イエスは言われた。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らは、イエスの答えに驚き入った。
「マルコによる福音書」 / 12章 17節
新約聖書 新共同訳
芸術は神様の創造の偉業に似ています。
芸術家が自らの作品のために渾身の力を注ぐように、
神様も自ら創造された人間と
この世界のために
すべての心を注がれたのです。
【世界史の遺風】
アンブロシウス
ローマ皇帝を屈服させた司教
◆産経新聞 2013年8月29日 07:38
▲イタリア・ミラノのサンタンブロージョ教会にある
アンブロシウスのモザイク画 (写真)
□東大名誉教授・本村凌二
ひとりの人間の力で歴史がどれほど動くのか。レーニンがいなくてもロシア革命はおこったのか。ヒトラーがいなければナチズムはなかったのか。
そのような疑問をもつとき、思い浮かぶ人物がいる。
4世紀のローマ帝国にあって、キリスト教は公認されたが、まだ国教ではなかった。同世紀末に近づくころ、エーゲ海北岸のテサロニケで、民衆数千人が虐殺された。人気のある戦車馭者(ぎょしゃ)が同性愛の禁令を犯したかどで守備隊長に捕らえられたが、民衆がこの隊長を殺してしまった。この知らせに激怒したテオドシウス帝が報復処置を許したのである。
ミラノ司教アンブロシウスは教会会議で皇帝の有罪を宣告し、教会への立ち入りを禁止した。皇帝みずから公に罪を懺悔(ざんげ)しなければ、禁令は解けないと迫る。はじめ帝は勧告に従わなかったが、やがて屈服し、教会の聖礼典を受けた。
俗なる帝権への聖なる教権の勝利であった。なにやら、11世紀の「カノッサの屈辱」を思い出させる。ときの神聖ローマ皇帝が雪のなかで三日三晩も待たされ教皇から破門を解かれたという出来事である。
アンブロシウスは、現代ならフォードやロックフェラーのような実業家肌の人間だったし、そもそも聖職者ではなかった。帝国高官の息子として生まれ、法律や修辞学の高い水準の教育を受けている。若くして政界に進出し、35歳のころはイタリア北部の州知事として活躍した。
そのころミラノで宗派抗争がくりかえされていたが、その収拾にのり出し、あざやかな手さばきで事態を解決したという。たまたま司教が亡くなると、はからずも歓呼する民衆から後任の司教に推挙されてしまう。本人はまだ洗礼さえ受けていなかったから、異例のことだった。
司教になったアンブロシウスは、異端派の聖職者を罷免したり、宮廷内の異端支持勢力をおさえたり、その影響力はしだいに誰もおよばないほどになる。弁舌の才にすぐれ、人柄に力強い魅力があり、民衆は彼につき従うのだった。
とりわけローマの元老院からヴィクトリア女神祭壇を撤去させた経緯は注目される。まだ神々を奉じる異教の信仰も認められていたから、祭壇復旧を願いでる名門貴族のシンマクスと論争になった。「帝国の繁栄はローマ古来の神々を敬うことにかかっている」と唱えるシンマクス。それに対して、アンブロシウスは「キリスト教徒は異教徒にキリストの祭壇を拝することを強いてはいない。異教徒もそうすべきだ」と反論する。女神祭壇はもはや復旧されなかった。
ところで、アンブロシウスの姉は永年の修道女として知られており、このために貞潔であることは彼にとって、ことさら擁護すべき倫理であった。彼自身も生涯独身であったらしい。かのアウグスティヌスはアンブロシウスの手で洗礼をほどこされ、司教の教えに深い感動をおぼえたという。
アウグスティヌスは若くしてマニ教にはまり、肉欲との葛藤にもんもんとする日々だった。そこから回心するなかで、アンブロシウスを尊敬しつづけたが、「彼の独身生活だけは私には辛(つら)いことのように思えた」と正直に語っている。後世に古代最大の教父として名高いアウグスティヌスの言葉だから、なおさら凡俗の徒にはほほえましくもある。

▲テオドシウス帝 (347年 - 395年)
※この人がキリスト教を国教にした。
アンブロシウスという人物には、戦闘する教父の原型が息づいているが、人の心に語りかける懐深いところもあった。有能なテオドシウス帝さえもミラノ司教の威光に屈しなければならなかったのだ。
同帝が懺悔したころ、異教の神殿に詣でたり、神々に犠牲をささげたりすることは禁止されていく。394年、千年以上つづいた古代オリンピック競技の幕が閉じられ、神々の聖火も消えた。
多神教世界から一神教世界への大転換の時代。まだ足腰も丈夫でなかった4世紀のキリスト教が縄張り争いに勝利する。アンブロシウスの強靱(きょうじん)な精神がなかったならば、キリスト教が勝者たりえたかどうか、いまなお、問いかけてみたくなる。
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【プロフィル】アンブロシウス
4世紀キリスト教会の司教。339年ごろ、ローマ貴族の家に生まれ、法律と修辞学を学び、帝国の行政官に。ミラノ在任の州知事のときキリスト教内の宗派対立を収め、74年に司教就任。異端派の放逐や教義固めなどで教会の内部統制を強化し、90年にはテオドシウス帝の民衆虐殺に対し対決姿勢で臨んで屈服させるなど、教会の権力を大きく伸長させた。97年死去。
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【プロフィル】本村凌二
もとむら・りょうじ 昭和22年、熊本県生まれ。東大大学院修了。文学博士。専門は古代ローマ史。著書に『薄闇のローマ世界』『馬の世界史』など。サントリー学芸賞、JRA馬事文化賞、地中海学会賞受賞。