地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

同じ想い【 坂の記憶をたどる 山口百恵と霊南坂】

2014-06-17 20:54:01 | 今日の御言葉
http://kyonchan.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/04/post_ef4d.html



どうか、忍耐と慰めとの神が、
あなたがたに、キリスト・イエスに
ならって互に同じ思いをいだかせ、

こうして、心を一つにし、
声を合わせて、
わたしたちの主イエス・キリストの
父なる神をあがめさせて下さるように。


「ローマ人への手紙」 15章5, 6節
新約聖書 口語訳



考える時間を持ちなさい
祈る時間を持ちなさい
笑う時間を持ちなさい

 
それは力の源
それは地球でもっとも偉大な力

それは魂の音楽

 

遊ぶ時間を持ちなさい
愛し、愛される時間を持ちなさい
与える時間を持ちなさい

それは永遠につづく若さの秘密
それは神が与えてくれた特権



自分勝手になるには、一日は短すぎる

 

読書する時間を持ちなさい
親しくなるための時間を持ちなさい
働く時間を持ちなさい

 
それは知識のわき出る泉
それは幸福へつづく道
それは成功の価値

 
施しをする時間を持ちなさい
それは天国へと導く鍵


マザーテレサ 
(コルカタ(カルカッタ)の
「孤児の家」の壁にある看板より)




▲瀟洒な赤レンガ造りの霊南坂教会 (日本基督教団)

★山口百恵と霊南坂(後編)

◆読売新聞 2014年06月13日 08時30分
http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/hill/20140612-OYT8T50110.html



「熊本バンド」小崎弘道による創立


 霊南坂教会は、現在の同志社大学の1期生で、「熊本バンド」のリーダー的存在だった牧師の小崎弘道と11人の青年たちによって創立された。「熊本バンド」は昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場している。

 「熊本バンド」の由来は、1871年(明治4年)設立の熊本洋学校にまでさかのぼる。藩政改革を求める横井小楠らの実学党の主導で設立された熊本洋学校では、アメリカ人教師、L.L.ジェーンズに感化された生徒がキリスト教に深く傾倒し、それが旧守派の反発を招き、わずか5年で閉校をよぎなくされる。

 学ぶ場を失った30人あまりの生徒たちは、新設間もない京都の同志社英学校(同志社大学の前身)にそろって進学、新島襄の教えを受けることになる。

 ところが、同志社における教育レベルの低さ、学校運営への不満、襄と妻八重の西洋風生活スタイルへの反感などで、襄と「熊本バンド」との間で緊張が生まれるのだった。

 「バンド」とは、英語で一団、一隊を意味し、キリスト教布教に熱心な集団ということで、宣教師たちが熊本洋学校出身の生徒を「熊本バンド」と呼ぶようになった。「札幌バンド」「横浜バンド」と並ぶ、三大バンドの一つである。

 一時はバンドそろって退学かという事態にまで至ったが、恩師ジェーンズの説得で踏みとどまることになる。そのあたりの経緯は、「八重の桜」でも詳しく描かれている。

 「八重の桜」で、襄の臨終の際に枕元で聖書を読んだのが、のちに霊南坂教会を立ち上げる小崎弘道である。バンドの一員に徳富猪一郎、のちの徳富蘇峰がおり、後年、小崎を霊南坂教会に訪ねたときのことを自らの著作に記してもいる。

 「教えの土台を聖書におくことは共通していても、運営の仕方において、同じキリスト教プロテスタントでもいくつかの宗派に分けられます。私たちは会衆派として、デモクラティックを重んじ、教会に集い信者が一緒になって教会の運営を行っています。そして、東京にあって、関西がそのルーツです。新島襄や同志社、『熊本バンド』の青年たちが持つ自由な雰囲気が教会に満ちています。その点は、東京の方々が作った教会とは少し違っており、実際に関西出身の信者の方も少なくありません」

 こう話すのは、同教会牧師の吉岡恵生だ。吉岡自身、同志社大学の出身だ。

 現在の会堂を建築する際、瀟洒(しょうしゃ)な赤レンガ造りという旧会堂の雰囲気は残された。旧会堂の礼拝堂の一部は、新会堂2階の小礼拝堂に移築され、いまでも信者の祈り場として使われている。

丘の上の教会、救いのシンボル


▲当時の雰囲気をいまに伝える、
旧会堂の礼拝堂の一部を移築した小礼拝堂


 小崎弘道を通じて新島襄へつながる由緒ある教会と人気芸能人の結婚式が引き起こした大騒動。これほど不釣り合いな組み合わせはないが、もちろん信者が進んで望んだことではない。実際、山口百恵の結婚式の後、「芸能人を特別扱いしているようで、教会にとっては好ましくない」「式の日1日、教会に近寄れなくて困った」などの声が寄せられたという。

 60年にわたり同教会に通い、教会運営に関する日常の課題について決定を下す役員会の役員を長く務めた池田浩二は、当時をこう振り返る。

 「教会は、キリスト教を広く伝えるという使命を持っており、きっかけがどうであれ、教会に足を運んでもらえることは大歓迎なのです。結婚式を教会で挙げることにより、信仰を得られたという方もいらっしゃいます。門戸を閉ざさず、可能であれば受け入れたい。ただ、受け入れの範囲をどこまでにするかです。だれもかれも、ではない。そこの兼ね合いのむずかしさを実感させられましたね」

 山口百恵の場合、夫となる三浦友和の親族に同教会の信者がおり、その方の名義で申し込みがなされ、当初は一般の方の結婚式だと思われていたという。

 現在、同教会では、信者および同教会が運営する幼稚園、ボーイスカウト・ガールスカウトの関係者、もしくはその紹介があるカップルでしか結婚式を挙げられない。もちろん礼拝はだれでも、いつでも自由に参加できる。

 60年前の霊南坂教会を知る池田によると、当時は周りに高い建物がなく、高台に建つ教会の十字架が六本木や新橋の辺りからよく見えたという。

 再び、吉岡に聞く。

 「先の戦争の際、周りが空襲で被害を受ける中、教会周辺は近くにアメリカ大使館があることもあり、被害を免れたそうです。そして、周辺で被災した信者の方、信者でない方が、教会に難を逃れるために身を寄せたと聞きます。阪神大震災の時もそうでしたが、いざという時には教会が救いの場としての役割を果たします。被災された方にとって、丘の上の教会は、救いのシンボルとして見えたことでしょう」

 高台にある霊南坂教会には、赤坂溜池、虎ノ門、神谷町、六本木の各方面から上っていく道がある。虎ノ門からのルートにあるのが霊南坂で、被災者が希望を求め教会へ向かって坂を上っていったことだろう。

風情をそこなう厳戒態勢


▲坂上からの霊南坂。
右手がホテルオークラで、
左手がアメリカ大使館


 実際に霊南坂を歩いてみた。

 アメリカ大使館前から坂上をのぞくと、大使館側の白い塀ぞいに、等間隔で警察官が立ち目を光らせている。歩道はあるが、通行は禁じられている。9.11以降のテロ対策強化による措置なのだが、風情をそこなうことはなはだしい。

 やむをえず、ホテルオークラ側の蔦つたの緑がきれいな塀ぞいを上っていく。そこそこ勾配はきつい。しばらく歩くと息が切れてくる。

 坂の中途でホテルオークラの正面玄関に通じる広い入り口に出くわす。なまこ壁仕上げの純日本調の現在の建物は、来年2015年8月いっぱいで営業を終え、次の東京オリンピックの1年前、19年春に地上38階建てとして生まれ変わることが先だって発表された。坂の風景は大きく変わることだろう。今の建物の竣工(しゅんこう)が1962年で、前の東京オリンピックの2年前。オリンピックの東京開催ごとに、新しい姿をお披露目することになる。


 オークラ入り口をすぎ、しばらく歩いて坂を上りきったところが大倉集古館前の交差点で、右に折れてすぐに霊南坂教会がある。真っすぐ進めば、山口百恵が披露宴会場となったホテルへ向かった道だ。



 振り返ってみた。坂下に共同通信会館の9階建てビルがあり、その先の視界をさえぎっている。

 女優の高峰三枝子が散歩好きで、霊南坂が最もお気に入りのコースだったことを、映画監督の吉村公三郎が彼女を悼むエッセーで書き記している。

 「あの辺から芝公園まで歩いたものである。戦争も大分きびしくなっているころで、防空演習なんかやっている街の人達は、のんきに歩いている私達を変な眼で見ていた」

 ときに高峰が20代後半、吉村が30代半ばのころの話だ。

 派手なパラソルでも差して歩いていたのだろうか。霊南坂を見下ろしながら、その二人の後ろ姿を想像してみた。(文中敬称略)(メディア局編集部 二居隆司)

【参考資料】

『江戸の坂 東京の坂(全)』横関英一(ちくま学芸文庫、2010年)
『江戸の坂―東京・歴史散歩ガイド』山野勝(朝日新聞社、2006年)
『坂の町・江戸東京を歩く』大石学(PHP新書、2007年)
『江戸東京坂道事典』石川悌二(新人物往来社、1998年)
『増補港区近代沿革図集 赤坂・青山』(港区立港郷土資料館、2006年)
『東京時代MAP 大江戸編』新創社編(新創社、2005年)
『徳富蘇峰の師友たち 「神戸バンド」と「熊本バンド」』本井康博(教文館、2013年)
『読売年鑑1981』読売新聞社編(読売新聞社、1981年)
『週刊文春』1980年12月4日号
『週刊女性』1980年12月9日号
『女性自身』1980年12月11日号
『女性自身』1081年10月29日号
『読売新聞』1990年5月28日付夕刊

2014年06月13日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun



★新おとな総研

坂の記憶をたどる

★山口百恵と霊南坂(前編)

◆読売新聞2014年05月30日 08時30分



挙式に取材陣、ファン5000人


▲結婚式を挙げた霊南坂教会から披露宴会場となった東京プリンスホテルまでの道筋を埋め尽くした取材陣とファン。その数、5000人との記事もある(1980年11月19日、読売新聞東京本社写真部)


 「よく大事に至らなかったと思いますよ。誰もそんな混乱を予想していないので、ほとんどガードマンはいない。死人が出てもおかしくなかった」

 芸能リポーターで、現目黒区議会議員の須藤甚一郎は“その日”、川崎敬三司会の「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)の取材スタッフの一員として、喧騒けんそうの現場を目の当たりにした。

 1980年(昭和55年)11月19日――。

 芸能界のトップアイドル、山口百恵と将来を嘱望される若手俳優、三浦友和の華燭かしょくの典が東京・港区の霊南坂教会で執り行われた。そのとき百恵21歳、友和28歳。

 当時の週刊誌の記事をひもといてみると、「取材陣500人、ファン3000人」「取材陣とファンで5000人」とある。記事に付けられた写真を見ると、なんとか車がすれ違えるぐらいの狭い道路を取材陣がびっしりと埋め尽くし、一部は道路わきの壁の上に押し上げられている。

 混乱がピークに達したのは、2人を乗せたハイヤーが披露宴会場の東京プリンスホテルに向け出発したときだった。

 再び、須藤に振り返ってもらう。

 「ハイヤーの後部座席の窓に黒いフィルムを貼り付けたのが混乱のもとだった。ちゃんと見せていれば問題はなかったのに、見えないのでなんとかカメラで撮ろうとみんな前に押し寄せたのです」 

 ハイヤーのボディーは何か所もへこまされ、バックミラーの片方が破損した。ハイヤーが通り過ぎたあとには、数え切れないほどの靴やカバンが散乱していた。

 霊南坂教会は2人の挙式から5年後の85年に、隣接するアークヒルズの再開発にともない、現在地に移転している。旧会堂があったのは、いまのアークガーデンの一角、「旧霊南坂教会礼拝堂跡碑」が建つあたりだ。現会堂から直線距離にして100メートルほどだろうか。

 須藤の記憶と当時の住宅図などを照らし合わせると、ハイヤーは日本最古の私立美術館・大倉集古館の交差点を右折、つまり霊南坂とは逆の方向に向かったものとみられる。披露宴会場の東京プリンスホテルに向かう近道だ。

 交差点から霊南坂を下ると地下鉄・虎ノ門駅がすぐそばだ。ひと目2人を見ようと全国から集まった多くのファンは、黒いフィルムの貼られたハイヤーを垣間見ただけで、肩を落としとぼとぼと坂を下っていったことだろう。

レンズからものすごいエネルギー



▲山口百恵について熱く語る篠山紀信。
「彼女は時代のアイコンだった」
(撮影・高梨義之)



 霊南坂の名前は、江戸の慶長年間(1596-1615)に、現在港区高輪にある東禅寺(臨済宗妙心寺派)を開山した霊南(嶺南)和尚が住んでいたことにちなむ。

 付近一帯は江戸時代、武家屋敷が占め、いまの大倉集古館と霊南坂をはさんだ一角(アメリカ大使館の敷地の一部)には、幕府の消防組織である「火消屋敷」があり、赤坂溜池が近くにあったことから、溜池の火消小屋と呼ばれていた。

 霊南坂教会の設立は1879年(明治12年)にまでさかのぼり、1917年(大正6年)には東京駅などの設計で知られる辰野金吾の手による旧会堂が建てられた。

 山口百恵が三浦友和の名前をあげ、突如「恋人宣言」したのは、79年(昭和54年)10月20日、大阪でのコンサートだった。翌年3月に婚約発表、合わせて結婚前の引退も発表された。

 そして、10月5日、日本武道館でファイナルコンサートが行われ、7年半の芸能生活にピリオドが打たれた。以来、彼女が表舞台に出ることはいっさいない。

 写真家の篠山紀信は、山口百恵のデビュー年から引退まで、最も数多く彼女を撮影したカメラマンの一人だ。実は結婚式の際、ただ一人オフィシャルカメラマンとして教会内で撮影したのが篠山だった。

 ただ、プライベートでの撮影だったこともあり、仲間内から「なんでお前だけ中にいるんだ」と嫌味を言われたことを覚えている程度で、教会内での出来事はほとんど記憶にないという。

 篠山は、山口百恵の印象について、こう話す。

 「初めて会ったのは、彼女が中3の夏、14歳のときでした。わりとおとなしい、普通の女の子で、いつもはきはき、元気いっぱいという、いわゆる普通のアイドルのイメージとはかけ離れていた。ところが、レンズを向けると、ものすごいエネルギーを発散する。そこがものすごく魅力的でしたね」

なんともいえない色気と陰り

 彼女を撮った写真のうち、最も印象に残っているものの一つが、セーラー服姿でどしゃぶりの雨の中を歩いている1枚だという。

 「学校帰りで彼女はセーラー服でした。雨でびしょびしょに濡ぬらすと色っぽく写るのではと思い、近所のガソリンスタンドで洗車用のホースを借りて、人工の雨を降らせて撮影しました。雨の中を、傘もささずに、とぼとぼと歩いている。なんともいえない、色気、陰りがありましたね。

 もちろん中3の彼女は、自分ではそれを意識してはいません。ところが、その写真が雑誌に掲載され、自分で目にすることで、次に撮影に来るときに、そういったものを内面に持ってやってくるのです。するとこちらは、もっと違う彼女を引き出してやろうという気持ちになる。そのように互いが次々に新しい姿を追い求める、カメラマンと被写体との理想的な関係が彼女との間にはありました。そういう意味では希有けうな存在でしたね」

 突然の「恋人宣言」から引退・結婚まで1年あまり。その間、婚約発表、結納、ファイナルコンサート、2人が主演した最後の映画「古都」の撮影・公開など、フィナーレに向けての大掛かりなイベントが相次ぐ。

 「1年がかりで彼女の引退を盛り上げてきた。こんな国民的な行事は二度とないだろう」

 とは、前出の須藤の弁だ。

まさに70年代時代のアイコン


 この年国内では、大平正芳首相の選挙中の急死で衆参同日選挙に自民党が圧勝し、イエスの方舟事件や銀座の1億円拾得事件が起き、袴田事件の死刑が確定した。海外では、ソ連のアフガン侵攻に反発した欧米各国がモスクワ五輪をボイコットし、光州事件、イラン・イラク戦争といった動乱が相次ぐ。

 2人が結婚式を挙げた11月には、王貞治が現役引退を表明し(4日)、越路吹雪が亡くなり(7日)、翌12月8日には、ジョン・レノンがファンに射殺された。巷ちまたでは、空前の漫才ブームで、B&Bのギャグ「もみじまんじゅ~」が意味もなく叫ばれていた。

 80年代という新たな時代の訪れを感じさせるような、騒然とした1年を通し、主役はつねに山口百恵だった。

 前出の篠山は、山口百恵について、こう感慨をもらす。

 「70年代を象徴する女性で、彼女なしでは70年代は語れない。まさに時代のアイコンで、撮影を通して僕も彼女と一緒に70年代を駆け抜けたような気がする」

 時代の寵児(ちょうじ)、山口百恵の新たな門出を祝福した霊南坂教会。その教会の名の由来となった坂を背に、彼女は芸能界をあとにした。(続く、文中敬称略)(メディア局編集部 二居隆司)

2014年05月30日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun


【新おとな総研】
坂の記憶をたどる
山口百恵と霊南坂(後編)(2014年06月13日)
山口百恵と霊南坂(前編)(2014年05月30日)