に知らせることになった。
落選展に出品された<草上の昼食>は、ごく少数の支持者は別として、多くの人々から厳しい非難攻撃を受けた。
(その非難は、2年後のサロンに<オランピア>が並べられた時、いっそう激越なものとなった)
(高階秀爾『近代絵画史(上)』、1975年[1998年版]、76頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
さて、このマネの<草上の昼食>(1863年、オルセー美術館)について、鈴木杜幾子氏は、『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』(講談社選書、1995年、213頁~220頁)において、深い考察を展開している。
鈴木氏によれば、マネはこの<草上の昼食>という、近代化された歴史画を描くことによって、この領域の伝統の継承者たろうとしたのではないかとする。
この点について説明しておこう。
<草上の昼食>の構図の源泉が、古代とルネサンスに求められることはよく知られている。
画面はパリ郊外の森(同時代の証言によれば、アルジャントゥイユ)とおぼしき場所で、一人の裸体女性と二人の着衣の男性が、かたわらに食物を置いて談笑している。遠景では、水の中に立つ一人の女性が片手で服の裾を持ち上げ、片手を水に浸している。
裸体の女性は右脚を立てて右手で顎を支え、男性の一人は彼女に重なるように奥に座り、もう一人の男性は二人に向かい合って座っている。彼は左肘で身体を支え、何か物語をするかのように右手を差し出している。男性の服装は19世紀当時のものである。裸体の女性の衣類は前景の果物を入れた籠の下になっているが、レースで縁取りされた、絵と同時代のもののようだ。
この絵の前景の三人の構成は、ルネサンス期の銅版画から採られているとされる。つまりそれは、ラファエロの現存しない素描に基づいて、マルカントニオライモンディ(1480年頃~1534年以前)が制作した銅版画<パリスの審判>(16世紀前半、大英博物館版画素描室)の右側の河神たちのグループである。
そしてラファエロの素描の基になっているのが、古代ローマの石棺浮彫(3世紀、ローマ、ヴィラ・メディチ蔵)である。さらに、風景の中の裸婦と着衣の男性という組み合わせは、ルーヴル美術館所蔵のティツィアーノの<田園の奏楽>(1510年頃、ルーヴル美術館。なお、この作品はマネの時代にはジョルジョーネ作と考えられていたそうだ)を思わせる。
マネは、古代とルネサンスという、西欧近代絵画の規範となった時代の作品に得た着想を、かなりの大画面(発表当時の寸法は214×270㎝、現状では208×264㎝)に、しかも当初はサロン出品を目的として描いていた。
マネのこの企てのあらゆる点が、画家が自分なりの「歴史画」を制作しようとしていたことを物語っていると鈴木氏は主張している。
先述したように、結局この絵はサロンに入選できず、ナポレオン3世の肝煎りで開かれた「落選者展」で発表された。
その際にマネがつけた題名<水浴図>もまた、この絵が神話画の伝統に根ざしたものであることをそれとなく暗示している。
ところが、この作品を詳細に見るならば、これがもっとも肝心なところで歴史画の定石を裏切っていることに気づくと鈴木氏は指摘している。<草上の昼食>が正統派の歴史画と大きく異なっている点として、次のことを列挙している。
① 舞台や衣服が同時代のものとして描かれている点
過去の歴史画でも場所や服装の綿密な「時代考証」をおこなっている作例は少ないようだが、それでも漠然と「古代風」の建築が背景になっていたり、人物たちが古代彫刻のような衣装をまとっていたり、裸体であったりする方がふつうである。
② 人物相互の関係のあり方
本来歴史画という領域は、古典的な主題の描出を通じて、歴史なり宗教なり哲学なり、何らかの高尚な精神活動に属する特定の観念を表現することを目的とする領域であった。
だから、そこに描かれている人物たちは、性別、年齢、服装、しぐさ、表情などのすべての点で各自の役割を明示する必要があった。それと同時に、相互の関係がはっきりするように、その動作や視線が描き出されていなくてはならなかった。
それに対して、<草上の昼食>の前景の三人はどうか?
彼らは何の共通の行為もしていない。一般には「談笑」の情景とされるが、正確には談笑どころか、全く何のコミュニケーションもおこなっていないようだ。
人物相互のコミュニケーションを描く最大の手段は、視線の交錯を表現することであるが、三人の視線はばらばらの方向に向けられている。女性は鑑賞者を正面から見つめ、隣の男性は画面向かって右の方に目を向けているが、べつにもう一人の男性を見ているというわけでもない。もう一人の男性もまた、一見話をするかのように二人に右手を差し出しているが、その動作の意味は曖昧であり、視線の方向もはっきりしない。
そして遠景の女性についても、彼女と前景の三人の関係がどのようなものかは判らない。
要するに、この四人の登場人物が協同して表現している物語は存在せず、彼らは何の感情も共有していないようにみえる。そして絵画の精神的中心のこのような不在を、伝統的な意味での歴史画と呼ぶことは不可能らしい。
マネはおそらく意図的には近代の歴史画を描こうとしたとされるが、結果として生まれたのは、何か全く異なるものであった。こうした違和感は、発表当時の観衆にも共有されたものであり、パリ郊外の森に裸体の女性と着衣の男性がいっしょにいる情景は「公序良俗」に反するものであったようだ。
そして、マネが「遠近法とデッサン」を知らないと判断されたことが<草上の昼食>に対する厳しい評価であった。
この絵に与えられた僅かな賛辞は、外光の表現の巧みさであった。
ところが、<草上の昼食>の造形的特質は、のちにそのまま、近代絵画の革命の最初の兆候と見なされるようになった。<草上の昼食>発表のわずか10年余りのちに第1回展を開くことになる印象派の画家たちは、伝統的な遠近法やモデリングを外光とその反射による表現におきかえてしまった。そして20世紀美術に至るあらゆる造形的試みは、彼らによって伝統的絵画の空間や形態がご破算にされたところから出発している。<草上の昼食>は、こうしたすべての端緒を開いた絵画とみなされた。
さて、<草上の昼食>の前景の三人のモデルをつとめた人々が誰であるかはわかっている。
① 女性は、マネがしばしばモデルとして用いたヴィクトリーヌ・ムーラン
② 正面向きの男性は、この年マネの妻となるシュザンヌの兄弟フェルディナンド・レーンホフ
③ そして右側の男性のためにはマネ自身の弟、ユージェーヌとギュスターヴが交互に、あるいは引き続いてポーズを取った。
なお、遠景の女性にモデルを用いたとすれば、それはヴィクトリーヌであったであろうとされる。
つまり、マネは<田園の奏楽>の現代版の制作に当たって、着衣の男性には自分と同じ階級のモデルを選び、裸体の女性には職業的モデル(19世紀の常識からいえば下層階級の女)を使っている。
(ヴィクトリーヌはマネの友人の画家アルフレッド・ステヴァンの愛人であったという)
近代絵画創成の象徴は、ここでもまた中産階級出身の男性画家たちの創作のために提供した下層階級の女性の裸体であったと鈴木氏は指摘している。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年、213頁~220頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】
フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)
(2020年7月19日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、印象派について解説してみたい。
まず最初に、中川右介氏の著作をもとに、印象派の画家について一通り説明する。
〇中川右介『クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年
具体的には、「印象派の父」マネ、「色彩の詩人」モネ、ルノワール、「近代絵画の父」セザンヌ、後期印象派のゴーギャン、波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホを取り上げる。
更に、次のようなテーマで印象派の理解について深めてみたい。
〇印象派からの挑戦状
〇印象派の登場とフランスの社会背景
〇印象派と日本人
〇マネの<草上の昼食>の三人のモデル
その際に、次の著作を参照にしたことを断っておきたい。
〇木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
〇西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年
〇鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・<印象派について>
・<「印象派の父」マネ>
・<「色彩の詩人」モネ>
・<ルノワール>
・<「近代絵画の父」セザンヌ>
・<後期印象派のゴーギャン>
・<波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホ>
・印象派からの挑戦状
・印象派の登場とフランスの社会背景
・印象派と日本人
・マネの<草上の昼食>の三人のモデル
【読後の感想とコメント】 ルーヴルからオルセーへの西洋美術史
<印象派について>
絵画における最大の革命は抽象画の誕生だが、その前段階にあたるのが、印象派の登場である。「印象派」も最初は蔑称だった。つまり、登場当時は異端であり、反アカデミズムだった。
印象派が始まったのはフランスである。
他の主義や流派の年代特定がしにくいのに対して、印象派については、1874年と特定できる。
この年に、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨーマン、シスレーらによって開催された展示会から始まる。
そのなかのモネの≪印象、日の出≫という作品について、ジャーナリストが否定的に「印象派」と評し、以後、自分たちもそう呼ぶようになった。
(ジャーナリストとしては、印象だけの未完成なものだと批判したつもりだった)
さて、印象派といえば、光と色彩である。
バロックあたりから絵画は暗い色調のものが多くなっていたが、ここにきて一気に明るい色が多くなる。その一方で、「形」ははっきりとは描かれなくなる。「線」が消えてしまっているのも、特徴のひとつである。題材、テーマは人さまざまで、共通項はないが、しいていえば、あたりさわりのない、何でもないような光景を描いたことであろう。それが、その前の写実主義やロマン主義に対する「アンチ」でもあった。
さらに、19世紀半ばには、すでに写真が実用化されており、見えるままに描くのであれば、写真にかなわない。この写真という強敵を前に、写真では不可能なことを描こうと、画家たちは模索した。
そこに、日本の浮世絵の衝撃がヨーロッパの画家たちを襲った。日本の画家たちは、リアリズムという言葉を知らず、形態をデフォルメし、遠近法を無視し、色彩はひたすら明るく描いていた。これらのことがヨーロッパの画家たちには新鮮だったようで、影響を与えた。
こうして、印象派は19世紀後半に一気に広がり、主流となっていく。
<「印象派の父」マネ>
マネ(Manet, 1832~1883年)は、「印象派の父」と呼ばれる。
マネの絵には黒が多いし、線も描かれているが、「西洋近代絵画史」はマネから始まったとまでされる。
マネは印象派の画家たちとも交流があり、影響を与えたのは事実であるが、印象派の展覧会への出品を誘われながら、公的なサロンに出すことにこそ意味があるとして、それを拒み、サロンに出品しつづけた体制側の人でもあった。
さて、マネが生まれたのは1832年で、父は司法省の高級官吏であった。
マネは海外航路の船員となったが、18歳のときに画家になると決意する。トマ・クーチュールという当時権威のあった画家の弟子となり、1861年にサロンに入選し、画家としての道が確かなものとなる。
マネの代表作は、次の2点で、どちらも当時としては衝撃的な作品だった。
〇マネ≪草上の昼食≫(オルセー美術館)
〇マネ≪オランピア≫(オルセー美術館)
1863年の≪草上の昼食≫は、どこか郊外の森のなかで、男女二人ずつがピクニックでも行って、ひとやすみしているところを描いたものである。それだけなら、何ということもないが、女性のひとりが全裸である。男性が二人とも正装である。
その絵の舞台となるのが神話の世界であれば、問題はなかったが、男性たちの服装は当時の人々のものである。その男性と一緒にいる女性が全裸なのだから、不道徳と批判されても無理はない。
その2年後の≪オランピア≫は、さらに衝撃的だった。今度はひとりの女性が全裸でベッドに横たわっている。しかも、その女性は当時のフランスの娼婦であると、ひとめで分かるものであった。その脇には、黒人女性のメイドがいて、さらに黒い猫もいる。
サロンに出品されると、大スキャンダルになった。
このように、マネの絵は、社会の現実を描いたものともいえるので、写実主義のひとりと考えることもできるようだ。印象派とするには、「黒」がふんだんに使われており、違和感もあるとされる。しかし、「印象派の父」と呼ばれたように、このマネの影響で印象派が生まれたのだともいう。
マネの絵は平面的だと批判されたのだが、そこに、革命のひとつがあった。陰影がなく、色彩だけで、遠近感、奥行きを表現した。黒が多いのは、他の色を引き立たせるためであもある。
同じように、全裸の女性のそばに、黒い服を着た正装の男性、あるいは黒人のメイドと黒猫を配置したのも、女性の美しさを際立たせるためだったとされる。
写実主義的に見えながらも、絵を何かの思想表現とする見方・描き方に対して、そんなのはおかしいと主張したのが、マネだったとみられている。
<「色彩の詩人」モネ>
印象派の代名詞が、モネ(Monet, 1840~1926年)である。「光の画家」「色彩の詩人」と呼ばれ、光と色彩の人である。
モネは、1840年にパリで、食料品商を営む家に生まれる。幼い頃から絵がうまいと評判になり、画家への道を志すが、なかなか芽が出ない。
5歳のときに一家はノルマンディー地方に引っ越したが、1860年頃には再びパリに出てきた。マネやルノワールという印象派の画家たちと知り合う。1870年にはイギリスに行き、ターナーを研究した。
1874年の最初の印象派展に参加し、≪印象、日の出≫を発表した。周知のように、このタイトルが印象派という名前の由来となる。この絵では、海に小船が浮かんでいて、太陽が昇っていくところが、すべてぼんやりと描かれている。ピントのぼけた写真のようで、まさに絵でなければ表現できないものである。
1876年の印象派展には、≪ラ・ジャポネーズ≫を発表した。これは妻カミーユに日本の真っ赤な着物を着せたものである。金髪の髷で芸者風のポーズで、扇子をもっていて、媚びたつくり笑いをしている。その背景には団扇がたくさん舞っている。モネは日本文化を敬愛していたそうだ。
この妻カミーユは、1879年に32歳で亡くなってしまう。皮肉なことに、その直後からモネの絵は売れ出し、貧困を脱出する。
しかし、モネは1880年代半ばからは人物の出てくる絵を描かなくなる。≪散歩、日傘をさす女性≫など一連の最後の人物画も女性の顔はほとんど描かない。妻への思いがそうさせたとの説もある。
1890年に、パリから西に80キロほどのところのジヴェルニーに土地を購入し、モネはそこにアトリエを建てて、亡くなるまで、その土地で暮らす。
モネといえば、≪睡蓮≫である。1899年からずっと、睡蓮ばかりを描いている。その数、200余りという。
ところで、モネに限らず、印象派の画家は、同じものを何枚も描く傾向がある。たとえほとんど同じに見えてもどこか違うことで、「一瞬たりとも同じ瞬間はない」といいたいからだとされている。
技法の上でのモネの革命は点で描いたことにある。パレットでさまざまな色の絵の具を混ぜて、これだと思う色にするのではなく、一筆ごとに点々と、異なる色を置いていった。
(現在の通常のカラー印刷の場合、赤、青、黄、黒の4色のインクだけで表現されているのと、同じ理屈である)
近づいて見れば、点だが、離れて見れば、隣り合う色が混ざって見える。この方法により、モネは一瞬ごとに移り変わる光の変化を描くことに成功した。
<ルノワール>
ルノワール(Renoir, 1841~1919年)は、フランス中南部のリモージュで生まれた。3歳のときに一家がパリに引っ越した。
最初は陶磁器の絵付け職人としてスタートする。しかし、その仕事がなくなってしまったので、画家を志す。
(その前には美声でも知られていたので、オペラ歌手にならないかと誘われたこともあったそうだ)
1862年にパリに出て、グレールという画家の塾にも通う。モネやシスレーといった印象派の画家と知り合い、1874年の最初の印象派展から参加する。印象派は、どちらかというと風景画が多いが、ルノワールは人物画、とくに女性を多く描いた。
ルノワールは、「世の中には不愉快なものがあふれているではないか。わざわざ芸術のなかに不愉快なものを描く必要もなかろう」といっている。
この言葉に示されているように、「社会派」的な要素は全くない。明るい色彩で、楽しげな光景を描いたものが多い。例えば、次の絵がそうである。
〇ルノワール≪ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場≫(1876年 131×175㎝ キャンヴァス 油彩 オルセー美術館)
この絵は、広場の群集を描いたものである。人々のざわめきが聞こえてくるかのようである。
当時、モンマルトルの丘はまだ風車やぶどう畑が広がり、ムーラン・ド・ラ・ギャレットは丘の上にあった庶民の娯楽場であった。日曜日はダンスの日だった。
ルノワールはその賑わいを、鮮やかな色彩で描きだしている。色彩を活かしているのは太陽の光である。
輝かしい色彩が謳い上げるのは、生きる歓びである。ルノワールは光が人間に与える効果を考え抜き、明るい歓びの表情をこのように視覚化した。
ちなみに、この≪ムーラン・ド・ラ・ギャレット≫という絵をもっていたのは、画家カイユボットであった。彼の死後、この絵は遺贈されて、今ではオルセーの名品のひとつとなっている。
(この絵に関しては、川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年、12頁~13頁参照)
【『名画に会う旅② オルセー美術館』はこちらから】
オルセー美術館―アートを楽しむ最適ガイド (名画に会う旅)
さて、ルノワールの総作品数は6000点以上という多作である。
長生きもしたので、画家人生は60年なのだが、それでも年に百点のペースである。晩年は車椅子での生活だったが、創作活動をやめなかった。
ルノワールは印象派ではあるが、ものの形がほとんどなくなってしまうことはなく、その分かりやすさが親しまれる原因であるとされる。
ルノワール自身、印象派の画家たちが、形態を見失っていくことに疑問を感じていた。とくにイタリアを旅し、ラファエロらの絵を実際に見てからは、さらにそう思うようになる。
(いまと違って、カラー印刷の画集がない時代なので、画家は現地に行かないと、昔の名画を見ることができなかった。その意味で「旅行」というのは、芸術家のその後の方向性を決め、さらには人生を大きく決定づける要素を持っていた)
ルノワールは、印象派でありながら、印象派を否定した時期もあったが、最終的に到達したのが、豊満な女性像であった。
<「近代絵画の父」セザンヌ>
セザンヌ(Cézanne, 1839~1906年)は、「近代絵画の父」と呼ばれている。さらに、セザンヌとゴーギャン、ゴッホの3人を「後期印象派」ともいう。
(ただ、この3人は作風が全く違うので、ひとつのグループとは思えない。活躍した時期が同じで、同じくらい大きな存在だという意味であろう。「ポスト印象主義」といった方がよいか)
セザンヌは銀行家の息子として、南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれた。作家ゾラとは中学時代からの友人である。先にパリに出たゾラは、セザンヌに早くパリに来いと誘っている。
ようやくセザンヌがパリに出たのは、1862年である。若い頃は、ロマン主義のドラクロワ、写実主義のクールベ、「印象派の父」のマネの影響を受けた。
ところで、セザンヌの父は銀行家として成功し、息子に厳しい人だったらしい。父に逆らいたくても、それができず、脅えながら過ごしていた。そのせいもあって、セザンヌは性格的に内向きになってしまう。パリに出ても、人と打ち解けず、帰郷し、またパリへ、というのを繰り返した。
それでも、印象派グループのひとりピサロとは親しくなった。恋人もでき、同棲し、子どもも生まれた。しかし、父には怖くていえなかった。
1874年の最初の印象派展に、セザンヌも出品している。だから、後期印象派ではなく、ただの印象派としてもいいのだが、本格的に認められて活躍するのがもっと後なので、後期印象派となる。初めてサロンに入選するのは1882年だった。
1886年に父が莫大な遺産を遺して亡くなった。ようやく正式な結婚をしたが、その一方で、ゾラとは絶交してしまう。
父の死後は故郷で制作を続けた。1895年に初の個展を開くと、若い世代の画家たちが支持してくれた。こうして、次の世代の影響を与えたので、「近代絵画の父」となった。
セザンヌは理論家だったといわれる。当時かなり広がっていた写真というライバルを前に、絵画でしかできない表現を模索した。印象派以前の絵画は、神話の世界を描いたものや宗教画、歴史画にしろ、風景画も肖像画も、現実のものように「再現」することを目的としていた。
印象派も、手法は異なっているが、現実の瞬間を切り取るという点で、現実の「再現」であることは同じである。それならば、写真には勝てなくなる。
セザンヌは、自然をそのまま描くのではなく、画家がすべてをデザインしなおすことを試みた。セザンヌは、絵画は「自律的な再構築物」でなければならないと考えた。画家は現実を、「見えるまま」に描くのではなく、自分の頭で再構築しなければならないとする。
その手法として、「自然を円筒、球、円錐として捉える」ことに考えが到達する。つまり、あらゆるものを、いったん、円筒と球と円錐に分解していく。そうして、そのモノの本質的な形態を見つけ出し、それを再現する。
その結果、生まれたのが、現実にはありえない構図だった。
例えば、≪カード遊びをする人々≫(1894~95年 47.5×57㎝ オルセー美術館)では、遠近法は無視されている。真横からのアングルと、斜め上からのアングルが同居しており、視点が定まっていない。1枚の絵が複数の視点を持つことは、ピカソらのキュビスムに直接つながっていく。
セザンヌの革命は静かなものだった。絵画は、信仰心をあおるための道具でも、歴史を伝えるためのものでも、物語のイメージを膨らませるためのものでも、社会の現実を訴えるものでもなく、絵それ自身として、成立しなければならないと考えた。セザンヌがしたことは、絵画の独立宣言であるともいわれる。
<後期印象派のゴーギャン>
ゴーギャン(Gauguin, ゴーガンともいう。1848~1903年)をモデルとした小説がある。サマセット・モームの『月と六ペンス』である。
あくまでフィクションであるし、ゴーギャンの絵についての解説など全くない。ゴーギャンの評伝なら他にあるのだが、いまだにゴーギャンについて語る場合、引き合いに出される。
証券会社のサラリーマンで、趣味として絵を描いていたのに、家族を捨て画家になってしまうという人生は、ドラマチックである。ゴッホとの親交と絶縁、タヒチへの楽園を求めての逃避など、さらにドラマは膨らむ。
さて、ゴーギャンが生まれたのは、フランスで二月革命が起きた1848年である。これにより王制が廃され、第二共和制となる。だが、12月にはナポレオン3世が大統領に就任するたっめ、共和派のジャーナリストだった父は、一家を連れて、南米へ亡命する。ところが、父は急死してしまう。ゴーギャンたちはしばらくペルーで暮らしていたが、1855年にフランスに帰国する。
1865年、17歳で航海士となり、1868年からはフランス海軍に徴発された。そして1871年に徴兵が終わると、証券会社の社員となる。普通のサラリーマンとして、結婚し、働いて、趣味として絵を描いていた。
趣味としては、本格的ではあったようで、印象派展に参加するようになる。こうして認められ、画家になりたいとの思いが本格化し、1883年、35歳にして、勤めをやめて画家を目指す。
しかし、最初から売れるわけではなく、生活は苦しくなる。
モームの小説のタイトルは「月」が夢とか理想を、「六ペンス」が現実を意味しているといわれるが、ゴーギャンは厳しい現実に直面する。こんな人についていけないというわけで、妻とは別れてしまう。同じように売れない画家だったゴッホとの共同生活を始める。その共同生活は、ゴッホの「耳切り」事件によって破綻し、1890年にゴッホは自殺する。
一方、ゴーギャンは1891年楽園を求めてタヒチに向かう。だが、そこもすでに文明に毒されていた。生活に行き詰まり、いったんパリに戻る。しかしパリでもうまくいかず、47歳になる1895年に再びタヒチに行き、貧困のまま生涯を終える。その作品が評価されるのは、死後のことである。
ゴーギャンの絵は個性的である。原色が大胆に使われており、形態は輪郭線でくっきりと描かれている。ゴーギャンは日本の浮世絵の影響を受けている。
ゴーギャンもまた理屈っぽい人であった。自分の絵画のスタイルを「象徴主義的総合主義」と名づけた。これは、自然を写し取るのではなく、自然のなかから抽象を取り出し、線と色によって構成しなおすことをさすようだ。
自殺を決意するゴーギャンは、大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を、1897年から翌年にかけて制作する。結局、自殺は未遂に終わったが、1903年に亡くなった。
この大作には、さまざまなものが描きこまれている。仏像と思われる青い像、寝そべっている人、物思いにふけっている人、祈っている人、林檎のような果実をもぎる人、食べる人などで、何が描かれているかは具体的である。しかし、何を表現しているのかとなると、さまざまに解釈できる。
また、タイトルが画期的である。これまでの絵画のタイトルは、画家本人がつけたものであるにしろ、そうでないにしろ、描かれているものの説明でしかなかった。だが、この絵は、タイトルが文学的である。これを手がかりに見れば、人の一生を描いているとも、人類の歴史を描いているとも解釈できるようだ。
ゴーギャンによって、絵画は一歩、これまでとは違う道に踏み込む。
<波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホ>
ゴッホ(Gogh, 1853~1890年)は「炎の人」と呼ばれる。
ゴッホは、1853年にオランダで牧師の家に生まれた。あまり人付き合いが得意ではなく、多くの職業を転々としている。失業だけでなく、失恋も何度もしている。つまり激情型の人、「炎の人」であった。
画家になろうと決意するのは1880年、27歳のときである。かなり遅いが、ゴーギャンより早い。
1886年に、画家になるには、パリに出なければというわけで、芸術の都へとやってくる。ここで作風が変わる。それまでは暗い雰囲気の絵だったのが、一転して明るくなる。これは印象派と日本の浮世絵の影響だといわれる。
しかし、作風が変化しても、「売れない」状態に変化はなかった。生活費は弟が面倒をみてくれていた。
1888年、状況を打破しようとして、南フランスのアルルに、芸術家コロニーを作ろうと、親交のある画家たちに呼びかけ、移住する。しかし、その呼びかけに応じてアルルに来たのは、ゴーギャンだけだった。
ともあれ、二人の共同生活は始まる。だが、ゴッホが描いていた自画像に対して、ゴーギャンが「耳の形がおかしい」と言ったため、自分でその耳たぶを切り取ってしまい、さらに、それをつきあっていた女性に送り付ける。ゴーギャンはもう付き合っていられないと出て行ってしまう。これがゴッホの「耳切り」事件である。
ゴッホは希望を失い、自ら精神病院に入り、その1年後に、猟銃で自殺する。37歳だった。
画家として活動した時期は10年ほどしかないが、800点余りを遺した。生前に売れたのは、≪赤い葡萄酒≫という1枚だけだった。
ゴッホは、後期印象派とされ、たしかに印象派の影響を受けているが、明るくきれいで、幸福感に満ちた印象派のイメージとは正反対である。象徴主義や後の表現主義ともいわれる。
(中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年、177頁~193頁)
【中川右介『クラシック音楽と西洋美術』はこちらから】
教養のツボが線でつながるクラシック音楽と西洋美術 (青春文庫)
印象派からの挑戦状
印象派は、1874年、パリでモネ、ドガ、ルノワールらが、フランスの芸術アカデミーが主催するサロン(官展)の旧弊な審査制度に対抗して開いたグループ展が発端となって誕生した。
先述したように、印象派という名前は、モネの出品作『印象、日の出』を見た評論家が揶揄を込めて、記事を書いたことが由来となっている。
このグループは、前時代までの“主題を重視して理想化する”という美の基準よりも、感覚を重んじた。画家たちは、色彩と光を主役に押し上げた。特にモネの場合は、自然の光を受けて、刻々と変化する色彩の印象を視覚に忠実に記録した。
ルネサンス以降、西洋美術では3次元の世界をいかに2次元の世界で表現するかということを探求してきた。
けれど、19世紀前半に写真が発明されると、正確に描写するだけなら、写真の方が優れているし速い、ということになった。一方で、チューブ入りの絵具が普及し、バルビゾン派や外光派のように、屋外で絵を描く画家たちが現れる。そして細部を省略して素早い筆さばきで描き上げる制作技術を編み出す。
こうした中で、1867年、2回目のパリ万博に日本の幕府が出展し、浮世絵を紹介した。
その独特な表現法はフランスの画家たちに多大ななカルチャーショックを与え、ジャポニスム(日本趣味・日本心酔)が一大ムーブメントとなる。
浮世絵の特色は、簡潔なフォルムや明確な輪郭、平面的で鮮やかな色使い、そして独特の遠近法である。
これらは、それまでの西洋美術では否定的にとらえられていた表現法ばかりであった。だからこそ画家たちは衝撃を受け、この未知なる表現法から強烈なインスピレーションを与えられた。
印象派の画家たちは、それまで西洋美術がもっとも重視していた遠近法やボリューム感の表現を捨て、大胆な構図や色彩の力を表現していく。
ただし、いわゆる芸術アカデミーやサロン、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の美に対するスタンスは揺るぎなく、従来のままであった。ここに、伝統的な西洋美術に対する印象派の挑戦が始まる。
こうした印象派の動きは、後期印象派を経て、フランスから世界各国に普及し、以後の美術の方向を決定づけた。それは、それまでの古典的美術と現代美術との分岐点となった運動であった。クールベ、マネによってモダンアートの扉がこじ開けられ、印象派が登場することで、その扉が完全に開かれた。
ただし、印象派の運動というのは、1860年代半ばから80年代半ばにかけての、わずか20年ほどの運動にすぎない。
印象派展は全部で8回開かれたが、全8回出品した画家は一人だけであったようだ。印象派の画家たちは、もともと画風は様々であった。グループ内で亀裂が生じ、印象派の中から再びサロンに出品する画家も現れる。つまり、グループ展を重ねた結果、社会に受け入れられていき、前衛運動としての役割を終えたとされる。その印象派展も、1886年を最後に姿を消した。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、260頁~262頁)
印象派の登場とフランスの社会背景
印象派がなぜ登場してきたのかを知るためには、フランスの社会背景を理解する必要があると木村泰司氏は主張している。
1789年のフランス革命以降、フランスの社会は目まぐるしく変化してゆくが、その流れを次のように図式的に捉えている。
第一共和政(1792~1804年)→ナポレオン1世の第一帝政(1804~1814年)→ブルボン王朝の王政復古(1814~1830年)→七月革命→オルレアン家の七月王政(1830~1848年)→二月革命→第二共和政(1848~1852年)→ナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)の第二帝政(1852~1870年)となる。
1789年から1870年までの間に、フランスは2度の共和政を経験したが、いずれも短命に終わり、残りの年月は相変わらず君主制が幅をきかせていた。
もちろん、この間にはフランスでも産業革命の影響で中産階級が急激に成長し、自由主義的な考え方が台頭していた。一時は労働者による理想社会を目指した社会主義や、国家権力を否定する無政府主義(アナーキズム)の運動が起こったこともある。そのたびに国民は立ち上がり(七月革命、二月革命)、自由で平等な社会の樹立を目指した。社会の中には、自由や個性を重んじる風潮や社会主義思想が充満し、その一方では資本主義社会の到来によって、大資本家やブルジョワジー対労働者階級という、新たな対立も生まれていた。
こうした社会風潮の中、ナポレオン3世がプロイセンの挑発に乗せられ、1870年に普仏戦争が始まるが、フランスは敗北を喫し、皇帝が退位して、第二帝政は崩壊する。同年9月4日、臨時の国防政府が設けられて第三共和政となり、普仏戦争が続行されるが、1871年1月28日、プロイセンに正式に降伏する。
和平交渉のための臨時政府が成立したが、パリ市民はこの降伏を受け入れず、1871年3月18日、選挙により革命政府パリ・コミューンはたった72日間の短命な政権であったが、民衆によって打ち立てられた歴史上初の革命政権であった。フランスの社会は1875年、共和国憲法が成立した頃に安定を取り戻し、その後、市民社会の成熟期を迎える。
印象派のメンバーたち、そしてその先駆的存在だるクールベやマネは、こうした混乱の時代に生きた。実際、彼らは普仏戦争の際には国防政府軍のもとで戦闘に加わっている。
マネは国防参謀本部に入営、ルノワールは騎兵隊に、ドガは鉄砲隊に入隊した。モネとピサロは戦争を避けて渡英したが、バジールは戦死した。
こうした時代に生きていれば、政治や社会の様相に無関心ではいられなかった。
「天使は見たことがないから描かない」という台詞で有名なクールベ(1819~1877年)は、フランスを代表する写実主義の画家といわれる。クールベは、反アカデミズムの旗手であり、モダンアートの扉をこじ開けた画家である。クールベは社会主義者と交流をもち、伝統的な価値観や体制に対して、急進的な言動を繰り返し、パリ・コミューンに連座し、反乱に加担したかどで投獄される。その後、スイスに亡命し、亡命先で58歳の生涯を閉じた。
クールベの近代性を理解し、その写実主義から印象派への道づけをしたのがマネ(1832~1883年)である。
(マネを印象派だと思っている人も多いが、それは違うと木村氏は釘を刺している。マネはサロンこそ画家の戦いの場であると考え、印象派展には一度も出品していないし、マネ自身、印象派と同一視されるのを嫌った。けれども、若い印象派の画家から強い関心を寄せられ、のちに印象派のメンバーと深くつき合うようになっていくために、混同されてしまったとする)
さて、そのマネは、大ブルジョワの息子で、典型的なパリジャンである。都会育ちの高い教養の持ち主であった。マネは、近代社会における都市生活の断片、つまり見たままのパリ、世俗的なパリのワンシーンを描いた。その作品は、1863年の作品『オランピア』のように、クールベ以上にスキャンダラスなものであった。
〇マネ『オランピア』1863年 130.5×190㎝ オルセー美術館
この作品の構図やモデルのポーズは、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を写したものとされる。しかし、オランピアとは当時の娼婦によくある名前である。マネは、巨匠ティツィアーノの絵画を、自分が目で見た当時のパリの現実に置き換えて描いた。
この作品のあまりの大胆さに、サロンや観客は驚愕し、物議をかもした。
伝統的には、ヌードといえば、女神を理想化して描くものであった。
例えば、アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』がそうである。
〇カバネル『ヴィーナスの誕生』1863年 130×225㎝ オルセー美術館
これは同じ1863年のサロンで大絶賛を浴び、ナポレオン3世が購入した作品である。カバネルの作品の方は、完全に古典的伝統にのっとっており、両者の意識は大いなる相違があった。
ところが、よくモネの貧しかった時代がクローズアップされるが、モネはブルジョワの家庭に生まれている。ただ、父親が交際を反対した女性との間に子どもが生まれたために(のちの妻カミーユと息子ジャン)、勘当されてしまい、経済的に窮地に立たされた。そんなモネを助けたのが、バジール(1841~1870年)である。バジールは南フランスのモンペリエの裕福なワイン製造業の家に生まれた。医学の道を目指してパリに来たが、絵の世界に惹かれ、画塾に通い、そこでモネやルノワール、シスレーとで出会う。
パリの光と影を描いた孤高の画家ドガ(1834~1917年)は、パリの銀行家の息子として生まれた。上流階級の子弟らしく最初は法律を学んでいたが、その後、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に籍を置き、アングル派の画家に師事した。
そして、先述したように、セザンヌ(1839~1906年)も、銀行家の息子として、南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれた。
さて、モネやバジールと仲のよかったのがルノワール(1841~1919年)である。
ルノワールは、印象派グループの中で唯一職人階級出身であることを木村氏は強調している。ルノワールはリモージュの仕立て屋の息子として生まれ、3歳のときに一家でパリに移住するが、家が貧しかったので、13歳から陶磁器の絵付け職人として働いている。
(木村氏は、ルノワールのほかのみんなは裕福な家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんであるという)
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、263頁~285頁)
【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】
名画の言い分 (ちくま文庫)
印象派と日本人
なぜ日本人は、印象派が好きなのであろうか?
この問いに、西岡氏は明治時代の日本人と印象派との関係から、説き起こしている。
1873年は、日本で最初の洋画家といわれる高橋由一が、画塾「天絵楼(てんかいろう)」を開いた年である。
奇しくも、この1873年は、マネがヴィクトリーヌ・ムーランをモデルに『鉄道』を描いた年である。高橋由一は日本初の本格的な洋画家として、『鮭』(1877年頃、芸大資料館)という作品がある。
モネの『印象 日の出』はすでにこの前年に描かれ、翌々年の第一回印象派展での発表を待つばかりになっていた。日本人が洋画の勉強を始めた時期は、そのまま印象派の誕生した時期に重なっているのである。
日本では、印象派の作品は絵画そのものの代名詞とさえなっている。日本で「絵」といえば、暗黙のうちに印象派風の作品を指すといっても過言ではないが、これは日本の洋画の歩みからすれば、当然ともいえる結果であったとも西岡氏はいう。
明治維新が起きた1868年は、マネが『ゾラの肖像』(1868年、オルセー美術館)を描いた年である。『草上の昼食』のスキャンダルから5年、『オランピア』から2年後のことであった。マネの『ゾラの肖像』は、マネを擁護したゾラへの感謝をこめた作品で、壁に浮世絵とベラスケスと『オランピア』の複製が掛かっている。
そして、芸大こと東京芸術大学の前身、東京美術学校に西洋画科が開設されたのが、1889年である。第一回の印象派展から15年を経たこの頃、すでにアメリカでは印象派人気に火がつき、本国フランスでさえ、翌年に『オランピア』が美術省の買い上げとなり、リュクサンブール美術館に展示されているそうだ。
このように、歴史を振り返ってみると、日本の洋画壇は、印象派が市民権を得た後に確立していることがわかる。
そして、その最初の指導者となった黒田清輝の画風もまた、多分に印象派風のものであった。例えば、黒田清輝の『読書』(1891年、東京国立博物館)は滞仏時代の作品であり、『舞妓』(1893年、東京国立博物館)は、印象派の描いた日本風俗を思わせる作品であるとされる。
もともと黒田清輝がフランスに渡ったのは、薩摩藩士で元老院議官の伯父清綱の養子として、法律を学ぶためであった。しかし、通訳を頼まれたことから知り合った画家に才能を見出され、帰国後は東京美術学校の洋画科の創設時の教授となっている。
黒田のフランスでの絵画の師となったのは、ラファエル・コランである。
その画風は、『草上の昼食』と同年のサロン受賞作『ヴィーナスの誕生』(1863年、オルセー美術館)の作者カバネルに学び、あわせて印象派の画風を取り入れた折衷的なもので、「外光派」と呼ばれていた。そのラファエル・コランの作品には、『フロレアル』(1886年、アラス美術館)があり、裸婦にサロン絵画風、背景に印象派風のタッチが見える作品である。
黒田による日本の洋画アカデミズムは、このコラン流外光派を中心に出発する。
この画風は後に、印象派や後期印象派の影響を受けた若い画家たちの反発を買うが、すでにコランの画風がサロン絵画と印象派を折衷している以上、日本洋画壇の新旧の対立が、ヨーロッパほど深刻にはならなかった。
このように、日本人の大半はもともと洋画といえば印象派風の作品以外、ほとんど見たことがなかったようだ。
日本の美術展の代名詞になっている「日展(日本美術展覧会)」の前身も、黒田清輝らが創設したものである。明治期のサロンとして画壇に君臨した「文展(文部省美術展覧会)」がそれである。日本のサロンは創設時からコラン風の折衷様式を中軸にしていたことになる。
また、パリのジャポニスム・ブームを背景に大活躍した画商林忠正は、ラファエル・コランに浮世絵を売っている。そしてモネにも多くの浮世絵を売り、セーヌ河畔のジヴェルニーに日本風の庭園を作る際に日本から植物を売っている。こうした縁から、林忠正は日本洋画壇の父黒田清輝をコランに紹介している。
そして、日本洋画界の印象派一辺倒を決定的にしたのが、上野の国立西洋美術館であった。
この美術館の収蔵品の大半は、大正期に造船業家松方幸次郎が、私財を費やしてヨーロッパで購入したものである。晩年のモネを訪れた松方が、画家秘蔵の作品18点の購入を申し出てモネを仰天させたことからもわかる通り、その蒐集の中心は印象派の作品にあった。
日本唯一の国立西洋美術館は、この松方コレクションが第二次世界大戦後にフランスから返還されて開設されたものなのである。
日本人にとって、西洋美術がそのまま印象派を意味してしまうのも無理はない。
(西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年、113頁、137頁~142頁、164頁)
【西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社はこちらから】
二時間の印象派―全ガイド味わい方と読み方
マネの<草上の昼食>の三人のモデル
マネの<草上の昼食>は、1863年のサロンで落選させられた。この時のサロンは審査がとくに厳しかったというので、落選した画家たちの間から、強い不満の声が起こった。この不満が、皇帝ナポレオン3世の耳にはいり、それなら公平を期すために、落選した作品を一堂に集めて展覧して見せよということになった。ナポレオン3世の気まぐれとも見えるこの思いつきが、一躍マネの名をパリ中に知らせることになった。
落選展に出品された<草上の昼食>は、ごく少数の支持者は別として、多くの人々から厳しい非難攻撃を受けた。
(その非難は、2年後のサロンに<オランピア>が並べられた時、いっそう激越なものとなった)
(高階秀爾『近代絵画史(上)』、1975年[1998年版]、76頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
さて、このマネの<草上の昼食>(1863年、オルセー美術館)について、鈴木杜幾子氏は、『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』(講談社選書、1995年、213頁~220頁)において、深い考察を展開している。
鈴木氏によれば、マネはこの<草上の昼食>という、近代化された歴史画を描くことによって、この領域の伝統の継承者たろうとしたのではないかとする。
この点について説明しておこう。
<草上の昼食>の構図の源泉が、古代とルネサンスに求められることはよく知られている。
画面はパリ郊外の森(同時代の証言によれば、アルジャントゥイユ)とおぼしき場所で、一人の裸体女性と二人の着衣の男性が、かたわらに食物を置いて談笑している。遠景では、水の中に立つ一人の女性が片手で服の裾を持ち上げ、片手を水に浸している。
裸体の女性は右脚を立てて右手で顎を支え、男性の一人は彼女に重なるように奥に座り、もう一人の男性は二人に向かい合って座っている。彼は左肘で身体を支え、何か物語をするかのように右手を差し出している。男性の服装は19世紀当時のものである。裸体の女性の衣類は前景の果物を入れた籠の下になっているが、レースで縁取りされた、絵と同時代のもののようだ。
この絵の前景の三人の構成は、ルネサンス期の銅版画から採られているとされる。つまりそれは、ラファエロの現存しない素描に基づいて、マルカントニオライモンディ(1480年頃~1534年以前)が制作した銅版画<パリスの審判>(16世紀前半、大英博物館版画素描室)の右側の河神たちのグループである。
そしてラファエロの素描の基になっているのが、古代ローマの石棺浮彫(3世紀、ローマ、ヴィラ・メディチ蔵)である。さらに、風景の中の裸婦と着衣の男性という組み合わせは、ルーヴル美術館所蔵のティツィアーノの<田園の奏楽>(1510年頃、ルーヴル美術館。なお、この作品はマネの時代にはジョルジョーネ作と考えられていたそうだ)を思わせる。
マネは、古代とルネサンスという、西欧近代絵画の規範となった時代の作品に得た着想を、かなりの大画面(発表当時の寸法は214×270㎝、現状では208×264㎝)に、しかも当初はサロン出品を目的として描いていた。
マネのこの企てのあらゆる点が、画家が自分なりの「歴史画」を制作しようとしていたことを物語っていると鈴木氏は主張している。
先述したように、結局この絵はサロンに入選できず、ナポレオン3世の肝煎りで開かれた「落選者展」で発表された。
その際にマネがつけた題名<水浴図>もまた、この絵が神話画の伝統に根ざしたものであることをそれとなく暗示している。
ところが、この作品を詳細に見るならば、これがもっとも肝心なところで歴史画の定石を裏切っていることに気づくと鈴木氏は指摘している。<草上の昼食>が正統派の歴史画と大きく異なっている点として、次のことを列挙している。
① 舞台や衣服が同時代のものとして描かれている点
過去の歴史画でも場所や服装の綿密な「時代考証」をおこなっている作例は少ないようだが、それでも漠然と「古代風」の建築が背景になっていたり、人物たちが古代彫刻のような衣装をまとっていたり、裸体であったりする方がふつうである。
② 人物相互の関係のあり方
本来歴史画という領域は、古典的な主題の描出を通じて、歴史なり宗教なり哲学なり、何らかの高尚な精神活動に属する特定の観念を表現することを目的とする領域であった。
だから、そこに描かれている人物たちは、性別、年齢、服装、しぐさ、表情などのすべての点で各自の役割を明示する必要があった。それと同時に、相互の関係がはっきりするように、その動作や視線が描き出されていなくてはならなかった。
それに対して、<草上の昼食>の前景の三人はどうか?
彼らは何の共通の行為もしていない。一般には「談笑」の情景とされるが、正確には談笑どころか、全く何のコミュニケーションもおこなっていないようだ。
人物相互のコミュニケーションを描く最大の手段は、視線の交錯を表現することであるが、三人の視線はばらばらの方向に向けられている。女性は鑑賞者を正面から見つめ、隣の男性は画面向かって右の方に目を向けているが、べつにもう一人の男性を見ているというわけでもない。もう一人の男性もまた、一見話をするかのように二人に右手を差し出しているが、その動作の意味は曖昧であり、視線の方向もはっきりしない。
そして遠景の女性についても、彼女と前景の三人の関係がどのようなものかは判らない。
要するに、この四人の登場人物が協同して表現している物語は存在せず、彼らは何の感情も共有していないようにみえる。そして絵画の精神的中心のこのような不在を、伝統的な意味での歴史画と呼ぶことは不可能らしい。
マネはおそらく意図的には近代の歴史画を描こうとしたとされるが、結果として生まれたのは、何か全く異なるものであった。こうした違和感は、発表当時の観衆にも共有されたものであり、パリ郊外の森に裸体の女性と着衣の男性がいっしょにいる情景は「公序良俗」に反するものであったようだ。
そして、マネが「遠近法とデッサン」を知らないと判断されたことが<草上の昼食>に対する厳しい評価であった。
この絵に与えられた僅かな賛辞は、外光の表現の巧みさであった。
ところが、<草上の昼食>の造形的特質は、のちにそのまま、近代絵画の革命の最初の兆候と見なされるようになった。<草上の昼食>発表のわずか10年余りのちに第1回展を開くことになる印象派の画家たちは、伝統的な遠近法やモデリングを外光とその反射による表現におきかえてしまった。そして20世紀美術に至るあらゆる造形的試みは、彼らによって伝統的絵画の空間や形態がご破算にされたところから出発している。<草上の昼食>は、こうしたすべての端緒を開いた絵画とみなされた。
さて、<草上の昼食>の前景の三人のモデルをつとめた人々が誰であるかはわかっている。
① 女性は、マネがしばしばモデルとして用いたヴィクトリーヌ・ムーラン
② 正面向きの男性は、この年マネの妻となるシュザンヌの兄弟フェルディナンド・レーンホフ
③ そして右側の男性のためにはマネ自身の弟、ユージェーヌとギュスターヴが交互に、あるいは引き続いてポーズを取った。
なお、遠景の女性にモデルを用いたとすれば、それはヴィクトリーヌであったであろうとされる。
つまり、マネは<田園の奏楽>の現代版の制作に当たって、着衣の男性には自分と同じ階級のモデルを選び、裸体の女性には職業的モデル(19世紀の常識からいえば下層階級の女)を使っている。
(ヴィクトリーヌはマネの友人の画家アルフレッド・ステヴァンの愛人であったという)
近代絵画創成の象徴は、ここでもまた中産階級出身の男性画家たちの創作のために提供した下層階級の女性の裸体であったと鈴木氏は指摘している。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書、1995年、213頁~220頁)
【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】
フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)
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