昨日は、鎌倉殿で頼朝がとうとう、となりまして。
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頼朝を祀る社(鶴岡八幡宮摂社)
私は平家側の人間(妄想として流してね)のため、頼朝がとても嫌いだったのです。
このドラマがはじまるまでは。
ずるいですよね。
道産子全員の親戚の彼をあの役に据えるなんて。
ほんとうにひどい奴で、身内すらどんどん、こ〇していく。
とても共感できないはずの人だったのに。
彼が演じるので、完全に憎むことができず。
4月に訪れた鎌倉で、彼(頼朝本人)がどれほど宗教的なものに力を注いでいたのかを知り、見る目がさらに変わってしまって。
きっと、あんなにも過酷な子ども時代を送り、世界のすべてが敵に見えたのだろうな。
その中で救いが神だったのだろうな。
平和な世を作りたいと、どの口で言うんじゃ!とむかつきながらも、それはそれで本心だったのだろうな。
(やっていることは真逆だけど)
そんなことを思うようになりました。
それにしても、脚本がほんとうに素晴らしいのです。
どんなシーンも、台詞も無駄がない。
全く関係ないシーンのように見えて、アイテムまで意味がある。
疑心暗鬼になり、すべてを信じられず、しかも体調に異変を感じ、死をおそれはじめた頼朝が、馬鹿みたいに怯えて過ごしていた中で。
とある法事的な儀式がありまして。
それまでおろそかにしていた結婚相手の親戚(北条家)の集団の中に入り、法事で餅を食べて喉に詰まらせて死にかけた時、騒ぎを聞いて、結婚相手の親族たちが慌てて駆けつけたのを見て、突然つきものが落ちる。
餅って「衝いたもの」なのですよ。もちつきって言うでしょ。
それ(ついたもの)を詰まらせて吐き出させる演出。
霊的なものが詰まっていたのを吐いたって感じだし、つきもの(餅)を実際に吐いているし。
うわああああ(うまい!)
となりました。
そして、びっくりするほど死亡フラグを立てまくり(急にいい人になるとか、しんみり昔を振り返るとか、突然身近な人に先のことを頼むとか)
ひとつやふたつなら死亡フラグかもって思いますが、あれだけ全シーン死亡フラグだと、むしろ逆に不安とかが反転して、面白いと思ってしまいます。
おかしいな、おもしろいな(餅を詰まらせている時の大泉洋の顔芸は思い出しても笑える)と思わせて、つきものが落ちた頼朝が神々しい顔でいいことを言い(完全な死亡フラグ)。
最後に忠実だったたったひとり信じられる人の前で倒れて、その時の演出で泣かせるって、最高の演出で。
しかも、過剰な死亡フラグってところも、視聴者の意識を理解しまくっているからこそできることで。
さりげなく立てるのではなく、大泉洋を配して、そこで誰もが気づけるレベルで過剰に立ててみせるのが、本当は悲しい結末なのに、なぜか笑いに変わっていく演出だと思いました。
あと特に大河の時などは、脚本家が実際に前世でいたのでは?と思うことあります。
(その逆で、絶対いなかったよね、全然違うよと勝手に思うこともあります笑)
今回は、ガチでいたよねって思ってみています(妄想)
他にも色々練り上げられている脚本だといつも感心します。
一日中脚本を書いていられる立場だからこそだと思っても、ああ、こんなことやってみたいけど、できる気がしないと思ってしまうのです。
(本を書きたいので、いつも作者の表現とかアイテムの使い方とかシーンの使い方に目が行く)
とりあえず、鎌倉時代が好き(というかあの頃の真実を知ってほしい)なので、たくさんの人がはじめて歴史を知ったと言っているのを見て、勝手に喜んでおります(笑)
でもまだ亡くなったわけじゃないから(twitterで勝手に死んだことにされて嘆かれていたので)、来週まだ生きているって感じで出てきたら、みんな、あれ?ってなるのかな(笑)
今日は、まったく皆様の興味のないことですみません(笑)