六枚目のコイン

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日本国は白村江ですべて変わった!

2020年10月27日 21時12分09秒 | つぶやき
なるほどね、白村江の戦いから以後、


全ては変えられた。
ようわかったよ。


AD663年、
大和王朝は唐と森羅の連合軍との戦いで大敗を被った。
唐の侵入を恐れた天智天皇は、近江に都を遷都して、
唐の軍隊の侵入に備えたという。

でその後の軍隊はどうなったかというと、
高橋良典氏の説によると、
福岡県太宰府の軍を進めて、
大和の占領政策を行ったというのだ。

それが『筑紫都督府』という石碑に残っているという。
『都督府』というのは、
唐の占領軍司令部が置かれた外国の都を指すが、
九州の太宰府には、この「都督府」が置かれ、
「筑紫都督府」と呼ばれていたというのだ。

これは明らかに、
当時の日本が唐の占領下に置かれていたことを
意味するものだというのだ。

中国の文献でも、
それはどうも載っているようである。

だから、
すでに、日本国は他国に占領されたことがあるのだ。
そして、そこから、日本の歴史が一変してしまった。

まず、
それまでの文字を漢字使用に換えさせられた。
それまでの日本の歴史も削除されてしまった。
そして、
唐の文化を入れて、中国風にしてしまったのだ。
つまり、日本の国家解体作業が行われたのである。
それは現在も続いているのだ。

日本人には早く覚醒してもらいたいものだ。
本当の歴史を知って、
本当のことを知ってもらいたい。

そこからだ、
日本人が真の誇りを取り戻すのは。

また、
中国には斉(田斉)という国が存在していた。
その創始者は田和(タカ)王だったが、
それから七代目の王が、オオナムチである。
つまり、
大国主の命だとされている。

その大国主命は、西の大国だった秦国、
始皇帝によって攻められて、国譲りという形で軍門に下った。
それが「大国主の国譲り」という物語である。
大国主命は、
もう二度と大陸に進出しないという固い約束をさせられて、
その代わりに、命は取られずに赦免された。
当時、日本と大陸とは区別はなく、
陸続きの状態だったのだと考えると良いだろう。

当時の中国の国の乗っ取り方は、
今の中共のやり方と全く同じである。
賄賂と女のハニートラップで、
官僚たちを骨抜きにする。
要するに、
垂らし込むのである。

そして、
いよいよ機熟して、
中国が戦いの時を迎えた時には、
日本の国は戦えない国になってしまって、
カンタンに国を明け渡すことになるのだ。

どうですか、
この中国の筋立ては?
まったく現状況と同じでしょう。
軍備をしないで、
うっかり信用してしまって、気が付いたときには、
後の祭りということにならないようにね。

だから、
日本は二度にわたり、中国の占領を受けているわけだ。
残念ながら、
一度も日本は、
占領されたことがないというのは嘘なのである。

善良な日本人は、
その後も従順にその文化を引き継いで、
今日に至っているというわけですね。

で私が言いたいのは、
聖徳太子が607年に、
当時の中国に遣隋使を派遣して、
“日出処のの天子、書を日没する処の天子にいたす”
こういう始まりで、国暑を送っている。

その日出処の天子という始まりが、
その当時の皇帝である煬帝の気に入らず、
そのときは日本側の相手にしなかったという話だ。

その始まりだしが、
聖徳太子の頭の高さを示しているということで、
色々と問題になっている。

私もどういう気持ちで、
そういう始まり方を、聖徳太子はしたのか。
そういう疑問を持っていたのだが、
最近になって、
聖徳太子は知っていたのだと確信した。

日本はティルムンという国の継承者なのだ。
そのティルムンという名前は、
「日出処」という意味らしいのだ。

彼は日本が過去の世界王朝だった、
代々の継ぎ手であることを知っていたのだと。
それまで、日本の歴史は、
正統的に記されていたのだと。

それが白村江の敗戦で、中国の占領政策を受けて、
全面的に日本の歴史の改ざんが行われた。
そして、日本の輝かしい過去の歴史を隠すことで、
日本人の誇りを喪失させるように図ったのだ。

そこがポイントなのだね。
私たちは本当のことを知る権利があるし、
また知らねばならない。
そして、
本当の自己に気づかねばならないのだ。


コメント (1)
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