遊月(ゆづき)の日々これ修行なり~

パワースポット研究家(おたる案内人)でセラピスト遊月のブログ
【パワースポットニッポン(VOICE)北海道担当】

ここまでの道その1 3 大阪で夢占い講座開催

2020-09-20 08:41:36 | スピ的自叙伝
自分の人生をスピリチュアルな視点から見た物語にしていこうと思います。
もう少し続きます(*^_^*)
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ここまでの道その1 3 大阪で夢占い講座開催


自分のホームページで夢占いを募集していたことを昨夜こちらで書いたら、当時から書き込みしてくださっていた方がTwitterで懐かしいとお返事を下さいました。

他にもあの頃からのお付き合いの方がたくさんいらして、改めて長いお付き合いなんだなと感謝の気持ちが溢れてきました^ ^

軽く時系列をお話しします。

2000年の終わりに娘が生まれ、産休で時間に余裕があったので、小説を書いていろんなところに応募して、雑誌に載せていただいたり賞をいただいたりしていました。
その後フルタイムの仕事に復帰した頃から時間もなくなり、産休明けに忙しくて体調がすぐれず、苦しんでいました。
その頃にフアチマの予言を聞いたのです。

いろんなお医者さんに回って原因が特定できず休養と栄養とってくださいと言われました。

栄養取るためにいろいろなものを探している中で、スピリチュアルなことを表に話すようになってから知り合った、スピ系の出版社に勤めていた東京の友人からアロエジュースが伝わりました。

初めてジュースを飲んだのは2002年の初めで、その時にチャクラ全開になってアトランティスの記憶を取り戻すと言うアクロバティックな体験をしてしまい、どうしてもフルタイムの仕事の時間を小説を書く時間にしたいと気持ちが高まり、私に手紙を書いたのです。

その締め切りの日に届いたのがアロエお売ってくださいと言うメール。
いや何か違う。
そう思いながらもしぶしぶその仕事を始めました。

するとあっという間にバタバタと4人の方に伝わり、それを見ていたネットワークの世界でそこそこ成功していた上司たちが横浜からやってきました。

それが2002年の5月です。

そこで潜在意識のことを勉強し、5月には20,000円しかなかったのにたった2ヶ月後の7月に驚異の300万円の売り上げをあげてしまい、潜在意識の怖さに震え上がってカーテンの中に隠れて泣きました(笑)

もう少しで超能力100%になるときにあの装置をゴミ箱に捨ててしまったのと全く同じ心理が働きます。

私の中でもういい、怖いと思ったのです。

その後、家族が飲める分だけの収入が入るところまで来てアロエを伝えるのはやめていました。
書く時間が欲しかったのに、結局途中でやめたのです。

その後、フルタイムの仕事を続け、ネットでスピリチュアルなことを公開するようになってから、パソコンに触れる時間を使っては、メルマガを週一回発行したり、スピリチュアルな情報を発信したり占いを無料で提供していました。

そんな中、流の洞窟に行きパワースポットと言う概念を自分の中で感じ、人生がじわじわ変わるのはどこかで感じていました。

そして2003年11月の昨日書いた有料宣言になります。

でも自分のスキルが不安でした。
そんな時、12月に前からネット上でお話しさせてもらっていた光の言葉セラピーの創始者清子さんが札幌で講座を開くことになったのです。
12月のことで、これは流れだと思い受けました。
そしてネット上で自分の会社を設立しました。
でもまだ普通にフルタイムの仕事をしていたのです。

ところが、会社の都合で辞めることになりました。
もう流れです笑笑

仕事を探す前に一度占いやセラピーで頑張ってみようと思ったのです。
ここでまたアロエがやってきます。

その頃に、京都の方からアロエを分けて欲しいとメールが来たのです。

その方は、自分は何かの仕事で成功したい。もしこのアロエを伝えることが仕事になるのならこれで成功したいので、いちど京都に来てくれませんか?とメールを送ってきたのです。

それは2004年の5月の初めのことです。
3年以内に仕事で京都に行くと宣言してからちょうど2年後のことでした。

私は配偶者が京都に行くことなど絶対に許してくれないと思っていたので、嘘をつくのも嫌いなので、アリバイ作りのような気持ちで、夫に京都に行っていいかどうか聞きました。

夫は絶対に無理だと思っていたネットワークの仕事で、わずか半年位で月10万円も収入が得られるようになった事はちゃんと知っていました。

そのため意外なことに、仕事なら行っていいと言ったのです。

正直キツネにつままれたような気持ちでした。

ただし自分の稼いだお金で行って来いと言われました。

私の稼いだお金を全て生活費にしていたので、それからプラスで旅の資金を出さなくてはいけませんでした。

そこで私は京都に行って向こうで講座。開こうと思いました。
当時はSkypeのようなものはなく、あちこちから依頼が来ても、クライアントさんに電話をかけてもらって状態でしたからお金がかかってしまい、対面で講座をするしかなかったのです。

せっかく向こうに行くで、夢を解析する講座を開こう。

場所も宿泊先も、私にスピリチュアルの扉を開くきっかけをくれた大阪の母のような存在の人が提供してくれました。

4名の方から申し込みがあり、飛行機代をなんとか稼げたので、私は無事に関西に行くことができたのです。

こうして私は宣言してから2年後に、実際に1人で京都へと旅立ちました。

つづく



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