[書籍紹介]
「しゃらくめ」と読む。
今年の角川春樹小説賞の受賞作で、
10月18日に刊行されたばかりの超新作。
題名のとおり、東洲斎写楽にまつわる話。
写楽と言えば、寛政六年(1794年)から翌年の寛政七年(1795年)にかけての
約10カ月という短期間に、
145点余の作品を残し、
突然に姿を消した謎に満ちた浮世絵師。
本名や生没年、出生地、家族、師匠や弟子など全てが不明で、
その正体は諸説あるが、
阿波徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべい)
というのが最も有力な説。
山東京伝や喜多川歌麿らを見いだした名板元(はんもと)の
蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)の経営する
日本橋通油町にある地本問屋「耕書堂」(こうしょどう)で
働くお駒の視点から写楽を描く。
三十過ぎのお駒は、
酒を飲むと暴力をふるう職人の元亭主と別れて、
耕書堂に住み込みの女中として働いていた。
家庭を維持できなかったこと、
子供を作れなかったことが、お駒の胸の深いところの傷としてある。
耕書堂に新しい絵師が採用される。
耕書堂には、戯作者や絵師が食客として居候しているが、
重三郎によって「写楽」と命名されたその男は、通いで、
どこに住んでいるかは店主と番頭しか知らない。
重三郎は、写楽に、
役者の顔をアップでとらえた「大首絵」を描かせ、
世間をあっと言わせる。
その絵が↓。
モデルとなった歌舞妓役者の特徴を的確に捉え、
デフォルメして、
女形の皺まで描く、それまでにない役者絵。
役者の芸や年齢、風格をも写し出し、
観る者に役者の心情さえも想像させる。
しかし、美しく描くのが当然なのが当時の役者絵のため、
役者や座元には評判が悪かった。
重三郎は、写楽の助手として、
お駒の幼なじみの絵師・鉄蔵、
本来戯作を書きたいが絵もたしなむ余七、
そしてお駒をつける。
「蔦屋組写楽工房」として、
顔を写楽が描き、
背景や衣裳を他のメンバーが描く。
ルーベンスが工房を作って、膨大な数の作品を輩出したのに通じる。
しかし、役者絵の評判は悪く、
写楽も工房も迷走を続ける。
のびのびと個性を発揮して作られた最初の作に対して、
その後は、世間や役者、関係者の反応を受けて
軌道修正を繰り返した苦悩が見て取れる。
ほとばしるような個性が失われ、
それに伴って作品の質も低下していった。
最初の衝撃が醒めた後は、
写楽の役者絵は急速に人気を失い、
いつのまにかその創作活動は消えてしまう。
写楽の才能に時代が追いついておらず、
写楽の再評価は明治以降、
特にドイツの美術研究家ユリウス・クルトが、
1910年(明治43年)、
著作「Sharaku」において写楽を絶賛したことによる。
それ以来、ヨーロッパでは
東洲斎写楽の浮世絵が芸術品として高い評価を受けるようになった。
海外からの人気を逆輸入するかたちで、
日本でも東洲斎写楽の評価は急激に高まり、
それまで安価で売られていた版画の価格は高騰し、
多くの東洲斎写楽作品が海外へと流出する。
今、ボストン美術館に約70点、
シカゴ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館にそれぞれ40数点、
フランスのギメ美術館に20数点、
ロンドンの大英博物館に27点、
これ以外に世界の美術館に収蔵されている他、個人蔵もある。
作品総数は役者絵が134枚、役者追善絵が2枚、
相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、
役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚確認されている。
大きさは、大判で約27㎝×約39㎝。
細判で約16cm×約33cm。
間判で約23cm×約33cm。
写楽の作品は4期に分かれるが、
その理由が、芝居小屋の興行に合わせていた、というのは、初めて知った。
著者の森明日香さんは、
江戸時代の絵師を調べていたところ、
「女が一人、工房にいた」という一文があり、
そこから発想したという。
写楽の創作活動と、それを支えた人々、という興味ある題材。
鉄蔵は、自分の絵ではなく、
金のために写楽の絵を手伝う鬱屈を抱く。
余七は、戯作と絵画の二つのどちかを取るかを悩む。
また、写楽の才能に対する尊敬と驚愕も抱く。
数十年後の描写で、
工房のメンバーが葛飾北斎、十返舎一九、曲亭馬琴などになっていくのだが、
誰が誰になるのかは、読んでのお楽しみ。
ただ、蔦屋重三郎が写楽のどこに才能を見いだしたか、
が明確に描かれていない点と、
お駒の工房への参加が、線を引くだけ、というのは物足りない。
写楽とお駒の間に
絵画的な共感がないと、
この話は厚みを失う。
類まれなる才能を持ちながら、
生きた時代には評価されなかった写楽と、
その不遇の絵師人生に寄り添う一人の女中がいた、
という物語の作りはなかなかのものだ。
ついには、二人は恋心を交わす。
写楽は別れの時、お駒に自分の本名を明かす。
それで写楽の存在が秘密であったわけが分かる。
絵師は弟子に自分の名を分け与えるが、
女の弟子には「○○女」と末尾に「女」を付ける。
そういう意味で、写楽女は、まさに写楽の女弟子の称号だったのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます