歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪ピケティ『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』 その2≫

2021-04-30 19:32:30 | フランス語
≪ピケティ『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』 その2≫
(2021年4月30日投稿)




【はじめに】


今回も、ピケティ『21世紀の資本』にみえるバルザックの『ゴリオ爺さん』について検討してみる。
19世紀の小説家たちは、単に所得と富の階層を正確に描くだけでは満足しなかった。人々がどのように暮らし、所得水準のちがいが日常生活という現実にどんな意味を持っていたかを具体的に説明しているとピケティ氏はみている。とりわけ、バルザックやオースティンの小説にはそれが明白である。
今回のブログでは、『ゴリオ爺さん』に登場するヴォートランが法学生ラスティニャックに説くお説教を中心に考えてみたい。
バルザックの『ゴリオ爺さん』での、ヴォートランのお説教とはいったいどのような内容で、それは何を意味するのか。
ピケティ氏が、なぜ、ヴォートランのお説教を見出しにするほどまでに重視するのかを、読者の皆さんに知っていただきたい。
 なお、重要な箇所はフランス語の原文を併記することにした。



【トマ・ピケティ(山形ほか訳)『21世紀の資本』みすず書房はこちらから】

21世紀の資本

【Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Seuilはこちらから】

Le Capital au XXIe siècle (Les Livres du nouveau monde) (French Edition)



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・オースティンとバルザックの小説
・ヴォートランのお説教(第7章)
・古典的世襲社会――バルザックとオースティンの世界(第11章)
・極端な富の格差は貧困社会における文明の条件なのか?(第11章)
・重要な問題――労働か遺産か?(第7章)
・相続財産と『風と共に去りぬ』
・ヴォートランのお説教が投げかける問い




オースティンとバルザックの小説


富の分配をめぐる知的、政治的な論争は、昔から大量の思いこみと事実の欠如に基づいたものとなっていた。

映画や文学、特に19世紀小説には、各種社会集団の相対的な富や生活水準に関する詳細な情報がいっぱいある。
特に格差の深層構造、それを正当化する議論、そしてそれが個人の生活に与える影響については詳しい。

Nous verrons par exemple que le cinéma et la littérature, en
particulier le roman du XIXe siècle, regorgent d’infomations
extrêmement précises sur les niveaux de vie et de fortune des
différents groupes sociaux, et surtout la structure profonde
des inégalités, leurs justifications, leurs implications dans la vie
de chacun.

実際、ジェイン・オースティンやオノレ・ド・バルザックの小説は、1790年から1830年にかけてのイギリスやフランスにおける富の分配について、実に印象的な描写をしていると、ピケティ氏は賞賛している。
Les romans de Jane Austen et de Balzac, notam-
ment, nous offrent des tableaux saisissants de la répartition
des richesses au Royaume-Uni et en France dans les années
1790-1830.

どちらの小説家もそれぞれの社会において、富の階層構造を身をもって熟知していた。
そして富の隠れた様相や、それが男女の生活に避けがたく与える影響などを把握している。
(そうした影響には、人々の結婚戦略や個人的な希望と失望なども含まれる)

この二人を含む小説家たちは、どんな統計分析や理論分析でも比肩できないほどの迫真性と喚起力をもって、格差の影響を描き出していると、ピケティ氏は高く評している。
Ils en déroulent les implications avec une vérité et
une puissance évocatrice qu’aucune statistique, aucune analyse
savante ne saurait égaler.

(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、2~3頁。Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, pp.16-17.)

ヴォートランのお説教(第7章)


ピケティ氏は、ヴォートランのお説教(第III部第7章)において、ラスティニャックとヴォートランについて、次のようなことを述べている。

ラスティニャックが最も生々しく社会的、道徳的ジレンマに直面する場面は、物語のほぼ半ば、いかがわしい登場人物ヴォートランがラスティニャックに将来の可能性について、お説教をする場面だと、ピケティ氏はみている。
この小説の中で最も陰鬱な瞬間であるという。

ヴォートランは、ラスティニャックとゴリオと同じ、みすぼらしい下宿屋に住んでいる。
口が達者な誘惑者で、囚人としての暗い過去を隠している。
(この点、『モンテ・クリストフ伯』のエドモン・ダンテス、あるいは『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンと同様である。
ただ、ダンテスやジャン・バルジャンは、おおむね尊敬すべき人物であるが、ヴォートランは根っからの悪人で冷笑的である。この点が、対照的である。)

ヴォートランは、巨額の遺産を手に入れるため、ラスティニャックを殺人に引き込もうとする。
ヴォートランは、当時のフランス社会の若者に降りかかるさまざまな運命について、実に生々しいお説教を事細かに与える。

要するに、ヴォートランはラスティニャックに対し、勉強、才能、努力で社会的成功を達成できると考えるのは幻想にすぎないと説く。
法学や医学は専門能力が相続財産より重視される分野であるが、それらを勉強し続けたら、どのくらいのキャリアが待ち受けているのかを、ヴォートランは事細かに説明する。特に、それぞれの職業でどのくらいの年収が望めるかを明確に説く。
(たとえ、ラスティニャックが法学部首席で卒業して法曹界での輝かしいキャリアを築いたとしても、それ自体が多くの妥協を必要とするし、それですらそこそこの年収でやりくりし、本当の金持ちになる希望を捨てなければならないと説く)

ここで、ピケティ氏は、バルザックの『ゴリオ爺さん』を半ページ近く引用している。日本語訳と原文を掲げておこう。

30歳でまだ法服を脱ぎ捨てていなければ、年に1200フラン稼ぐ判事になっているだろう。40歳になると、製粉屋の娘と結婚して収入は6000リーヴル程度だろう。ご苦労様。もしも幸運にもパトロンを見つけられたら、30歳で王族検察官になり、1000エキュ(5000フラン)の報酬をもらい、市長の娘と結婚するかもな。もしも政治絡みの汚い仕事をするつもりがあれば、40歳までに検事総長になれる。……しかしながら、あんたのためを思えばこそ言わせてもらうんだが、フランスには20人の検事総長しかいないのに、あんたのようにその座を狙うものが2万人もいて、なかには出世の階段を昇るためなら、自分の家族ですら売りわたすうつけ者もいるんだぜ。この仕事が嫌なら、別の仕事を探すんだな。ラスティニャック男爵は弁護士になってはいかがだろうかな? すばらしい! 10年間不遇の時を過ごし、月に1000フラン使って蔵書や仕事場を手に入れ、社交に精を出し、判例を入手するために判事助手に胡麻をすり、裁判所の床を舌で舐めることになる。それでもその仕事がものになるというんなら、あえて反対はしないがな。しかしあんた、50歳で5万フラン稼いでいるパリの弁護士の名を5人挙げられるかな?
(原注2)
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、249頁~250頁)

第7章原注2には、次のようにある。
 Balzac, Le père Goriot, 131.[邦訳『ゴリオ爺さん』岩波文庫、1997年、上巻、201-202頁]参照。
所得と富の単位として通常バルザックは、フランあるいはリーヴルとエキュ[エキュは19世紀の銀貨で5フランに相当した]、そしてより稀にルイ・ドール(ルイは金貨で20フランに相当し、アンシャン・レジームには20リーヴルに相当した)を使った。当時はインフレがなかったため、これらすべての単位は安定していて、読者は簡単にそれぞれを変換できる。
第2章参照。第11章ではバルザックが言及した金額についても詳しく論じる。(39頁)

ピケティ氏の原文には、次のようにある。
En substance, Vautrin explique à Rastignac que la réussite
sociale par les études, le mérite et le travail est une illusion.
Il lui dresse un tableau circonstancié des différentes carrières
possibles s’il poursuit ses études, par exemple dans le droit ou
la médicine, domaines par excellence où règne en principe
une logique de compétence professionnelle, et non de for-
tune héritée.

En particulier, Vautrin indique très précisément
à Rastignac les niveaux de revenus annuels auxquels il peut
ainsi espérer accéder.

La conclusion est sans appel : même
en faisant partie des diplômés de droit les plus méritants
parmi tous les jeunes gens de Paris, même en réussisant la
plus brillante et la plus fulgurante des carrières jurisdiques,
ce qui exigera bien des compromissions, il lui faudra dans
tous les ces se contenter de revenus médiocres, et renoncer
à atteindre la véritable aisance :...

Voir H. de Balzac, Le père Goriot, Le Livre de poche, 1983, p.123-135.

(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013. p.378-379.)

Vers trente ans, vous serez juge à douze cents francs par
an, si vous n’avez pas encore jeté la robe aux orties. Quand
vous aurez atteint la quarantaine, vous épouserez quelque
fille de meunier, riche d’environ six mille livres de rente.
Merci. Ayez des protections, vous serez procureur du roi
à trente ans, avec mille écus d’appointements [ cinq mille
francs], et vous épouserez la fille du maire. Si vous faites
quelques-unes de ces petites bassesses politiques, vous serez,
à quarante ans, procureur général. [...] J’ai l’honneur de
vous faire observer de plus qu’il n’y a que vingt procureurs
généraux en France, et que vous êtes vingt mille aspirants
au grade, parmi lesquels il se rencontre des farceurs qui
vendraient leur famille pour monter d’un cran. Si le métier
vous dégoûte, voyons autre chose. Le baron de Rastignac
veut-il être avocat ? Oh ! joli. Il faut pâtir pendant dix ans,
dépenser mille francs par mois, avoir une bibliothèque, un
cabinet, aller dans le monde, baiser la robe d’un avoué
pour avoir des causes, balayer le palais avec sa langue. Si
ce métier vous menait à bien, je ne dirais pas non ; mais
trouvez-moi dans Paris cinq avocats qui, à cinquantes ans,
gagnent plus de cinquante mille francs par an ?(1)

(1)Voir H. de Balzac, Le père Goriot, Le Livre de poche, 1983, p.131.

(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013. p.379.)
なお、『ゴリオ爺さん』のフランス語本の次のものには、該当部分が出てくる。
Honoré de Balzac, Le Père Goriot, Librairie Générale Française, 1995[2018], p.237-239.参照のこと

【Honoré de Balzac, Le Père Goriot, Librairie Générale Françaiseはこちらから】

Le Pere Goriot

引用文からもわかるように、ヴォートランは、検事の道もしくは弁護士の道を選択したら、どのくらいの年収になるかを示す。
ここで簡潔にヴォートランのお説教の中身をまとめてみよう。

〇検事
30歳 判事(年収1200フラン)
40歳 製粉屋の娘と結婚 収入6000リーヴル程度
<パトロンを見つけた場合>
30歳 王族検察官 1000エキュ(5000フラン) 市長の娘と結婚かも
40歳までに検事総長(政治絡みの汚い仕事)
(フランスには、20人の検事総長の席しかない、2万人の中から)

〇弁護士
10年間不遇の時、月に1000フランを蔵書や仕事場に手を入れる。社交に精を出し、判事助手に胡麻をする。
50歳で5万フラン稼ぐパリの弁護人は5人位か

ヴォートランの提案


一方、ヴォートランはラスティニャックにもっと効率がよい方法を提案する。
その社会的成功をとげるための策略が、ヴィクトリーヌ嬢との結婚である。
ヴィクトリーヌ嬢は、下宿屋に住む若い内気な女性で、ハンサムなウージェーヌに首たけである。彼女と結婚すれば、100万フランの富を手中に収められるという。
弱冠20歳で年収5万フラン(資本の5パーセント)を得られる。それは、王族検察官として何年も働いてやっと得られる生活水準の10倍をあっという間に達成できる。

フランス語には次のようにある。

Par comparaison, la stratégie d’ascension sociale que Vautrin
propose à Rastignac est autrement plus efficace. En se mariant
à Mlle Victorine, jeune fille effacée vivant à la pension et
qui n’a d’yeux que pour le bel Eugène, il mettra la main
immédiatement sur un patrimoine de 1 million de francs.

Cela lui permettra de bénéficier à tout juste 20 ans d’une
rente annuelle de 50 000 francs (environ 5 % du capital) et
d’atteindre sur-le-champ un niveau d’aisance dix fois plus élevé
que ce que lui apporterait des années plus tard le traitement
d’un procureur du roi ( et aussi élevé que ce que gagnent
à 50 ans les quelques avocats parisiens les plus prospères de
l’époque, après des années d’efforts et d’intrigues ).
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013. p.379-380.)

ヴィクトリーヌがそれほど美しくもなく魅力的でもないという事実に目をつむって、一刻も早く結婚すべきだと、ヴォートランはラスティニャックに提案する。
ヴォートランの教えに唯々諾々と耳を傾けるが、そこでとどめの一節がやってくる。
つまり、非嫡出子であるヴィクトリーヌが裕福な父から認知されて、100万フランの遺産相続人になるためには、まず彼女の兄を殺さなければならないとする。

前科者のヴォートランは、金さえもらえればこの仕事を引き受けるというが、これはラスティニャックにはできないことだった。
つまり、勤勉より遺産のほうが価値があるとするヴォートランの主張は、腑に落ちたが、殺人を犯すほどの覚悟はなかった。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、250頁~251頁)

古典的世襲社会――バルザックとオースティンの世界(第11章)


19世紀の小説家たちは当時の社会構造を描くために、深層構造を描いている。つまり、快適な生活には大きな財産が必要であったという社会構造である。

通貨、文体、筋書きのちがいにもかかわらず、バルザックとオースティンが描いた不平等の構造、規模感、総量の類似は驚くほどである。
二人の小説家が描いたインフレとは無縁の世界では、金銭的な指標は安定していた。二人とも月並みな人生から抜け出して最低限の優雅さを保って生きるには、どのくらいの所得(財産)が必要か正確に表せた。
閾値は当時の平均所得の約30倍だった。
これより低い水準では、バルザックやオースティンが描いたヒーローたちが尊厳ある生活を送るのはむずかしい。
19世紀のフランス、イギリス社会で最も裕福な1パーセントに属していれば、この閾値を超えることは可能だった。
(これは、社会構造を規定し、小説的な世界を維持するには、十分な規模を持つ少数派だった)

こういった小説の多くでは、最初の数ページで金銭的、社会的、心理的状況が設定される。そして登場人物の生活、競争、戦略、希望を形作る金銭的な指標が示される。

『ゴリオ爺さん』では、老人の没落ぶりが、年間の支出を500フラン(ほぼ当時の平均所得に相当。バルザックにとっては赤貧を意味した)に抑えるために、ゴリオ爺さんが下宿屋ヴォケーの最も汚い部屋に住み、最も乏しい食事で生きることを強いている事実によってすぐ示される[原注38]。

[原注38]
第2章同様に、ここで言う平均所得とは1人当たりの国民所得を意味する。
1810-1820年のフランスの平均所得は年間400-500フラン、パリでは500フランを少し上回る程度だった。使用人の賃金はこの3分の1から半分だった。(58頁)

老人は娘たちのためにすべてを犠牲にしていた。娘たちはそれぞれ50万フランの持参金をもらっていた。それが平均所得のほぼ50倍にあたる年間2万5000フランの賃貸収入を彼女たちにもたらした。

バルザックの小説では、この平均所得が真の豊かさと優雅な暮らしの象徴である財産の基本単位となっている。このように社会の両極端が最初に設定される。

それでもバルザックは、絶望的貧困と真の豊かさの間に、あらゆる中間的状況が存在することを忘れてはいない。
アングレーム近くのラスティニャックの小さな地所は、年間3000フラン(平均所得の6倍)の収益をあげるのがせいぜいであった。
バルザックにとって、これは田舎の貧乏小貴族の典型である。
ウージェーヌの家族は、首都で法学の勉強をするかれに年間1200フランしか仕送りできない。

ヴォートランのお説教における、若きラスティニャックが多大な努力を経た後に、国王の代官として得られるかもしれない5000フラン(平均所得の10倍)という年俸こそが、凡庸さの象徴である。
これこそが勉学だけでは成功できない証拠なのである。

バルザックが描いた社会は、次のようなものである。
当時の平均所得の20-30倍を得ることが最低限の目標である。さらに50倍(デルフィーヌとアナスタジーは持参金のおかげでこれができた)、可能ならばヴィクトリーヌ嬢の100万フランが稼ぎ出す年間賃貸料5万フランによる100倍を得たいと思う社会である。

『セザール・ビロトー』でも、大胆不敵な香水商が100万フランの富を求める。
かれはそのうちの半分を自分と妻のため、残り半分を娘の持参金に使うつもりでいる。そうすることで、娘はよい結婚をして、未来の義理の息子は公証人ロガンの営業権を買い取れると考えている。故郷に帰ることを望むかれの妻は、引退して賃貸料のうち年間2000フランで暮らし、娘には8000フランを持参金として持たせて稼がせればよいと夫を説得しようとする。
しかし、セザールは耳を貸そうとしない。わずか5000フランの賃貸料しか持たずに引退した友人のピルローのようには終わりたくなかった。贅沢に暮らすには、平均所得の20-30倍が必要であり、わずか5-10倍では、生きていくのがやっとだった。

一方、同じ規模感は、海峡の反対側のイギリスにも見出せる。オースティンの『分別と多感』がそれである。
最初の10ページで、ジョン・ダッシュウッドと妻ファニーの間で交わされる恐ろしい会話の中で、構想の核心が確立される。
ジョンはノーランドの広大な地所を相続したばかりで、年間4000ポンドが得られた。
これは当時の平均所得(1800-1810年当時は年30ポンドを超える程度)の100倍以上にあたる。

ノーランドは巨大な地所の典型で、ジェイン・オースティンの小説における富の頂点だった。

年間2000ポンド(平均所得の60倍以上)の地代が入るブランドン大佐とかれのデラフォードの地所は、大地主としては想定範囲内だった。
他の小説では、年間1000ポンドあれば、オースティンの小説の主人公には十分な額だった。
これに対して、年間600ポンド(平均所得の20倍)では、ジョン・ウィロビーはぎりぎり快適な暮らしを送れるだけである。

かれがさっさとマリアンを捨て、ミス・グレイと5万ポンドの持参金(平均所得の80倍にあたる、2500ポンドの年間賃貸料が入る)になびいた理由はこれにちがいなかった。
5万ポンドといえば、為替相場で換算すると、ヴィクトリーヌ嬢の持参金100万フランとほぼ同額である。
バルザックにおけるデルフィーヌとアナスタジーのように、その半分の持参金でも申し分ないものだった。
たとえば、領主ノートンの一人娘でミス・モートンは3万ポンドの資本(平均所得の50倍の賃貸料1500ポンドを生む)を持っていた。それが理想的な女相続人にしていた。
(息子のエドワードが彼女と結婚することを想像しているファラーズ夫人などにとって、ミス・モートンは格好の獲物となっていた)

冒頭の数ページから、ジョン・ダッシュウッドの豊かさが、かれの義妹、エリナー、マリアン、マーガレットの相対的な貧しさと比較される。
彼女たちは母とともに年間500ポンド(1人当たり125ポンド。平均所得の4倍)でやりくりせねばならなかった。
それは、彼女たちがふさわしい夫を見つけるには不十分な額だった。

デボンシャー地方の社交界のゴシップにつかっているジェニングズ夫人は、舞踏会、表敬訪問、音楽の夕べの場で、そのことを思い知らせることになった。
「あなたたちの財産が小さいからみんな尻込みしてしまうのよ」と言う。

バルザックの小説と同じことが、オースティンの小説にもあてはまると、ピケティ氏はみている。
平均所得のわずか5倍や10倍では、質素な生活しか望めなかった。さらに、年間30ポンドという平均に近い所得など言及すらされない。
(これでは使用人の水準とそう変わらないため、語るまでもないという)

また、エドワード・ファラーズが牧師になって、年間200ポンドの生活(平均の6、7倍)とデリフォードの教区を引き受けることを考えた時、ほとんど聖者扱いされる。
それは、かれが身分の低い者と結婚したことに対する罰として、家族がわずかしか与えなかった遺産による収入と、エリナーが持参したわずかばかりの所得で補われても、二人の暮らしがそれほど楽なものになるはずはなかった。
「かれらのどちらも、いくら愛し合っているからといっても、350ポンドの年収が快適な生活を与えてくれると考えるほどではなかった」という。

この幸せな道徳的結末で、問題の本質を見逃してはならないと、ピケティ氏は釘をさしている。
鼻持ちならないファニーの忠告を受け入れ、義妹たちを援助することを拒否し、自分の莫大な財産のうちわずかでも分け与えようとしなかったことで、ジョン・ダッシュウッドはエリナーとマリアンに凡庸な生活を強いた。
(彼女たちの運命は、本の冒頭に出てくるあきれ果てた対話に上り、完全に決まってしまった)

19世紀末には、この手の不平等な金銭的仕組みが米国にも見られるようになった。
〇ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』(1881年出版)
〇その映画化、ウィリアム・ワイラーの『女相続人』(1949年)
これらは、持参金の額をめぐる混乱だけを中心に話が展開する。

計算は無情である。キャサリーン・スローパーの持参金がお目当ての年3万ドルではなく、1万ドルの賃貸料(米国の平均年収の60倍ではなく20倍)しかもたらさないことを知って、婚約者が去っていった。
(このことからわかるように、計算まちがいはしないほうがいい)

男性もまた、時に不安定な立場におかれる。
映画『偉大なるアンバーソン家の人々』で、オーソン・ウェルズは尊大な相続人ジョージの没落を描く。
かれは一時は年収6万ドル(平均の120倍)に恵まれていたが、1900年代の自動車革命の犠牲となり、結局平均以下の年収350ドルの仕事に落ちぶれる。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、426頁~430頁)

極端な富の格差は貧困社会における文明の条件なのか?(第11章)


19世紀の小説家たちは、単に所得と富の階層を正確に描くだけでは満足しなかった。人々がどのように暮らし、所得水準のちがいが日常生活という現実にどんな意味を持っていたかを具体的に説明している。

バルザックやオースティンの小説の登場人物たちは、何十人という使用人たちの奉仕を平然と利用している。
多くの場合、使用人たちは名前さえ記されていない。
時々二人の小説家は、登場人物の気取りや贅沢な要求を嘲っている。たとえば、ウィロビーとの優雅な結婚生活を夢想するマリアンが頰を紅潮させて、年間2000ポンド(平均所得の60倍以上)以下で暮らすのはむずかしいと説くくだりがある。
「私の要求は決して贅沢ではないはずよ。使用人たち、馬車、それもおそらく二台、そして猟師たちを抱えるまともな所帯は、それ以下の収入では維持できませんから」
(エリナーは妹に、それがまさに贅沢なんだと指摘せずにはいられなかった)

同じように、ヴォートランその人も、最低限の尊厳ある生活を送るには、年収2万5000フラン(平均所得の50倍以上)が必要だと述べている。
特にかれは、服、使用人、旅行にかかる費用が譲れないと、細々とした費目をあげつらう。
小説の中でかれが大げさだと言う人はいないが、ヴォートランはあまりにひねくれているので、読者はそう思うはずだ。
かれらの小説の一部登場人物たちが贅沢だとしても、これら19世紀の小説家たちは、格差はある程度必要不可欠なものとして、世界を描いている。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、430頁~432頁)

重要な問題――労働か遺産か?(第7章)


ヴォートランのお説教で最もぞっとするのは、王政復古時代の社会を活写する手短な描写の中に、正確な数字が含まれていることであると、ピケティ氏はみている。
19世紀フランスにおける所得と富の格差はきわめて大きい。最も裕福なフランス人たちの生活水準は、労働所得だけで実現できる水準を大幅に上回っていた。

ヴォートランが詳述した所得に関する実際の数字は重要でないともいう。
(だがかなり正確なものではあるとも付言している)
重要な事実は、19世紀のフランス、さらには20世紀初頭になってからのフランスでも、労働と勤勉さだけでは、相続財産と、そこから生まれる所得による快適さの水準を達成できないことである。これはあまりに明々白々だった。

フランス語の原文には次のようにある。
La question centrale : travail ou héritage ?
Le plus effrayant, dans le discours de Vautrin, est l’exactitude
des chiffres et du tableau social qu’il dessine. Comme nous
le verrons plus loin, compte tenu de la structure des revenus
et des patrimoines en vigueur en France au XIXe siècle, les
niveaux de vie qu’il est possible d’atteindre en accédant aux
sommets de la hiérarchie des patrimoines hérités sont effecti-
vement beaucoup plus élevés que les revenus correspondants
aux sommets de la hiérarchie des revenus du travail.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.380.)

また、18、19世紀のイギリスでも状況は似たり寄ったりだった。
ジェイン・オースティンの主人公たちには、仕事などという問題は存在しない。問題になるのは、相続や結婚で得た財産の規模だけであった。実のところ、過去の世襲社会の自滅が明らかになった第一次世界大戦前まで、世界中どこでも同じことが当てはまったそうだ。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、251頁)

相続財産と『風と共に去りぬ』


この法則の数少ない例外のひとつが米国で、そこでは18、19世紀には相続資本がほとんど意味をもたなかった。
ただ、奴隷と土地という形態の資本が主流の南部州では、古きヨーロッパ同様に相続財産が重んじられた。
『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラへの求婚者たちは、将来の安泰を約束してくれるものとして、自身の勤勉さや才能などあてにはできなかった。
(これはラスティニャックとまったく同じである)
父親(あるいは義父)の所有する農園の規模のほうがずっと重要だった。

ヴォートランは、道徳、功徳、社会正義など歯牙にもかけないことを示すため、米国南部で奴隷所有者となり、黒人たちが作るものによって裕福に暮らし、生涯を終えたいと、若きウージェーヌに告げる(第7章原注3)
(フランスの前科者を魅了した米国は、トクヴィルを魅了した米国とは別のものだった)

第7章原注3には、次のようにある。
原注3:Balzac, Le père Goriot, 131.[邦訳『ゴリオ爺さん』岩波文庫、1997年、上巻207-208頁]参照。(39頁)

『風と共に去りぬ』に関連して、原文には次のようにある。
Dans les États du Sud, où domine un mélange de capital terrien et négrier, l’héritage
pèse aussi lourd que dans la vieille Europe. Dans Autant en
emporte le vent, les soupirants de Scarlett O’Hara ne comptent
pas davantage que Rastignac sur leurs études ou leur mérite
pour assurer leur aisance future : la taille de la plantation de
leur père ― ou de leur beau-père ― importe beaucoup plus.
Pour bien montrer le peu de considération qu’il a pour toute
notion de morale, de mérite ou de justice sociale, Vautrin
précise d’ailleurs dans son même discours à l’intention du
jeune Eugène qu’il se verrait bien finir ses jours comme
propriétaire d’esclaves dans le sud des États-Unis et vivre
dans l’opulence de ses rentes négrières. De toute évidence,
ce n’est pas la même Amérique que Tocqueville qui séduit
l’ex-bagnard.
(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.381-382.)

たしかに、労働所得は常に平等に分配されるわけではないし、相続財産からの所得と労働所得の重要性比較だけで、社会正義を論じるのも、公正さを欠く。それでも民主主義的な近代性というものは、個々の才能や努力に基づいた格差のほうが、その他の格差より正当化できるという信念に基づいている。
(少なくとも、その方向に進んでいると願いたい)

そして実際問題として、ヴォートランへの入れ知恵は20世紀のヨーロッパでは、少なくとも一時は多少なりとも実効性を失っていた。
第二次世界大戦後の数十年では、相続財産がその重要性をほとんど失い、歴史上でおそらく、初めて、労働と勤勉がトップに登りつめるための最も確実なルートとなった。

今日では、各種の格差が再び現れ、社会や民主的発展に対する信頼が揺さぶられていても、ほとんどの人はヴォートランがラスティニャックに入れ知恵した時に比べ、世界は激変をとげたと信じている。
(今日、若い法学生に勉強をやめ、社会的に出世するには前科者の悪巧みを採り入れたほうがよいなどと助言する人がいるだろうか?)
たしかに巨万の財産相続のために手を尽したほうが、賢明な場合も稀にある。でもほとんどの場合、勤勉、労働、そして職業的成功に頼るほうが道徳的だし、利益も大きい。
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、251~252頁)

ヴォートランのお説教が投げかける問い


ヴォートランのお説教は、二つの問いに私たちを注目させるとピケティ氏はいう。
(今後数章で、手持ちのデータを駆使して、その問いに答えてみようとする)
①ひとつが労働所得の相続財産所得に対する相対的な重要性は、ヴォートランの時代から本当に変化したのか。そしてその変化はどのくらいなのか。

②二つめのほうがもっと重要である。もし、そういう変化がある程度は起こったのなら、その原因は何か。また、それをひっくり返すことはできるのか。

ヴォートランのお説教の問題について、原文には次のようにある。
Telles seront donc les deux questions auxquelles nous
conduit le discours de Vautrin et auxquelles nous tenterons
de répondre dans les chapitres qui viennent, avec les données
― imparfaites ― dont nous disposons.
①Tout d’abord, est-on bien sûr que la structure des revenus du travail et des revenus
hérités s’est transformée depuis l’époque de Vautrin, et dans
quelles proportions ?

②Ensuite et surtout, à supposer qu’une telle
transformation ait bien eu lieu, au moins en partie, quelles
en sont exactement les raisons, et sont-elles irréversibles ?

(Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, Éditions du Seuil, 2013, p.383.)
(トマ・ピケティ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『21世紀の資本』みすず書房、2014年、251頁~252頁)




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