地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

柔和な心で【ヴァラーム、天国への扉】

2013-08-10 20:36:16 | 今日の御言葉



あなたがたが望むのはどちらですか。
わたしがあなたがたのところへ
鞭を持って行くことですか、

それとも、愛と柔和な心で行くことですか。


「コリントの信徒への手紙一」 / 4章 21節
新約聖書 新共同訳


神様がいらっしゃらなくなるときは、
宇宙がすべて空になるのです。

空みたいなのです。

しかし神様がいらっしゃるようになれば、
宇宙はいっぱいに満ちるのです。

なぜですか。


愛があるから。


ですから私が一人でいても
神様がいらっしゃることを知れば、
宇宙はいっぱいに満ちるのです。

どこにでもいらっしゃるのです。


どこにでもいらっしゃることを
感じるようになるのです。






★ルーシのキリスト教受容から1025年 


ロシア、ウクライナ、ベラルーシで祝賀行事


◆ボイス オブ ロシア 日本語版 2013年7月18日11:04


ウラジーミル聖公がキエフ・ルーシにビザンツ帝国からキリスト教を導入してから1025年目を迎えた28日、ロシア、ベラルーシ、ウクライナでは、キリスト教受容の記念日が大々的に祝われている。


 祝賀行事の中心地となっているのは、ウクライナの首都キエフ。ウラジーミル公は988年、キエフのドニエプル川で洗礼を受けた。ウラジーミル公は初め多神教徒だったが、信神深いキリスト教徒となり、その後、聖人となった。ウラジーミル公は、ギリシャ正教を国教として導入、ルーシのその後の歴史に大きな影響を与えた。記念日に合わせて、正教のシンボル聖アンドレイ十字がキエフに運ばれた。キエフのウラジーミル丘にあるウラジーミル聖公の記念碑の近くでは、総主教の祈祷が行なわれ、ロシア、ウクライナ、セルビア、モルドバの各大統領、9つの正教会の総主教、世界各国の数百人の司祭が出席したほか、数千人の信者が訪れた。

(http://japanese.ruvr.ru/2013_07_28/118692820/)






★ヴァラーム、天国への扉

◆The Voice of Russia 日本語版 2013年8月8日

教会の言い伝えによると、古代ルーシがキリスト教を受容する28年前の960年、ここの異教の寺院のあった場所にすでに修道院が建立されている。歴史家らはこの言い伝えの年号を懐疑的に受け止めているが、実際、ヴァラーム修道院建立の正確な年はいまだに明らかにされていない。

ヴァラームの存在が初めて書面に現れるのは14世紀。16世紀には、僧院はすでに大きな修道院へと姿を変え、およそ600人の修道士が暮らしていた。ヴァラーム修道院はロシアにおける正教の精神的中心地のひとつに数えられていた。ここでおびただしい数の書物が著されたが、そのどれもが写本を行う修道士らが数ヶ月、数年をかけてこつこつと作業にいそしんだ結果、完成されたものばかりだった。

ヴァラーム修道院の聖なる苦行者らが歩んだ敬虔で信心深い生活については数々の伝説が生まれ出た。この聖なる島を目指して、何千人もも巡礼者らが集まってきた。だがここにいたる道は長く、危険に満ちており、修道院の壁でさえ、そうした苦難から救ってくれるわけではなかった。ヴァラーム寺院はロシアとスウェーデンの境界線上にあり、ここでは何度も戦いの火の手が上げられたため、修道院も押し入られ、財産を失うことも度々だった。そんな中でも最も恐ろしい出来事は、1580年、スウェーデンが起こした大虐殺で、修道院は破壊の限りをつくされ、修道士らは皆殺しにされた。この後、ヴァラームはスウェーデンの支配下におかれることになる。

ヴァラームが解放されたのは、それからようやく百年後。ツァーリ、ピョートル1世の率いるロシア軍が目覚しい勝利をあげ、島を奪還する。1715年、ピョートルはヴァラーム修道院の復興令を発令した。外敵の脅威は去った。だが、新たな困難が待ち受けていた。1754年、島を焼き尽くす大火事が生じ、寺院、修道士らの庵は焼け落ちてしまう。修道院の命はほとんど尽きたかに思われた。1765年に修道院に残っていた修道士の数はたったの11人だったという。

だが、ヴァラーム修道院は不死鳥のごとく、灰の中から見事に蘇った。この復興はひとえに、叡智ある大修道院長ナザリイのおかげだった。ナザリイは僧院を20年にわたって切り盛りし、その生業をとりしきった。ナザリイは修道院を復興し、修道士の厳格な規範を強いた。使節団の活動も再開された。修道士らはヴァラームから遠く離れたシベリア、アラスカのアリューシャン列島まで赴き、正教の信仰を説いて回った。ロシア人がこの場所にたったのはこうした人が初めてだった。

ヴァラームが大掛かりな修復工事を行うことになったのは19世紀の末。古い建物は取り除かれ、新たな主の変容寺院が建てられた。この寺院は当時の人びとに言葉に尽くせぬ感動を与えた。ある巡礼者は回想録にこう書き記している。

「この寺院はヴァラーム修道院の精華であり誇りだ。あらゆる場所に優美さ、洗練された趣味、完全な色の調和が見られる。」

72メートルもの高さの鐘楼がヴァラーム修道院の頭上に勢いよくそびえたち、そこには千プードもの重さの巨大な鐘が吊られ、その音を遠く40キロメートルも先に響かせていた。

ヴァラームは山がちな島なため、ラドガ湖の水を修道院に運ぶのは容易な仕事ではなかった。修道士らは険しい崖をつたい、バケツで水をくみ上げていたが、この仕事が一番堪えるのは冬だった。ダマスキン修道院長の時代、ここに水道が作られる。水は蒸気を動力にして運ばれた。当時、この機械は修道士に代わって、たった1時間で1万リットルもの水を湖からくみ上げた。この水道が登場した後、修道院では機械化が進み、修道士の手作業にかわって機械が薪を割り、粉を挽くようになった。

20世紀初頭には、ヴァラーム修道院は全盛期を迎える。院内には巡礼者用の宿泊所、図書館、厩舎、革製品加工工場、農園が機能していた。菜園、果樹園がすばらしい収穫を上げ、りんごだけでも60種もあったという。ところが1917年、ロシアに社会主義革命が勃発。島はフィンランドの支配下に移され、フィンランド軍の部隊が配備された。1939-40年のソ連とフィンランドとの戦争は修道院に大きな損害をもたらす。建物の多くは爆撃で損壊したが、中心の聖堂と3万冊もの蔵書を収めた見事な図書館だけは奇跡的に破壊を間逃れた。

戦後、ヴァラーム修道院はソ連の支配下に置かれる。修道院は閉鎖され、修道士らはフィンランドへと逃げ出した。ソ連の無神論主義は長い間、この場所の精神を根絶やしにしようとあの手この手をつくした。修道院の建物は見習い水兵の学校、野菜保管庫、クラブ、障害者施設と様々に姿を変えた。この状況が変わったのは、ようやく1979年にここが博物館の地位を獲得してからのことだった。その10年後、ここには再び修道士らが姿を現し、ヴァラーム修道院の歴史に新たなページが開かれることになる。

こんにち、復興した修道院は再び、正教会の精神的な中心地の地位を回復している。毎年、ここを10万人もの観光客、巡礼者らが訪れている。二百年前、聖イグナーチイ(ブリャンチャニノフ)はこんな誌的な表現を残している。

「ヴァラーム。あなたが見上げるこの御影石の岩棚と険しい山は、あなたが天国の僧院へいたるにふさわしい精神の高みなのです。」

(http://japanese.ruvr.ru/2013_08_07/119237277/)


※ソ連・フィンランド戦争とは (冬戦争)

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◼フィンランド戦争 (1939-40年)

1939年11月30日に、ソビエト連邦が
フィンランドに侵入した戦争である。

フィンランドはこの侵略に抵抗し、
多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。

なお、ソ連は、この侵略戦争のため、「全会一致」で
1939年12月14日に国際連盟を「除名」されている。