地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

後の代【中国 ソ連の脅威消滅で靖国利用】

2013-08-15 00:05:28 | 今日の御言葉




これをあなたがたの子たちに語り、
子たちはまたその子たちに語り、
その子たちはまたこれを

後の代に語り伝えよ。


「ヨエル書」/ 1章 3節
旧約聖書 口語訳


傷ついて生きることに疲れたとき
神様に祈ってみなさい
生きる勇気を与えてくださいと。

悲しみに涙がとまらないとき
思いを馳せてみなさい
もっと大きな悲しみに
涙している人に。

喜びがあなたの心をみたすとき
祈ってみなさい
この幸せが多くの人にも与えられるように。





「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」


「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」


「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、
排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、
国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」


ブルーノ・ビッテル
(ビッター神父 )

※上智大学イエズス会の院長であり
ローマ教皇使節代理 (バチカン大使館代理公使 )を
昭和27年まで勤めていた。


(『マッカーサーの涙―ブルノー・ビッテル神父にきく』 )
P117-119 1973年 朝日ソノラマ



※あなたのおっしゃるアジアって
どこの国のことかしら。


★中国 ソ連の脅威消滅で靖国利用し
日本に圧力と櫻井よしこ氏


◆NEWS ポストセブン 8月14日 7時5分配信


 安倍首相の靖国神社参拝をめぐって中国、韓国からの攻勢がますます強くなっている。自国を守るために戦死した先人の霊を悼む行為は国家指導者にとって万国共通の責務であるはずだが、我が国では残念ながらそうではない。なぜ首相の靖国参拝はかくも“政治問題”となってしまったのか。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が解説する。

 * * *
 これまでの報道や安倍首相自身の発言から、安倍首相が靖国参拝の深い意味も、靖国参拝が「問題化」した経緯もよくよく理解されていることが伝わってきます。

 いわゆるA級戦犯の方々は1978年秋の例大祭の直前に合祀され、1979年春に毎日新聞によってスクープされました。1979年、大平正芳首相は春の例大祭にも秋の例大祭にも参拝しましたが、その年の暮れに中国を訪問すると、大平首相は大歓迎を受けました。

 その翌年、靖国参拝で知られていた中曽根康弘氏が訪中した際には、中国人民解放軍副参謀長の伍修権氏が、日本の軍事費の倍増を求めました。つまり、中国は靖国参拝をまったく気にも留めておらず、まして日本の軍国主義と結びつけて考えてはいなかったのです。それは韓国も同様です。

 その後も、日本の首相は靖国神社を参拝し続けました。中国が方針を換えたのはA級戦犯の合祀が明らかになってから6年半も後、中曽根康弘首相が1985年8月に参拝した後のことです。

 ソ連が弱体化し、1985年3月にゴルバチョフ大統領が誕生すると、中国はソ連の脅威を言い立てる必要がなくなり、今度は日本に圧力をかけるために靖国参拝を利用するようになりました。つまり参拝批判は「国民感情」ではなく、あくまでも政治的要因だったのです。

 安倍首相は今年5月にアメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』のインタビューを受け、2006年の小泉首相の靖国参拝を「心の問題」として支持した、ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授の見解を引いて、こう答えました。

「ドーク教授は、南北戦争での南軍将兵が埋葬されたアーリントン国立墓地を歴代大統領が訪れたが、南軍がその保持のために戦った奴隷制の承認を意味はしないと言明しました。靖国参拝についても同じことが言えると思います」

 このように、靖国参拝がA級戦犯の方々や軍国主義を賛美するものではないと説明し続けることこそ、大切です。


(週刊ポスト2013年8月16・23日号)




http://cotodama-6000.iza.ne.jp/blog/entry/1747757/



http://ccce.web.fc2.com/si/yasukunig.html

愛する子【封じられた集団自決の真実、琉球新報が全面敗訴】

2013-08-14 14:06:57 | 今日の御言葉

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」


「マルコによる福音書」 / 9章 7節
新約聖書 新共同訳


世界中に誰一人わかる人が
いなくても

神様と私との間にあった
内容は

誰にも否定できない
事実として

存在します。






▲「赤松さん、梅沢さんの名誉を守る」と語る上原正稔さん。
(写真は上原さんのHPから)
http://ueharashonen.web.fc2.com/from_osaka.html


琉球新報が「パンドラ訴訟」の上告を断念し、
全面敗訴が確定した。
(2013年8月12日)



【日曜に書く】
★論説委員・石川水穂 封じられた集団自決の真実


◆産経新聞2013年8月11日 03:08


琉球新報が敗訴


 先月末、沖縄で集団自決の新聞掲載をめぐり、注目すべき判決が出された。

 沖縄戦のドキュメンタリー作家、上原正稔氏が琉球新報に連載した「パンドラの箱を開ける時」の中で、慶良間諸島での集団自決の部分の掲載を拒否されたのは契約違反だと訴えた訴訟で、福岡高裁那覇支部は上原氏の訴えを一部認め、琉球新報に105万円の支払いを命じた。

 集団自決は昭和20年3月、渡嘉敷、座間味両島で起き、計約500人の住民が手榴弾(しゅりゅうだん)などで自決した事件である。「鉄の暴風」(昭和25年、沖縄タイムス社)では、それぞれの島の守備隊長だった赤松嘉次大尉と梅沢裕少佐の自決命令によるものとされ、その誤った事実が教科書などで独り歩きしてきた。

 「パンドラの箱を開ける時」の連載が始まったのは平成19年5月下旬だ。集団自決が日本軍の命令(強制)だったとする教科書記述に、文部科学省が「命令の有無は明らかでない。誤解の恐れがある」と検定意見を付け、これに地元紙の琉球新報や沖縄タイムスなどが強く反発していた時期である。


※戦傷病者特別援護法とは (厚生労働省HPより)
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido03/index.html

※援護法の適用を受けるために集団自決命令を
偽証したことが判明した。


 掲載を拒否されたのは第1章の第2話「慶良間で何が起きたか」だ。上原氏は渡嘉敷島の集団自決を目撃した元米兵、グレン・シアレス伍長の手記や、同じ場面を報じた1945(昭和20)年4月2日付ニューヨーク・タイムズの記事を引用し、日本側の記録や住民の証言をまじえながら、数十回の原稿に仕上げる予定だった。

 元米兵の手記やニューヨーク・タイムズの記事は上原氏が発見し、琉球新報の以前の連載でも取り上げたものだ。

▼赤松元大尉の手紙

 上原氏はさらに、「パンドラの箱を開ける時」の最終回で、掲載拒否された第2話を要約した原稿を書き、琉球新報に見せたが、これも拒否された。

 座間味島の女子青年団長だった女性が後に「梅沢少佐の自決命令はなかった」と告白した事実や、「遺族に援護法を適用するため、軍命令があったことにした」という元琉球政府援護担当者の証言を報じた産経新聞の記事(平成18年8月27日付)などを取り上げた内容だ。


 赤松氏が渡嘉敷島の元巡査に宛てて書いた次の手紙も紹介されていた。

 「真相が明白にされ、私たちの汚名がぬぐい去られる日を期待して努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせてともに戦ったように、次の世代が憎しみあうことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません」

 この手紙は新資料である。

 訴訟で、琉球新報側は掲載拒否の理由について「前と同じことを書いている」「新味のない焼き直し」などと主張した。




 上原氏側の徳永信一弁護士は「新聞社の編集権と作家の表現の自由との衝突という裁判を想定していたが、そうはならなかった」と振り返る。

 19年、琉球新報は「軍命の事実は消せない」(7月5日付社説)、「断固譲れない検定意見撤回」(9月8日付社説)などと繰り返し文科省の検定を批判した。掲載拒否の真の理由は、「軍命がなかった」とする上原氏の原稿が同紙の検定批判キャンペーンに水をさすと考えたからではないか。

 1審・沖縄地裁は琉球新報の主張を認め、上原氏の請求を棄却したが、2審・福岡高裁那覇支部は「合理的な理由なく、掲載を一方的に拒否した」と判断し、上原氏が逆転勝訴した。

 集団自決のような戦争のある場面について、以前に発表した資料を引用しつつ、新資料を加えて再検証する手法は、単なる焼き直しではない。琉球新報の主張には、少し無理がある。



▼芽生えた自由な言論

 20年2月、梅沢少佐の伝令役だった座間味島の民宿経営者が「梅沢少佐は住民の集団自決を止めようとした」と産経などに証言した。民宿経営者はその前に、琉球新報と沖縄タイムスにも「真実を話したい」と連絡したが、どちらも取材に来なかったという。沖縄のメディアには今も、異論を認めようとしない空気があるようだ。

 21年、沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」に、集団自決の軍命令はなかった-とする上原氏と詩人で同誌編集長の星雅彦氏による特集記事が掲載され、反響を呼んだ。

 閉ざされた沖縄の言語空間の中で芽生えた2人の自由な言論活動の今後に注目したい。

(いしかわ みずほ)


▲『集団自決の真実』曽野綾子 (写真)


柔和な心で【ヴァラーム、天国への扉】

2013-08-10 20:36:16 | 今日の御言葉



あなたがたが望むのはどちらですか。
わたしがあなたがたのところへ
鞭を持って行くことですか、

それとも、愛と柔和な心で行くことですか。


「コリントの信徒への手紙一」 / 4章 21節
新約聖書 新共同訳


神様がいらっしゃらなくなるときは、
宇宙がすべて空になるのです。

空みたいなのです。

しかし神様がいらっしゃるようになれば、
宇宙はいっぱいに満ちるのです。

なぜですか。


愛があるから。


ですから私が一人でいても
神様がいらっしゃることを知れば、
宇宙はいっぱいに満ちるのです。

どこにでもいらっしゃるのです。


どこにでもいらっしゃることを
感じるようになるのです。






★ルーシのキリスト教受容から1025年 


ロシア、ウクライナ、ベラルーシで祝賀行事


◆ボイス オブ ロシア 日本語版 2013年7月18日11:04


ウラジーミル聖公がキエフ・ルーシにビザンツ帝国からキリスト教を導入してから1025年目を迎えた28日、ロシア、ベラルーシ、ウクライナでは、キリスト教受容の記念日が大々的に祝われている。


 祝賀行事の中心地となっているのは、ウクライナの首都キエフ。ウラジーミル公は988年、キエフのドニエプル川で洗礼を受けた。ウラジーミル公は初め多神教徒だったが、信神深いキリスト教徒となり、その後、聖人となった。ウラジーミル公は、ギリシャ正教を国教として導入、ルーシのその後の歴史に大きな影響を与えた。記念日に合わせて、正教のシンボル聖アンドレイ十字がキエフに運ばれた。キエフのウラジーミル丘にあるウラジーミル聖公の記念碑の近くでは、総主教の祈祷が行なわれ、ロシア、ウクライナ、セルビア、モルドバの各大統領、9つの正教会の総主教、世界各国の数百人の司祭が出席したほか、数千人の信者が訪れた。

(http://japanese.ruvr.ru/2013_07_28/118692820/)






★ヴァラーム、天国への扉

◆The Voice of Russia 日本語版 2013年8月8日

教会の言い伝えによると、古代ルーシがキリスト教を受容する28年前の960年、ここの異教の寺院のあった場所にすでに修道院が建立されている。歴史家らはこの言い伝えの年号を懐疑的に受け止めているが、実際、ヴァラーム修道院建立の正確な年はいまだに明らかにされていない。

ヴァラームの存在が初めて書面に現れるのは14世紀。16世紀には、僧院はすでに大きな修道院へと姿を変え、およそ600人の修道士が暮らしていた。ヴァラーム修道院はロシアにおける正教の精神的中心地のひとつに数えられていた。ここでおびただしい数の書物が著されたが、そのどれもが写本を行う修道士らが数ヶ月、数年をかけてこつこつと作業にいそしんだ結果、完成されたものばかりだった。

ヴァラーム修道院の聖なる苦行者らが歩んだ敬虔で信心深い生活については数々の伝説が生まれ出た。この聖なる島を目指して、何千人もも巡礼者らが集まってきた。だがここにいたる道は長く、危険に満ちており、修道院の壁でさえ、そうした苦難から救ってくれるわけではなかった。ヴァラーム寺院はロシアとスウェーデンの境界線上にあり、ここでは何度も戦いの火の手が上げられたため、修道院も押し入られ、財産を失うことも度々だった。そんな中でも最も恐ろしい出来事は、1580年、スウェーデンが起こした大虐殺で、修道院は破壊の限りをつくされ、修道士らは皆殺しにされた。この後、ヴァラームはスウェーデンの支配下におかれることになる。

ヴァラームが解放されたのは、それからようやく百年後。ツァーリ、ピョートル1世の率いるロシア軍が目覚しい勝利をあげ、島を奪還する。1715年、ピョートルはヴァラーム修道院の復興令を発令した。外敵の脅威は去った。だが、新たな困難が待ち受けていた。1754年、島を焼き尽くす大火事が生じ、寺院、修道士らの庵は焼け落ちてしまう。修道院の命はほとんど尽きたかに思われた。1765年に修道院に残っていた修道士の数はたったの11人だったという。

だが、ヴァラーム修道院は不死鳥のごとく、灰の中から見事に蘇った。この復興はひとえに、叡智ある大修道院長ナザリイのおかげだった。ナザリイは僧院を20年にわたって切り盛りし、その生業をとりしきった。ナザリイは修道院を復興し、修道士の厳格な規範を強いた。使節団の活動も再開された。修道士らはヴァラームから遠く離れたシベリア、アラスカのアリューシャン列島まで赴き、正教の信仰を説いて回った。ロシア人がこの場所にたったのはこうした人が初めてだった。

ヴァラームが大掛かりな修復工事を行うことになったのは19世紀の末。古い建物は取り除かれ、新たな主の変容寺院が建てられた。この寺院は当時の人びとに言葉に尽くせぬ感動を与えた。ある巡礼者は回想録にこう書き記している。

「この寺院はヴァラーム修道院の精華であり誇りだ。あらゆる場所に優美さ、洗練された趣味、完全な色の調和が見られる。」

72メートルもの高さの鐘楼がヴァラーム修道院の頭上に勢いよくそびえたち、そこには千プードもの重さの巨大な鐘が吊られ、その音を遠く40キロメートルも先に響かせていた。

ヴァラームは山がちな島なため、ラドガ湖の水を修道院に運ぶのは容易な仕事ではなかった。修道士らは険しい崖をつたい、バケツで水をくみ上げていたが、この仕事が一番堪えるのは冬だった。ダマスキン修道院長の時代、ここに水道が作られる。水は蒸気を動力にして運ばれた。当時、この機械は修道士に代わって、たった1時間で1万リットルもの水を湖からくみ上げた。この水道が登場した後、修道院では機械化が進み、修道士の手作業にかわって機械が薪を割り、粉を挽くようになった。

20世紀初頭には、ヴァラーム修道院は全盛期を迎える。院内には巡礼者用の宿泊所、図書館、厩舎、革製品加工工場、農園が機能していた。菜園、果樹園がすばらしい収穫を上げ、りんごだけでも60種もあったという。ところが1917年、ロシアに社会主義革命が勃発。島はフィンランドの支配下に移され、フィンランド軍の部隊が配備された。1939-40年のソ連とフィンランドとの戦争は修道院に大きな損害をもたらす。建物の多くは爆撃で損壊したが、中心の聖堂と3万冊もの蔵書を収めた見事な図書館だけは奇跡的に破壊を間逃れた。

戦後、ヴァラーム修道院はソ連の支配下に置かれる。修道院は閉鎖され、修道士らはフィンランドへと逃げ出した。ソ連の無神論主義は長い間、この場所の精神を根絶やしにしようとあの手この手をつくした。修道院の建物は見習い水兵の学校、野菜保管庫、クラブ、障害者施設と様々に姿を変えた。この状況が変わったのは、ようやく1979年にここが博物館の地位を獲得してからのことだった。その10年後、ここには再び修道士らが姿を現し、ヴァラーム修道院の歴史に新たなページが開かれることになる。

こんにち、復興した修道院は再び、正教会の精神的な中心地の地位を回復している。毎年、ここを10万人もの観光客、巡礼者らが訪れている。二百年前、聖イグナーチイ(ブリャンチャニノフ)はこんな誌的な表現を残している。

「ヴァラーム。あなたが見上げるこの御影石の岩棚と険しい山は、あなたが天国の僧院へいたるにふさわしい精神の高みなのです。」

(http://japanese.ruvr.ru/2013_08_07/119237277/)


※ソ連・フィンランド戦争とは (冬戦争)

画像には著作権が存在する可能性があります。ご了承ください

◼フィンランド戦争 (1939-40年)

1939年11月30日に、ソビエト連邦が
フィンランドに侵入した戦争である。

フィンランドはこの侵略に抵抗し、
多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。

なお、ソ連は、この侵略戦争のため、「全会一致」で
1939年12月14日に国際連盟を「除名」されている。




国と国【ぬるま湯から出て 日本が主張すべきこと】

2013-08-09 00:05:34 | 今日の御言葉
献花するオリバーストーン監督。
ありがとうございます。



主は国々の争いを裁き、
多くの民を戒められる。


彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。


国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。


「イザヤ書」 / 2章 4節
旧約聖書 新共同訳



神様がいくら愛の方であるからといって
ひとりで愛を味わうことはできません。


人間がいなければ
神の愛も役立たないのです。


そのために神様は
人間救済の課題を
捨てきれずにこられたのです。


神様は唯一のお方であり、



人類は兄弟姉妹です。



言語と人類と文化の違いはあっても、
すべて同じなのが、人間です。





▲長崎の「焼き場に立つ少年」


★原爆問題-自虐のぬるま湯から出て
日本が主張すべきこと


◆産経新聞 2013年8月8日 11:50


 「私たち日本人は、唯一の戦争被爆国民であります。その非道を後の世に、また世界に伝え続ける務めがあります」

 安倍晋三首相が6日に広島市で行われた平和記念式典でこうあいさつし、原爆投下について「非道」という言葉で非難したことに注意をひかれた。式典には米国のルース駐日大使も参列しており、首相は歴史問題でやんわりと米国を牽(けん)制(せい)したといえるからである。

 折しも読売新聞には映画「プラトーン」や「JFK」で知られる米映画監督、オリバー・ストーン氏のインタビュー記事が掲載されていた。ストーン氏はこう語っていた。

 「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ」「日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたかを学んでほしい」

 このような見方は米国では必ずしも主流派ではないだろう。とはいえ多様な意見、見解が存在し、かつ堂々と表明されるのは米国らしい懐の深さだといえる。主要紙が平気で「原爆投下は神の懲罰だ」(中央日報)と書く一方で、自国に都合の悪い評論家、呉善花氏の入国は理由も示さず拒否する韓国とは全く違う。





▼「戦争に負けたから仕方ない」と自虐のぬるま湯に


 ただ、日本も韓国を笑ってばかりはいられない。戦後ずっと、原爆投下の理非追及も不当性や被害を訴えるのも控えめで、「戦争に負けたから仕方ない」と自虐のぬるま湯に閉じこもり、問題をあいまいにしてきたことは否めない。

 例えば、広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた有名な碑文がある。

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

 主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされるような悪いことはもうしません」と言っているかのように読める。

 実際、東京裁判で被告全員無罪を主張したインドのパール判事が広島を訪れた際にこの碑文を知り、「過ちは誰の行為を指しているのか。原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である」と憤ったエピソードはよく知られている。

 広島市のホームページによると、碑文の趣旨は「原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというもの」だそうだが、そう読み取れるだろうか。

 また、長崎市長を4期務めた本島等氏は平成10年8月掲載の産経新聞のインタビューにこう語っていた。

 「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」


▼オバマ氏へ「原爆投下、現在もその選択は正しかったかと…」質問を


 一般市民が無差別に大量虐殺された日本側がこんな状態では、米国が原爆投下の正当化姿勢を改めることは期待し難い。オバマ大統領が21年11月に来日して首相官邸で記者会見を行った際、幹事社だった筆者はこんな代表質問を用意した。

 「過去に日本に2発の原爆が投下されたことについての歴史的な意味をどうとらえ、現在もその選択は正しかったと考えているか」

 「核なき世界」を目標とする大統領も、この質問には一切答えずはぐらかした。防戦一方で勝てるゲームはない。歴史問題をめぐって日本も、たまには相手の痛いところを突くぐらいした方がよいはずである。

(政治部編集委員)




▲安倍晋三首相(当時)と
プロシャント・パール氏
(パール判事の長男 )との懇談。

2007年8月15日 撮影 (資料写真)






★「日本への原爆投下の主たる目的はソ連への牽制。

軍事的必要性なかった」


【産経抄】8月6日


◆産経新聞2013年8月6日 03:04


 ▼昨年の原爆忌、広島と長崎で開かれた平和式典に、原爆投下を命じたトルーマン元米大統領の孫に当たるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが出席して、話題になった。今年の外国人参列者の「主役」は、米映画監督のオリバー・ストーンさんだろう。

 ▼社会派監督として知られるストーンさんは昨年、第二次世界大戦前夜からオバマ大統領の登場までを、独自の視点で追いかけたドキュメンタリー「もうひとつのアメリカ史」を制作した。そのなかで、日本への原爆投下の主たる目的はソ連への牽制(けんせい)であり、軍事的な必要性はなかったと主張している。


※ピーター カズニックさん (左側) と
オリバー ストーン監督 (写真)

 ▼全米で論争を引き起こした番組の脚本は、アメリカン大学歴史学科のピーター・カズニック教授と共作した。カズニックさんは毎年夏、学生を連れて広島、長崎を訪れており、今回ストーン監督も同行したというわけだ。

 ▼1995年、ワシントンのスミソニアン博物館が「原爆展」を企画したところ、退役軍人会などの反対で、事実上、中止に追い込まれたことがあった。そのとき近くにあるアメリカン大学で、広島、長崎の被爆資料の公開にこぎつけたのが、カズニックさんだった。



 ▼「原爆のおかげで戦争が終わり、アメリカ兵だけでなく、多数の日本人の命も救われた」。大多数のアメリカ人が今もこう信じている。誤った歴史観を正すために、お二人には今後も奮闘していただきたい。ただ、気になることがある。

 ▼カズニックさんは、最近の朝日新聞紙上で、核廃絶だけでなく、脱原発、憲法9条堅持、そして米国の軍事政策への反対を呼びかけていた。余計なお世話だ。きょうと9日は、何より原爆の犠牲者を哀悼する日でなければならない。政治を持ち込まないでほしい。



▲『長崎の鐘』永井 隆 (写真)

義の栄冠【マリアの島の祈り ~奄美大島北部をドライブしよう~】

2013-08-08 20:40:53 | 今日の御言葉

鹿児島の人でしたか。




今や、義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。

しかし、わたしだけでなく、
主が来られるのをひたすら待ち望む人には、
だれにでも授けてくださいます。


「テモテへの手紙二」 / 4章 8節
新約聖書 新共同訳



まず知り合うこと

知り合えば

お互い愛し合うようになるでしょう。

互いに愛し合えば

支えあうようになるでしょう。


もしほんとうに愛したいと願うのなら

許すことを知らなければなりません。


マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)




★マリアの島の祈り
~奄美大島北部をドライブしよう~


◆南日本新聞2013年8月8日
373news.com

author: 宮下正昭
(更新日:2013年8月8日)



▲旧笠利町役場近くにある赤木名(あかきな)教会

▼20人に1人がカトリック信者

どこまでも澄みきった青空の下、どこまでも青く輝く海。緑の深い山が迫る。奄美大島だ。その島の北部、真夏の風を受けながら車を走らせると、時々、カトリックの教会に出合う。大きな町には立派な聖堂。小さな集落には公民館のような、でも十字架がついている。教会だ。奄美大島が「マリアの島」と呼ばれるゆえんだ。

大和村、奄美市、龍郷町の北部3市町村の信者数は3471人(昨年末現在)。高齢化などで減少傾向にあるが、それでも人口の6%強を占める。鹿児島県全体では0・5%、国内で0・3%であることを考えればいかにカトリック信者が多いかわかる。

江戸の鎖国時代も出島をもうけ、ポルトガル商人らとともにたくさんの宣教師が出入りした長崎県(信者率は4%強)はともかく、南西諸島の奄美大島の北部にどうしてたくさんのカトリック信者が生まれたのか。その歴史をたどると、島が置かれた政治的な状況と無縁ではない。

藩政時代、奄美では年貢として黒糖の生産を課せられた。薩摩藩は米の栽培を認めず、貨幣も流通させなかった。このため島民は米など生活に必要な物は比率の悪い物々交換で得るしかなかった。

明治維新後、中央政府は黒糖の自由売買を認める。しかし、鹿児島県はそれに先んじて、県肝いりの商社をつくり、黒糖の独占を続けようとした。西南戦争で県側が政府に負けると、ようやく島の黒糖も自由に売買できるようになった。しかし、その後も県や警察によるさまざまな圧力を島民らは受けてしまう。



▲龍郷町の住宅街に溶け込む嘉渡(かど)教会


▼キリスト教に自由を求める

このような奄美の位置付け、状況を変えるには、まずは島民の意識を変える必要があるのではないか。万民は平等という西洋思想に、地元出身の検事や名瀬の有力者らは期待を寄せた。それが鹿児島市のキリスト教各派に布教を促すことにつながった。1891(明治24)年のことだ。当時、島はノロやユタなど土着宗教が中心で仏教もまだ浸透していなかった。



▲龍郷町の東シナ海を望む高台にある安木屋場(あんきゃば)教会

本土の鹿児島市にはプロテスタント、ロシア正教などキリスト教各派が既に布教していたが、奄美からの要請にいち早く応じたのがカトリックだった。その年の暮れ、ザビエル教会の神父が島に渡ると、多くの人が、この新しい"思想"を信仰していったのだった。

ハンセン病などの診療所や教会建設などで島の人々に現金収入も与えた。フランス人、後にカナダ人神父が布教担当となり、その知識、生活様式なども島の人々の好奇、関心を呼んだ。大正時代に入ると、ミッション系の高等女学校も設立、運営する。公立では県内最初の鹿児島第二中学校(現在の甲南高校)より早く、コンクリート造りの立派な校舎も造った。大島高等女学校だ。信者の子供が本土の学校に進む場合、奨学支援も行った。



▲龍郷町の瀬留教会。1908(明治41)に建てられ、司祭館(右側)とともに国の登録有形文化財

▼信者をスパイ視

現実的な利益とともに新しい宗教として島に浸透していったカトリック。一方でローマを頂点とするピラミッド型の組織形態が、台頭してきた軍部の警戒を呼ぶ。地元の新聞記者らは軍部などからの情報に乗っかり、スパイ視報道を展開するようになる。

1933(昭和8)年ごろから、カトリックに対する世間の風当たりは一層強くなり、青年団員などが信者の墓を壊す。大島高等女学校の廃校を求める町民大会なども開かれ、実際に廃校を余儀なくされる。教会は代わりに鹿児島市に女学校を移す。それが今の鹿児島純心高校だ。日本の社会が戦時色を強め、キリスト教に対する敵視が一部で強まるのは、日中戦争が全面的に展開される37(昭和12)年以降だから、奄美大島北部で起こっていたこのカトリック排撃運動はかなり特異で、本土の軍国主義化を濃縮して先んじたものだった。

「スパイの学校」と非難された女学校がつぶれても、排撃運動は終わらず、軍幹部は各集落に出向いて「非国民だ」とどう喝し、信者らに転宗を迫った。

翌34(昭和9)年末、常時、7、8人はいたカナダ人神父らが全員、島から去る。主のいなくなった教会に信者らが近づくことはできなくなくなった。酒に酔った若者たちが秋名教会を壊した事件は全国的にも大きく報道され、外務省にも動揺を与えた。立派な教会だった大笠利教会からは火の手が上がり、全焼してしまった。放火だった言われる。

転宗しない信者宅は、防空演習の標的となり消防団が放水、室内を水浸しにした。そして主立った教会は役場や地区の集会場として転用された。心の導きをなくした敬けんな信者の苦悩は敗戦まで続くことになる。



▲奄美市の知名瀬教会に入ると、歴代の宣教師たちの写真が迎えてくれる

▼大小28の教会が点在

現在、奄美大島にあるカトリック教会は31カ所。うち瀬戸内町、住用村にある計3カ所を除く28の教会が島の北部に集中する。しかし、うち4つの教会ではミサは行われておらず、空き家のような状態だ。この10年で500人以上、信者の数が減っている。

それでも、昭和初期の迫害時期を生き抜いた信者、その子孫は今も信仰があついという。敗戦後8年間続いた、キリスト教国であるアメリカ軍の統治下で洗礼を受けた人のなかには信仰が伝わっていかないケースが少なくないらしい。


▲奄美市の大笠利教会の海側にある信者の墓地。太平洋が目の前に広がる


日曜のミサの前日、知名瀬教会を一人の高齢の女性信者が黙々と清掃していた。その表情は穏やかだった。

「それでも 喜び・希望・感謝」。各教会に掲げられていた鹿児島教区の標語だ。宗教というものについぞ縁なく50年以上生きてきた私のような俗物に継げる言葉はないが、何か絶対的なものを信じることでの安心、喜び、そして感謝。各集落の教会のたたずまいから思いをはせると、なんとなくわかる気がする。

奄美大島を訪れる機会があったら、ぜひ北部をのんびり車で走ってほしい。小さな集落に神社の鳥居と隣接して建つ教会もある。奄美の現代史を抱え込んだマリアの島。



宮下 正昭



32年間南日本新聞社に勤め、2013年4月から鹿児島大学法文学部教員。人間に好奇心、社会に関心旺盛な、ちょっぴり正義感のある記者が育ってくれたら本望。著書に「聖堂の日の丸」(南方新社)、「予断」(筑摩書房)、「中国香港特別区最新事情」(社会評論社)。






◆イザヤ書 / 42章 10節

新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの
島々とそこに住む者よ。





心からの願い【旭日旗「使用問題なし」】

2013-08-07 10:34:10 | 今日の御言葉
※ベッカムも、ずっこけた!?




兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、
彼らのために神に祈っています。

「ローマの信徒への手紙」 / 10章 1節
新約聖書 新共同訳



私は本当に人の話を聞くのが好きです。
誰であろうと自分の話をし始めると、
時の経つのも忘れて聞くようになります。
十時間、二十時間と拒まずに聞きます。

話そうとする人の心は緊迫していて、
自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。
そうであるならば、私たちは真心を込めて
聞かなければなりません。

それがその人の生命を愛する道であるし、
私が負った生命の負債を返す道でもあります。

生命を尊く思って、敬い仰ぐことが
一番大切です。

嘘偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、
私自身の心の内も信摯(しんし)に
話してあげました。

そして、涙を流してお祈りしました。






★旭日旗「使用問題なし」
政府見解作成へ 韓国の「反日」牽制


◆産経新聞 2013年8月6日 7時55分配信


▲海上自衛隊の護衛艦と、
前方を進む護衛艦の艦尾に翻る自衛艦旗(16条旭日旗)
=平成15年10月(写真:産経新聞)

※自衛隊創設以来、今日に至るまで
旭日旗が使用されてきた。


 韓国内で「軍国主義の象徴」「戦犯旗」と決めつけ、敵視する傾向が強まる旭日旗について、日本政府が「使用は問題ない」との認識を示す見解を作成中であることが5日、分かった。旭日旗は、日の丸(日章旗)と並んで日本を象徴する旗であり、自衛隊も長く使用し、国際的にも広く受け入れられている。政府は、旭日旗の意義を内外に改めて示し、韓国内の反日的風潮を牽制(けんせい)する狙いがある。(榊原智)



▲東アジア杯男子の日韓戦で韓国応援団が掲げた横断幕。
「歴史を忘れた民族に未来はない」と書かれている。
自分たちのことか?
=28日、蚕室五輪スタジアム(共同)



 常軌を逸した水準に達したともいえる韓国の反日ナショナリズムによって、旭日旗の名誉が奪われることは避けなければならない。

 ▼無理がある排斥理由 

 7月28日のサッカー東アジア・カップの男子日韓戦で、韓国応援団は歴史問題を理由に日本を非難する横断幕を掲げた。日本サッカー協会は、国際サッカー連盟(FIFA)が禁ずる応援時の政治的主張に当たるとして、東アジアサッカー連盟に抗議文を提出した。

 韓国サッカー協会は日本のサポーターが旭日旗を振ったことが発端だと「反論」した。韓国サッカー協会は旭日旗は「大韓民国の国民には歴史的な痛みを呼び起こす象徴」(7月31日付韓国紙「中央日報」日本語電子版)だとしている。このような見方は韓国社会で広がっている。

 激しい韓国側の反発を受け日本側には混乱も起きている。昨年8月には日本で開かれたサッカーのU-20女子ワールドカップの大会組織委員会がスタジアムへの旭日旗持ち込みを禁止。組織委内部の指摘で開幕直前に撤回する一幕があったほどだ。

 朝、東から昇る太陽をかたどった旭日旗は、日の丸とともに「日の本の国」を象徴する。外国人から「クールだ」といわれることもある。縁起がよく元気が出るデザインとして、大漁旗も含め広く使われている。朝日新聞の社旗も旭日旗の意匠の一部を使っている。

 日本海軍の軍艦旗、日本陸軍の連隊旗も旭日旗の一種だった。大東亜戦争を含め、明治以来の近代日本の戦いには旭日旗と日の丸がへんぽんとひるがえっていたが、それを理由に排斥するのは無理がありすぎる。

 韓国の反日ナショナリズムは日の丸も否定したいが、さすがに無理があるため、旭日旗を狙い撃ちしているのではないか。ナチス党のハーケンクロイツ旗と同列視する意見まで韓国にはある。独裁政党の党旗と混同するとは失礼な話だ。

 ▼米軍はノークレーム 

 自衛隊は旭日旗を堂々と使い国際社会から受け入れられてきた実績がある。海上自衛隊の自衛艦旗(16条旭日旗)と陸上自衛隊の連隊の自衛隊旗(8条旭日旗)がそれに当たる。

 海自護衛艦が旭日旗を掲げるのは、軍艦と民間船舶を区別するために軍艦旗を掲げる国際ルールにのっとったものだ。陸自の連隊旗は部隊の名誉と団結の象徴になっている。



 大東亜戦争の相手だった米軍は、自衛隊が旭日旗を使うのに何のクレームもつけない。それどころか、友軍の旗として、ごく自然に敬意を表している。

 旭日旗の敵視は韓国政府にも及んできた。韓国外務省報道官は1日の会見で「(旭日旗が)韓国国民と、過去に日本帝国主義の被害を受けた人々に、どのような意味を持つものか日本はよく分かっているのではないか」と述べた。

 韓国の政府や軍が反日ナショナリズムに同調し旭日旗を排斥すれば、日韓両国にとって重要な自衛隊と韓国軍の防衛協力は停滞するだろう。国旗に並ぶ旗を敵視する外国の政府や軍と充実した協力などできるわけがないからだ。旭日旗の意味が分かっていないのは、韓国の方である。



明和5(1768)年「改製日本扶桑分里図」
(資料写真)

剣を打ち直して鋤とする【銃をギターに、 命のアート 民博で展覧会、アフリカ内戦から回収】

2013-08-06 00:05:29 | 今日の御言葉

彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。


「イザヤ書」 / 2章 4節
旧約聖書 新共同訳



草花が太陽に向けて花を咲かすように

私たちも人の温かさにふれた時
固く閉じていた心がやさしくなごみます。

ちょっとした思いやりが
人の心を感動させ
小さないたわりが

人と人を結びつけるきずなとなります。




▲旧ソ連時代に大量生産されたAK47
http://www.asahi.com/international/africa/camera/080109/1003.html

※ 押収された世界に悪名高いAK47(カラシニコフ)。
しかし、兵士として戦う子どもたちにとっては、
自らの命を守る唯一の道具だった。
(写真は、ウガンダ北部内戦時のもの)



http://www.nationalgeographic.co.jp/places/places_countryprofile.php?COUNTRY_ID=35


★武器をアートに:
武器よさらば 銃をギターに、
命のアート 民博で展覧会、アフリカ内戦から回収


◆毎日新聞2013年7月31日
--大阪・吹田- 毎日jp(毎日新聞)


▲内戦で使われた銃の部品などでかたどられた
「いのちの輪だち」
=大阪府吹田市の国立民族学博物館で、山田尚弘撮影




▲ギター演奏者のオブジェ
=大阪府吹田市の国立民俗学博物館で、山田尚弘撮影



長い間内戦が続いたアフリカ・モザンビークで回収された銃を解体して作ったオブジェを展示する「武器をアートに」が、国立民族学博物館(大阪府吹田市)で開かれている。作品には平和に暮らす人々の姿が表現されているが、所々に弾倉やグリップなど生々しい部分も残る。企画した吉田憲司教授(アフリカ研究)は「アートを通じて平和を取り戻す活動を知ってほしい」と話す。【田辺佑介】

モザンビークでは、1975年にポルトガルから独立後、92年まで続いた内戦で約100万人が死亡し、自動小銃「AK47」(カラシニコフ)など数百万丁が出回ったとされる。内戦終結後、武装解除を進めるためモザンビーク・キリスト教評議会が中心となって農具などと交換し、これまでに約100万丁を回収。解体した銃の一部でオブジェを作る取り組みが進んでいる。

吉田教授は、取り組みを映像などにまとめ、現地の芸術家に作品の制作を依頼。松山市のNPO法人「えひめグローバルネットワーク」が、銃と交換するための中古自転車を提供する活動を続けていることにちなみ、100丁以上を使って自転車に乗った男女を表現した「いのちの輪だち」が作られた。

会場には、他にも楽器を弾く人をテーマにした作品など約20点が並ぶ。同国から来日した芸術家のクリストバオ・カニャバートさん(47)は「奪われた命を取り戻す取り組み。平和と希望を感じてほしい」と話している。

11月5日まで。水曜休館。問い合わせは同博物館(06・6876・2151)。



実現【原爆ドーム設計 チェコの建築家 母国に鳥居形墓石 】

2013-08-05 17:19:14 | 今日の御言葉

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。

「マタイによる福音書」 / 5章 9節
新約聖書 新共同訳



天国に行ける人よりも
天国を築ける人で
なければならない

天国にいける人は
神様に頼ろうとする人であり

天国をなせる人は
神様の頼りとなって
あげようとする人である。




★原爆ドーム設計
チェコの建築家 母国に鳥居形墓石

◆東京新聞2013年8月2日 国際
(TOKYO Web)



▲原爆ドームの設計者ヤン・レツルが作った
鳥居形の墓石について説明するリシャーネクさん
=チェコ南東部ブルノで


チェコ南東部ブルノの中央墓地に、日本の神社の「鳥居」をかたどった100年ほど昔の墓石がある。キリスト教の十字架が並ぶ墓地でひときわ異彩を放つこの墓石は、後に「原爆ドーム」となる広島県物産陳列館を設計したチェコ人建築家ヤン・レツルの作品だと近年分かった。埋もれた事実を発掘した地元の美術史家は「異文化への理解こそ平和の鍵。この墓石はそれを象徴している」と話す。(チェコ・ブルノで、宮本隆彦、写真も)

鳥居形の墓石は、砂岩の石材を組んであり高さ一・三メートルほど。墓碑は一九一〇年に二十九歳で亡くなったクララというチェコ女性の墓であることを示す。裏にはチェコ語で「日本の東京から来た建築家ヤン・レツルが作る」と刻まれている。

不思議な墓石は長い間忘れられていたが、日本文化に興味を持つ美術史家ラデク・リシャーネクさん(38)が八年前、デートの待ち合わせ中に偶然発見。四年前に地元紙で報じられチェコ国内で話題となった。

ただ、クララの死亡時、レツルは日本に滞在しており、どのような経緯で墓石が作られたかは不明。リシャーネクさんは「当時のチェコでこれほど変わったデザインを採用したからには、よほどの理由があったはずだが、何の資料も出てこない」と残念がる。

三年後の一九一三年、東京で設計事務所を開いていたレツルは後に原爆ドームとなる陳列館の設計を始める。工事は翌一四年に始まり、建物は一年余り後に完成した。

レツルは自身の作品が平和と反核を願うシンボルの「原爆ドーム」となり、世界遺産にまでなろうとは夢にも思わなかっただろう。リシャーネクさんは言う。

「戦争の歴史は人間がわかり合う努力を忘れてはいけないと教えてくれる。鳥居形の墓石からは異文化に興味を持ち、偏見なく受け入れたレツルの人柄が伝わってくる」


◼ヤン・レツル(1880~1925年)

明治末期から大正時代に日本で活躍したチェコ人の建築家。プラハで建築を学び、1907年に来日。15年の帰国までに広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)のほか、聖心女子学院や雙葉高等女学校の校舎、宮城県営松島パークホテル(いずれも現存せず)などの設計を手掛けた。






★ヒロシマ68年 6日原爆の日


◆中国新聞 2013年8月5日


 広島は6日、原爆の日を迎える。米国が原子爆弾を投下してから68年。被爆者や遺族は老いを深める。被爆の記憶は風化しかねない。語り継ぐ努力を怠れば、被爆者が「絶対悪」と呼ぶ核兵器を肯定する危なっかしい考えが勢いを増す。私たちはもっと危機感を持つべきだ。

 被爆者健康手帳を持つ被爆者の平均年齢はことし3月末で78・80歳。被爆者の数は20万1779人で、昨年同期に比べて9051人減った。被爆者や遺族の肉声を聴く機会は、少なくなっている。

 1発の原爆によって当たり前の日常が奪われる。戦争体験のない世代には容易には想像できない。ならば、自分の身に置き換えて考えてみよう。例えば、ある日突然、一家の大黒柱を失ったとしたら。残された妻や子どもはどう生きていくのか―。

 この夏、中国新聞社は連載「ピカの村 川内に生きて」に取り組んだ。広島県川内村、いまの広島市安佐南区川内地区が舞台。国の命令で国民義勇隊として、市街地の建物疎開に動員された約180人が全滅したのだ。

 夫を失った妻は70人以上。畑で泥にまみれ、家族を養った。歳月は流れ、その女性たちもいま、野村マサ子さん(92)ただ一人になった。「戦争は嫌です、若い人が平和を守ってくれなきゃ」。託された使命は重い。

 松井一実市長はことしの平和宣言で、世界の指導者に「核の威嚇」から「信頼と対話」に基づく安全保障への転換を求める。ヒロシマの訴えは国際社会に響いているのか。

 4月、スイス・ジュネーブであった核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会。核兵器の非人道性に焦点を当て、不使用を求める共同声明に約80カ国が賛同した。

 廃絶を目指す新たな潮流に被爆国日本は背を向け、声明に賛同しなかった。米国の差し出す「核の傘」に自国の安全保障を依存しながら、廃絶を訴える矛盾をあらためて露呈した。安倍晋三首相はその依存度を高め、平和主義を掲げる憲法の改正に意欲を示す。

 悲しみや怒りを核兵器廃絶の願いに変えてきたヒロシマ。その土台である体験と記憶を受け継ごう。担うべき使命をかみしめるために。

【写真説明】夕陽を浴び、静かにたたずむ原爆ドーム。被爆地広島は6日、祈りの朝を迎える=4日午後6時(撮影・浜岡学)

このような者たち【大丈夫やで。「ばあちゃん先生」の育児本が大反響  和歌山の89歳助産師】

2013-08-04 20:08:23 | Weblog




しかし、イエスは言われた。

「子供たちを来させなさい。
わたしのところに来るのを妨げてはならない。
天の国はこのような者たちのものである。」


「マタイによる福音書」 / 19章 14節
新約聖書 新共同訳



人にも物にも好き嫌いするな。 

坂本フジヱさん




▲坂本フジヱさん
( 写真は、2011年6月12日放送「情熱大陸」より)
http://www.mbs.jp/jounetsu/2011/06_12.shtml


★「ばあちゃん先生」の育児本が大反響 
和歌山の89歳助産師


◆産経新聞2013年 7月26日 15時7分配信



▲生後1カ月の赤ちゃんを腕に抱く坂本フジヱさん(右)。
坂本さんが抱くと赤ちゃんが泣きやむという
=和歌山県田辺市(写真:産経新聞)


 和歌山県田辺市で助産所を営む国内最高齢の助産師、坂本フジヱさん(89)が、子育ての心得をまとめた2冊目の著書を出版した。助産師歴68年、これまでに取り上げた赤ちゃんは4千人を超すという「ばあちゃん先生」のやさしく語りかけるような助言集は全国の悩める母親たちから大きな反響を呼んでいる。

 「難しく考えず、心の底から赤ちゃんを『かわいい』と思うことが子育ての原点」「3歳までの記憶は一生の財産。いい経験をたくさんさせてあげて」-。子育てのアドバイスがつまった新著「大丈夫やで2」(産業編集センター)は2年前に出版した著書の続編。「当たり前のことを書いただけやのに」(坂本さん)、デビュー作は累計で7万部以上と評判になり、続編も増刷されて2万5千部を超えた。

 田辺市内の閑静な住宅街にある坂本助産所には昼夜を問わず、悩みを抱えた母親たちが相談に訪れる。「母乳が出にくい」「子供がかわいいと思えない」など、内容はさまざま。本を読んで沖縄や福島から来た人もいたといい、「家出同然のお母さんもいた」と笑う。突然の訪問も温かく受け入れ、黙って話を聞く。「きついことも言うんやけどな」というが、坂本さん宛ての手紙や電話は全国から毎日のように寄せられる。



http://www.taka-messenger.com/messenger/30%25E5%258F%25B7%25E3%2580%258C%25E3%2581%2584%25E3%2581%25AE%25E3%2581%25A1%25E3%2580%258D.html


 5月に生まれた長女、希羽ちゃんを連れて助産所を訪れていた森西朋代さん(33)も坂本さんを慕う一人。長男(8)も取り上げてもらったといい、「家みたいで安心できる。2人目もここで産みたかった」と話す。

 希羽ちゃんを腕に抱いた坂本さんは「こんなして手を動かしてたら、お乳がほしいって言うてるんやで」とアドバイス。森西さんは「先生が抱くと不思議と赤ちゃんが泣きやむから、みんなここに来たがる。仏様みたいな人です」。

 坂本さんが1カ月に関わる出産は5人ほど。経験を重ねた今も「命を預かる仕事だから、お産はいつも大変」と話す。

 20歳で助産師免許を取得。親子3代の出産に立ち会ったことも少なくない。自身の孫とひ孫も取り上げ、10月には4人目のひ孫が生まれる予定だ。「穏やかな心で赤ちゃんと妊婦さんに寄り添っていけたら人生最高」。しわが刻まれた笑顔にやさしさがにじみ出た。




▲『大丈夫やで』坂本フジヱ (写真)


絶大な働き【ラマダン(断食月)明けを前にメッセージ】

2013-08-03 22:18:49 | 今日の御言葉



また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる
神の力が、
どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

「エフェソの信徒への手紙」 / 1章 19節
新約聖書 新共同訳




父母は子供が優れているから愛するのではありません。

子供であればこそ
優れていようが愚かであろうが愛するのです。

病身の子を持つ親が子供以上につらいのと同様に

神様の愛の心情は
皆さんが優れているいないということを
超越しているのです。





http://japanese.ruvr.ru/2011/08/01/54003201.html

★ローマ法王:イスラム教徒へメッセージ
相互理解呼びかけ


◆毎日新聞 2013年08月03日 18時35分


【ローマ福島良典】

世界のキリスト教カトリック信徒約12億人を率いるフランシスコ・ローマ法王はイスラム教で最も神聖な月とされるラマダン(断食月)明けを前にメッセージを出し、世界のイスラム教徒に対して、教育を通じた相互理解の促進を呼びかけた。バチカン(ローマ法王庁)が2日発表した。

 バチカンがラマダン明けの祭り「イードアルフィトル」にあたり祝福メッセージを出すのは恒例だが、今年は「全イスラム教徒に対する尊敬と友好」の印として法王が署名。宗教間対話に積極的に取り組む姿勢を示した。

 メッセージで法王は「若者が他の宗教・信徒をあざけったりせず、尊敬の念をもって考え、語れるように育てなければならない」と指摘し、「キリスト教徒とイスラム教徒の対話と協力を進める重要性」を強調した。

 法王が名前を取った聖フランシスコは、中世の十字軍時代にエジプトのスルタン(君主)と会談した聖職者として知られている。


http://blog.livedoor.jp/wien2006/lite/archives/52027051.html

★教皇 イスラム教のラマダン終了に向けメッセージ
< 諸宗教と対話 >


◆2013年08月02日 18:46:53


教皇フランシスコは、2日、イスラム教のラマダン(断食月)の終了を前にメッセージを発表された。

教皇庁諸宗教対話評議会がラマダン明けの大祭にイスラム関係者にメッセージをおくることが毎年の恒例となっているが、教皇フランシスコは登位最初のこの機会に、すべてのイスラム教徒への尊敬と友情のしるしとして、自らの署名をもってお祝いの言葉を述べることを望まれた。

このメッセージで教皇は、ご自分の名がアッシジの聖フランシスコにちなんでいることに言及。神とすべての人間を深く愛し、貧しい人々や病者に奉仕し、自然を大切にしたフランシスコが「皆の兄弟」と呼ばれていることを紹介された。

教皇は今年のメッセージのテーマとして、イスラム教徒とキリスト教徒の教育を通した相互尊重の推進を挙げ、互いの理解と尊敬の基礎に教育が非常に重要な役割を果たしていることを強調された。

そして一人ひとりの人を尊重するとは、各自の生活、心身、尊厳、権利、民族的・文化的アイデンティティー、思想、政治的選択などを尊重することと教皇は述べ、不当な批判や誹謗を排し、他者に対する尊敬ある考え方、話し方を学ぶには、家庭や学校、宗教教育、マスメディアの役割が欠かせないと記されている。

諸宗教間、特にイスラム教とキリスト教間においても、相手の宗教、それぞれの教えやシンボル、価値を尊重するようわたしたちは招かれているのであり、それぞれが互いに非難し合うことほど悲しいことはないと述べている。

教皇は、すべてのイスラム教徒とキリスト教徒が特に教育を通して、相互の尊重と友情を高め、対話と協力がより強められることを希望された。



※ 名古屋場所は、10勝5敗で勝ち越した十両 エジプト出身の大砂嵐。
今後が期待される。


★大砂嵐勝ったが断食あと11日/名古屋場所

◆ニッカンスポーツ 2013年7月11日9時10分


<大相撲名古屋場所>◇4日目◇10日◇愛知県体育館


 エジプト出身で西十両9枚目の大砂嵐(21=大嶽)が、ラマダンパワーで勝利した。この日からイスラム教のラマダン(断食月)に突入。日中の飲食ができない中でも、双大竜(30)を寄り切り3勝1敗とした。うがいをいつもより多めにしたり、深夜に食事をとるなど工夫し“初日”を乗りきった。

 大砂嵐の土俵上の気迫は前日を上回っていた。「ラマダンは問題ない。オレのパワーと、ラマダンのパワーも両方ある。力がいつも以上です」。幕内経験者の双大竜を左四つに食い止めると、両まわしを引きつけて寄り切り。支度部屋で、鋭い眼光で言い切った。



 イスラム教の断食月に、この日から突入。日中の飲食を自ら禁じる。午前2時にヨーグルトと、ニンニクみそを添えたおにぎり2個を食べたが、そこから食事なし。水もうがいのみ。約1時間の朝稽古に加え、35度を超える暑さ。脱水症状なども心配されたが、土俵上で結果を出した。

 序二段だった昨年の名古屋場所でも経験したが、ラマダンに入ってからは千秋楽の1番のみだった。アフリカ出身初の新十両としての重圧も加わっている。「配慮するとあいつは嫌がる」と話す大嶽親方(元十両大竜)も、稽古中にホースを手にして水浴びさせるなど、サポートしている。

 ただ、まだ1日を乗りきったにすぎない。残り11日間の試練が待っている。支度部屋を出る際には「やっぱり、おなかすいた。オレはこれからがお昼ご飯」と本音も漏らした。夕飯には部屋名物の塩ちゃんこ鍋に加え、好物のなすと鶏肉のみそ炒めも用意された。付け人も「僕のチャーハンがおいしいって食べてくれるので、夜中に食べられるようにつくっておきます」と協力。深夜に買い出しに走る苦労も取り除いてくれた。

 「親方もいます。仲間もいます。家族もエジプトで応援してくれています。関取として勝つこと、横綱になることが恩返しです。ラマダンとか政治のこととかは関係ない」。ラマダンの試練も大砂嵐の強さを磨く1つだ。【鎌田直秀】

 ◆ラマダン(断食月) イスラム暦の9番目の月の呼び名で、唯一の神アラーに断食という修行を通じて信仰をささげる、1年で最も神聖な月とされる。今年は今月10日から30日間。夜明けから日没まで水を含む飲食、喫煙、性行為などが禁止。厳格なイスラム教徒はつばを飲み込むこともしないと言われる。ただし、病人や妊婦らは免除される。日没後は食事が可能で、毎夜盛大なうたげになる。



※2013年8月1日 (首相官邸にて)


卑劣【切りつけ、背中に硫酸…中国の活動家に報復多発】

2013-08-03 14:21:04 | 今日の御言葉

かえって、

卑劣な隠れた行いを捨て、

悪賢く歩まず、
神の言葉を曲げず、
真理を明らかにすることにより、

神の御前で自分自身をすべての人の
良心にゆだねます。


「コリントの信徒への手紙二」 / 4章 2節
新約聖書 新共同訳



苦労の多い社会であるから
一日も早く平和にしてあげたいと思い
困難な道だからこそ
最も愛する者を遣わすのです。

悲しみと孤独の境地を通過する時
その気持ちを神様に帰しなさい。

涙を流しただけ
神様の「心情」を知ることができ
苦労する人の心の痛みを
理解できるのです。

あなたが歩んだ苦労の道は
いずれの日にかきっと
多くの人に希望と喜びを
与えることでしょう。




▲民間活動家への報復を批判する葛樹春氏(7月23日)


★切りつけ、背中に硫酸…中国の活動家に報復多発


◆読売新聞 2013年8月3日 10時5分配信



 汚職が社会問題となっている中国で、地方の役人の不正疑惑を調べ、インターネット上で告発する民間活動家が様々な報復を受けている。

 広東省の活動家が7月上旬に襲撃されたほか、各地で当局による妨害や脅迫も後を絶たない。「腐敗の根絶」を掲げる習近平(シージンピン)政権に対し、活動家は「本気で取り組むのなら、報復には厳罰で臨んでほしい」と訴えている。


 「報復には十分注意してきたつもりだったが、武器を持って襲われてはどうしようもない。本当に卑劣なやつらだ」


 広東省恵州市中心部にある病院の一室。刃物で切りつけられた右眼球の摘出手術を終えたばかりの活動家・李建新氏(45)が憤った。切断寸前の大けがだった腕と指は幾重にも包帯が巻かれ、硫酸を浴びて焼けただれた背中にあてたガーゼも痛々しい。

 李氏は7月8日午前、6歳の息子を遊びに連れて行く途中、自宅から数百メートル離れた路上で、後をつけてきた3人組の男に襲われた。息子は無事だったが、目の前で激しい暴行を受けた。その時、とっさに脳裏に浮かんだのは同市幹部のことだったという。「土地売買の不正疑惑を告発されたので私を恨み、暴漢を雇って襲わせたのだと思う。でも、片方の目が残っているから資料は読める。腐敗を告発する活動はやめない」と話した。

 李氏は1年前、同市で自分の親族が巻き込まれた汚職疑惑をネット上で初めて暴露。「不正を憎み、果敢に告発する」という姿勢が反響を呼んで、役人の汚職に関係する多数の情報が寄せられるようになり、これまでに70件以上の不正疑惑を告発した。地方都市では、警察当局に汚職の情報を流しても、にぎりつぶされることが多いといい、李氏は人々の期待を集める存在となった。一方で、李氏のような活動家に対する報復は多発している。

 著名な告発サイト「中国反腐敗・権利擁護ネット」を運営する元新聞記者の葛樹春氏(29)によると、最近では活動家を襲撃する報復に加え、〈1〉「告発された人の名誉を傷つけた」としてサイトを閉鎖する〈2〉活動家が集まる会合を「違法な集会を開いた」として参加者を拘束する――などの妨害を受けることも多い。

(最終更新: 8月3日 10時5分 )



▲31日、日本外国特派員協会で記者会見し、
韓国から入国拒否された経緯について話す呉善花氏
(桜井紀雄撮影)


★韓国入国拒否の呉善花氏
「言論の自由の侵害。民主国家ではあり得ない」


◆産経新聞 2013年7月31日 19:30


 韓国から7月27日に入国を拒否された同国出身の評論家で拓殖大教授の呉善花氏(56)=日本国籍=が31日、東京都内の日本外国特派員協会で記者会見し、「明らかに言論の自由の侵害で、民主国家としてあり得ない」とあらためて韓国に対する強い抗議を表明した。

 呉氏によると、入国拒否の理由について韓国の空港では一切説明されず、日本に戻った後、成田空港でようやく「出入国管理法76条の規定により」と記された書類を渡された。同法は韓国の安全や社会秩序を害する恐れのある外国人の入国禁止について定めている。

 呉氏は「私はどれも該当しない。著作活動を理由としているとしか考えられない」と指摘。今回の問題について「嫌韓をあおる呉善花」と呉氏への非難しか伝えず、言論の自由の侵害に触れようとしない韓国メディアの論調も批判した。


家の奥 【コリアリスクを懸念する声】

2013-08-02 13:26:58 | 今日の御言葉



妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
食卓を囲む子らは、オリーブの若木。


「詩編」 / 128編 3節 旧約聖書 新共同訳



言葉には不思議な力があります。

愛と思いやりをもって語れば
人を励まし勇気づけることができます。

妬みや嫉妬の思いで語れば
その言葉は
人を傷つける凶器にもなります。


私の語る言葉が神様を喜ばせ
多くの人々を力づけるものであるか
いつも反省しなければなりません。





戦時徴用 (強制連行) された朝鮮人は245人しかいなかった。
※大多数が、募集応募者であった。
◆ 朝日新聞 昭和34年7月13日 ( 1959年 資料写真 )

 
★韓国司法、反日世論に配慮…日本企業に懸念の声


◆読売新聞2013年 7月12日(金) 8時55分配信


 【ソウル=門間順平】

第2次世界大戦中に朝鮮半島から徴用された韓国人の元労働者に対する賠償を日本企業に命じた10日のソウル高裁判決は、日韓関係が好転しない中、反日世論に「配慮」した判決といえる。

韓国政府は、日本政府と同じく元労働者の請求権は存在しないとの見解を示しているが、こうした司法の姿勢が足かせになり、今後、方針転換を迫られる可能性もある。
「判決が確定すれば、日韓関係に重大な影響が及ぶ」。10日の判決宣告後、日本政府は外交ルートで、今回の判決に対する懸念を韓国外交省に伝えた。
日本側が問題視するのは、1965年の日韓請求権協定で、「完全かつ最終的に解決された」としている強制徴用の元労働者に対する賠償請求権を認定したことだ。
同高裁は、被告とされた新日鉄住金に、1人あたり1億ウォン(約880万円)の賠償を命じた。
日韓外交筋は「戦時中のことを、戦後にできた(韓国)憲法の精神に反するとして裁く理解しがたい判決」と話す。

 韓国では、民主化勢力の支持を受けた左派の盧武鉉政権(2003~08年)下で、請求権協定によって補償を受けられなかった個人の救済に取り組み始めた。韓国政府は05年以降、いわゆる従軍慰安婦と韓国人原爆被害者、サハリン残留韓国人は協定の対象外だったと主張。もともと世論の動向に流されやすい傾向のある司法界にも、協定を見直す機運が浸透していったとみられる。
 
 ただ、韓国政府は元徴用工の賠償請求権については請求権協定の対象とみていて、これまでに約2万7000人の申告を受け付け、計約480億ウォン
(約42億3000万円)を支給してきた。判決について韓国外交省は、
「判決が持つ意味や関連措置について、関係部署と検討する」と慎重な物言いだ。
このため、原告や支援する弁護士らは、ほかに5件ある訴訟や新たな提訴で同様の判決を積み上げることで、韓国政府に圧力をかける考えだ。
張完翼(チャンウァンイク)弁護士は「司法判断が出たのだから、韓国政府も考え直さなければならない」と話す。

 仮執行や判決の確定で、日本企業の財産が差し押さえられる事態になれば、日韓関係への打撃は計り知れず、すでに韓国に進出している日本企業のなかには、事業展開への支障を意味する「コリア・リスク」を懸念する声も出始めている。





★対日補償要求は終了 韓国政府が公式見解


◆産経新聞 2009年8月16日


韓国各紙は15日、日本統治時代の韓国人労働者の日本での未払い賃金について、もはや 日本に返還要求はできないとの韓国政府の公式見解を伝えた。韓国では元慰安婦や戦没者、 徴用労働者など多くの関連団体や個人がいまなお、日本に対し各種の補償を要求している。
 
韓国政府としては、補償問題は1965年の日韓国交正常化の際に日本政府から受け取った 「対日請求権資金」ですべて終わっているとの立場を、改めて確認したものだ。

 韓国人が過去がらみで日本政府や日本企業に補償要求などの訴訟をするのは自由だが、 日韓双方の政府は「国家間の補償ですべて終わった」との立場で一致している。したがって 今後は、補償が必要な場合は韓国政府に要求すべきだということになる。

 韓国では、日本企業が敗戦前の韓国人労働者に対する未払い賃金を日本で供託していたため、 韓国政府にその返還を求める訴訟が韓国内で起きている。

 この供託金は3億6000万円で現在の価値では300億~400億円になるというが、韓国政府 (外交通商省)が法廷に提出した文書は「日本政府がすでに支払った請求権資金(無償 3億ドル)に含まれているとみるべきで、韓国政府として日本政府に返還を要求することは困難」と なっているという。

 過去にかかわる補償問題では、韓国政府がすでに1970年代に旧日本軍人や労働者など 民間人補償を個別に支払っており、近年も申請に基づき個別に支給している。元慰安婦に ついても生活補償が行われている。

 しかし慰安婦関連など日本糾弾に熱心な反日団体をはじめ、あくまで対日要求にこだわる 人びとは日本で訴訟を起こすなど、日本の団体などと一緒になって日本政府や企業に対する 追及を続けている。

 韓国マスコミもこれまでは何でも日本に要求という姿勢が強かったが、最近は補償問題処理に ついて外交文書の紹介など事実関係をかなり客観的に伝えるようになった。


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0101KankokuJuugunIanfu.html



◆シラ書〔集会の書〕 / 9章 9節

結婚した女とは同席するな。
また、彼女と酒を酌み交わして、
楽しむな。

心が彼女に奪われ、
愛欲にたぎる血で
身を滅ぼさないともかぎらない。

神が結び合わせたもの【アイデンティティー危機、 いかに克服するか】

2013-08-01 20:27:28 | 今日の御言葉




イエスはお答えになった。

「あなたたちは読んだことがないのか。
創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」


そして、こうも言われた。


「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
二人は一体となる。


だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。

従って、神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない。」


「マタイによる福音書」 / 19章 5-6節
新約聖書 新共同訳


愛はまず家庭から始まるのです。
愛は家庭に住まうものです。

こどもたちは
家庭のなかに愛やほほえみを
見つけることができません。
こどもたちはさびしすぎるのです。

さびしさをまぎらわすために
外へ
さがし求めにゆくのです。

マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)





★離婚や失業後に訪れるアイデンティティー危機、
いかに克服するか - WSJ.com


◆ウォールストリートジャーナル日本語版 2013年7月31日



仕事にしろガールフレンドにしろ、失った時には、そうたたないうちに誰かがあなたに立ち直るようにと言うだろう。すべては時間が解決する。

だが、どれほどの時間が必要か。

専門家は、たいていの人々には別れや失業といった精神的苦痛から立ち直るには少なくとも2年の時間が必要だろうと指摘する。配偶者が突然去ったり、予想外に解雇されたりといった予期せぬ出来事の場合、より長い時間がかかる可能性もある。


離婚の克服には2つの重複するプロセスが含まれる。悲しみからの回復と人生の再構築だ。

シカゴの精神科医で、米国精神分析協会の元会長、プルーデンス・グルゲチョン氏は、この期間はたいていの人々が予想するよりも長いと指摘する。感情的な崩壊がだいたいどのくらい持続するかを知ることが重要だ。同氏は、長いプロセスではあるが、いったんその衝撃を乗り越えればリラックスできるとし、「しっかりするべきだとのプレッシャーを感じる必要はない。そういう状態ではないのだから」と語る。

一部の専門家はこの回復期間を「アイデンティティー危機のプロセス」と呼ぶ。こうした専門家は、この間、落ち込んだり、心配したり、気が散ったりする、いわゆる感情的な混乱は全く正常だと説明する。(専門家たちは、愛する人の死を乗り越えるのはもっと複雑で、通常、2年より長い時間がかかるとの見方を示している)

一部の人々は離婚から立ち直るのに2年は必要ないと分かるかもしれない。しかし、専門家は、例えば、心機一転するために、直ちに遠くに引っ越したり、新しい関係を築き始めたりすることによって、このプロセスを無視したり、急いだり、否定したりすることは恩恵がないと警告する。それはおそらく、審判の時を先送りするだけだ。

精神的苦痛によって混乱し得るすべてのことを考え直すには時間がかかる。近道などない。グルゲチョン氏は「あなたの人生のすべてが再評価され、紡ぎ直される必要がある」と指摘する。

マイケル・ハサードさん(42)は4年前、結婚してほぼ8年になる妻と離婚し、アラバマ州マスルショールズのバプテスト派教会の「離婚ケア」のクラスに参加し始めた。最初のミーティングで、インストラクターは精神的な動揺を乗り越えるのに2年かかるだろうと話した。

化学プラントの設計・建設を手掛ける企業のエンジニアであるハサードさんは「そう聞くと、実際、安心した。目指すべき目標が見つかった」と話す。

息子と娘の養育権を与えられたハサードさんは、落ち込み、怒りを覚え、怒りっぽくなり、突然、一人で子供を育てる親になり困惑を感じていた。ハサードさんはある夜、クラスに出ていて、自身の立ち直りを軍隊の新兵訓練プログラムの障害物競走でよじ登らなければならない壁として見始めた。難しいことが予想された。避けて通る方法はなかった。しかし、乗り越えた壁の向こう側では状況はもっといいだろう。

家に帰り、「2年」というタイトルのメモ書きを冷蔵庫に貼った。それには、「私は正常に戻る、それを正しく行う」と書かれていた。

離婚や失業から立ち直ることには実際、2つの重複するプロセスが含まれる。悲しみからの回復がある。そして、人生構造を立て直すというさらに時間のかかるプロセスがある。どこで夕食をとるのか。誰と友人になるのか。グルゲチョン氏は、結婚していれば、配偶者を嫌っていても、「いつやってくるとか、いつ帰宅するかは分かっている」と語る。

自分から離婚を切り出した場合など、失うことが見えていれば、不意を突かれた人よりも先のプロセスを進める。インディアナポリスのインディアナ大学・パデュー大学のコミュニケーション学部の教授、サンドラ・ペトロニオ氏は、不意を突かれる人は「もっとずっと多くの熟考が必要だ。自分に何が起こったかについてある種の分析をする必要がある」と指摘する。

このプロセスを乗り切るには、どうしようもないように感じるとしても、自分が間違っているわけではないことを受け入れるべきだ。この期間は終了すると自分に言い聞かせることだ。友人や家族に、しばらくの間、通常の自分自身ではないかもしれないが、引き続き彼らの支援が必要で、自分もいずれは回復すると伝えることだ。

できれば、新しい都市に引っ越すなど、大きな変化を体験すべきではない。心理療法が役に立つだろうし、このプロセスを1人で乗り切る必要はない。新しい関係の構築については、忘れた方が賢明だ。

ハサードさんは自分の2年間の「離婚からの立ち直りプロセス」と呼ぶ期間中、冷蔵庫に貼ったメモを約3カ月おきに修正し、進捗や目的を更新した。さらに、「自尊心」や「自分の怒りと向き合う」、「良い親である」、「許すこと」、「先に進む」といった異なる分野に焦点を絞った。

その後、ユタ州センタービルに引っ越したハサードさんは、「目標を書き換えなければ、目につかないようになり始める」と指摘する。

時々、ベッドのどちら側に眠るとか、いい1日の終わりに誰に電話をかけるかといった小さな判断につまずいた。日記を付け、最も悲痛な日記は裏庭のバーベキューグリルで燃やした。時々は車で1人で通勤中に泣いたり叫んだりし、窓を下ろしコンバーティブルの屋根を開けて「すべて背後に吹き飛ばした」。デートを始めるのは、「悪いことを避けようとするのではなく、いいことを探す」ことだと気付くまで、1年以上を要した。

2年が経過したある夜、ハサードさんはお祝いをした。子供たちはパジャマ・パーティーをしていたが、自分自身に好物の料理を作り、ワインを1本開けた。

裏のベランダから夕日を眺めながら、自身の進歩について評価し、自問した。「終わったか」と。答えは「イエス」だったという。

ハサードさんは「最終ゴールは、自分が現実にするまで、比喩にすぎない」と話す。「そして私はそこにたどり着いた」と。



▲James Gulliver Hancock



◆シラ書〔集会の書〕 / 8章 19節

相手構わず、人に心を打ち明けるな。
また、相手構わず、人から恩を受けるな。